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テオドール・アドルノ

テオドール・ルートヴィヒ・アドルノ=ヴィーゼングルント(Theodor Ludwig Adorno-Wiesengrund、1903年9月11日 - 1969年8月6日)は、ドイツの哲学者、社会学者、音楽評論家、作曲家。マックス・ホルクハイマー、次世代のユルゲン・ハーバーマスらとともにフランクフルト学派を代表する思想家。ナチスに協力した一般人の心理的傾向を研究し、権威主義的パーソナリティについて解明した。権威主義的態度を測定するためのファシズムスケール(Fスケール)の開発者であり、20世紀における社会心理学研究の代表的人物である。その一方アドルノがナチス機関誌に発表した批評がナチスへの協力だとして問題視されている。作曲家としても作品を残し、アルバン・ベルクに師事した。アルノルト・シェーンベルクをはじめとした新ウィーン楽派を賞賛する一方、イーゴリ・ストラヴィンスキーやパウル・ヒンデミットなどの新古典主義的傾向をもつ音楽や、ジャン・シベリウス、リヒャルト・シュトラウス、ヨーゼフ・マルクスといった、20世紀において後期ロマン主義のスタイルをとり続ける作曲家には否定的であった。また、一貫してジャズやポピュラー音楽には批判的な態度をとりつづけた。なお、トータル・セリエリズムの最初期の作品であるカレル・フイヴェールツの「二台のピアノのためのソナタ(作品番号第一)」については「曲の形がはっきりしない」と評した。ヘッセン州フランクフルト・アム・マインでワイン商人の父オスカー・アレクサンダー・ヴィーセングルント(Oscar Alexander Wiesengrund)と、歌手の母マリア・バルバラ・カルヴェリ=アドルノ(Maria Barbara Calvelli-Adorno)の間に生まれる。一人っ子であった。父オスカーはもともとユダヤ系であったが、カトリックのマリア・バルバラと結婚する前にプロテスタントに改宗している。アドルノは学業成績も極めて優秀であり、ギムナジウムを2年飛び級で卒業した上にアビトゥーアに首席で合格した。フランクフルト大学に入学して哲学・音楽・心理学・社会学を学んだ。アドルノは大学時代から音楽批評を多く発表していたが、目指していたのは作曲家であった。1924年に大学を卒業すると、本格的に作曲を学ぶためアルバン・ベルクを頼ってウィーンへ移るが、肩入れしていたシェーンベルクらの音楽が世間で不評であったことに落胆し、再び音楽批評の活動に戻った後、1926年にウィーンを去った。その後フランクフルトに戻り、次いでベルリンに滞在するが、ナチスの勢力伸長に伴い、ユダヤ系の出自であるアドルノは1934年にイギリスへ、さらに1938年にアメリカに渡る。この頃から「テオドール・W・アドルノ("Theodor W. Adorno")」という名前表記を用いるようになった。第二次世界大戦後の1949年、フランクフルト大学の社会研究所 () が再スタートを切った際に帰国、ホルクハイマーと共にこの研究所の所長に就任し、亡くなるまでここに籍を置いた。ヨアヒム・カイザーやハインツ=クラウス・メツガーは彼の教え子に当たる。夏のダルムシュタット夏季現代音楽講習会ではシュトックハウゼン、ブーレーズ、ノーノらのセリエル音楽の理論的指導者として大きな教育的功績を与え続けた。1928年から1931年にかけて、ウィーンの前衛音楽誌「アンブルップ」の編集長を務める。1969年8月6日、妻とともに休暇で訪れたスイス・フィスプで心筋梗塞を起こし、当地にて死去。65歳であった。1933年、ナチスがアメリカ黒人のジャズを禁止すると、アドルノは、ジャズは愚かであって救済すべきものはなにもなく、「ジャズの禁止によって北方人種への黒人種の音楽影響は除去されないし、文化ボルシェビズムも除去されはしない。除去されるのは、ひとかけらの悪しき芸術品である」と、当時ナチスが頻繁に使用していた「除去」「人種」「文化ボルシェビズム」といった言葉を使用して批評した。1934年にアドルノは、ナチ全国青年指導部(Reichsleitung)の広報誌月刊ムジーク1934年6月号に論評を発表し、ヘルベルト・ミュンツェル(Herbert Müntzel)作曲のツィクルス「被迫害者の旗(Die Fahne der Verfolgten)」を誉めた。この曲はヒトラーユーゲント全国指導者バルドゥール・フォン・シーラッハの詩に曲をつけたものであった。アドルノはこの曲がすばらしい根拠は、「シーラッハの詩を選ぶことで自覚的に国民社会主義的な特徴をしるしている」こと、またヨーゼフ・ゲッベルスが『ロマン主義的リアリズム』と規定した「新しいロマン主義の表象化が追求されていることにあると書いた。1963年1月、雑誌『ディスクス』上でクラウス.Chr.シュレーダーは、アドルノは「ミニマ・モラリア」で「アウシュビッツの後ではドイツ詩はもはや書くことが不可能であると書いたが、ユダヤ人虐殺を仄めかしたシーラッハの詩を賞賛していたこととどう折り合わせるのか、また戦後アドルノはナチの共犯者を断罪してきたが自分の過去の言動については口を拭ってきたではないかと質問した。この公開質問に対してアドルノはその論評を書いたことは「慙愧にたえない」が、理性的な読者ならあの論評は「新しい音楽」を弁護したものであり、「善意からのおもねりとして理解すべき」であると弁明した。また月刊ムジークは非政治的な雑誌であり、アドルノはその論評を書いたすぐ後の1934年夏にはナチスに自発的に協力することはやめたし、内奥の核までファシストであるハイデッガーと私を比べることはできないと弁明した。ハンナ・アーレントはヤスパース宛書簡で、アドルノの弁明について「言いようもなくみっともない」「真に破廉恥な点は、純ユダヤ人のなかでは半ユダヤ人の彼が、あのときの一歩(ナチスの機関誌に批評を掲載したこと)を友人たちにまったく知らせずに踏み出したこと」と批判した。アーレントがアドルノに対して嫌悪感を持った理由としては、アドルノがナチスに迫害されたベンヤミンを生存中に支援しなかったことや、アーレントから見るとアドルノはユダヤ人と左翼知識人に対する背信者であったことなどが挙げられている。カール・ヤスパースもアーレント宛書簡で「なんたるぺてん。彼を読んだかぎりでは―才知に富み、計り知れぬほど多くを知り、あらゆる角度からすべてを吟味しつつ、叡智の最高の高みから書いているような著作にすら―なに一つ信用するに足るものはない」とアドルノを酷評している。アドルノのナチス機関誌加担問題は1985年にアーレントとヤスパースの往復書簡が公刊されてから1990年代に再び持ちだされようになった。エスペン・ハンマーによれば、アドルノのナチス機関誌加担問題はハイデッガーのナチス加担問題に比すべき問題であるが、アドルノが戦後ナチスとナチスに加担した知識人について批判してきただけに、その知的誠実さを疑問視させるものであり、反調停的な倫理やラディカルな知的自律性といった戦後のアドルノの主張のすべてを疑問視することになると論じている。日本では紹介当初から広く読まれており、翻訳も多い。

出典:wikipedia

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