三線軌条(さんせんきじょう)とは、鉄道において軌間の異なる車両を運転するために、通常1対2本の軌条(レール)で敷設される線路について、片側のレールを共通として残り2本のレールをそれぞれの軌間に応じて敷設したもののこと。三線軌道ともいう。英語ではDual gauge(デュアルゲージ)と呼ぶ。各軌間の線路中心がずれるため建築限界もそれにあわせて変わり、プラットフォーム・架線・信号機・ATS/ATC位置補正地上子等の保安装置の地上子の設置位置に注意が必要であり、分岐器(ポイント)の構造が複雑になる点、降雪地帯などでは並列する軌条の間に雪が詰まる、レールの摩耗が不均衡になる、レールの取得や保守のコストが上がるなどの問題がある。線路中心を合わせるために、軌条を共通とせずに4本敷設する四線軌条(しせんきじょう)とする場合もある。四線軌条は、軌間の差が小さすぎるため3本のレールの併設が困難なケースや、3種の軌間に対応するケース(Triple gauge=3階建て軌道)にも用いられる。日本での三線軌条および四線軌条は、1912年に、京都市内の京都市電と京都電気鉄道の共用区間に敷設されたのが最初と考えられる。同年4月19日に京都市が内務省から三線軌条敷設の許可を受け、同年12月25日に三線軌条の最初の区間が営業を開始した。一方、博多電気軌道(のちの西鉄福岡市内線)は貨物輸送を目的とした築港線を同年5月28日に開通させており、この路線が当初より1067mm軌間だったとすると、電車を運行していた吉塚線・循環線と重複する区間は三線軌条となっていたため、開通は京都よりも早かったことになる。翌1913年には東海道本線の膳所駅(当時は馬場駅) - 大津駅(後の浜大津駅)間で、東海道本線(貨物線)に大津電車軌道(現在の京阪電気鉄道石山坂本線)が乗り入れるため三線軌条となった。軌道ではない鉄道が関係するものはこれが最初である。純粋な鉄道のみのものとしては1917年に横浜線の原町田駅 - 橋本駅間で、標準軌化の実地試験として使用されたのが始まりである(日本の改軌論争も参照)。鉄道車両工場の構内で三線軌条となっているケースもある。例えば、JR東海浜松工場には狭軌・標準軌共用の三線軌条が多い。なお、ここでは営業線上以外のものは割愛する。また営業運行ではないが、太平洋戦争中の1945年(昭和20年)4月に京成電鉄本線の京成上野駅 - 日暮里駅間の地下線が国(運輸省)に接収され、国鉄日暮里駅構内の側線につながる三線軌条を敷設した上で、空襲から守るために国電車両や寝台車を疎開させた事がある。ただし戦時中の京成上野地下線の状況については様々な文献による記述がある。詳しくは京成上野駅を参照。なお、後の1959年(昭和34年)に京成電鉄と新京成電鉄が1,372 mm(馬車軌間)から1,435 mm(標準軌)に改軌した工事期間中、駅や車両基地の構内に四線軌条に似たものが敷設されていたが、この2種類の軌間は差が小さすぎるために通常の三線あるいは四線軌条は物理的に成立困難である。外側のレールは標準軌で、内側のレールは馬車軌間より狭く、馬車軌間の車両が入線した際の脱線防止用ガードレールとして作用していた。この他、同社の津田沼第二工場とその出入庫ルートには、1,372 mm軌間と1,435 mm軌間の軌道中心を大きくずらした四線軌条(4本のレールに左端から1 - 4番の番号を付けると、1番と3番の間が1,372 mm軌間、2番と4番の間が1,435 mm軌間、というような敷設法)が存在した。参考までに英語版Wikipediaの記事w:Dual gauge#Configuration for Africaでは、同様に軌間の差が小さく、複条化が困難とされる1,000 mm軌間と1,067 mm軌間を実現するためにそれぞれの軌道中心をずらして敷設することができると想定した四線軌条の模式図が見られる。国鉄時代の東静岡駅(現在の静岡貨物駅で旅客駅の東静岡駅とは別の駅)にも存在した。保線機材やレールを積み込む施設に採用され、国鉄分割民営化後も暫く存置されていた。スイスでは主に貨物列車の直通を目的に三線軌条もしくは四線軌条化がなされている。なお、輸送量の少ない区間ではロールボックもしくはロールワーゲンを使用して貨車を直通している。この区間の両側は三線軌条となっている。
出典:wikipedia
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