『東海道中膝栗毛』(とうかいどうちゅうひざくりげ)は、1802年(享和2年)から1814年(文化11年)にかけて初刷りされた、十返舎一九の滑稽本である。「栗毛」は栗色の馬。「膝栗毛」とは、自分の膝を馬の代わりに使う徒歩旅行の意である。大当たりして、今に至るまで読みつがれ、主人公の弥次郎兵衛と喜多八、繋げて『弥次喜多』は、派生する娯楽メディア類に、なお活躍している。文学的な価値とともに、文才とともに絵心のあった作者による挿絵が多く挿入され、江戸時代の東海道旅行の実状を記録する、貴重な資料でもある。本作は、弥次喜多の旅行記の形式をとる。お江戸・神田八丁堀の住人、栃面屋弥次郎兵衛(とちめんや やじろべえ)と、居候の喜多八(きたはち)は、妻と死別したり、仕事上の失敗から勤務先を解雇されるなど、それぞれの人生で思うにまかせぬ不運が続き、つまらぬ身の上に飽き果て、厄落としにお伊勢参りの旅に出ることを決意した。身上を整理して財産をふろしき包み一つにまとめ、旅立った二人は、東海道を江戸から伊勢神宮へ、さらに京都、大坂へとめぐる。2人は道中で、狂歌・洒落・冗談をかわし合い、いたずらを働いては失敗を繰り返し、行く先々で騒ぎを起こす。一九は1795年(寛政7年)から、職業作家として多くの黄表紙ほかを出していたが、まだ大ヒットはなかった。この滑稽本の初編は、1802年(享和2年)正月に、村田屋治郎兵衛が出版した。一九が、挿絵を描き、版下の清書もするという安直さに、乗ったらしい。名所・名物紹介に終始していた従来の紀行物と違い、旅先での失敗談や庶民の生活・文化を描いた本書は絶大な人気を博し、翌年に続編を出した。書名はそれぞれ『浮世道中 膝栗毛』『道中膝栗毛 後篇 乾坤』で、『東海道中 膝栗毛』の外題になったのは、つぎの第3編からであった。そして、『東海道中』シリーズは、1809年(文化6年)の第8編(大阪見物)で一段落したが、1814年(文化11年)に、旅立ちの発端(はじまり)の編が、追いかけて出された。序編が、最後に書かれたのである。一九は、頻繁に取材の旅をしたが、京都は未見で、『名所図会』などによったのではと言われる。狂歌が多くはさまれている。狂言、浄瑠璃、歌舞伎、浮世草子、落語、川柳などに関する彼の素養が、篇中に生かされている。長編としての一貫性がととのっているとは、言い難い。本書は初出版から完結まで何年もかかっているが、記述された弥次喜多の江戸から大坂までの旅のストーリーの時間軸は、13日間である。一九はさらに後続の『続膝栗毛』シリーズを書き、弥次喜多は、金比羅、宮嶋、木曾、善光寺、草津温泉、中山道へと膝栗毛する。『続膝栗毛』1810年(文化7年)から1822年(文政5年)にかけて刊行され21年後にようやく完結した。さらに日光東照宮に向かう『続々膝栗毛』も書かれたが、こちらは作者の死去により未完に終わった。出版の経年的なデータを、次節にまとめる。版元は、第4編まで『通油町 村田屋治郎兵衛』であったが、第5 - 8編には、江戸の『本石町二丁目 西村源六』・『通油町 靏(鶴)屋喜右衛門』と、大阪の『心斎橋唐物町 河内屋太助』も加わり、後発の『発端』のそれは、『馬喰町二丁目角 西村屋與八』であった。『通油町』は、現在の中央区日本橋大伝馬町である。挿絵は、『発端』の喜多川式麿のほかは、ほとんど一九の自画である。1809年(文化6年)発行の第8編末の広告に、「版木が減ったので、初編を再板」する旨が、すでに記されている。ヒット作ゆえに、古版木を加工したり、版木を彫りなおしたりの異本は多く、1862年(文久2年)の改版が知られ、その後も翻刻が重ねられて来た。『東海道中膝栗毛』からヒントを得た作品に、次などがある。ウェブ情報のほか、上記『最近の出版』、『原著』の項の、図書3冊。および、
出典:wikipedia
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