ケニア共和国(ケニアきょうわこく)、通称ケニアは、東アフリカに位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。北にエチオピア、北西に南スーダン、西にウガンダ、南にタンザニア、東にソマリアと国境を接し、南東はインド洋に面する。首都はナイロビ。首都ナイロビには国際連合環境計画、国際連合人間居住計画の本部がある。旧イギリス植民地。正式名称はJamhuri ya Kenya(スワヒリ語、ジャムフリ・ヤ・ケニャ [ʄɑmˈhuˑrijaˈkɛɲɑ])、Republic of Kenya(英語)。日本語での表記はケニア共和国。通称ケニア。「ケニヤ」とも表記する。スワヒリ語での発音は[ˈkɛɲɑ]で、「ケニャ」に近い。国名はケニア山に由来する。紀元前2000年ごろに北アフリカからケニア地域へクシ語系の民族移動が行われた。紀元前1000年までに、バンツー語系、ナイル語系の民族がケニアの地域に移動し、今日のケニア国民を形成する民族として定住した()。7、8世紀頃には、アラブ人が海岸地域に定住しており、モンバサやマリンディなど交易の拠点を建設した。10世紀までにケニア沿岸部には、バンツーとアラブの言語が混ざったスワヒリ語のスワヒリ文明が栄え始めた。1418年頃に明の鄭和の艦隊の一部がマリンディにまで到達した記録が残っている。15世紀末、ヴァスコ・ダ・ガマの来訪をきっかけにポルトガル人が進出するも、やがて撤退しアラブ人が再進出。18世紀にはアラブ人の影響力が内陸部にまで及び奴隷貿易や象牙貿易などが活発になる。1828年にはのスルタン・サイイド・サイードがモンバサを攻略した。19世紀にアフリカの植民地化が進むと、ケニア沿岸にはイギリスとドイツ帝国が進出。権力争いの末にイギリス勢が優勢となり、1888年には沿岸部が (IBEA) により統治されるようになった。1895年にイギリス領東アフリカが成立。1895年‐1901年の間に、モンバサからキスムまでの鉄道が英国によって完成した。1896年のアングロ=ザンジバル戦争で敗れたスルタンがザンジバル・スルタン国(、1856年 - 1964年)に根拠地を移した。1902年、ウガンダもイギリスの保護領となり、イギリスの影響が及ぶ地域が内陸部に広がった。1903年に鉄道はウガンダまで延びた。1920年には直轄のとなる。1921年6月10日、によって(YKA)が設立され、政治運動が始まった。1924年にYKAの政治活動が禁止されると、らによって(KCA)が結成された。1940年に第二次世界大戦のアフリカ戦線の戦場になると、KCAも政治活動が禁止された。後にマウマウ団の乱の際、一部の活動家が組織をKCAと自称していたのはキクユ中央協会の活動を継承していたからである。1942年にケニア・アフリカ学生同盟(、KASU)が設立され、1947年にジョモ・ケニヤッタが加わり(KAU)に改組された。1952-56年ケニア土地自由軍(KLFA)が植民地政府に対してマウマウ団の乱を起こし、イギリスへの抵抗運動が始まった。マウマウ団の乱は敗北した。このとき、KAUのメンバーであったジョモ・ケニヤッタが投獄されている。当時、グレンデールのホウィック男爵の草分けであるイヴリン・ベアリングがケニア総督(在任1952-1959)であった。反乱を契機に独立の機運が高まった。1960年には、KAUの中心メンバーによって、ケニア・アフリカ民族同盟(KANU)が結成され、同時期にが結成された。一国体制と連邦体制と両方の意見を持つ二つの政党、KANUとKADUの間で意見の対立があったが、、ジャラモギ・オギンガ・オディンガ、が率いるKANUが主導となる。1963年に英連邦王国として独立。翌1964年に共和制へ移行、ケニア共和国が成立した。初代大統領に就任したジョモ・ケニヤッタやダニエル・アラップ・モイは、冷戦中にアフリカ社会主義を掲げて親ソの姿勢を示した。国内的にはケニア・アフリカ民族同盟(KANU)の一党制が敷かれ、その後は一貫して西側寄りの政策を採った。