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最上 (重巡洋艦)

最上(もがみ)は、日本海軍の軍艦。最上型重巡洋艦の1番艦である。軍艦最上は最上型重巡洋艦(最上型二等巡洋艦)1番艦。呉海軍工廠にて建造。艦名は山形県を流れる最上川にちなみ命名された。『最上』の名を持つ艦としては二隻目。初代最上は通報艦であった。当初、最上は主砲として60口径15.5cm3連装砲塔を五基搭載し、軽巡洋艦(二等巡洋艦)として扱われる。竣工時は二等巡洋艦(軽巡洋艦)だったが、戦争前の改装時に50口径20.3㎝連装砲塔五基に置換して一等巡洋艦(重巡洋艦)となる。ただし、書類上は二等巡洋艦のままだった。太平洋戦争開戦後、最上はミッドウェー海戦で損傷、修理を兼ねて後部主砲二基を撤去し航空巡洋艦に改装された。1944年(昭和19年)10月25日、レイテ沖海戦におけるスリガオ海峡夜戦で大破、雷撃処分された。日本海軍は艦齢を重ねた旧式艦の代艦を建造することになり、軽巡の場合は最初に4隻(龍田、天龍、球磨、多摩)を以下4隻(最上、鈴谷、三隈、熊野)と置換することにした。1930年(昭和5年)に締結されたロンドン海軍軍縮会議により、従来の日本海軍巡洋艦が装備していた20.3㎝砲の搭載を中止。だが敷設艦八重山や潜水母艦大鯨(龍鳳)等で得られた電気溶接の技術を全面的に使用、また機関部や各種兵装(15.5㎝三連装砲塔、61㎝三連装魚雷発射管)等も最新の技術を導入し、技術的には日本海軍巡洋艦の集大成といえる。同様の経緯および本型に対抗する意味を含め、イギリスはサウサンプトン級軽巡洋艦を、アメリカはブルックリン級軽巡洋艦を建造した。最上は第1中型巡洋艦として、呉海軍工廠で1931年(昭和6年)10月27日に起工。1932年(昭和7年)8月1日、正式に『最上』と命名された。同日附で姉妹艦『三隈』や、駆逐艦3隻(初春、子日、若葉)、水雷艇2隻(千鳥、真鶴)、夏島型敷設艇夏島、伊六八《伊168》、伊六九《伊169》等も命名されている。各艦は艦艇類別等級表に類別、二等巡洋艦最上型、一等駆逐艦初春型、千鳥型水雷艇、一等潜水艦海大六型等が新設された。1933年(昭和8年)3月には、艦橋の実物大模型を制作することが決まった。1934年(昭和9年)3月14日午前10時30分、進水。同日附で日本海軍は、軽巡由良砲術長、重巡羽黒副長等を歴任した鮫島具重大佐(当時、球磨型軽巡洋艦2番艦北上艦長)を最上艤装員長に任命する(後任の北上艦長は武田盛治大佐)。3月20日、最上艤装員事務所は事務を開始する。最上進水の直前の3月12日、藤本喜久雄少将 が設計した千鳥型水雷艇友鶴が転覆する友鶴事件が発生し、藤本の設計による最上型二等巡洋艦の工事も急遽中断され、確認を行った。1935年(昭和10年)2月1日、鮫島男爵(最上艤装員長)は最上艦長(初代)に補職。その他の最上初代幹部は、副長近藤憲治中佐、砲術長江島久雄少佐、水雷長田中正道少佐、運用長光井正義少佐、航海長木村行蔵少佐、通信長野崎虎雄少佐、機関長島田藤治郎機関中佐。3月20日、排水量12,669トン、154,266軸馬力で公試を実施して36ノットを発揮するが、推進器附近の外鈑に亀裂が見つかり、砲塔も旋回困難となる。これは砲塔のリングサポート(リングバルクヘッド)が高角砲甲板に直接熔接されていたため、船体の歪みが甲板を伝ってリングサポートを変形させていたからであった。高角砲甲板が装備されていなかった砲塔搭載時点では異常が見られず、公試時に発覚した。4月10日、公試を実施(66,009馬力、30.868ノット)。