満州国(まんしゅうこく、、)は、1932年(大同元年)から1945年(康徳12年)の間、満州(現在の中国東北部)に存在した国家。日本の教育用図書などでは一般的に「満州国」の表記が使われるが、当用漢字字体表告示以前の字体である「満洲国」を用いる者もいる。帝政移行後は「大満州帝国(大滿洲帝國)」あるいは「満州帝国(滿洲帝國)」などと呼ばれていた。日本(朝鮮、関東州)および中華民国、ソビエト連邦、モンゴル人民共和国、蒙古聯合自治政府(後に蒙古自治邦政府と改称)と国境を接していた。1912年の清朝滅亡後は中華民国が清朝領土の継承を主張したが、外満洲はアイグン条約及び北京条約でロシア帝国に割譲され、内満洲の旅順・大連は日露戦争までは旅順(港)大連(湾)租借に関する条約でロシアの、戦後はポーツマス条約により日本の租借地となっていた。内満洲ではロシアにより東清鉄道の建設が開始され、日露戦争以前にはロシア軍が鉄道附属地を中心に展開し、日露戦争後は長春(寛城子)以北の北満洲にロシア軍が、以南の南満洲にロシアの権益を引き継いだ日本軍が南満洲鉄道附属地を中心に展開して半植民地の状態だった。日本やロシア(及び継承国のソ連)は自国の満洲権益に関して清朝や中華民国と条約や協定を結んでおり、満洲の主権が清朝及び継承国の中華民国にある事は承認ないし黙認していた。また日本は1922年の支那ニ関スル九国条約第一条により中華民国の領土的保全の尊重を盟約していたが、中華民国中央政府(北京政府)の満洲での権力は極めて微力で、張作霖率いる奉天軍閥の実効支配下に置かれていた。1928年12月29日に奉天軍閥が国民政府に帰順(易幟)した事により、実質的には奉天軍閥の支配は継続していたが、満洲に青天白日満地紅旗が掲げられる事になった。1931年9月18日、柳条湖事件に端を発して満洲事変が勃発、関東軍により満洲全土が占領される。その後、関東軍主導の下に同地域は中華民国からの独立を宣言し、1932年3月1日の満洲国建国に至った。元首(満洲国執政、後に満洲国皇帝)には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が就いた。満洲国は建国にあたって自らを満洲民族と漢民族、蒙古民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による五族協和と王道楽土を掲げた。満洲国は建国以降、日本、特に関東軍の強い影響下にあり、「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた。当時の国際連盟加盟国の多くは満洲地域は法的には中華民国の主権下にあるべきとしたが、このことが1933年(昭和8年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となった。しかしその後、ドイツやイタリア、タイ王国など多くの日本の同盟国や友好国、そしてスペインなどの枢軸寄りの中立国も満洲国を承認し、国境紛争をしばしば引き起こしていたソビエト連邦をも領土不可侵を約束して公館を設置するに至り、当時の独立国の3分の1以上と国交を結んで独立国として安定した状態に置かれた。アメリカやイギリス、フランスなど国交を結んでいなかった国も国営企業や大企業の支店を構えるなど、人的交流や交易をおこなっていた。第二次世界大戦末期の1945年(康徳12年)、日ソ中立条約を一方的に破棄した赤軍(ソ連軍)による満洲侵攻と、日本の太平洋戦争敗戦により、8月18日に満洲国皇帝・溥儀が退位して満洲国は滅亡。満洲地域はソ連の占領下となり、その後国共内戦で中国国民党と中国共産党が争奪戦を行い、最終的に中華人民共和国の領土となっている。中華民国および中華人民共和国は、現代でも満洲国を歴史的な独立国として見なさない立場から、「偽満」「偽満洲国」と表記する。同地域についても「満洲」という呼称を避け、「中国東北部」と呼称している。日本では通常、公の場では「中国東北部」または注釈として「旧満州」という修飾と共に呼称する。また、満洲国を、日本や関東軍の傀儡国家とみなす山室信一、加藤陽子、並木頼寿のような日本の研究者もいる。1932年(大同元年)3月1日の満洲国佈告1により、国号は「滿洲國」と定められている。この国号は、1934年(康徳元年)3月1日に溥儀が皇帝に即位しても変更されなかった。ただし、法令や公文書では「満洲国」と「満洲帝国」が併用された。帝制実施後の英称は正称が「Manchoutikuo」または「The Empire of Manchou」、略称が「Manchoukuo」または「The Manchou Empire」と定められた。満洲地方には、ツングース系、モンゴル系、朝鮮系など多くの国や民族が勃興し、あるいは漢民族王朝が一部を支配下に置いたり撤退したりしていた。土着民族として濊貊・粛慎・東胡・挹婁・夫余・勿吉・靺鞨・女真などが知られるが、その来歴や相互関係については不明な点が多い。満洲南部から朝鮮半島の一部にかけては遼東郡、遼西郡が置かれるなど、中華王朝の支配下にあった時期が長い。土着系とされる民族による国家としては、高句麗、渤海、金、後金などが知られる。モンゴル系とされる鮮卑族による前燕などや契丹族による遼が支配した事もある。チベット系の氐族の立てた前秦の支配が及んだ事もある。12世紀以降、金、元、明、清と、首都を中国本土に置く、あるいは移した王朝による支配が続いていた。女真族(後の満洲民族)の建てた王朝として、金や後金(後の清)が成立した。清朝の中国支配の後、満洲族の中国本土への移出が続き満洲の空洞化が始まった。当初清朝は漢人の移入によって空洞化を埋めるべく1644年(順治元年)より一連の遼東招民開墾政策を実施した。この開墾策は1668年(康熙7年)に停止され、1740年(乾隆5年)には、満洲はアイシン国(満洲語aisin gurun, 金国)創業の地として本格的に封禁され、漢人の移入は禁止され私墾田は焼き払われ流入民は移住させられていた(封禁政策)。旗人たちも首都北京に移住したため満洲の地は「ほぼ空白地」と化していた。19世紀前半には封禁政策は形骸化し、満洲地域には無数の移民が流入しはじめた。chenの試算によれば1851年に320万人の満洲人口は1900年には1239万人に増加した。1860年にはそれ以前には禁止されていた旗人以外の満洲地域での土地の所有が部分的に開放され、清朝は漢人の移入を対露政策の一環として利用しはじめた(闖関東)。清朝はアヘン戦争後の1843年に締結された虎門寨追加条約により領事裁判権を含む治外法権を受け入れることになった。