鎌倉街道(かまくらかいどう)は、各地より鎌倉に至る道路の総称。特に鎌倉時代に鎌倉政庁が在った鎌倉と各地を結んだ古道については鎌倉往還(かまくらおうかん)や鎌倉道(かまくらみち)とも呼ばれ、また鎌倉海道(かまくらかいどう)とも書く。一方で、現況の道路で「鎌倉街道」や「かまくらみち」と通称される路線も存在する。古道としての鎌倉街道とは、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網で、鎌倉幕府の御家人が有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道であり、鎌倉時代の関東近郊の主要道の意として用いられている。1192年、源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、支配力強化のために鎌倉と東国の各地域を結ぶ道路整備に力を注ぎ、次々と道路網が建設されたため、鎌倉街道は無数にあった。その中でも、鎌倉街道の幹線道は全国の国府を通り、街道沿いに守護所も置かれたが、その数はごく限られていた。主要な幹線道は、鎌倉から武蔵、上野の国府を通り、碓氷峠を越えて信濃へ行く道、東海道筋をたどる京鎌倉往還、鎌倉から甲斐とを結ぶ道、下野の国府を通って白河関を越える道、常陸の国府を通って勿来関を越えて奥州へ行く道などがあった。一方で、鎌倉街道の呼び名が一般的に用いられるようになったのは江戸時代以降で、鎌倉時代に書かれた鎌倉政庁自らの記録である『吾妻鏡』をはじめ、当時の諸文献に「鎌倉街道」の呼び名は見られず、江戸時代の書物である『新編武蔵風土記』や『江戸名所図会』(江戸名所圖會)などに鎌倉街道が散見されている。『吾妻鏡』で「鎌倉との往還道」という意味で用いられている道路名には以下のようなものがある。以下に、『吾妻鏡』に記述のある道路名について解説する。なお、東海道と北陸道については各項目を参照のこと。『吾妻鏡』の文治5年7月17日の条に「東海道大将軍である千葉常胤と八田知家は、一族と常陸国および下総国の諸氏を率いて宇大、行方を経て岩城、岩崎を廻り遇隈河を渡り大手軍(頼朝軍)と合流すること」とあり、『吾妻鏡』の文治5年7月17日の条に、奥州征伐で源頼朝率いる大手軍が中路より御下向されると記述されている。鎌倉を発向した頼朝軍は下野国宇都宮(古多橋驛)、同那須(新渡戸驛)を経て白河関に至っていることから、中路とは武蔵国東部から下野国を縦断して奥州白川に至る古道と推定されている。また同じく『吾妻鏡』には、奥州平定後の記述として奥大道の文字も見え、建長8年6月2日の条に、奥大道に夜盗が出没して往来する旅人が困っているため、沿線の地頭等に警固するよう申し付けたとあり、その地頭等として以下の24名を挙げている。これら地頭等の所領を現代の自治体名で鎌倉側から並べると、神奈川県川崎市中原区上平間、川崎市幸区下平間、東京都足立区宮城、足立区伊興、埼玉県川口市本郷、川口市三ツ和、草加市谷塚、さいたま市岩槻区、久喜市、栃木県小山市、下野市薬師寺、河内郡上三川町多功、下野市児山、 宇都宮市(田川西岸の市街部)、さくら市氏家、矢板市川崎、大田原市福原、大田原市黒羽、那須郡那須町芦野となり、奥大道はこれら地域を経て奥州に至っていたものと考えられている。なお、先出の『吾妻鏡』の奥州征伐の記述によると、7月19日に鎌倉を発った頼朝軍は、中路を経て7月25日に宇都宮(古多橋驛)に到着、7月26日に宇都宮を発ち7月28日に那須(新渡戸驛)に到着、翌7月29日に白河関に至っており、各区間に要した概日数は鎌倉 - 宇都宮間約160kmが6日間、宇都宮 - 那須間約55kmが2日間であったことから、当時の中路の旅程は1日約25 - 30kmであったと見られる 。『吾妻鏡』の文治5年7月17日の条に、奥州征伐の北陸道大将軍の比企能員および宇佐美実政などが、「鎌倉から下道を経て上野国高山、小林、大胡、左貫の住人を集め越後国から出羽国に出る」と記述されており、下道は相模国から武蔵国を経て上野国に至り、さらに北で北陸道に通じていたものと推察されている。『吾妻鏡』の養和元年9月16日の条に、下野国足利庄の桐生六郎が幕府の命により追討の命が下された主人の藤原俊綱の首を取って武蔵大路よりその首を持参したとある。この武蔵大路の経路については記述が無く不明である。