4月13日、船体の補強をおこなうため同年5月末の竣工予定延期が正式に通達される。6月10日、公試を実施(100,403馬力、33.522ノット)。6月12日、艤装員事務所を撤去。7月28日、就工した。1935年(昭和10年)7月28日の竣工と共に呉鎮守府籍に編入。8月5日、呉警備戦隊旗艦は古鷹型重巡洋艦2番艦加古から最上に変更。2日後、旗艦は再び加古に戻った。8月10日から11日、8月24日から25日にかけても、加古より呉警備戦隊旗艦を引き継ぐ。8月10日の公試では128,989馬力で35.036ノットを発揮。8月29日、最上型2番艦三隈が竣工した。竣工後、最上は松下元中将の第四艦隊に所属して三陸沖での大演習に参加、9月26日に第四艦隊事件に遭遇する。最上はカタパルトに固縛していた水上機が大破し、前部構造物の垂直鋼板がひずんで第二砲塔が旋回不能、艦尾部(推進器外板附近)の溶接部に亀裂が生じて浸水被害を受けた。このため大改修が行われることとなった。11月15日、鮫島大佐(最上艦長)は妙高型重巡洋艦4番艦羽黒艦長へ転任(後日、鮫島は戦艦長門艦長、第四艦隊長官、第八艦隊長官等を歴任)。海軍省人事局第一課長伊藤整一大佐が最上艦長に補職される。同日附で第二予備艦に指定。1936年(昭和11年)3月12日から14日にかけて、最上は迅鯨型潜水母艦2番艦長鯨より呉警備戦隊の旗艦を引き継ぐ。4月1日、第三予備艦に指定。同月上旬、再び呉警備戦隊旗艦となるが、旗艦任務は4月13日から「長鯨」」に戻った。4月15日、伊藤大佐(最上艦長)は高雄型重巡洋艦2番艦愛宕艦長へ転任(後日、第二艦隊長官として戦艦大和沈没時に戦死)。後任の最上艦長は、神風型1番艦神風艦長等を歴任した小林徹理大佐。12月1日、小林大佐(最上艦長)は舞鶴防備隊司令へ転任。また潜水母艦韓崎艦長橋本愛次大佐が浅間型装甲巡洋艦1番艦浅間艦長に転じたため、軽巡多摩艦長等を歴任した高塚省吾大佐(当時、海軍潜水学校教頭)が、最上艦長および韓崎艦長を兼務する。1937年(昭和12年)9月1日、最上は第二予備艦となった。12月1日附で沢本頼雄少将(海軍艦政本部総務部長)は第七戦隊司令官に補職。高塚は韓崎艦長を免じられ、最上艦長に専念する。1938年(昭和13年)4月20日、高塚大佐(最上艦長)は横須賀防備隊司令に補職(高塚は同年11月15日より重巡愛宕艦長)。日本海軍は、敷島型戦艦1番艦(練習特務艦)敷島特務艦長や巡洋艦八雲艦長・五十鈴艦長等を歴任した千葉慶蔵大佐を最上艦長に任命する。12月15日、第七戦隊司令官は沢本頼雄中将から清水光美少将(海軍省人事局長)に交代。同日附で最上は第三予備艦となる。1939年(昭和14年)5月20日、最新鋭の利根型重巡洋艦2隻(利根、筑摩)で第六戦隊が編制され、第七戦隊司令官清水光美少将は第六戦隊司令官へ転任。第七戦隊の残務処理は第六戦隊司令部で行われた。11月15日、軍令部第二部長三川軍一少将は第七戦隊司令官に補職。第二艦隊司令長官古賀峯一中将は第七戦隊旗艦を「熊野」に指定した。同日附で、千葉大佐(最上艦長)は海軍少将へ昇進し、世保海兵団長へ転任。川内型軽巡洋艦1番艦川内艦長伊崎俊二大佐は、最上艦長および川内型2番艦神通艦長兼務を命じられた。最上は特別役務艦となり、呉海軍工廠で主砲換装工事に着手、事実上の重巡洋艦となった。対外的には基準排水量8,636トンの軽巡洋艦のままだった。この換装工事により2番砲塔の砲身が1番砲塔との間に入りきらなくなり、常に軽い俯角をかけることになった。12月17日、伊崎大佐(最上兼神通艦長)は兼務を解かれた。神通艦長には知床型給油艦1番艦知床特務艦長木村昌福大佐が補職(ミッドウェー海戦時の鈴谷艦長、レイテ沖海戦時の第一水雷戦隊司令官)。