コンラート・ツァハリアス・ローレンツ(Konrad Zacharias Lorenz, 1903年11月7日 - 1989年2月27日)は、オーストリアの動物行動学者。コンラッド・ローレンツとも表記される。刷り込みの研究者で、近代動物行動学を確立した人物のひとりとして知られる。息子は物理学者のトマス・ローレンツ。父より先に死去した。1903年、オーストリア=ハンガリー帝国時代のウィーン近郊アルテンベルク()に生まれる。ノーベル賞受賞に際して書かれた自伝的エッセイで、両親が「私の動物への尋常ではない愛情に対して、おそろしく寛容だった」こと、そしてセルマ・ラーゲルレーヴの『ニルスのふしぎな旅』がガンへの情熱を満たしたことが科学者として重要だったと認めた。はじめウィーン大学医学部で学び医師の資格を得、さらにウィーン大学で動物学を学ぶ。父の願いで、1922年にコロンビア大学で医学を学び始めた。しかし1923年にはウィーンに戻り、ウィーン大学で研究を続けた。1928年に医学博士となり、それから解剖学研究所で1933年まで助教授を務めた。1933年に動物学で二つ目の博士号を取得した。1936年に本能に関する国際シンポジウムで重要な友人であり同僚となるニコ・ティンバーゲンと出会った。二人はともに野生の、家畜の、そして雑種のガチョウを研究した。「腐敗の同様のプロセスは文明化された人間の中でも起きる」のではないかと疑い、恐れ始めた。1940年にケーニヒスベルク大学の心理学の教授となった。1941年にドイツ国防軍に徴兵された。ローレンツはバイクの整備士を望んだが、軍医として配属された。軍務についてすぐにソ連軍の捕虜となり、1942年から1948年まで捕虜収容所で拘束された。そのあいだも医者として働き、「ほとんどは医者だったが、何人かのロシア人ととても親しくなった」。解放された時、書きためていた本の原稿とペットとしていたムクドリを持ち帰ることを許された。ローレンツは「無傷の鳥と原稿を持って」アルテンベルクに戻った。原稿は『鏡の背面』に使われた。1950年にマックス・プランク協会はで行動心理学ローレンツ研究所を設立した。1957年にはミュンヘン大学動物学科の名誉教授となった。ローレンツは1958年にはマックス・プランク行動心理学研究所に移籍した。1969年にの最初の受賞者となった。1973年、ニコ・ティンバーゲン、カール・フォン・フリッシュと共にノーベル医学生理学賞を受賞した。いずれも動物行動学の同僚研究者である。同年にマックス・ブランク研究所を退職したが、アルテンベルクやに住み、研究と執筆活動を続けた。1974年にオーストリアに戻り、オーストリア科学アカデミー動物社会科学研究所の所長になる。ティンバーゲンとともにローレンツは固定的動作パターン(本能行動)を説明するために生得的解発機構の概念を発展させた。二人は大きな卵や偽のくちばしが固定的動作パターンをより強く引き出すことができること(超正常刺激)を発見した。ウィリアム・マクドゥーガルのアイディアに影響され、ローレンツは行動の動機の「心理流体学的」なモデルを考案したが、それは1960年代に影響力があった「種の維持」論の傾向があった。エソロジーへのもう一つの貢献は「刷り込み」に関する研究である。ローレンツの最も大きな功績は、動物行動の観察という当時は軽視されていた古典的な手法を厳密に用い、科学の名に値するものに仕立てたことである。生理学・解剖学などからはわからない、動物の行動を直接研究する分野が生まれることになった。その中で特に有名なのはニシコクマルガラスやハイイロガンの観察研究である。自ら様々な動物を飼育し、解剖したり傷つけたりするような実験は好まなかった。刷り込み現象の発見は、自らのハイイロガンの雛に母親と間違われた体験に端を発したものである。また、そのガンに関する写真集なども出している。だがその説に対しては、後にあまりにも擬人化しすぎているとの批判が向けられた。ローレンツは、動物の行動は種を維持するためにあると考えていたが、その後、社会生物学の発展などにより動物の行動は種のためではなく自分自身のためであると解釈されるようになっていった。動物行動学は彼が第一線から退く頃には大きく変貌していたが、ローレンツは個体のためという新しい視点の受け入れには消極的だった。変革の立役者の一人であるE.O.ウィルソンは著書の中でローレンツらを論理が粗雑だと批判しながらも、動物の行動が生物の他の形質と同じように進化や自然選択の文脈で扱えることを我々に納得させたと評価している。ローレンツは1938年にナチ党に入党しナチ体制下で大学の職を手に入れた。NSDAPへの入党申請書には「私の研究の全てが国家社会主義思想のために捧げられると、私は言うことができます」と書いた。当時の出版物は、ナチへの共感によって研究が汚されているという非難を後に引き起こすことになる。その頃の出版物の中には疑似科学的な比喩によって表現されていたナチの「人種衛生学」への支持も含まれている。人生の終わり頃には立ち上がったばかりのオーストリア緑の党を支持し、1984年には近くに建てられることになった発電所に反対する草の根運動を支持し、住民投票の象徴となった。その他にも様々なエピソードが存在する。バランスドアクアリウムとよばれるアクアリウムの一種であるが、ローレンツが著書『ソロモンの指環』の2章で紹介し、有名になったことから、ローレンツアクアリウムと呼ばれることが多い。これは、バイオスフィア2のような、完全に独立した生態系を作ろうというものではない。ポンプやろ過装置など水質維持用の機材を用いず、水槽内に暮らす生物同士のバランスで水槽内の環境を保つことを目的とするものである。こういった生体同士で行われる物質のやり取りを利用する。『ソロモンの指環』の説明より。
出典:wikipedia
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