現在は鎌倉市中の道とする説、あるいは上州から武蔵西部経由で鎌倉に至る道(下道)や、野州から武蔵東部経由で鎌倉に至る道(中路)との推察もあるが、いずれも確実な根拠は無い。鎌倉時代に編まれた『宴曲抄』の中の歌謡「善光寺修行」には道中の地名が織りこまれており、『吾妻鏡』でいう下道の経路と推定される。由比の浜(鎌倉市由比ヶ浜) - 常葉山(鎌倉市大仏坂北西の常葉) - 村岡(藤沢市宮前を中心とした付近) - 柄沢(藤沢市柄沢付近) - 飯田(横浜市泉区上飯田町・下飯田町付近) - 井出の沢(町田市本町田) - 小山田の里(町田市小野路町) - 霞ノ関(多摩市関戸) - 恋が窪(国分寺市の東恋ヶ窪及び西恋ヶ窪) - 久米川(東村山市と所沢市との境付近) - 武蔵野(所沢市一帯の地域) - 堀兼(狭山市堀兼) - 三ツ木(狭山市三ツ木) - 入間川(狭山市を流れる入間川で右岸に宿があった) - 苦林(毛呂山町越辺川南岸の苦林宿) - 大蔵(嵐山町大蔵) - 槻川(嵐山町菅谷の南を流れる川で都幾川と合流する) - 比企が原(嵐山町菅谷周辺) - 奈良梨(小川町の市野川岸の奈良梨) - 荒川(寄居町の荒川) - 見馴川(現在の小山川) - 見馴の渡(見馴川の渡) - 児玉(本庄市児玉町児玉) - 雉が岡(本庄市児玉町八幡山) - 鏑川(藤岡市と高崎市の境を流れる) - 山名(高崎市山名町) - 倉賀野(高崎市倉賀野町) - 衣沢(高崎市寺尾町) - 指出(高崎市石原町付近) - 豊岡(高崎市の上・中・下豊岡町) - 板鼻(安中市板鼻) - 松井田(安中市松井田町松井田) - 臼井山(碓氷峠) - 離山 (軽井沢町の離山) - 追分(御代田町) - 御影新田(小諸市) - 望月(佐久市望月宿)- 布引(布引観音) - 海野(東御市海野宿)- 白鳥(東御市白鳥神社)- 岩下(上田市岩下)- 塩尻(上田市塩尻)- 坂木(坂城町 - 力石の渡し - 佐良科(千曲市稲荷山)- 姨捨(姨捨山の麓長谷寺付近) - 筑摩(千曲川) - 篠の井(長野市篠ノ井布施) - 今井神社(長野市今井) - 川中島(長野市川中島町四ッ屋) - 犀川(小市の渡し) - 安茂里(長野市安茂里) - 山王 - 後町 - 善光寺 - 吉田大銀杏(長野市吉田) - 稲積一里塚 - 多古(長野市三才) - 吉一里塚 - 黒川 - 沼辺(野尻湖) - 関川 - 新井 - 越後国府江戸時代に書かれた『江戸名所図会』の「十三」には、「堀兼の井戸」の説明文として鎌倉街道の記述がある。これによると、「堀兼の井戸は河越の南、堀兼村にあり、浅間宮の傍にあるため浅間堀兼と称されている。浅間宮の前の道は、古の鎌倉街道で、上州信州への往還道である」とされ、吾妻鏡でいう下道と推定される。江戸時代の文政年間に江戸幕府により編纂された御府内の地誌で『御府内備考』の「四十八 関口」には、「関口村」の総説として鎌倉街道の記述がある。これによると、「関口村は小石川、小日向、牛込等に隣接し、地名の起源は不明であるが、この西に宿坂という地名があり、そこは昔鎌倉街道が通り宿坂の関と言った」とされ、この鎌倉街道とは『吾妻鏡』でいう中路、奥大道と推定される。江戸時代の寛延4年に酒井忠昌により著された『南向茶話』によると、「王子村の脇に谷村という所があり、畑道の間道が昔の当国の往還道であったため鎌倉海道と呼び伝えられているそうですね、と質問した。これに対し、そのとおりです。私(酒井忠昌)もそう聞いています。この谷村という所ではそのように呼ばれており、畑道も鎌倉海道と呼ばれています。谷村の古老の方に拠れば、当国の方には池沼が多くぬかるみの土地柄のため、現在の青山百人町の西北の方、原宿という所を経て、千駄ケ谷八幡の前(この土地では今も地名の小名として「鎌倉海道」と呼んでいる)、大窪を過ぎ、高田馬場より雜司ケ谷法明寺の脇を通り、護国寺の後ろを通り、現在の中山道を横切り、谷村、滝野川村を経て、豊島村より千住の方へ向かうのが、いにしえの道筋です、とのことです。この説を考察するに、その間の道筋に三箇所も旧名鎌倉海道が残っていることから、何の根拠も無いことではありません。現在の青山百人町から真っ直ぐに相模国の小田原への往還道を俗に中道と呼び、東海道より二里近く、日本橋より相州小田原まで十八里であり、・・・(後略)」とある。