後にKANUを飛び出したオギンガ・オディンガがKPUを設立した(1969年に活動禁止となる)。ケニヤッタの下でケニアは経済的に成長を遂げた。1978年のケニヤッタ死去後、ダニエル・アラップ・モイが第2代大統領に就任した。1982年8月、が起きた。1991年に複数政党制を導入。ムワイ・キバキは、KANUを飛び出して民主党(DP)を結成。2000年、モイがケニヤッタの息子、ウフル・ケニヤッタをKANUの後継者とし、と改組された。1998年8月7日には首都ナイロビの在ケニアアメリカ合衆国大使館がアルカーイダによって攻撃されるアメリカ大使館爆破事件が発生し、数千名の死傷者を出した。2002年の総選挙の結果、旧KANU政権の継続を阻止しようとしたムワイ・キバキを代表とする大小多数の政党による連合組織「」(NARC)が選挙に勝利し、初めての政権交代が実現した。しかし、キバキは、公約である憲法見直しへの着手を実施せず、またキバキの出身部族であるキクユ人優遇策をとり、また連合組織内の党派同士の約束を破って連合を分裂させるなど、新たな政権の樹立を期待した選挙民を裏切った。政権は保守的な色のある抵抗勢力と呼ばれるキバキ派と改革派の政党LDP(後にODMに発展)に分裂する。改革派の中心は、ライラ・オディンガであった。2002年以来審議された憲法改正は、2005年7月に議会で改正案が承認されたが、大統領権限の強い性格のものであり改革派は改正案に反対であった。11月に国民投票を行ったが、改正案は国民投票により否決され、ムワイ・キバキ大統領は閣僚の交代をよぎなくされた。そして、2007年12月の大統領選挙は、キバキ派(国家統一党;PNU)とライラ・オディンガを中心とした改革派(ODM:オレンジ民主運動)との一騎討ちとなった。当初オディンガ優勢とされたにもかかわらず、同年12月30日、選挙管理委員会がキバキ大統領の再選を発表した。しかし、意外な結果となったことを不服とした野党勢力が行った抗議行動は、警官による鎮圧も含め、両派衝突による暴動へと変容した。暴動は、ナイロビのスラムやリフト・バレー州において住民同士の暴力や警官による鎮圧が発生し、1000名を越える死者(リフトバレー州での教会に逃げた避難民焼き討ちによる大量焼死事件や相次ぐODM議員の暗殺事件も含む)と非常に多くの国内避難民を生み出した。1月に行われた国連のアナンによる調停の結果、和解の合意がなされ、キバキとオディンガが、大統領と首相を分け合う連立政権が成立することで、2月末に政治的混乱は一応収拾された。連立政権とともに国民の対話と和解の法と暫定憲法が成立する(2007年-2008年のケニア危機)。 連合政権は、その後、本格的に憲法改正作業に着手する。2010年8月4日に国民投票によって新憲法の成立が決まった。新憲法は、1963年にイギリスの植民地支配から独立した際に制定された憲法に代わり、大統領権限の縮小による三権分立の強化等、より制度的な民主化を促進するとみられる(ケニア共和国憲法 (2010年)、、)。2013年9月21日にケニアショッピングモール襲撃事件が発生し、ソマリアで活動していたアル・シャバブが犯行声明を出した。大統領制をとる。議会は224議席、任期5年、一院制の国民議会()から成っていたが、2013年より二院制(Countyの代表である上院と選挙区議会の下院)に移行した。初代大統領ジョモ・ケニヤッタ、二代目ダニエル・アラップ・モイと建国以来ケニア・アフリカ民族同盟 (Kenya African National Union, KANU) が長く政権の座にあり一時期に一党制であったが、1991年より複数政党制が導入された。2010年の国民投票により新憲法が制定され、独立以来続いてきた州を基本とする中央政府主導の国家体制から47のカウンティ(County:日本のイメージで「県」)を地方行政の単位とすることが決定された(地方分権化)。2013年3月に行われた総選挙の後にカウンティ政府が設立された。