ロシア帝国もまたアロー戦争後の1858年に天津条約を締結して同等の権利を獲得することに成功し、1860年の北京条約でアムール川左岸および沿海州の領有権を確定させていた。日本の満洲に対する関心は、江戸時代後期の1823年、経世家の佐藤信淵が満洲領有を説き、幕末の尊皇攘夷家の吉田松陰も似た主張をした。明治維新後の日本は1871年(明治4年)の日清修好条規において清国と対等な国交条約を締結した。さらに日清戦争後の下関条約及び日清通商航海条約により、清国に対する領事裁判権を含めた治外法権を得た。ロシアは日清戦争直後の三国干渉による見返りとして李鴻章より満洲北部の鉄道敷設権を得ることに成功し(露清密約)、1897年のロシア艦隊の旅順強行入港を契機として1898年3月には旅順(港)大連(湾)租借に関する条約を締結、ハルピンから大連、旅順に至る東清鉄道南満洲支線の敷設権も獲得した。日本は、すでに外満洲(沿海州など)を領有し、残る満洲全体を影響下に置くことを企図するロシアの南下政策が、日本の国家安全保障上の最大の脅威とみなした。1900年(明治33年)、ロシアは義和団の乱に乗じて満洲を占領、権益の独占を画策した。これに対抗して日本はアメリカなどとともに満洲の各国への開放を主張し、さらにイギリスと日英同盟を結んだ。日露両国は1904年から翌年にかけて日露戦争を満洲の地で戦い、日本は戦勝国となり、南樺太割譲、ポーツマス条約で朝鮮半島における自国の優位の確保や、遼東半島の租借権と東清鉄道南部の経営権を獲得した。その後日本は当初の主張とは逆にロシアと共同して満洲の権益の確保に乗り出すようになり、中国大陸における権益獲得に出遅れていたアメリカの反発を招いた。駐日ポルトガル外交官ヴェンセスラウ・デ・モラエスは、「日米両国は近い将来、恐るべき競争相手となり対決するはずだ。広大な中国大陸は貿易拡大を狙うアメリカが切実に欲しがる地域であり、同様に日本にとってもこの地域は国の発展になくてはならないものになっている。この地域で日米が並び立つことはできず、一方が他方から暴力的手段によって殲滅させられるかもしれない」との自身の予測を祖国の新聞に伝えている。1911年から1912年にかけての辛亥革命により満洲族による王朝は打倒され(駆除韃虜)、漢民族による共和政体中華民国が成立したが、清朝が支配領域としていた満洲・モンゴル・トルキスタン・チベットなど周辺地域の政情および法的地位は不安定となり、1911年にモンゴルは独立を宣言、1913年にはチベット・モンゴル相互承認条約が締約されチベット・モンゴルは相互に独立承認を行った。日本は日露戦争後の1905年に日清協約、1909年には間島協約において日清間での権益・国境線問題について重要な取り決めをおこなっていたが、中華民国成立によりこれらを含む過去の条約の継承問題が発生していた。第一次世界大戦に参戦した日本は1914年(大正3年)10月末から11月にかけイギリス軍とともに山東半島の膠州湾租借地を攻略占領し(青島の戦い)その権益処理として対華21カ条要求を行い、2条約13交換公文からなる取り決めを交わした。この中に南満洲及東部内蒙古に関する条約など、満蒙問題に関する重要な取り決めがなされ、満洲善後条約や満洲協約、北京議定書・日清追加通商航海条約などを含め日本の中国特殊権益が条約上固定された。日本と中華民国によるこれら条約の継続有効(日本)と破棄無効(中国)をめぐる争いが宣戦布告なき戦争へ導くこととなる。1917年(大正6年)、第一次世界大戦中にロシア革命が起こり、ソビエト連邦が成立する。旧ロシア帝国の対外条約のすべてを無効とし継承を拒否したソビエトに対し、第一次世界大戦に参戦していた連合国は「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分により干渉戦争を開始した(シベリア出兵)。日本はコルチャク政権を支持しボリシェヴィキを攻撃したが、コルチャク政権内の分裂やアメリカを初めとする連合国の撤兵により失敗。共産主義の拡大に対する防衛基地として満洲の重要性が高まり、満蒙は「日本の生命線」と見なされるようになった。とくに1917年及び1919年のカラハン宣言は人民によりなされた共産主義政府であるソビエトが旧ロシア帝国の有していた対中権益(領事裁判権や各種条約による治外法権など)の無効・放棄を宣言したものであり、孫文をはじめとした中華民国政府を急速に親ソビエト化させ、あるいは1920年には上海に社会共産党が設立され、のち1921年の中国共産党第一次全国代表大会につながった。第一次国共合作により北伐を成功させた蒋介石の南京国民政府は、1928年7月19日に一方的に日清通商航海条約の破棄を通告し、日本側はこれを拒否して継続を宣言したが、中国における在留日本人(朝鮮人含む)の安全や財産、及び条約上の特殊権益は重大な危機に晒されることになった。満洲は清朝時代には「帝室の故郷」として漢民族の植民を強く制限していたが、清末には中国内地の窮乏もあって直隷・山東から多くの移民が発生し、急速に漢化と開拓が進んでいた。清末の袁世凱は満洲の自勢力化をもくろむとともに、ロシア・日本の権益寡占状況を打開しようとした。しかしこの計画も清末民初の混乱のなかでうまくいかず、さらに袁の死後、満洲で生まれ育った馬賊上がりの将校・張作霖が台頭、張は袁が任命した奉天都督の段芝貴を追放し、在地の郷紳などの支持の下軍閥として独自の勢力を確立した。満洲を日本の生命線と考える関東軍を中心とする軍部らは、張作霖を支持して満洲における日本の権益を確保しようとしたが、叛服常ない張の言動に苦しめられた。また、日中両軍が衝突した1919年の寛城子事件(長春事件)では張作霖の関与が疑われたが日本政府は証拠をつかむことができなかった。さらに中国内地では蒋介石率いる中国国民党が戦力をまとめあげて南京から北上し、この影響力が満洲に及ぶことを恐れた。こうした状況のなか1920年3月には、外満洲のニコラエフスク(尼港)で赤軍と協力した中華民国海軍(中国艦隊)によって日本軍守備隊の殲滅と居留民が虐殺される尼港事件が起き、満洲が赤化されていくことについての警戒感が強まった。1920年代後半から対ソ戦の基地とすべく、関東軍参謀の石原莞爾らによって万里の長城以東の全満洲を中国国民党の支配する中華民国から切り離し、日本の影響下に置くことを企図する主張が現れるようになった。1928年(昭和3年)5月、中国内地を一時押さえていた張作霖が国民革命軍に敗れて満洲へ撤退した。田中義一首相ら日本政府は張作霖への支持の方針を継続していたが、高級参謀河本大作ら現場の関東軍は日本の権益の阻害になると判断し、独自の判断で張作霖を殺害したとされる(張作霖爆殺事件)。