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北近畿

北近畿(きたきんき)は、近畿地方の日本海側を指す地域名。京都府北部と兵庫県北部を指し、令制国では丹波国の北半、丹後国、但馬国にあたる。一般的には、亀岡市、南丹市、船井郡京丹波町(南丹または口丹と呼ばれる地域)や篠山市など、京阪神との繋がりが強い丹波国の南半にあたる地域 は北近畿には含まれない。しかし、より広義な北近畿の範囲では篠山市や福井県南部(嶺南)を含める場合もある。例えば、北近畿開発促進協議会には福井県南部(嶺南)の自治体も参加しているほか、北近畿広域観光連盟においても福井県南部(嶺南)と篠山市の情報を取り扱っている。北近畿は、山陰海岸国立公園や城崎温泉、日本三景の一つ天橋立などの名勝を抱えており、夏には海水浴を、冬にはカニ料理を目的とした観光客が多く訪れている。京都府北部と兵庫県北部の自治体は、観光事業の促進のために北近畿広域観光連盟を結成している。日本海に面しており、気候は日本海側気候が見られるが、冬の雪は山間部を除いて北陸程は多くはなく、雨の日が比較的多い。このため、「弁当忘れても傘忘れるな」という格言が存在する。古代の北近畿には、旦波(丹波)など地方王国が分立していた。これらの地方王国は、北陸(越国)や山陰(因幡国、出雲国など)や北九州(筑紫国、末盧国など)の地方王国と共に、日本海沿岸の一大勢力を築いていた。その中でも旦波は、のちのヤマト王権に並ぶ独立性を持っていたとする説(丹後王国論)があるように、大陸との交易により力を備えていたと考えられている。伊勢神宮が現在の伊勢市に移る前には、元伊勢が大江山の近くに鎮座していた。奈良盆地でヤマト王権が勢力を拡大すると、北近畿の地方王国はヤマト王権に恭順し、北近畿はヤマト王権の北の入口となった。旦波は、丹波国と丹後国と但馬国に三分割され、丹波国府は元伊勢から離れた場所で、山城国に極めて近い亀岡に置かれた。戦国時代には、守護の細川氏が弱体化した丹波地方にはかつての細川氏の被官であった国人領主がそれぞれ割拠した。若狭・丹後地方は守護の若狭武田氏と旧守護の一色氏が抗争をつづけたものの共に内紛により弱体化していった。畿内において織田信長が台頭し政治の実権を握るとそれらの勢力は駆逐され、信長の配下の丹羽長秀、明智光秀、細川藤孝などが北近畿を支配するようになる。本能寺の変で信長が斃れると、代わって台頭した豊臣秀吉により光秀は倒され長秀と藤孝は臣従し、北近畿は豊臣政権の支配の下に再配分された。秀吉没後の関ヶ原の戦いにおいては、北近畿は田辺城の戦いなど激戦地域の一つとなる。江戸時代に入ると、北近畿には、宮津藩、丹後田辺藩、福知山藩、綾部藩、篠山藩、豊岡藩、出石藩といった小さな藩が分立した。杞柳(こりやなぎ)製品から始まった豊岡の鞄、綾部の紡績業といった地場産業には、この時期に興った物もある。江戸幕府が倒されて明治政府が誕生すると、廃藩置県によって、豊岡県が誕生する。しかし、1876年8月21日には、豊岡県は廃止され、山陽道沿線や中山道沿線の府県に編入された。富国強兵政策が執られた明治時代には、いままで寒村であった東舞鶴(舞鶴市東部)に舞鶴鎮守府が設置され、日本海沿岸の一大軍事拠点となり、軍都として急速に発展し、日本海側有数の都市圏を形成することとなった。これと前後して、大阪や京都や敦賀から舞鶴に向けての鉄道が敷設され、北近畿にも鉄道の敷設が進められた。第二次世界大戦後には、特に高度経済成長期に太平洋ベルトから漏れたため、北近畿でも過疎化した地域が見られるようになった。しかし、現在では舞鶴若狭自動車道の整備や、京都府が主導する工業団地の建設などが進められている。鉄道は山陰本線と福知山線、舞鶴線及び小浜線のJR線及び京都丹後鉄道の路線がある。高速道路は整備が遅れていたが、現在は舞鶴若狭自動車道が敦賀方面と阪神方面を、京都縦貫自動車道が京都方面を貫いている。鳥取豊岡宮津自動車道が鳥取方面を貫くべく建設中である。又、北近畿豊岡自動車道が舞鶴若狭道春日IC・JCTより分岐し、和田山ICで播但連絡道路と連絡している。

出典:wikipedia

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