知床特務艦長には曾爾章大佐(後日、最上艦長)が任命されている。1940年(昭和15年)5月1日、最上は第七戦隊に編入された。11月1日、第七戦隊司令官三川軍一少将は金剛型戦艦で編制された第三戦隊司令官へ転任。第四水雷戦隊司令官栗田健男少将が、三川の後任として第七戦隊司令官に補職。また河内型戦艦2番艦(標的艦)摂津特務艦長小暮軍治大佐が利根型重巡2番艦筑摩艦長へ転じ、伊崎(最上艦長)は最上艦長と摂津特務艦長の兼務を命じられた。11月28日、大湊要港部参謀長森徳治大佐が摂津特務艦長に任命され、伊崎大佐(最上艦長)は兼務を解かれた。1941年(昭和16年)1月8日、伊崎俊二大佐(最上艦長)は横須賀鎮守府附となる(4月15日より重巡摩耶艦長。第二水雷戦隊司令官として神通沈没時に戦死)。最上艦長として、加古航海長や軽巡「名取」艦長等を歴任した有賀武夫大佐(当時、横須賀海軍工廠航海実験部長)が着任する。同時期、最上は海南島に進出し、仏印進駐作戦を支援する。9月10日、最上艦長は有賀大佐から曾爾章大佐に交代(当時、軽巡[[長良 (軽巡洋艦)|]長良]艦長)。最上は曾爾大佐の指揮下で太平洋戦争に突入した。[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])開戦時、最上は引き続き最上型4隻(熊野、鈴谷、三隈、最上)により第七戦隊(司令官[[栗田健男]]少将、[[旗艦]]:[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]])を編成、南方部隊指揮官[[近藤信竹]]中将([[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]司令長官)の指揮下で[[南方作戦]]に投入された。[[マレー]]、[[クチン]]、[[パレンバン]]など、[[蘭印作戦]]における上陸作戦を支援している。[[バタヴィア|バタビヤ]]攻略作戦中に生起した[[1942年]](昭和17年)[[3月1日]]の[[バタビア沖海戦]]では、第七戦隊第2小隊([[三隈 (重巡洋艦)|三隈]]、最上)および指揮下駆逐艦[[敷波 (吹雪型駆逐艦)|敷波]]として行動、協同でアメリカの重巡[[ヒューストン (重巡洋艦)|ヒューストン]]("USS Houston, CL-30/CA-30") とオーストラリアの[[パース (軽巡洋艦)|パース]]("HMAS Perth") を撃沈した。この際、最上が発射し目標を外れた[[酸素魚雷]]が[[第16軍 (日本軍)|第16軍]][[軍]][[司令官]][[今村均]][[陸軍中将]]以下将兵らが座乗する[[陸軍特殊船]][[神州丸|神洲丸(龍城丸)]]及び輸送船2隻に命中し大破擱座、及び輸送船佐倉丸と[[第一号型掃海艇|第二号掃海艇]]に命中し沈没した。連合軍巡洋艦2隻撃沈の戦果に対し、連合艦隊司令長官[[山本五十六]]大将は後日[[感状]]を授与した。続いて生起した[[セイロン沖海戦]](ベンガル湾通商破壊作戦)では、馬来部隊指揮官[[小沢治三郎]]中将(旗艦[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]])の指揮下、北方隊(熊野、鈴谷、[[白雲 (吹雪型駆逐艦)|白雲]])、中央隊(鳥海、[[龍驤 (空母)|龍驤]]、[[由良 (軽巡洋艦)|由良]]、[[夕霧 (吹雪型駆逐艦)|夕霧]]、[[朝霧 (吹雪型駆逐艦)|朝霧]])、南方隊(三隈、最上、[[天霧 (駆逐艦)|天霧]])という編制で通商破壊作戦に従事。