河本らは自ら実行したことを隠蔽する工作を事前におこなっていたものの、報道や宣伝から当初から関東軍主導説がほぼ公然の事実となってしまい、張作霖の跡を継いだ張学良は日本の関与に抵抗し楊宇霆ら日本寄りの幕僚を殺害、国民党寄りの姿勢を強めた。このような状況を打開するために関東軍は、1931年(昭和6年)9月18日、満洲事変(柳条湖事件)を起こして満洲全土を占領した。張学良は国民政府の指示によりまとまった抵抗をせずに満洲から撤退し、満洲は関東軍の支配下に入った。日本国内の問題として、世界恐慌や昭和恐慌と呼ばれる不景気から抜け出せずにいる状況があった。明治維新以降、日本の人口は急激に増加しつつあったが、農村、都市部共に増加分の人口を受け入れる余地がなく、1890年代以後、アメリカやブラジルなどへの国策的な移民によってこの問題の解消が図られていた。ところが1924年(大正13年)にアメリカで排日移民法が成立、貧困農民層の国外への受け入れ先が少なくなったところに恐慌が発生し、数多い貧困農民の受け皿を作ることが急務となっていた。そこへ満洲事変が発生すると、当時の若槻禮次郎内閣の不拡大方針をよそに、国威発揚や開拓地の確保などを期待した新聞をはじめ国民世論は強く支持し、対外強硬世論を政府は抑えることができなかった。柳条湖事件発生から4日後の1931年9月22日、関東軍の満洲領有計画は陸軍首脳部の反対で独立国家案へと変更された。参謀本部は石原莞爾らに溥儀を首班とする親日国家を樹立すべきと主張し、石原は国防を日本が担い、鉄道・通信の管理条件を日本に委ねることを条件に満蒙を独立国家とする解決策を出した。現地では、関東軍の工作により、反張学良の有力者が各地に政権を樹立しており、9月24日には袁金鎧を委員長、于冲漢を副委員長として奉天地方自治維持会が組織され、26日には煕洽を主席とする吉林省臨時政府が樹立、27日にはハルビンで張景恵が東省特別区治安維持委員会を発足した。翌1932年2月に、奉天・吉林・黒龍江省の要人が関東軍司令官を訪問し、満洲新政権に関する協議をはじめた。2月16日、奉天に張景恵、臧式毅、煕洽、馬占山の四巨頭が集まり、張景恵を委員長とする東北行政委員会が組織された。2月18日には「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」と、満洲の中国国民党政府からの分離独立が宣言された。1932年3月1日、上記四巨頭と熱河省の湯玉麟、内モンゴルのジェリム盟長チメトセムピル、ホロンバイル副都統の凌陞が委員とする東北行政委員会が、元首として清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を満洲国執政とする満洲国の建国を宣言した(元号は大同)。首都には長春が選ばれ、新京と命名された。国務院総理(首相)には鄭孝胥が就任した。その後、1934年3月1日には溥儀が皇帝として即位し、満洲国は帝政に移行した(元号は康徳に改元)。国務総理大臣(国務院総理から改称)には鄭孝胥(後に張景恵)が就任した。一方、満洲事変の端緒となる柳条湖事件が起こると、中華民国は国際連盟にこの事件を提起し、国際連盟理事会はこの問題を討議し、1931年12月に、イギリス人の第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とするリットン調査団の派遣を決議した。1932年3月から6月まで中華民国と満洲を調査したリットン調査団は、同年10月2日に至って報告書を提出し、満洲の地域を「法律的には支那の一構成部分なりと雖も」としたものの「本紛争の根底を成す事項に関し日本と直接交渉を遂ぐるに充分なる自治的性質を有したり」と表現し、中華民国の法的帰属を認める一方で、日本の満洲における特殊権益を認め、満洲に自治政府を建設させる妥協案を含む日中新協定の締結を提案した。同年9月15日に斎藤内閣のもとで政府として満洲国の独立を承認し、日満議定書を締結して満洲国の独立を既成事実化していた日本は報告書に反発、松岡洋右を主席全権とする代表団をジュネーヴで開かれた国際連盟総会に送り、満洲国建国の正当性を訴えた。1933年2月24日の国際連盟総会での同意確認の結果、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ)、投票不参加1国(チリ)であり、国際連盟規約15条4項および6項についての条件が成立した。日本はこれを不服として1933年3月に国際連盟を脱退する。隣国かつ仮想敵国でもあったソビエト連邦は、当時はまだ国際連盟未加盟であり、リットン調査団の満洲北部の調査活動に対しての便宜を与えなかっただけでなく、建国後には満洲国と相互に領事館設置を承認するなど事実上の国交を有していたが、正式な国家承認については満洲事変発生から建国後まで終始一定しない態度を取り続けた。1935年にソ連は満洲国内に保有する北満鉄路を満洲国政府に売却した。国境に関しても日満-ソ連間に認識の相違があり、張鼓峰事件などの軍事衝突が起きている。モンゴル人民共和国との間にも国境に関して認識の相違があり、ノモンハン事件などの紛争が起きていた。1941年4月13日、日ソ中立条約がソ連と日本の間で締結され、満洲国とモンゴル人民共和国の領土保全と相互不可侵を約束するとした共同声明が出された。太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前の1941年12月4日、日本の大本営政府連絡会議は「国際情勢急転の場合満洲国をして執らしむ可き措置」を決定し、その「方針」において「帝国の開戦に当り差当り満洲国は参戦せしめず、英米蘭等に対しては満洲国は帝国との関係、未承認等を理由に実質上敵性国としての取締の実行を収むる如く措置せしむるものとす」として、満洲国の参戦を抑止する一方、在満洲の連合国領事館(奉天に米英蘭、ハルビンに米英仏蘭、営口に蘭(名誉領事館))の閉鎖を実施させた。このため、満洲国は国際法上の交戦国とはならず、満洲国軍が日本軍に協力して南方や太平洋方面に進出するということも無かった。日本の敗色が濃くなった1944年の後半に入ると、同年7月29日に鞍山の昭和製鋼所(鞍山製鉄所)など重要な工業基地が連合軍、特にイギリス領インド帝国のイギリス軍基地内に展開したアメリカ軍のボーイングB29爆撃機の盛んな空襲を受け、工場の稼働率は全般に「等しい低下を示し」(1944年当時の稼動状況記録文書より)たとしている。特に、奉天の東郊外にある「満洲飛行機」では、1944年6月には平均で70%だった従業員の工場への出勤率が、鞍山の空襲から1週間後の8月5日には26%まで低下した。次の標的になるのではという従業員の強い不安感から、稼働率の極端な下落を招くことになった。