自社さ連立政権(じしゃされんりつせいけん)は、1994年6月30日から1998年6月までの自由民主党・日本社会党(1996年1月19日以降は社会民主党)・新党さきがけによる連立政権。1996年10月までは自由連合も閣外協力しており、1995年8月8日から1996年1月11日までの間は代表の德田虎雄が沖縄開発庁政務次官として政権入りしていた。1994年4月25日、8党派連立の細川内閣が倒れ、新生党の羽田内閣が成立した。しかし、新生党との折り合いの悪い与党第一党だった日本社会党は連立を離脱し、また、新党さきがけも閣外協力として政権と距離を置いた。政権は少数与党となり、事実上の予算管理内閣となった。安定政権への要望、野党に安んじられない自由民主党等の状況の中、武村正義、竹下登、野中広務などが水面下で動き、社会党を首班とし、自民党とさきがけが参加する大連立政権が構想されていった。同年6月30日、羽田内閣の総辞職に伴い、社会党委員長の村山富市が内閣総理大臣に就任し村山内閣が発足した。社会党とさきがけの政策合意に自民党が加わる形で「共同政権構想」が制作され、自社さ村山内閣の政策綱領となった。社会党とさきがけ及び自民党ハト派からなる保守系の護憲勢力が政権を主導する構想であった。イデオロギーで長年対立関係にあった衆議院第1党自民党と衆議院第2党の社会党が連立を組んだため大連立に近い政権であった。また、別の見方をすれば、1993年の第40回衆議院議員総選挙で過半数を割った自民党と、歴史的大敗をした社会党が、敗者同士で手を結び、議席を伸ばした新党を押しのけて政権を奪った野合政権ともいえる。後者の背景には、小沢一郎への反感があったものによる。実際に自社さ政権の成立を境に、これら既存政党に愛想を尽かして無党派が爆発的に増え、無党派の支持を受けて東京都知事に青島幸男が、大阪府知事に横山ノックが当選したという指摘もある。1994年6月村山内閣から1998年6月橋本内閣では、代表者会議に加えて「与党責任者会議」を設けた。新たな与党となった自民、社会、さきがけは前政権の代表者会議を非民主的と批判していた事もあって、責任者会議は複数の代表者を出席させる仕組みにした。幹事長-書記長の他に責任者会議の下部機関として与党院内総務会、与党政策調整会議の代表者も出席させた。計11人で構成した。院内総務会、政策調整会議の下部には、省庁別チーム、課題別調整会議などを設けた。これらに共通するのはメンバーの人数の半数を自民、残り半数を社会、さきがけで構成、自民党一党の賛成だけでは決定できない仕組みとしたことだった。1996年10月20日の第41回衆議院議員総選挙を終えた時既に自社さ体制は限界に近づいていた。社会党の方針転換(支持者から見れば転向)と、同年1月に決まった社会民主党への党名変更に反発して一部議員・組織が分裂していった上に、9月に社さ両党から多くの議員が離脱して民主党を結成して更に弱体化した。そして社さ両党は総選挙で大きく議席を減らし、壊滅的な打撃を受けた。また閣外協力の自由連合は全議席を失った。一方自民党は、総選挙では過半数に及ばなかったものの議席を増加させ、後に野党第1党の新進党から離党者が続出し一部が自民党に入党したため、衆院での過半数を回復した(1997年9月)。総選挙後に成立した第2次橋本内閣では、社さ両党は閣外協力に転じた。翌年には沖縄特別措置法や臓器移植法などでの与党内の不一致や、さきがけの衰退があり、また社民党は党首が土井たか子になって社会党時代の政策へと回帰したため、自民党への態度を徐々に硬化させた。また自民党は新進党内の旧公明系との連携強化を水面下で推進し始めていた。1998年6月、第18回参議院議員通常選挙を前に自民党は社さ両党との閣外協力を解消した。
出典:wikipedia
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