最上を含む南方隊は商船多数を撃沈した。4月22日、内地(呉)に帰投入。5月1日、栗田少将(第七戦隊司令官)は海軍[[中将]]に昇進した。[[1942年]](昭和17年)6月上旬に生起した[[ミッドウェー海戦]]における最上は、[[近藤信竹]]中将指揮する第二艦隊(旗艦愛宕)・第七戦隊4番艦として参加した。日本時間[[6月5日]]、第一航空艦隊長官[[南雲忠一]]中将指揮する[[第一航空艦隊|南雲機動部隊]]は予期せぬアメリカ軍機動部隊の出現と対応に混乱し、その隙をついた奇襲により主力空母4隻([[赤城 (空母)|赤城]]、[[加賀 (空母)|加賀]]、[[蒼龍 (空母)|蒼龍]]、[[飛龍 (空母)|飛龍]])を失った。後方の戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]に乗艦する連合艦隊司令部([[山本五十六]]司令長官、[[宇垣纏]]参謀長、[[黒島亀人]]参謀等)は、夜戦に持ち込むことで米機動部隊を撃滅することを企図し、海上水上戦闘の妨げとなる[[ミッドウェー島]]の航空戦力を夜間のうちに破壊することを第二艦隊(近藤艦隊)に命じた。そこで近藤中将が指名した部隊は、[[栗田健男]]中将の支援部隊(第七戦隊《熊野、鈴谷、三隈、最上》、第8駆逐隊《荒潮、朝潮》)だった。だが日本時間午後11時55分、山本長官はGF電令作第161号でミッドウェー攻略作戦の中止と各艦隊の撤退を命じた。日本軍にとって不運なことに、ミッドウェー基地砲撃中止命令は第七戦隊に直接伝えられず、第八戦隊を迂回して届けられたので、最上以下3隻はミッドウェー島から90浬の地点にまで進出していた。第七戦隊は直ちに針路を北北西にとり、28ノットで第二艦隊との合流地点へ急いだ。反転してから約1時間20分後、アメリカの潜水艦[[タンバー (潜水艦)|タンバー]] ("USS Tambor, SS-198")が数隻の艦隊を発見し、位置情報を打電した。直後、タンバーは日本艦隊が接近したため急速潜航を行う。第七戦隊も右45度前方5000mにタンバーを発見し、旗艦(熊野)は左緊急45度一斉回頭を命じた。この命令が後続艦にうまく伝わらず、1番艦(熊野)と2番艦(鈴谷)が衝突しかけ、4番艦(最上)は3番艦(三隈)の左舷中央部に衝突した。殆どの兵が衝突ではなく被雷と感じた程の衝撃であった。栗田少将は連合艦隊に対し『最上前進の見込み立たず、三隈支障なし』と報告し、第2小隊(三隈、最上)に南西方向のトラック島へ退避するよう命じる。その後栗田は第1小隊(熊野、鈴谷)を率いて、主力部隊に合同すべく北西に針路をとった。タンバーは魚雷が残っていたにも関わらず最上を追跡しなかった。夜が明けると、三隈からは最上艦首が完全につぶれているのが目撃された。それでも猿渡正之運用長らの必死の応急作業により、最上は速力14ノット程度で前進可能となった。[[6月6日]]のミッドウェー島から飛来した[[B-17 (航空機)|B-17爆撃機]]の水平爆撃や、[[SB2U (航空機)|SB2Uビンジゲーター]]6機、[[SBD (航空機)|SBDドーントレス]]6機の爆撃に対しては、至近弾1発による最上戦死者2名・負傷者数名の損害ですんだ。アメリカ軍側は最上に爆弾2発命中、さらにSB2U隊指揮官フレミング大尉が三隈の四番砲塔に体当たりしたと主張し、フレミング大尉は[[名誉勲章|メダル・オブ・オナー]]勲章を死後授与された。しかし、実際の損害は最小限だった。