1945年2月11日にソ連、アメリカ、イギリスはヤルタ会談を開き、満洲を中華民国へ編入、北満鉄路・南満洲鉄道をソ連・中華民国の共同管理とし、大連をソビエト海軍の租借地とする見返りとして、ソ連が参戦することを満洲国政府に秘密裏に決定した。1945年5月には同盟国のドイツが降伏し、日本は1国で連合国との戦いを続けることになる。太平洋戦線では3月には硫黄島が、6月には沖縄が連合国の手に落ち、日本の敗戦は時間の問題となっていた。1945年6月、日本は終戦工作の一環として、満洲国の中立化を条件に未だ日ソ中立条約が有効であったソビエト連邦に和平調停の斡旋を求めたが、既にソ連はヤルタ会談での秘密協定に基づき、ドイツ降伏から3か月以内の対日参戦を決定していたため、日本の提案を取り上げなかった。8月8日、ソ連は1946年4月26日まで有効だった日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告し、直後に対日参戦した。ソ連軍は満洲国に対しても西の外蒙古(モンゴル人民共和国)及び東の沿海州、北の孫呉方面及びハイラル方面、3方向からソ満国境を越えて侵攻した。ソ連は参戦にあたり、直前に駐ソ日本大使に対して宣戦布告したが、満洲国に対しては国家として承認していなかったため、外交的通告はなかった。満洲国は満洲国防衛法を発動して戦時体制へ移行したが、外交機能の不備、新京放棄の混乱などにより最後まで満洲国側からの対ソ宣戦は行われなかった。一方、満洲国を防衛する日本の関東軍は、1942年以降増強が中止され、後に南方戦線などへ戦力を抽出されて十分な戦力を持っていなかったため、国境付近で多くの部隊が全滅した。関東軍首脳は撤退を決定し、新京の関東軍関係者は8月10日、憲兵の護衛付き特別列車で脱出したため、ソ連軍の侵攻で犠牲となったのは、主に満蒙開拓移民をはじめとする日本人居留民たちであった。通化への司令部移動の際に民間人の移動も関東軍の一部では考えられたが、軍事的な面から民間人の大規模な移動は「全軍的意図の(ソ連への)暴露」にあたること、邦人130万余名の輸送作戦に必要な資材、時間もなく、東京の開拓総局にも拒絶され、結果、彼らは置き去りにされ、満洲領に攻め込んだソ連軍の侵略に直面する結果になった。ソ連軍は規律が整っておらず、兵士による数多くの殺傷・強姦・略奪事件が発生した。8月14日には葛根廟事件が起こった。日本人の強引な土地収奪などから開拓団に恨みを持つ漢族による殺害事件もあり、多くの開拓者が南方へ避難した。しかし脱出不能との判断から、集団自決により命を失った者も多数にのぼった。中には、シベリアや外蒙古、中央アジア等に連行・抑留された者もいる。一方ソ連軍の侵攻を中国人や蒙古人の中には「解放」と捉える人もおり、ソ連軍を解放軍として迎え、当初関東軍と共にソ連軍と戦っていた満洲国軍や関東軍の朝鮮人・漢人・蒙古人兵士らのソ連側への離反が一部で起こったため、結果として関東軍の作戦計画を妨害することになった。皇帝溥儀をはじめとする国家首脳たちはソ連の進撃が進むと新京を放棄し、朝鮮にほど近い、通化省臨江県大栗子に避難していたが、8月15日に行われた日本の昭和天皇による「玉音放送」で戦争と自らの帝国の終焉を知った。2日後の8月17日に、国務総理大臣の張景恵が主宰する重臣会議は満洲国の廃止を決定、翌18日未明には溥儀が大栗子の地で退位の詔勅を読み上げ、満洲国は誕生から僅か13年で滅亡した。退位詔書は20日に公布する予定だったが、実施できなかった。8月19日に旧満洲国政府要人による東北地方暫時治安維持委員会が組織されたが、8月24日にソ連軍の指示で解散された。溥儀は退位宣言の翌日、通化飛行場から飛行機で日本に亡命する途中、奉天でソ連軍の空挺部隊によって拘束され、通遼を経由してソ連のチタの収容施設に護送された。そのほか、旧政府要人も8月31日に一斉に逮捕された。戦闘終了後、ソ連軍はほとんどの関東軍兵士を武装解除して捕虜とし、シベリアや中央アジアなどの強制収容所に送り、過酷な強制労働を課した。18歳から45歳までの民間人男性が収容され、65万人以上が極度の栄養失調状態で極寒の環境にさらされた。このシベリア抑留によって、25万人以上の日本人が帰国できずに死亡したといわれる。中華民国政府に協力した日本人数千名が中国共産党に虐殺された通化事件も発生した。また、一部の日本人の幼児は、肉親と死別したりはぐれたりして現地の中国人に保護され、あるいは肉親自身が現地人に預けたりして戦後も大陸に残った中国残留日本人孤児が数多く発生した。その後、日本人は新京や大連などの大都市に集められたが、日本本国への引き揚げ作業は遅れ、漸く1946年から開始された(葫芦島在留日本人大送還)。さらに、帰国した「引揚者」は、戦争で経済基盤が破壊された日本国内では居住地も無く、苦しい生活を強いられた。政府が満蒙開拓団や引揚者向けに「引揚者村」を日本各地に置いたが、いずれも農作に適さない荒れた土地で引揚者らは後々まで困窮した。満洲はソ連軍の軍政下に入り、中華民国との中ソ友好同盟条約では3か月以内に統治権の返還と撤兵が行われるはずであったが、実際には翌1946年4月までソ連軍の軍政が続き、撫順市や長春市などには八路軍が進出して中国共産党が人民政府をつくっていた(東北問題)。この間、ソ連軍は、東ヨーロッパの場合と同様に工場地帯などから持ち出せそうな機械類を根こそぎ略奪して本国に持ち帰った。1946年5月にはソ連軍は撤退し、満洲は蒋介石率いる中華民国に移譲された。中華民国政府は、行政区分を満洲国建国以前の遼寧・吉林・黒竜江の東北3省や熱河省に戻した。しかしその後国共内戦が再開され、後ろ盾であったアメリカからの軍事支援が減った中華民国軍は、ソ連からの支援を受け続けていた人民解放軍に敗北し、中華民国政府は台湾島に移転した。1948年秋の遼瀋戦役でソ連の全面的な支援を受けた中国共産党の人民解放軍が満洲全域を制圧した。毛沢東は満洲国がこの地に残した近代国家としてのインフラや統治機構を非常に重要視し、「中国本土を国民政府に奪回されようとも、満洲さえ手中にしたならば抗戦の継続は可能であり、中国革命を達成することができる」として、満洲の制圧に全力を注いだ。八路軍きっての猛将・林彪と当時の中国共産党ナンバー2・高崗が満洲での解放区の拡大を任されていた。旧満州国軍興安軍である東モンゴル自治政府自治軍は人民解放軍に編入され、チベット侵攻などに投入された。1949年に中国共産党は中華人民共和国を成立させ、満州国領だった東モンゴル地域に新たに内モンゴル自治区を設置した。満洲国時代に教育を受けた多くのモンゴル人たちは内モンゴル人民革命党に関係するものとして粛清された(内モンゴル人民革命党粛清事件)。