カウンティ政府には中央から多くの権限が委譲され、必要な予算・職員も従来の地方行政区や中央から配置・配転された。カウンティ政府法によって各カウンティの下にはサブ・カウンティ(sub-county)、区(ward)、村(village)などの下位行政区分が設置されている。サブ・カウンティは国会議員(290名)を選出するための選挙区(constituency)に対応している。新憲法施行以前の行政区分は州 (Mikoa, Province) が設置されていた。主要な都市はナイロビ(首都)、モンバサ、キスムがある。ケニアの首都、ナイロビはマサイ族の言葉で「冷たい水」を意味する。ナイロビはパピルスが茂る沼地に位置する。ケニアは赤道直下に位置しており、インド洋やヴィクトリア湖沿岸は年間平均気温が26℃の熱帯性気候である。しかし、国土の大部分は、標高1100m - 1800mの高原となっているため年間平均気温が19℃の乾燥した高原サバンナ地帯となっている。11月から3月にかけては北東モンスーン、5月から9月には南東モンスーンと呼ばれる季節風が吹く。最高地点は赤道が通るケニア山(標高5199m)。ケニアの主要産業は農業であり、GDPの約30%を占めている。また、農業部門はケニアの輸出総額の65%を占めている。農業部門は雇用面でもケニア経済において重要な役割を果たしており、正規雇用に占める割合は約18%(2005年)ほどであるが、労働力人口全体(1,891万人)で見ると70.6%(1,335万人)が農業に従事している(2010年)。さらにケニアの人口の約8割の人々が農業によって生計を立てている。工業化は他のアフリカ諸国と比べると比較的進んでおり、特に製造業の発展が著しい。紅茶、花卉の輸出増が近年著しい。自然条件(起伏にとんだ国土、温暖な平野部と冷涼な高地が混在)とケニア政府による園芸産業育成により欧州連合(EU)向け花卉の最大の供給源である。独立以来資本主義体制を堅持し、東アフリカではもっとも経済の発達した国となった。しかし、政情不安や政治の腐敗・非能率、貧富の差の増大という問題を抱える。2007年の経済成長率は約7%、2008年は国内混乱の影響で成長率は低迷したが、2009-2010年は4-5%の成長に戻った。ナイロビは東アフリカの通信・金融・交通の中心都市であり、モンバサは東アフリカ最大の港であり内陸部への重要な入り口である。1999年にタンザニア・ウガンダと共に地域経済の発展のため、関税、人の移動、インフラの向上を目指した東アフリカ共同体(EAC)を形成した(後にルワンダ、ブルンジが参加)。2004年には関税同盟を確立し、2010年にはEACの共同市場化が発足し、2012年までの自由化と共通通貨の達成を目標としていた。ケニアの鉱物資源は種類、産出量とも少なく、さらに第二次世界大戦から20世紀末にかけて規模を縮小してきた。主な鉱物資源はソーダ灰、塩、マグネシウム鉱物、蛍石、石灰岩、金である。経済産業調査会の鉱業便覧によると、1986年にはマグネシウム鉱30万トンを産出し、これは世界シェアの1.7%に達した。塩9.2万トン、金16kg、蛍石10万トン、採掘後、工場で加工されたソーダ灰24万トンも記録されている。2004年時点では塩が1.9万トンに減少、その他の鉱物は記録されていない。唯一、金の産出量が1.6トンに拡大している。主な金鉱山は南西部のに分布する。金の採掘は機械化されておらず手工業の段階に留まっている。現在石油は100%輸入に頼っているが近年探査が進み発見されており、その生産開発が検討されている。また、大地溝帯が南北に貫くナイロビ西方では地下の地熱を開発中で日本企業も参加している。2012年のケニアの貿易額は、輸出額が51億6900万ドル、輸入額が120億9300万ドルである(69億2400万ドルの貿易赤字)。対日輸出額は4600万ドル、対日輸入額は9億1100万ドルである。2009年の国勢調査によると、ケニアの総人口は38,610,097人(男性:19,192,458人,女性:19,417,639人)である。