[[6月7日]]午前5時、三隈艦長[[崎山釈夫]]大佐の指揮する第七戦隊第2小隊(最上、三隈)は、第8駆逐隊([[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]]、[[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]])と合流した。同時刻、[[レイモンド・スプルーアンス]]少将は「空母1隻、駆逐艦5隻」、「戦艦1隻、重巡洋艦1隻、駆逐艦3隻」、「重巡洋艦2隻、駆逐艦3隻」という索敵機の報告を受け、空母[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]("USS Hornet, CV-8")に攻撃を命じた。直ちに[[F4F (航空機)|F4Fワイルドキャット]]8機、SBDドーントレス26機が発進する。続いて空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]] ("USS Enterprise, CV-6")からワイルドキャット12機、ドーントレス31機が発進した。ところが、空母と戦艦を含む日本軍機動部隊の正体は、最上・三隈・荒潮・朝潮だった。最上は爆弾5発(資料によっては6発)を被弾した。1発目は五番砲塔に命中して砲員全員を戦死させた上に四番砲塔にもダメージを与え、砲員18名中無傷の者は2名だけだった。飛行甲板に命中した一弾は水上偵察機3機を吹き飛ばし、火災を発生させる。火災の起きた飛行甲板の下には魚雷発射管と予備の[[酸素魚雷]]があった。内籐力(海軍中佐・水雷長)が全魚雷を射出放棄したため、かろうじて致命的な誘爆を避けることに成功する。一方、ホーネットから発進した第二波攻撃隊(ドーントレス23機)は、重巡1隻に爆弾1発、別の1隻に爆弾6発の命中を主張し、B-17爆撃機6機も巡洋艦1隻の撃沈を主張した。ただし、B-17の沈めた巡洋艦の正体はアメリカの潜水艦[[グレイリング (SS-209)|グレイリング]]("USS Grayling, SS-209")である。一連のアメリカ軍機動部隊の攻撃により、三隈が沈没した(崎山艦長、高橋副長戦死)。最上も大破し91名が戦死、朝潮型2隻(荒潮、朝潮)も小破した。部隊の指揮は最上艦長が継承。最上は三隈生存者150名程を救助し、6月8日午前中、[[近藤信竹]]中将の旗艦[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]以下第二艦隊と合流した。[[西村祥治]]少将指揮する第四水雷戦隊旗艦[[由良 (軽巡洋艦)|由良]]は最上に対し『司令官より艦長へ。連日の勇戦奮闘に心からの敬意を表する。ここに武運めでたき貴艦に会し、感無量なり』という信号を送っている。6月8日、第二水雷戦隊所属の第18駆逐隊([[不知火 (陽炎型駆逐艦)|不知火]]、[[霞 (朝潮型駆逐艦)|霞]]、[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]]、[[霰 (朝潮型駆逐艦)|霰]])が第七戦隊(司令官[[栗田健男]]中将)の指揮下に入る。6月14日(13日とも)、第七戦隊部隊は[[チューク諸島|トラック島]]に到着。第七戦隊第1小隊(熊野、鈴谷)は第18駆逐隊に護衛され、内地に向かった。6月25日、第七戦隊司令官は[[栗田健男]]中将(栗田は7月12日より第三戦隊司令官)から[[西村祥治]]少将(6月20日まで第四水雷戦隊司令官)に交代。トラック泊地停泊中各艦(最上、朝潮、荒潮)は工作艦「[[明石 (工作艦)|明石]]」の支援を受けて応急修理に従事。最上では仮設艦首を装着する作業が行われた。