1908年の時点で満洲の人口は1583万人だったが、満洲国が建国された1932年10月1日には2928万8千人になっていた。人口比率としては女性100に対して男性123〜125の割合で、1942年10月1日には人口は4424万2千人にまで増加していた。移民国家としての側面もあり、日本本土人以外でも、隣接する朝鮮からの移住者が増加した他、台湾人も5000人移り住んだ。国務院総務庁と治安部警務司の統計では1940年(康徳7年)10月1日の満洲国の人口は4108万0907人、男女比は120:100。国務院国勢調査では、同時期の満洲国の人口は4323万3954人、男女比は123.8:100であった。統計に開きがあるのは、警察戸口調査においては現住人口調査主義を、臨時国勢調査においては現在人口調査主義を採用したことによる。人口の構成としては、上記の「日本人」の中には、130万9千人の朝鮮人を含む。台湾人は朝鮮人に含まれている。主要都市の人口は下記のとおり。満洲国においては最後まで国籍法が制定されなかったため、満洲国籍を有する者の範囲は法令上明確にされず、慣習法により定まっているものとする学説が有力であった。国籍法が制定されなかった背景として、二重国籍を認めない日本の国籍法上、日本人入植者が「日本系満洲国人」となって日本国籍を放棄せざるを得ないこととなれば、新規日本人入植者が減少する恐れがあること、日本の統治下にあった朝鮮人を日本国民として内地人と同等に扱っていた朝鮮政策との整合性の問題や、白系ロシア人の帰化問題などがあった。1940年(康徳7年)に「暫行民籍法」(康徳7年8月1日勅令第197号)が制定され、民籍に記載された者は満洲国人民として扱われた。1931年から1932年の満洲には59万人の日本人(朝鮮・台湾籍を含む)が居住し、うち10万人は農家だった。営口では人口の25%が日本人だったという。満洲国の成立以降、日本政府は国内における貧困農村の集落住民や都市部の農業就業希望者を中心に、「満蒙開拓団」と称する満蒙開拓移民を募集した。さらに日本政府は1936年から1956年の間に、500万人の日本人の移住を計画しており、1938年から1942年の間には20万人の農業青年を、1936年には2万人の家族移住者を送り込んだ。しかし、内地からの移住計画はきわめて低調で満洲への移住者の過半が朝鮮籍日本人であり、内地から満洲に移住した家族の多くは軍関係者あるいは南満洲鉄道および附属企業関係者とその家族であった。満洲で逐次開設されていった小学校の日本人教員の募集は内地の給与の7割から17割5分増しで募集された。終戦時、ソビエト連邦が満洲に侵攻した際には、85万人の日本人移住者を抑留している。公務員や軍人を例外として、基本的にはこれらの人々は1946年から1947年にかけて段階的に日本に送還されている。建国当時日本領であった朝鮮半島から多くの朝鮮籍日本人が満洲国へ移住した。水商売や小規模商店などの事業を行うものも多かった。しかし現地の住民たちの反感を買う事例もあったという。1934年10月30日、岡田内閣は朝鮮人の移入によって失業率や治安の悪化が進んでいる日本本土を守ろうと、朝鮮人が満洲に向かうよう満洲国の経済開発を推し進めることを閣議決定している。満洲事変以前からヨーロッパにおけるユダヤ人問題に関心を持ち始めていた日本政府は、満洲国内におけるユダヤ教徒によるユダヤ人自治州を企図し、反ユダヤ政策を推進していたナチスドイツ政府に対し、その受け入れを打診していた(河豚計画)。しかしその後、日満両政府が本格的に遂行することはなく、第二次世界大戦前夜のドイツやソビエト連邦による反ユダヤ人政策を嫌い、満洲国経由でアメリカや南アメリカ諸国に亡命しようとしたユダヤ人のうち少数が満洲国に移住したにとどまった。満洲国は公式には五族協和の王道楽土を理念とし、アメリカ合衆国をモデルとして建設され、アジアでの多民族共生の実験国家であるとされた。共和制国家であるアメリカ合衆国をモデルとしていたものの、皇帝を国家元首とする立憲君主制国家である。五族協和とは、満蒙漢日朝の五民族が協力し、平和な国造りを行うこと、王道楽土とは、西洋の「覇道」に対し、アジアの理想的な政治体制を「王道」とし、満洲国皇帝を中心に理想国家を建設することを意味している。満洲にはこの五族以外にも、ロシア革命後に共産主義政権を嫌いソビエトから逃れてきた白系ロシア人等も居住していた。その中でも特に、ボリシェヴィキとの戦争に敗れて亡ぼされた緑ウクライナのウクライナ人勢力と満洲国は接触を図っており、戦前には日満宇の三国同盟で反ソ戦争を開始する計画を協議していた。しかし、1937年にはウクライナ人組織にかわってロシア人のファシスト組織(ロシアファシスト党)を支援する方針に変更し、ロシア人組織と対立のあるウクライナ人組織とは断交した。第二次世界大戦中に再びウクライナ人組織と手を結ぼうとしたが、太平洋方面での苦戦もあり、極東での反ソ武力抗争は実現しなかった。満洲国は建国の経緯もあって日本の計画的支援の下、きわめて短期間で発展した。内戦の続く中国からの漢人や、新しい環境を求める朝鮮人などの移民があり、とりわけ日本政府の政策に従って満洲国内に用意された農地に入植する日本内地人などの移民は大変多かった。これらの移民によって満洲国の人口も急激な勢いで増加した。満洲国政府は、国家元首として執政(後に皇帝)、諮詢機関として参議府、行政機関として国務院、司法機関として法院、立法機関として立法院、監察機関として監察院を置いた。国務院には総務庁が設置され、官制上は国務院総理の補佐機関ながら、日本人官吏のもと満洲国行政の実質的な中核として機能した(総務庁中心主義)。それに対し国務院会議の議決や参議府の諮詢は形式的なものにとどまり、立法院に至っては正式に開設すらされなかった。元首(執政、のち皇帝)は、愛新覚羅溥儀がつき、1937年(康徳4年)3月1日の帝位継承法制定以後は溥儀皇帝の男系子孫たる男子が帝位を継承すべきものとされた。帝位継承法の想定外の事態に備えて、満洲帝国駐箚(駐在)大日本帝国特命全権大使兼関東軍司令官との会談で、皇帝は、清朝復辟派の策謀を抑え、関東軍に指名権を確保させるため、自身に帝男子孫が無いときは、日本の天皇の叡慮によって帝位継承者を定める旨を皇帝が宣言することなどを内容とした覚書などに署名している。1932年(大同元年)の建国時には首相(執政制下では国務院総理、帝政移行後は国務総理大臣)として鄭孝胥が就任し、1935年(康徳2年)には軍政部大臣の張景恵が首相に就任した。しかし実際の政治運営は、満洲帝国駐箚大日本帝国特命全権大使兼関東軍司令官の指導下に行われた。