また、CIAワールドファクトブックによる推計では2014年7月時点の総人口は45,010,056人である。ケニアの主要な民族の人口は、以下の表の通りである。ケニアには全部で42の民族が存在していると言われるが、上表の通り上位5位までの民族でケニアの総人口の約3分の2を、上位10位まででその約9割を占めている。また、その他にアジア系、ヨーロッパ人、アラブ人などが少数存在する。ただしこれらの民族/部族区分はイギリスが植民地支配のために造り出したものであり、民族間の境界は存在しなかった。人口比では少数派だが、イギリス系などの大土地所有者や、鉄道建設時に労働力を補いのちに商人としてやってきた「インド系」(印僑)も、政治経済に大きな影響力を保っている。2010年に制定された憲法では、ケニアの国語(National Language)はスワヒリ語、公用語(Official Language)はスワヒリ語および英語と定められている。司法機関はスワヒリ語よりも英語を重視しており、国民感情にも同様の傾向がある。ケニアには英語やスワヒリ語の他に60以上の言語が存在しており、大きく分けてニジェール・コンゴ語族のバンツー諸語、ナイル・サハラ語族のナイル諸語、アフロ・アジア語族のクシ諸語がある。シェン(Sheng)とは、1970年代以降に生まれたスワヒリ語や英語、幾つかの民族語の混合言語・スラングであり、主に首都ナイロビで若者を中心として話されている。宗教は、プロテスタントが47.7%、カトリック教徒が23.5%、その他のキリスト教徒が11.9%、ムスリムが11.2%、伝統宗教の信徒が1.7%、ヒンドゥー教徒が0.1%、その他が1.5%、無宗教が2.4%となっている。2010年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は87.4%(男性:90.6%、女性:84.2%)である。主な高等教育機関としてナイロビ大学(1956,1970)の名が挙げられる。小説においては英語で書いた『』(1964)でケニア独立戦争を描いた後、キクユ語のみで創作することを新たに宣言したグギ・ワ・ジオンゴ、『猟犬のための死体』(1974)のメジャ・ムアンギ、『スラム』(1981)のトマス・アカレ、ケニア土地自由軍の指導者を描いた『デダン・キマジ』(1990)で知られるサムエル・カヒガなどが著名な作家の名として挙げられる。ケニア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件、自然遺産が2件存在する。10月10日に指定されていたモイデーは2010年に廃止された。陸上競技、サッカー、クリケット、ラグビー、ラリー、バレーボール、ボクシングなどが人気のあるスポーツである。とりわけ陸上競技の長距離走の人気が高く、また隣国エチオピアと並んで世界の強豪として有名である。北京オリンピック男子マラソン金メダリストサムエル・ワンジルをはじめ、世界大会における優勝者を輩出した。ケニア人のバラク・オバマ・シニアとアン・ダナムの間に生まれたバラク・オバマが、アメリカ合衆国初の黒人大統領に就任した。オバマはケニア国内では育てられていないが、過去にケニアを数回訪問している。両親は既に故人であるが生存している祖母サラ・オバマの元には大統領就任の際、国外を含む10以上のメディアが押し寄せたと伝えられている。ムワイ・キバキ大統領は、ジョン・マケイン候補が敗北を認めた直後に、「オバマ氏の勝利はケニアにとっての勝利でもある」と歓迎する声明を発表。さらに、祝意を表するため6日を国民の祝日にすると宣言した。オバマという姓はルオ族の姓であり、ヨーロッパ系の姓のみであった歴代アメリカ大統領の中に初のアフリカの独自の姓が現れたのである。またオバマの父はイギリス植民地時代に生まれ、オバマの母はイギリス人の血を引くためにオバマは大英帝国に関わりが深いアメリカ人でもある。
出典:wikipedia
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