同時期、トラック泊地に立ち寄った[[古鷹型重巡洋艦]]2番艦[[加古 (重巡洋艦)|加古]]より、同艦艦長[[高橋雄次]]大佐(曾爾章最上艦長と海軍兵学校同期)が最上を訪問している。8月5日、2隻(最上、明石)は第16駆逐隊([[雪風 (駆逐艦)|雪風]]、[[時津風 (陽炎型駆逐艦)|時津風]])に護衛されて内地へ帰投、8月11日に内地に到着した(明石は呉、最上は佐世保)。8月25日、最上は第七戦隊から除籍された。呉鎮守府予備艦(特別役務艦)に指定され、佐世保工廠で損傷修理と大改装に着手する。昭和17年後半の佐世保海軍工廠は、[[阿賀野型軽巡洋艦]]1番艦[[阿賀野 (軽巡洋艦)|阿賀野]]の竣工を控え(10月31日竣工)、また阿賀野型3番艦[[矢矧 (軽巡洋艦)|矢矧《第134号艦》]]が進水(9月25日)、阿賀野型4番艦[[酒匂 (軽巡洋艦)|酒匂《第135号艦》]]が起工(11月21日)。空母「[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]」《9月および11月》、駆逐艦複数隻([[睦月 (駆逐艦)|睦月]]《8月上旬》、[[弥生 (睦月型駆逐艦)|弥生]]《8月上旬》、[[水無月 (睦月型駆逐艦)|水無月]]《8月以降》、[[卯月 (睦月型駆逐艦)|卯月]]《9月以降》、[[長月 (睦月型駆逐艦)|長月]]《9月以降》、[[皐月 (睦月型駆逐艦)|皐月]]《10月》、[[文月 (睦月型駆逐艦)|文月]]《10月》、[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]《11月》、[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]《11月》、[[若葉 (初春型駆逐艦)|若葉]]《12月》、[[三日月 (睦月型駆逐艦)|三日月]]《12月》)や[[伊号第百六十八潜水艦]]等の整備や修理を抱えていた。[[Image:IJN_heavy_cruiser_MOGAMI_1944.jpg|thumb|300px|航空巡洋艦に改装後の最上。あ号作戦に向けサンベルナルジノ海峡を通過中。]]ミッドウェー海戦で主力空母4隻を喪失した日本海軍は、空母不足を補うべくあらゆる大型艦艇の空母改装を検討した。最上型重巡・利根型重巡を完全に空母へ改装した場合の要目は、「飛行甲板195×23.5m、搭載機數約30機、改装予定9か月」であったという。実際に最上型・利根型が空母へ改造される事はなかったが、[[改鈴谷型重巡洋艦]]1隻が軽空母[[伊吹 (空母)|伊吹]]に改造された。最上の場合は、空母ではなく利根型と同様の[[航空戦艦|航空巡洋艦]]へ改造されることになった。帰国後、損傷の修理と各種装備改善とあわせて[[佐世保工廠]]で後部砲塔を撤去し、[[水上機|水上]][[偵察機]]繋止用航空甲板を設置する改修工事に入る。改造にあたって、[[スウェーデン海軍]]の航空巡洋艦[[ゴトランド (巡洋艦)|ゴトランド]](1934年竣工)を参考にした可能性がある。11月10日、最上艦長は[[曾爾章]]大佐から[[佐々木静吾]]大佐[[Category:日本の巡洋艦]][[Category:第二次世界大戦の日本の巡洋艦]][[Category:1934年進水船]][[Category:1935年竣工船]][[Category:第二次世界大戦の沈没船]][[Category:呉海軍工廠が建造した艦船]]

出典:wikipedia

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