天塩町(てしおちょう)は、北海道北部の西海岸に位置する町。北海道内第2位の長さで北海道遺産の大河、天塩川の河口に位置する。北海道らしい大ぶりなシジミの産地として有名。町域内に河口がある天塩川に由来する。川名の「天塩」は、アイヌ語の「テッシ・オ」(梁(やな)・ある)が転訛したもので、中流域(中川郡美深町恩根内付近)にかつて梁状の岩が川を横切っていたことに由来する。北海道北部の留萌管内最北部、天塩川下流左岸に囲まれるように位置している。役場等のある中心市街地はこの河口部に位置し、雄信内(おのぶない・オヌプナイ)集落は国道40号線沿いに位置している。この両市街地・集落に酪農従事者世帯以外の住民の大半が居住している。天塩川河口は、サロベツ原野にかけて長く発達した砂嘴(浜堤)によって形成された天然の防波堤(この部分は幌延町に属する)により非常に良港であったこと、海山の豊富な天然資源に恵まれていたことから、古くからアイヌ人等によってコタン(集落)が築かれ、泊地及び交易の要衝地となった。江戸時代初期に和人(松前藩)が進出してくると、アイヌ人と和人との交易地となり、後に和人によってテシホ場所(番所)が置かれた。明治期には北方警護を兼ねた農業地開拓事業が実施され、東北・北陸地方などから多くの開拓民が入植した。また、天塩川の流域の森林や、開拓地から切り出して舟運等によって運搬された木材等の集積地となり、材木問屋の支店が居並び木材産業が栄え、江戸期以来伝統のニシン、サケマスなどの漁業を営む者、海運業者・各種商工業者が進出し人口が増加、郡役場、警察、営林署などの各行政施設も置かれ、道北における中核都市の一つとして大いに栄えた。大正期に入り、現・宗谷本線が敷設されると、舟運による木材の集積地としての役目を終えることになり、また、開拓が進み森林資源が減少したことと、海外の値段の安い輸入木材の需要増加によって林業は次第に衰退していくことになった。昭和期になり、町民悲願の鉄道が1935年(昭和10年)に開通。鉄道の開通は天塩の文化水準・町勢向上に寄与することになったが、戦争勃発により青壮年世代が兵役により削がれ生産人口が減少し、また、昭和中期のニシンの水揚量の激減により漁業が次第に衰退していった。そして、道北各町村と同様、戦後高度経済成長期以降の大都市への人口流出による過疎が進行し現在に至っている。中心市街地には、木材の集積地として、また、ニシン漁等の漁業基地だったこと等の各種産業がかつて栄えていた頃の面影を残している。漁業(シジミ漁、サケ漁等)、農業(酪農)、林業の一次産業中心である。天塩町内の集配業務は「098-33」区域が天塩郵便局、「098-31」区域は雄信内郵便局が受け持っていたが、2007年にいずれも幌延郵便局に移管された。その後、「098-33」区域については郵政民営化後の2011年に天塩郵便局内に新設された郵便事業音威子府支店天塩集配センターに移管され、2012年の日本郵便株式会社発足後は再び天塩郵便局の集配担当区となった。「098-31」区域は現在も幌延郵便局の担当となる。このほか、北海道大学演習林が置かれる。札幌市とを結ぶ沿岸バス株式会社運行の都市間バスが、新栄通6丁目に設置された天塩バスターミナルに発着する他、同社の路線バスが町内各地に設置されているバス停に停車する。かつては国鉄羽幌線が通り、町内に更岸駅、干拓仮乗降場、天塩駅、中川口仮乗降場、北川口駅、西振老仮乗降場、振老駅、作返仮乗降場の駅・仮乗降場が設置されていたが、1987年(昭和62年)3月に路線廃止されている。
出典:wikipedia
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