元首は首相や閣僚をはじめ官吏を任命し、官制を定める権限が与えられたが、関東軍が実質的に満洲国高級官吏、特に日本人が主に就任する総務庁長官や各部次長(次官)などは、高級官吏の任命や罷免を決定する権限をもっていたので、関東軍の同意がなければこれらを任免することができなかった。公務員の約半分が日本内地人で占められ、高い地位ほど日本人占有率が高かった。関東軍は満洲国政府をして日本内地人を各行政官庁の長・次長に任命させてこの国の実権を握らせた。これを内面指導と呼んだ(弐キ参スケ)。これに対し、石原莞爾は強く批難していた。しかし、台湾人(満洲国人)の謝介石は外交部総長に就任しており、裁判官や検察官なども日本内地人以外の民族から任用されるなど、日本内地人以外の民族にも高位高官に達する機会がないわけではなかった。以上の事実に鑑み、日本内地人が圧倒的優位に立つ植民地的国家であったという評価がされることが多い。その一方で、日本内地人以外の諸民族も一定の地位を占めたことを重視して、五族協和と王道楽土の建前がある程度は実現されていたという評価もある。憲法に相当する組織法には、一院制議会であるとして立法院の設置が規定されていたが選挙は一度も行われなかった。政治結社の組織も禁止されており、満洲国協和会という官民一致の唯一の政治団体のみが存在し、政策の国民への浸透や国政の指導を執り行った。憲法に相当する組織法や人権保護法を始めとして、日本に倣った法制度が整備された。当時の日本法との相違としては人権保護法において法の下の平等が保障されたこと、組織法において、各閣僚や合議体としての内閣ではなく、首相個人が皇帝の輔弼機関とされたこと、刑法における構成要件はほぼ同様であるが、法定刑が若干日本刑法より重く規定されていること、検察機構が裁判所から分離した独自の機関とされたことなどが挙げられる。第二次世界大戦開戦前、ドイツ(1938年2月承認)やイタリア(1937年11月承認)が承認、さらに第二次世界大戦の勃発後にもフィンランドをはじめとする枢軸国、タイ王国などの日本の同盟国、クロアチアやスペインなどの枢軸国の友好国、ドイツの占領下にあったデンマークなど、合計20か国が満洲国を承認した。なお、1939年(昭和14年)当時の世界の独立国は60か国未満であった。満洲国は上記の国のうち、日本と南京国民政府に常駐の大使を、ドイツとイタリアとタイに常駐の公使を置いていた。東京に置かれていた満洲国大使館は麻布区桜田町50(現在の港区元麻布)にあり、ここは日中国交正常化後、中華人民共和国大使館に代わった。満洲国は正式な外交関係が樹立されていない諸国とも事実上の外交上の交渉接点を複数保有していた。満洲国領内には奉天・ハルピンにはアメリカとイギリスの総領事館、ハルピンにはソ連とポーランドの総領事館など13の未承認国の総領事館が設置されていた。ソビエト連邦とは満洲国建国直後から事実上の国交があり、イタリアやドイツよりも長い付き合いが存在した。満洲国が1928年の「ソ支間ハバロフスク協定」にもとづき在満ソビエト領事館の存続を認めるとソ連は極東ソ連領の満洲国領事館の設置を認め、ソ連国内のチタとブラゴヴェシチェンスクに満洲国の領事館設置を認めた。さらに日ソ中立条約締結時には「満洲帝国ノ領土ノ保全及不可侵」を尊重する声明を発するなど一定の言辞を与えていたほか、北満鉄道讓渡協定により北満鉄道(東清鉄道から改称)を満洲国政府に譲渡するなど、満洲国との事実上の外交交渉をおこなっていた。満洲国を正式承認しなかったドミニカ共和国やエストニア、リトアニアなども満洲国と国書の交換を行っていた。バチカン(ローマ教皇庁)は、教皇使節 (Apostolic delegate) を満洲国に派遣していた。国交を樹立した国に外交使節を派遣したほか、経済部大臣の韓雲階を団長にした「満洲帝国修好経済使節団」がイタリアやバチカン、ドイツやスペインなどの友好国を訪問し、ピウス12世やベニート・ムッソリーニ、アドルフ・ヒトラーらと会談ている。また1943年(康徳10年)に東京で開催された大東亜会議にも張景恵国務総理大臣が参加している。1941年(康徳8年)にはハンガリーやスペインとともに防共協定に加わっている。一方、満洲国は日独伊三国同盟には加盟しておらず、第二次世界大戦においても連合国への宣戦布告は行っていない。しかしながら日本と同盟関係を結び日本軍(関東軍)の駐留を許すほか、軍の主導権を握る位置に日本人が多数送られていた上に、軍備の多くが日本から提供もしくは貸与されているなど、軍事上は日本と一体化しており実質的には枢軸国の一部であったとも解釈できる。満洲国の国軍は、1932年(大同元年)4月15日公布の陸海軍条例(大同元年4月15日軍令第1号)をもって成立した。日満議定書によって日本軍(関東軍)の駐留を認めていた満洲国自体の性質上もあり、「関東軍との連携」を前提とし、当初は「国内の治安維持」「国境周辺・河川の警備」を主任務とした軍隊というよりは関東軍の後方支援部隊、或いは警察軍や国境警備隊としての性格が強かった。後年、大東亜戦争の激化を受けた関東軍の弱体化・対ソ開戦の可能性から実質的な国軍化が進められたが、ソ連対日参戦の際は所轄上部機関より離反してソ連側へ投降・転向する部隊が続出し、関東軍の防衛戦略を破綻させた。政府主導・日本資本導入による重工業化、近代的な経済システム導入、大量の開拓民による農業開発などの経済政策は成功を収め、急速な発展を遂げるが、日中戦争(日華事変)による経済的負担、そしてその影響によるインフレーションは、満洲国体制に対する満洲国民の不満の要因ともなった。政府の指導による計画経済が基本政策で、企業間競争を排するため、一業界につき一社を原則とした。三井財閥や三菱財閥の財閥系企業をはじめとする多くの日本企業が進出したほか、国交樹立していたドイツやイタリアの企業であるテレフンケンやボッシュおよびフィアットも進出していた。なお、日産コンツェルンは1937年(康徳4年)に持株会社の日本産業を満洲に移転し、満洲重工業開発(満業)を設立している。さらに国交のないアメリカの大企業であるフォード・モーターやゼネラルモーターズおよびクライスラーやゼネラル・エレクトリック等、イギリスの香港上海銀行なども進出し、1941年7月に日英米関係が悪化するまで企業活動を続けた。法定通貨は満州中央銀行が発行した満州国圓(圓、yuan)で、1圓=10角=100分=1000厘だった。当時の中華民国や現在の中華人民共和国の通貨単位も圓(元、yuan)で同じだが、中華民国の通貨が「法幣」と呼ばれたのに対し、満洲国の通貨は「国幣」と呼ばれて区別された。当時の中華民国の銀圓・法幣(及び現在の人民元、台湾元、香港元)と同様、中国語では「圓」を「元」と略記していたが、満洲国内及び日本では満洲国の通貨を「圓」、中華民国の通貨を「元」と表記して区別した。