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球磨 (軽巡洋艦)

球磨(くま)は、日本海軍の軽巡洋艦。球磨型軽巡洋艦の1番艦である。その艦名は、熊本県を流れる球磨川にちなんで命名された。帝国海軍の命名慣例については日本艦船の命名慣例を参照のこと。水雷戦隊の旗艦を担う為に球磨は14隻の5500トン型軽巡洋艦(球磨型5隻、長良型6隻、川内型3隻)の最初の艦として建造された。主砲には14センチ単装砲を7門装備、3番・4番の砲が両舷に分かれて設置されている為、片舷への同時砲撃は6門。1~4番までの4門が前部に5~7番までの3門が後部に配置されている。長門型戦艦でさえ竣工時は80,000馬力だった中、完成当初90,000馬力という大出力を活かして36ノットという高速を誇り、14センチ砲を7門・53センチ魚雷連装発射を4基備えた当時としては強武装を誇ったが、建造からかなりの年数が経過していたこともあり、太平洋戦争には改装を経て参加した。球磨は1918年8月29日、佐世保海軍工廠で起工、1919年7月14日に進水、1920年8月31日に竣工した。就役後すぐにシベリア出兵のためのシベリアへの日本軍の上陸を掩護する任務に就いた。続いて、旅順を拠点として関東州から青島にかけての中国沿岸の哨戒に当たった。球磨は1934年末ごろ、魚雷発射管と九四式水上偵察機のような水上偵察機を発進させるためのカタパルトを装備する改装を受けた。日中戦争が拡大し始めたため、球磨は中国海岸を哨戒し、中国中部へ日本軍の上陸を掩護した。1937年12月から1938年秋まで、青島を拠点とする伊号第一二一潜水艦から伊号第一二四潜水艦までの機雷潜戦隊の旗艦となった。1941年4月10日、球磨は第三艦隊(司令官:高橋伊望中将)第16戦隊に配属された。真珠湾攻撃のあった1941年12月8日、球磨は北部フィリピン進攻作戦に参加し、重巡洋艦足柄・摩耶、駆逐艦朝風・松風とともに澎湖諸島馬公の基地を出発した。球磨は12月10日から11日までとビガンへの上陸を掩護し、ビガン沖でアメリカ陸軍航空軍のB-17爆撃機5機の攻撃を受けたが攻撃は失敗した。12月22日、リンガエン湾への上陸を掩護した。1942年1月3日、球磨は第三南遣艦隊(司令官:杉山六蔵中将)に配属され、1月10日から2月27日までフィリピン諸島の哨戒に当たった。同年3月、球磨は南フィリピンの侵入の掩護に就き、3月1日にセブ港を砲撃し、3月3日にミンダナオ島サンボアンガへの上陸を掩護した。球磨に乗船していた特設鎮守府特別陸戦隊が、抑留されていた80人の日本人を救出した。1942年4月9日未明、フィリピンのタノン海峡南側出口で球磨と水雷艇雉はアメリカの魚雷艇PT-34およびと交戦した。PT-34の発射した8発のうち1発がおそらく球磨に命中したが、爆発しなかった。PT-34は水上機母艦讃岐丸から発進した零式水上観測機により撃沈された。4月10日、球磨は川口支隊の歩兵第35旅団司令部及び歩兵第124連隊のセブ島への上陸、4月16日には河村支隊の歩兵第9旅団司令部及び歩兵第41連隊のパナイ島への上陸を援護した。5月6日、球磨は、マニラ湾のコレヒドール島のアメリカ軍要塞への最終的な攻撃を援護した。その後、8月12日までマニラの哨戒に当たった。1942年9月に呉海軍工廠で改修を受けた後、9月20日にマニラへ戻り、第二南遣艦隊(司令官:高須四郎中将。オランダ領東インド(蘭印)方面軍)に配属された。球磨は第38師団を乗船させるために香港へ向かい、10月10日にニューブリテン島ラバウルで下船させた。そして、1943年4月13日までセレベス島マカッサルでの哨戒と、ラバウルやニューギニア島・への増援の輸送を行った。1943年4月後半から5月の終わりにかけて、球磨はシンガポールの海軍基地で改装され、6月23日まで蘭印諸島周辺の哨戒を行った。1943年6月23日、マカッサルで第16戦隊の鬼怒・大井・北上および球磨はアメリカ第5空軍第319飛行中隊第90爆撃隊(H)のB-24爆撃機17機による攻撃を受けた。翌6月24日、第16戦隊の旗艦は鬼怒から球磨に移され、鬼怒は修理のため日本へ帰投した。球磨は10月23日まで蘭印諸島周辺の哨戒を行った。球磨は11月1日よりシンガポールで改修を受け、5番砲塔(14cm砲)を撤去してカタパルトとデリックを装備した。三連装96式25mm高角機銃を2基装備し、25mm高角機銃は合計で10門(3×2、2×2)となった。球磨の改修は11月12日に完了し、1944年1月9日まで蘭印周辺の哨戒とポートブレア(アンダマン諸島)・ペナン・メルグイ(ビルマ)への増員の輸送を行った。ところが同年1月11日、球磨は対潜戦演習のため駆逐艦浦波とともにペナンを出港した後、イギリス海軍のT級潜水艦の(HMS Tally-ho, P-317)から発見された。ペナンの北西約16km、球磨から距離1900ヤードの地点でタリホーが7発の魚雷を一斉に発射した。球磨の見張りがタリホーの魚雷の航跡を見つけ、球磨は舵を大きく切ったものの右舷艦尾に2発の魚雷を受け、球磨は炎上した。午後11時57分、球磨はマラッカ海峡付近()で搭載していた魚雷の爆発により艦尾から沈没していった。球磨の杉野修一艦長を含む生存者は浦波により救助されたが、乗組員138人が戦死した。球磨は1944年3月10日に除籍された。海底の球磨の船体は、2004年3月にオーストラリア人のダイバー・フォトジャーナリスト Kevin Denlayとシンガポールを拠点とする調査船Empressのダイバーたちによって発見された。しかし、2014年になってからマレーシアのサルベージ業者が屑鉄目当てに球磨の残骸を引き揚げ作業を行っている。近海に沈んでいる羽黒も同様の被害に遭っている。サルベージ作業は違法なもので、クレーン船を使って脆くなった船体を部分的に数十トンずつ千切って引き上げ、トンあたり2万円前後で売却された。

出典:wikipedia

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