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村上雅則

村上 雅則(むらかみ まさのり、1944年5月6日 - )は、山梨県北都留郡七保町(現・大月市)出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。日本人初のメジャーリーガーとして有名。メジャー時代の愛称は「マッシー・ムラカミ」。法政二高では2年時の、春の選抜にエース・柴田勲の控え投手として出場。準決勝の平安戦で柴田をリリーフして登板。この大会で法政二高は決勝で高松商を降し、前年からの夏春連覇を達成する。柴田以外のチームメートに的場祐剛、是久幸彦がいた。法政二高は同年の夏の甲子園にも出場するが、県大会の直前のバッティング練習で打球が手首に直撃して骨折したため欠場。秋季大会も骨折の影響で県大会で敗退し、翌の春の選抜は出場かなわず。夏はエースとして県予選準決勝まで進出するが、直前に罹った食中毒の影響で慶應高に敗退。高校在学中の9月に南海ホークスと契約を結ぶ。は投手コーチからフォーム修正を命じられたことで肘を故障してしまい、初登板は同年9月1日の大毎戦(大阪)と遅れてしまう。、メジャーリーグベースボール・サンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の1A「フレズノ」に野球留学で派遣された。この時、ジャイアンツはメジャー昇格者が出た場合、1万ドルの金銭トレードで契約できるという条項を入れたが、南海側は昇格者が出るわけがないと高をくくっていた。当初は現地で英語がほとんどわからず、辞書を使ってチームメイトと会話をしていたという。当初派遣は6月中旬までの予定だったが、南海からの帰還要請が無かったため、そのままフレズノでプレーしていた。同年8月31日、突然メジャー昇格を言い渡される。ジャイアンツの遠征先であるニューヨーク行きの航空券を渡されてそのまま空港へというあわただしい状況だったという。ニューヨークに着くと、チームの関係者から「契約書にサインをするように」と言われて契約の中身もわからずサインをした村上は、翌9月1日のメッツ戦に日本人として初めてメジャー登板を果たした。初昇格した夜のディナーはローストビーフだったが、この時まで肉料理はコロッケぐらいしか食べたことがなく、美味しいか不味いのかさっぱり分からなかった。9月29日にコルト45's戦の9回同点の場面で登板。11回までを無失点に抑え、11回にチームがサヨナラ勝ちしたため初の日本人メジャー勝利投手となった。同年は9試合に投げ1勝1セーブ、防御率1.80の好成績を収めたが、当時の日本は東京オリンピック準備と開催の真っ只中だったため、日本マスコミの扱いは小さかった。もジャイアンツとの契約を結んだが、そのオフに南海が留学の際の契約を反故にして村上を帰還させるよう主張したことで、村上の保有権を巡りホークス・ジャイアンツ両球団の間で紛糾が勃発した。話し合いは平行線をたどり、また、MLBコミッショナーのフォード・フリックはジャイアンツを全面支持した。これに対し、日本野球機構コミッショナーの内村祐之は1965年シーズン終了をもって南海に復帰させるという妥協案を提示し、シーズン開幕後の4月末にようやく決着。6月29日のドジャース戦には日本人初の安打をサンディ・コーファックスから記録。当時のコーファックスは絶頂期で「彼からヒットを打つのはフォークでコーヒーを飲むぐらい難しい」と言われた程だったが、村上は意表をついたセーフティーバントを決行し、安打を記録。8月15日の終戦記念日には「村上デー」として唯一の先発マウンドに立っている。村上は都合2年間メジャーでプレーした(詳しくは日本人選手のメジャーリーグ挑戦を参照)。村上はメジャー残留に迷いを見せたが、両親やチームの説得に加え、報知新聞に「村上はわがまま」と批判され、断念した。メジャー時代は投球回数89.1イニングで100奪三振を記録し、ジャイアンツと同地区のドジャースに強く、9試合13イニングを投げて無敗、防御率は0.69だった。チームメイトで大先輩のウィリー・メイズにはよく可愛がられた。に南海へ復帰し、同年は6勝4敗を記録してリーグ優勝に貢献するが、当初の期待ほどの活躍はできず不評を買う。巨人に敗退した日本シリーズでは、リリーフながら6試合中の5試合に登板。には皆川睦雄(31勝)に次ぐ18勝を挙げて面目を果たし、勝率.818で最高勝率のタイトルを獲得。その後も先発として活躍を続けた。からは3年連続で2桁勝利を記録した。にはチーム1位の14勝をマーク。には先発陣を外れたものの、7年振りのリーグ優勝に貢献し、同年の日本シリーズでも登板。には登板機会が減少。、相羽欣厚と共に阪神タイガースへ和田徹・野上俊夫との交換トレードで移籍した。阪神では主に中継ぎとして起用される。大洋戦で1試合だけローテーションの谷間に先発したが、早々に打ち込まれ敗戦投手となった。には後藤和昭と共に東田正義との交換トレードで日本ハムファイターズへ移籍し、1年目から中継ぎとして復活。からは2年連続でリーグ最多登板を記録した。には12勝10セーブを挙げた。には11セーブを挙げるなど活躍を続けた。にはチームのリーグ優勝に貢献。同年の日本シリーズでは2試合に登板している。には肘痛のため2試合にしか登板できず、球団から非公式に構想外であると伝えられたため、引退を決意。村上は「若手投手を育てたい」と投手コーチの道を考え始め、球団も引き続き指導者としてチームに残ることを認める。しかし、二軍に投手コーチがいないのに自分に付く肩書きが「二軍投手コーチ補佐」であることに反発。そのまま自由契約となり、単身で渡米。からはジャイアンツのスプリングキャンプに参加し、3月11日にパドレスとのオープン戦に3番手で登板。18年ぶりのメジャー登板となり、三振を奪うなど好投してチームの逆転勝ちに貢献。選手契約には至らなかったが、ホームゲーム専用の打撃投手として契約した。帰国後は「マッシー・村上」名義でニッポン放送「ショウアップナイター」解説者( - )を務めた。からは大沢啓二球団常務の要請で、日本ハム二軍投手コーチに就任。、松浦宏明を一軍に送り出したが、退任。には杉浦忠監督の要請で、ダイエ一1軍投手コーチに就任。は二軍投手コーチを務めたが、同年退任。その後はNHK衛星第1テレビジョン解説者( - )を経て、森祇晶監督の推薦で西武二軍投手コーチ( - )を務めた。西武退団後はジャイアンツ極東担当スカウト、デイリースポーツ評論家を務め、現在はNHK-BS1大リーグ中継解説者。また、プロ野球マスターズリーグの東京ドリームスにも参加。5月15日、ジャイアンツの本拠地であるAT&Tパークで行われたマイアミ・マーリンズ戦の始球式を務めた。

出典:wikipedia

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