国幣は中華民国の通貨と同じく銀本位制でスタートし、現大洋(袁世凱弗、孫文弗と呼ばれた銀圓)と等価とされたが、1935年11月に日本円を基準とする管理通貨制度に移行した。このほか主要都市の満鉄付属地を中心に、関東州の法定通貨だった朝鮮銀行発行の朝鮮券も使用されていたが、1935年(昭和10年)11月4日に日本政府が「満洲国の国幣価値安定及幣制統一に関する件」を閣議決定したことにより、満洲国内で流通していた日本側銀行券は回収され、国幣に統一された。満洲国崩壊後もソ連軍の占領下や国民政府の統治下で国幣は引き続き使用されたが、1947年に中華民国中央銀行が発行した(東北流通券)に交換され、流通停止となった。満洲国建国以前の貨幣制度は、きわめて混乱していた。すなわち銅本位の鋳貨(制銭、銅元)および紙幣(官帖、銅元票)、銀本位の鋳貨(大洋銭、小洋銭、銀錠)および紙幣(大洋票、小洋票、過爐銀、私帖)があり、うち不換紙幣が少なくなかった。ほかに外国貨幣である円銀、墨銀、日本補助貨、日本銀行券、金票(朝鮮銀行券)、鈔票(横浜正金銀行発行の円銀を基礎とした兌換券)などが流通し、購買力は一定せず、流通範囲は一様でなかった。満洲国建国直後に満洲中央銀行が設立されるとともに旧紙幣の回収整理が開始され、1935年(康徳2年)8月末までにほとんどすべてが回収された。こうして貨幣は国幣に統一され、鈔票の流通は関東州のみとなり、その額は小さく、金票は1935年(康徳2年)11月4日の満洲国幣対金円等値維持に関する日満両国政府による声明以来、金票から国幣に換えられることが増えて、満鉄、関東州内郵便局および満洲国関係の諸会社の国幣払実施とあいまって国幣の使用範囲は広がった。国幣は円単位で、純銀 23.91g の内容を有すると定められたが、本位貨幣が造られないためにいわば銀塊本位で、兌換の規定が無いために変則の制度であった。貨幣は百圓、十圓、五圓、一圓、五角の紙幣、一角、五分、一分、五厘の鋳貨(硬貨)が発行され、紙幣は無制限法貨として通用された。紙幣は満洲中央銀行が発行し、正貨準備として発行額に対して3割以上の金銀塊、確実な外国通貨、外国銀行に対する金銀預金を、保証準備として公債証書、政府の発行または保証した手形、その他確実な証券または商業手形を保有すべきことが命じられた。後に鋳貨の代用として一角、五分の小額紙幣が発行された。中華郵政が行っていた郵便事業を1932年7月26日に接収し、同日「満洲国郵政」(帝政移行後は「満洲帝国郵政」)による郵政事業が開始された。中華郵政は満洲国が発行した切手を無効としたため、1935年から1937年までの期間、中国本土との郵便物に添付するために国名表記を取り除き「郵政」表記のみとした「満華通郵切手」が発行されていた。同郵政が満洲国崩壊までに発行した切手の種類は159を数え、記念切手も多く発行した。日本との政治的つながりを宣伝する切手も多く、1935年の「皇帝訪日紀念」や1942年の「満洲国建国十周年紀念」・「新嘉坡(シンガポール)陥落紀念」・「大東亜戦争一周年紀念」などの記念切手は日本と同じテーマで切手を発行していた。1944年の「日満共同体宣伝」のように、中国語の他に日本語も表記した切手もあった。郵便貯金事業も行っており、1941年には「貯金切手」も発行している。満洲国で最後の発行となった郵便切手は、1945年5月2日に発行された満洲国皇帝の訓民詔書10周年を記念する切手である。予定ではその後、戦闘機3機を購入するための寄附金付切手が発行を計画されていたが、満洲国崩壊のために発行中止となり大半が廃棄処分になった。だが第二次世界大戦後、満洲に進駐したソ連軍により一部が流出し、市場で流通している。日本は内地及び朝鮮を除いてアヘン(阿片)専売制と漸禁政策を採用しており、満洲地域でもアヘン栽培は実施されていた。名目上はモルヒネ原料としての薬事処方方原料の栽培だが、これらアヘン栽培が馬賊の資金源や関東軍の工作資金に流用され、上海などで売りさばかれた。1932年(大同元年)に阿片法(大同元年11月30日教令第111號)が制定され、アヘンの吸食が禁止された。ただし未成年者以外のアヘン中毒者で治療上必要がある場合は、管轄警察署長の発給した証明書を携帯した上で政府の許可を受けた阿片小売人から購入することができた。日本の半官半民の国策会社・南満洲鉄道(満鉄)は、ロシアが敷設した東清鉄道南満州支線を日露戦争において日本が獲得して設立されたが、満洲国の成立後は特に満洲国の経済発展に大きな役割を果たした。同社は満洲国内における鉄道経営を中心に、フラッグ・キャリアの満洲航空、炭鉱開発、製鉄業、港湾、農林、牧畜に加えてホテル、図書館、学校などのインフラストラクチャー整備も行った。新京〜大連・旅順間を本線として各地に支線を延ばしていた。「超特急」とも呼ばれた流線形のパシナ形蒸気機関車と専用の豪華客車で構成される特急列車「あじあ」の運行など、主に日本から導入された南満洲鉄道の車両の技術は世界的に見ても高いレベルにあった。一方、満洲国成立前から満鉄に対抗して中国資本の鉄道会社が満鉄と競合する鉄道路線の建設を進めていた。これらの鉄道会社は、満洲国成立後に公布された「鉄道法」に基づいて国有化され、満洲国有鉄道となった。しかし満洲国鉄による独自の鉄道運営は行われず、即日満鉄に運営が委託されて、実際には満洲国内のほぼすべての鉄道の運営を満鉄が担うことになった。新規に建設された鉄道路線、1935年にソビエト連邦との交渉の末に満洲国に売却された北満鉄路(東清鉄道)など私鉄の接収・買収路線も全て満洲国鉄に編入され、満鉄が委託経営を行っていた。特に新規路線は建設から満鉄に委託と、「国鉄」とは名ばかりで全てが満鉄にまかせきりの状況であった。この他にも満鉄は朝鮮半島の朝鮮総督府鉄道のうち、国境に近い路線の経営を委託されている。車両などは共通のものが広く使われていたが、運賃の計算などでは満鉄の路線(社線)と満洲国鉄の路線(国線)に区別が設けられていた。しかしこれも後に旅客規程上は区別がなくなり、事実上一体化した。満鉄は単なる鉄道会社としての存在にとどまらず、沿線各駅一帯に広大な南満洲鉄道附属地(満鉄附属地)を抱えていた。満鉄附属地では満洲国の司法権や警察権、徴税権、行政権は及ばず、満鉄がこれらの行政を行っていた。首都新京特別市(現在の長春市)や奉天市(現在の瀋陽市)など主要都市の新市街地も大半が満鉄附属地だった。都市在住の日本人の多くは満鉄附属地に住み、日本企業も満鉄附属地を拠点として治外法権の特権を享受し続け、満洲国の自立を阻害する結果となったため、1937年に満鉄附属地の行政権は満洲国へ返還された。