『東方見聞録』(とうほうけんぶんろく)は、マルコ・ポーロがアジア諸国で見聞した内容口述を、ルスティケロ・ダ・ピサが採録編纂した旅行記である。マルコもルスティケロもイタリア人であるが、本書は古フランス語で採録された。原題は不明である。日本(および韓国)においては一般的に『東方見聞録』という名で知られているが、他国では『世界の記述』("La Description du Monde"、"Le Devisement du monde")、『驚異の書』("Livre des Merveilles")などとも呼ばれる。また、写本名では、『イル・ミリオーネ』("Il Milione"、100万)というタイトルが有名である。諸説あるが、マルコ・ポーロがアジアで見たものの数をいつも「100万」と表現したからとも、100万の嘘が書かれているからとも、マルコ・ポーロの姓"Emilione"に由来するともいう。英語圏やスペイン語圏、中国語圏などでは『マルコ・ポーロ旅行記』("The Travels of Marco Polo"、"Los viajes de Marco Polo"、"馬可・波羅游記")の名でも知られる。1271年にマルコは、父ニコロと叔父マッフェオに同伴する形で旅行へ出発した。1295年に始まったピサとジェノヴァ共和国との戦いのうち、1298年のメロリアの戦いで捕虜となったルスティケロと同じ牢獄にいた縁で知り合い、この書を口述したという。東方見聞録は4冊の本からなり、以下のような内容が記述されている。日本では、ヨーロッパに日本のことを「黄金の国ジパング」(Cipangu)として紹介したという点で特によく知られている。しかし、実際はマルコ・ポーロは日本には訪れておらず、中国で聞いた噂話として収録されている。なお、「ジパング」は日本の英名である「ジャパン」(Japan)の語源である。日本国(中国語でジーベングォ)に由来する。東方見聞録によると、「ジパングは、カタイ(中国北部)(書籍によっては、マンジ(中国南部)と書かれているものもある)の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国で、莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている。 また、ジパングには、偶像を崇拝する者(仏教徒)と、そうでない者とがおり、外見がよいこと、また、礼儀正しく穏やかであること、葬儀は火葬か土葬であり、火葬の際には死者の口の中に真珠を置いて弔う習慣がある。」といった記述がある。「莫大な金を産出し」というのは奥州の金産地を指し、「宮殿や民家は黄金でできている」というのは中尊寺金色堂についての話を聞いたものであるとの説もある。ジャワ島については、甚だ裕福な島であり、胡椒、ナツメグ、ジャコウ、ガンショウ、バンウコン、クベバ、クローブなど、世界中の香料がここで生産され、極めて多くの船舶と商人がこの島を目指し、大量の商品を仕入れて巨利を得ていると述べられている。スマトラ島については、キャラ、ガンショウ、その他、ヨーロッパまではもたらされない高価な香料を生産しており、北西部に位置するランブリ王国については、「樟脳、その他の香料を豊富に生産している」と述べられている。インドについては、「胡椒、シナモン、生姜」またボンベイの近くで生産されていたとされる「褐色の香木」への言及があり、アラビア商人と中国商人とが盛んな取引を見せるマイバール沿岸地帯随一のコイラム港の解説がある。このあたりは、ブラジルスオウ材、インディゴ、胡椒の生産地であり、胡椒木の栽培法、インディゴの凝縮法が詳しく述べられている。当時のインドに存在していたとされるマーバール王国については、胡椒、生姜を大量に産出し、シナモンその他の香料も豊富で医療品の材料になったタービットやインド産各種のナッツ類も出回っており、世界に類を見ない極上品である様々な亜麻布、他にも貴重な物資があふれていると述べられている。このような記述は、マルコ・ポーロが、こうした東洋との交易における、最も貴重な物質についての知識を蓄えていたことを示していると考えられる。中国については、沈黙している部分が多い。例えば、万里の長城の記述、鵜飼の漁の話、若い娘の足を堅く縛る纏足、印刷術や中国の文字、中国茶、茶店の話が全く述べられておらず、儒教や道教についてのコメントもない。しかし、道教については、「先生」という呼称で道教の修道僧の話が短いながら述べられている。これはマルコ・ポーロが、モンゴルの支配層と極めて強い一体感を持っていたことによる、支配下にある一般民衆の文化もしくは慣習に無関心であったこと、もしくは実際は、中国へ赴いていなかったのではないかという理由が考えられる。当時のヨーロッパの人々からすると、マルコ・ポーロの言っていた内容はにわかに信じ難く、彼は嘘つき呼ばわりされたのであるが、その後多くの言語に翻訳され、手写本として世に広まっていく。後の大航海時代に大きな影響を与え、またアジアに関する貴重な資料として重宝された。探検家のクリストファー・コロンブスも、1438年から1485年頃に出版された1冊を持っており、書き込みは計366箇所にも亘っており、このことからアジアの富に多大な興味があったと考えられる。祖本となる系統本は早くから散逸し、各地に断片的写本として流布しており、完全な形で残っていない。こうした写本は、現在138種が確認されている。1300年頃マルコ・ポーロが本書で「モンゴル帝国」を紹介したように、イブン・バットゥータやルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホも東方の情報を伝えた。1355年にはイブン・バットゥータの口述をが筆記した「諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物」でマリーン朝に、ジョチ・ウルス・トゥグルク朝(インド)・サムドラ・パサイ王国(スマトラ)・シュリーヴィジャヤ王国(マラッカ)・マジャパヒト王国(ジャワ)・元(首都の大都、当時世界最大の貿易港の一つ泉州)を紹介した。イブン・バットゥータの翻訳がヨーロッパにもたらされたのは19世紀になってからである。1406年にはルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホが「」で、モンゴル帝国の後継国家のひとつ「ティムール朝」を紹介した。しかし、1396年に十字軍とオスマン帝国の間で行われたニコポリスの戦いの影響から、同じイスラム国家であるティムールに対するヨーロッパ社会の反応は冷めたもので、東方見聞録に対するような熱狂は起こらなかった。この後も東方見聞録こそが大航海時代の探検家にとって、アジアを目指す原動力として機能し、コロンブス・コルテス、マゼランらがヨーロッパの白人世界に富をもたらすことになった。16世紀初頭には、ポルトガル人が、マラッカに滞在していた時に見聞した情報をまとめた『』を著した。
出典:wikipedia
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