LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

北上 (軽巡洋艦)

北上(きたかみ)は、大日本帝国海軍の軽巡洋艦。球磨型の3番艦。その艦名は、岩手県・宮城県を流れる北上川より名づけられた。九三式酸素魚雷の登場をきっかけに、同型艦の大井と共に日米両海軍の艦隊決戦に備えて一旦重雷装艦に改装されたが、太平洋戦争開戦後は航空主兵の流れから艦隊決戦は起こらなかったため、重雷装の発射管を一部撤去して高速輸送艦へ改装された。改装後は輸送任務に従事した。1945年には特攻兵器・回天の搭載母艦に改装されたものの、出撃することはなかった。1921年4月15日、佐世保海軍工廠にて竣工した。就役してすぐ、日中戦争の拡大に伴い澎湖諸島馬公を拠点として中国中部への日本軍部隊の輸送の掩護を行った。1941年8月25日、佐世保海軍工廠にて重雷装艦への改装工事を受けた。一部の14cm主砲を降ろし、それまでの53cm魚雷発射管に変えて、61cm魚雷発射管を左右各舷4連装5基20門、両舷合計40門搭載した。これは重雷装艦による特別夜戦部隊を作るという海軍の計画によるものであった。9月30日に改装工事が完了し、重雷装艦2隻(北上、大井)は第一艦隊麾下の第九戦隊に配属された。1941年12月7日の真珠湾攻撃では、広島湾柱島泊地から小笠原諸島まで、連合艦隊の戦艦の護衛を行った。1942年(昭和17年)1月下旬から2月上旬にかけて、第27駆逐隊(白露、時雨)、第32駆逐隊(刈萱、芙蓉、朝顔)と共に台湾に向かう陸軍輸送船団を護衛する。5月までは主として日本近海で訓練を行った。5月29日以降のミッドウェー作戦における第九戦隊は、第一艦隊(司令長官:高須四郎中将)と共に行動する。無事に横須賀鎮守府に6月17日に帰投した。1942年(昭和17年)8月から9月にかけて、球磨型2隻(大井、北上)は高速輸送艦へ改装された。10基40門の4連装魚雷発射管は6基24門に減らされた。大発動艇4艘、3連装96式25mm高角機銃2基、爆雷投下軌条を装備した。9月12日、舞鶴鎮守府第41特別陸戦隊を収容して横須賀を出撃、17日にカロリン諸島トラック諸島到着(19日揚陸)。10月3日、北上は陸戦隊部隊と千代田基地員を乗艦させトラック泊地を出港し、6日ソロモン諸島ショートランド島着、輸送任務を終えて9日にトラック泊地へ戻った。11月、北上はマニラからニューブリテン島ラバウルへ部隊を輸送した後、年末までに佐世保へ帰投した。この頃、更に4連装魚雷発射管を4基下ろして4基16門とし、大発を増設したとされる。1943年(昭和18年)1月から、ニューギニアの戦いにおける日本軍の増援作戦に関わった。1月には陸軍第20師団を釜山からパラオ経由でニューギニア島ウェワクへ輸送した。2月には第41師団を青島からパラオ経由でウェワクへ輸送した。3月15日、第九戦隊は解隊。4月から5月にかけて、スラバヤからニューギニア島への輸送船3隻の護衛を行った。7月1日をもって球磨型2隻(北上、大井)は南西方面艦隊麾下の第十六戦隊に編入される。その後、スラバヤを拠点として警備を行った。6月23日、北上はマカッサルにてアメリカ第5空軍のB-24爆撃機による攻撃を受けたが、損傷はなかった。8月にシンガポールの海軍基地で補修を受けた。9月始めにシンガポールからニコバル諸島への輸送艦1隻の護衛を行った。10月終わりにはアンダマン諸島ポートブレアへの輸送艦2隻の護衛を行った。1944年(昭和19年)1月下旬、ポートブレアへの輸送艦1隻の護衛を行った。その帰途、1月27日にマラッカ海峡を通過中にペナンの南西でイギリスの潜水艦が放った魚雷2発を艦尾に受けた。北上は鬼怒に曳航され、Angsa湾で応急修理を受けた後、2月にセレター海軍基地で修理を受けた。まだ修理は完了していなかったが、マニラへ向かうタンカー旭東丸の護衛を行うために6月21日に修理を中断した。7月12日から26日まで、カヴィテ軍港で追加の修理を受けた。8月上旬、シンガポールから日本へ向かうヒ70船団(香取型練習巡洋艦3番艦《香椎》、空母《神鷹》、秋月型駆逐艦7番艦《霜月》、海防艦4隻、タンカー8隻)等に合流し、佐世保に戻った。1944年(昭和19年)8月14日から、北上は佐世保にて回天搭載母艦への改装を受けた。後部にスロープを設置し、中央部上甲板上からスロープ部分まで回天の搭載・移動のための軌条を片舷1条ずつ設け、回天8基を搭載できるようにした。搭載された回天は軌条により順次後部へ移動し、スロープから海中に発進することが可能である。後甲板には回天を揚収するための20tクレーン(空母千歳から移設)が設置された。これらの搭載のために、後部のタービンは取り外され、そのため最大速は36ノットから23ノットに低下した。兵装は全て取り替えられ、12.7cm連装高角砲2基、25mm3連装機銃12基、25mm単装機銃31挺が装備された。また、22号水上電探が設置された。艦尾の回天搭載軌条の間には爆雷投下軌条が2条設置された。改修は1945年(昭和20年)1月20日に完了した。主任務は回天の輸送と襲撃訓練支援(目標艦を務める)であったが、本土決戦時には実際に攻撃を行うことも想定され、襲撃任務を目的とした水上艦部隊である海上挺進部隊に編入された。北上は同戦隊を含め、回天を搭載した艦艇の中では排水量・搭載数共に最大の艦であった。1945年(昭和20年)3月19日、アメリカ海軍の第58任務部隊の空母7隻が呉港を攻撃した(第1回呉軍港空襲)。240機以上の艦載機が停泊中の日本の艦船を空襲したが、北上は損傷を受けなかった。7月、25mm単装機銃27挺が追加装備された。7月24日、第38任務部隊の空母6隻・艦載機200機が呉港を空襲した(第2回呉軍港空襲)。これにより北上は大破、航行不能となり32人の乗組員が戦没した。戦後、北上は主機械が損壊したままで航行不能状態であったものの、主缶と補機類(発電機その他)の一部は使用可能であった。このため、北上は復員輸送支援の定係工作艦として使用されることとなり、1945年末に鹿児島へ曳航され、約半年間従事した。北上は同年11月30日に除籍された。1946年(昭和21年)2月10日、北上は佐世保地方復員局所管の特別輸送艦に指定された。4月21日、高松宮宣仁親王(昭和天皇弟宮)が工作艦として使用中の北上を視察している。同年9月21日、特別輸送艦の指定を解かれた。同年7月に長崎へ回航され、同年10月より(英語版では「1946年8月10日から1947年3月31日まで」)三菱重工業長崎造船所で解体された。北上の艦体のうち、二重底の一部がポンツーンとして流用されたという。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。