満鉄・国鉄の他にも、領内には小さな私鉄がいくつも存在した。これらの中には国有化され、改修されて満洲国鉄の路線となったものや、満洲国鉄が並行する路線を敷設したために補償買収されてから廃止になったものもある。以下に満洲国が存在した時期に一貫して私鉄であったものを挙げる(※印は補償買収後に廃止になった路線)。1940年前後から、満鉄が請負の形で積極的にこれら私鉄の建設に携わるようになり、戦争末期の頃には相当数の路線が満鉄の手によって建設されるようになっていた。ただしその多くが竣工する前、竣工しても試運転をしただけの状態で満洲国崩壊に遭って建設中止となり、未成線になっている。この他、首都・新京を始めとして奉天・哈爾濱など主要都市の市内には路面電車が敷設されていた。新京及び奉天では地下鉄建設計画もあったが、実現しなかった。1931年に南満洲鉄道の系列会社として設立されたフラッグ・キャリアの満洲航空が、新京飛行場を拠点に満洲国内と日本(朝鮮半島を含む)を結ぶ定期路線を運航していた。中島AT-2やユンカースJu 86、ロッキード L-14 スーパーエレクトラなどの外国製旅客機の他にも、自社製の満洲航空MT-1や、ライセンス生産したフォッカー スーパーユニバーサルなどで満洲国内の主都市を結んだ他、新京とベルリンを結ぶ超長距離路線を運航することを目的とした系列会社である国際航空を設立した。満洲航空は単なる営利目的の民間航空会社ではなく、民間旅客、貨物定期輸送と軍事定期輸送、郵便輸送、チャーター便の運行や測量調査、航空機整備から航空機製造まで広範囲な業務を行った。電話・ファックスなどの通信業務やラジオ放送業務も、1933年に設立された満洲電信電話(MTT)に統合された。放送局はハルビン、新京、瀋陽などに置かれており、ロシア人を中心に作られたハルビン交響楽団、後に日本人を中心に作られた新京交響楽団による音楽演奏も毎週これら放送局だけでなく、日本租借地にある大連放送局へも中継された。聴取者から聴取料を徴収していたが、内地に先駆けて広告も扱っており、また海外へ外国語による放送も行われていた。「満語」と称された標準中国語と日本語が事実上の公用語として使用された。軍、官公庁においては日本語が第一公用語であり、ほとんどの教育機関で日本語が教授言語とされた。モンゴル語、ロシア語などを母語とする住民も存在した。また、 簡易的な日本語として協和語もあった。"高等教育機関については 満州国・関東州の高等教育機関を参照。"満洲国の教育の根本は、儒教であった。教育行政は、中央教育行政機関は文教部であり、文教部大臣は教育、宗教、礼俗および国民思想に関する事項を掌理した。大臣の下には次長が置かれ、さらに部内は総務、学務および礼教の3司に分けられ、それぞれ司長が置かれた。総務司は秘書、文書、庶務および調査の4科に、学務司は総務、普通教育および専門教育の3科に、礼教司は社会教育および宗教の2科に分けられ、それぞれ教育行政を掌した。視学機関は、督学官が置かれた。地方教育行政は、各省では省公署教育庁が、特別市では市政公署教育科が、各県では県公署教育局が、それぞれ管内の教育行政を司った。最高学府として建国大学の他、国立大学の大同学院、ハルピン学院などが設置された。小学校は、修業年限は6年で、初級小学校4年+高級小学校2年とするのが本体であったが、初級小学校のみを設けることも認められた。教育科目は、初級小学校は修身、国語、算術、手工、図画、体操および唱歌であり、高等小学校は、初級小学校のそれのほかに歴史、地理および自然の3科目が加えられ、その地方の特状によっては日本語をも加えられた。後に、初級小学校は国民学校、高級小学校は国民優級学校にそれぞれ改称された。教科書は、建国以前に用いられていた三民主義教科書に代わってあらたに国定教科書が編纂された。僻地では、寺子屋ふうの「書房」がなおも初等教育機関として残されていた。中学校は、初級および高級の2段階で、修業年限はそれぞれ3年で、併置されるのが原則で、初級中等には小学校修了者を入学させた。教科目は初級は国文、外国語、歴史、地理、自然科、生理衛生、図画、音楽、体育、工芸(農業、工業、家事の1科)および職業科目で、一定範囲の選択科目制度が認められ、高級は普通科、師範科、農科、工科、商科、家事科その他に分かれ、その教育は職業化されていた。師範教育は、小学校教員は、省立師範学校および高級中学師範科で、養成された。省立師範学校は修業年限3年、初級中学校卒業者を入学させた。普通科目のほかに教育、心理その他を課し、最上級の生徒は付属小学校その他の小学校で教生として教育実習を行った。ほか実業教育機関として職業学校があった。1928年に南満洲鉄道が広報部広報係映画班、通称「満鉄映画部」を設け、広報(プロパガンダ)用記録映画を製作していた。その後1937年に設立された国策映画会社である「満洲映画協会」が映画の制作や配給、映写業務もおこない各地で映画館の設立、巡回映写なども行った。田河水泡の当時の人気漫画「のらくろ」の単行本のうち、1937年(昭和12年)12月15日発行の「のらくろ探検隊」では、猛犬聯隊を除隊したのらくろが山羊と豚を共だって石炭の鉱山を発見するという筋で、興亜のため、大陸建設の夢のため、無限に埋もれる大陸の宝を、滅私興亜の精神で行うという話が展開された。序の中で、「おたがひに自分の長所をもって、他の民族を助け合って行く、民族協和という仲のよいやり方で、東洋は東洋人のためにという考え方がみんな(のらくろが旅の途中で出会って仲間になった朝鮮生まれの犬、シナ生まれの豚、満洲生まれの羊、蒙古生まれの山羊等の登場人物達)の心の中にゑがかれました。」とあり、当時の軍部が国民に説明していたところの「興亜」と「民族協和の精神」を知ることができる。新京の藝文社が1942年1月から、満洲国で初で唯一の日本語総合文化雑誌「藝文」を発行した。1943年11月、「満洲公論」に改題。多民族国家・満洲国では、各民族の衣装が混在していた。初代国務院総理の鄭孝胥は、生涯中国服を通したといわれる。一方、後任の張景恵は、「協和(会)服」と呼ばれる満洲国協和会の公式服を着用することが多かった。国民服に似たデザインと色だが、国民服より先に考案された。階層によって材質・デザインに違いがあったとされるが、上は国務総理大臣から下は一般学生まで、民族を問わず広く着用され、石原莞爾や甘粕正彦のような日本人の軍人・官僚・有力者も着用した。協和服には、飾緒のような金モールと、満洲国国旗と同じ色をした五色の房の儀礼章が付属した。ループタイのように首からかけて玉留めで締め、左胸に房を引っかける形で佩用する。慶事に
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