鎌倉街道という言葉は江戸時代の文化・文政年間に江戸幕府により編纂された江戸および周辺地の地誌に頻用されており、江戸時代に江戸周辺の住民が鎌倉街道と口伝する道があったことが分かっている。また、現在の鎌倉街道には「上道」、「中道」、「下道」という3つの主要道があったとされているものの、これらの言葉の由来については定かではなく、唯一「中道」については『吾妻鏡』にも鎌倉時代に鎌倉から武蔵東部を経て下野、そして白河へ抜ける道を「中路」と記しており、これが「中道」の語源と推定されている。一方、現代の「上道」は吾妻鏡では「下道」、下道は「東海道」と記されており、『吾妻鏡』にはこの後者2道の語源と思しき記載は認められない。現在の鎌倉街道・上道は、江戸時代に上洛の道(上道)の一道であった中仙道(木曾街道)と並行していたことから、いつしか地元民が両者を混同し、従来の下道ではなく鎌倉街道・上道と呼ぶようになったとの推定があるほか、奈良の道が上道、中道、下道と称されていることから、鎌倉街道についてもいつしか同じように呼ばれるようになった、との説がある。以下に、現在の鎌倉街道・上道、中道、下道について記す。現在、鎌倉街道上道(かみつみち)として定説化しているのは、鎌倉から武蔵西部を経て上州に至る古道で、『吾妻鏡』にある下道である。鎌倉政庁の公式記録である『吾妻鏡』には「上道」の記述は無く、現在の鎌倉街道上道は『吾妻鏡』に下道として記録されているものに近い。上道には「上洛の道」の意味もあり、江戸時代に江戸から京に上る『上道』として整備されていた道路のひとつ中山道の存在などにより、。現在、鎌倉街道中道(なかつみち)と呼ばれているのは、鎌倉から武蔵国東部を経て下野国に至る古道で、『吾妻鏡』にある中路である。経路については、大手中路の鎌倉口として推定されているのが巨福呂坂や亀ヶ谷坂であるが、当時はこれらの道が整備されていなかった可能性もあるとし、奥州藤原氏の怨霊を鎮めるべく頼朝が建立した永福寺の位置などから、二階堂から天園に抜けるハイキングコースを推定する説もある。また、武蔵国南部の経路については、鎌倉から巨福呂坂あるいは亀ヶ谷坂を越えて戸塚方面に向かい、中山を経えて、荏田宿の付近からは、二子玉川、渋谷へ続く矢倉沢往還と同じルートとの推定もあるが、諸説ある。現在、鎌倉街道下道(しもつみち)と定説化されている道筋は、鎌倉から朝夷奈切通を越え、六浦津より房総半島に渡り、東京湾沿いに北上して下総国府、常陸国に向かうとされている。ほか、房総半島に渡らず、武蔵国側の東京湾沿いを北上する道筋をこう呼称する場合もある。鎌倉は三方を山に囲まれ、南に相模湾が面する要害の地として有意な立地であったことから、鎌倉と諸国を結ぶ街道をつなぐために、鎌倉周囲の山を掘り割って切通しが作られた。鎌倉には外部に通じる道に7カ所の切通しがつくられたことから、これらは「七切通し」とよばれ、敵の侵攻に対抗する防御を固める要所でもあった。現在云われている「古道・鎌倉街道」は、。近世以降の地元民の口伝に基づく鎌倉街道は廃れてしまったものもあるが、逆に拡幅されるなどしたものもあると推察されている。以下に現在の鎌倉街道について概説する。1996年に文化庁が選定した「歴史の道百選」には、下記の鎌倉街道が含まれている。道路の通称として、鎌倉街道と呼ばれるものには以下の路線が存在する。詳細は各項目を参照のこと。口伝により現在、鎌倉街道と呼ばれる古道・鎌倉往還道のうち、『吾妻鏡』に云う下道(現在は上道と呼ばれるもの)に相当する東京都道18号府中町田線(後述)は全体的に旧経路に平行しており、また『吾妻鏡』の中路ないし奥大道(現在は中道と呼ばれるもの)に相当する神奈川県道21号横浜鎌倉線(後述)は、小袋谷付近までは旧経路をほぼ踏襲しているが、それ以遠のルートは中道から大きく外れて横浜市中心部へ北上していると考えられている。このほかに、市道として断続的に名前が残っている箇所もある(例:横浜市の「かまくらみち」や、東村山市・小平市内などの府中街道に平行するような形態の狭い幅の道路など。その他関東各地に名称が残る)。大部分が近代の宅地開発や市街地化、道路環境整備などに伴い姿を大きく変えているが、未舗装のままや宿場の街並みが残り、かつての雰囲気を偲ばせる箇所も一部に残る。
出典:wikipedia
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