柔道(じゅうどう)は、「柔」(やわら)の術を用いての徳義涵養を目的とした芸道、武道のことである。現代では、その修養に用いられる嘉納治五郎流・講道館流の柔術技法を元にした理念を指して「柔道」と呼ぶことが一般化している。柔道は、投げ技、固め技、当身技を主体とする武術・武道、そしてそれを元にした社会教育的な大系となっている。なお、本項では1を詳述する。
柔道(じゅうどう)、日本伝講道館柔道(にほんでんこうどうかんじゅうどう)は、幼少時代から柔術修行に打ち込んだ嘉納治五郎が様々な流派を研究してそれぞれの良い部分を取り入れ、さらに自らの創意と工夫を加えた技術体系の「柔よく剛を制す」という心身の力をもっとも有効に活用した原理を完成させ、1882年(明治15年)にその考察から創始した武道である。古武道の柔術から発展した武道で、投げ技、固め技、当身技を主体とした技法を持つ。明治時代に警察や学校に普及し、第二次大戦後には国際柔道連盟の設立やオリンピック競技に採用されるなど広く国際化に成功している。多くの国では「Judo=講道館柔道」となっているため、今日では単に「柔道」と言えばこの柔道を指す。今日ではスポーツ競技・格闘技にも分類されるが、講道館柔道においては「精力善用」「自他共栄」を基本理念とし、競技における単なる勝利至上主義ではなく、身体・精神の鍛錬と教育を目的としている。柔道の国際統括団体国際柔道連盟では2015年8月アスタナの総会で採択された規約前文において、「柔道は1882年、嘉納治五郎によって創始されたものである」と謳っている。古くは、12世紀以降の武家社会の中で武芸十八般と言われた武士の合戦時の技芸である武芸が成立し、戦国時代が終わって江戸時代にその中から武術の一つとして柔術が発展した。また、捨身技を中心として他に中(=当身技)なども伝えていた起倒流柔術を稽古した。天神真楊流と起倒流柔道の乱捕技を基礎に、起倒流の稽古体験から「崩し」の原理をより深く研究して整理体系化したものを、これは修身法、練体法、勝負法としての修行面に加えて人間教育の手段であるとして柔道と名付け、明治15年(1882年)、東京府下谷にある永昌寺という寺の書院12畳を道場代わりとして「講道館」を創設した。もっとも、寺田満英の起倒流と直信流の例や、滝野遊軒の弟子である起倒流五代目鈴木邦教が起倒流に鈴木家に伝わるとされる「日本神武の伝」を取り入れ柔道という言葉を用いて起倒流柔道と称した例などがあり、「柔道」という語自体はすでに江戸時代にあったため、嘉納の発明ではない。嘉納は「柔道」という言葉を名乗ったが当初の講道館は新興柔術の少数派の一派であり、当時は「嘉納流柔術」とも呼ばれていた。講道館においての指導における「柔道」という言葉を使った呼称の改正には、嘉納自身の教育観・人生観、社会観、世界観などが盛り込まれており、近代日本における武道教育のはじまりといえる。柔道のまとめ採用した数々の概念・制度は以降成立する種々の近代武道に多大な影響を与えることになる。嘉納のはじめた講道館柔道は武術の近代化という点で先駆的な、そしてきわめて重要な役割を果たすことになる。その歴史的影響力、役割の大きさから柔道は武道(日本武道、日本九大武道(日本武道協議会加盟九団体))の筆頭に名を連ねている。嘉納治五郎の「柔道家としての私の生涯」(昭和3年(1928年)『作興』に連載)によれば、明治21年(1888年)頃、警視庁武術大会で主に楊心流戸塚派と試合し2〜3の引き分け以外勝ったことから講道館の実力が示されたという。また、本大会において講道館側として出場した者は、元々は天神真楊流などの他流柔術出身の実力者であった。この試合の後、三島通庸警視総監が講道館柔道を警視庁の必修科として柔術世話掛を採用した為、全国に広まっていったという(なお該当の試合については日時、場所、対戦相手、勝敗結果について明白な史料はなく、山下義韶の回想記(雑誌『キング』1929年(昭和4年)10月号)では明治19年(1886年)2月に講道館四天王の西郷四郎(小説「姿三四郎」のモデル)が好地円太郎に山嵐で勝ったという他、明治18年5月、明治19年(1886年)6月、10月説などもあり、西郷四郎の相手も昭島太郎であったという説もある)。現在も日本の警察官は柔道又は剣道(女性のみ又は合気道)が必修科目となっている。警察学校入学時に無段者の場合、在校中に初段をとるようにしなければならない。警察署では青少年の健全育成のための小中学生を対象にした柔剣道教室を開いていることも多い。日本の学校教育においては、1898年に旧制中学校の課外授業に柔術が導入された際、柔道も、必修の正課になった。太平洋戦争後、占領軍(GHQ)により学校で柔道の教授が禁止されて以降、武道は一度禁止されたが、昭和25年(1950年)に文部省の新制中学校の選択科目に柔道が採用された。次いで昭和28年(1953年)の学習指導要領で、柔道、剣道、相撲が「格技」という名称で正課の授業とされた。平成元年(1989年)の新学習指導要領で格技から武道に名称が戻された。平成24年(2012年)4月から中学校体育で男女共に武道(柔道、剣道、相撲から選択)が必修になった(中学校武道必修化)。部活動としてほとんどの中学校、高等学校に「柔道部」があり、学習指導要領に沿った形で生徒の自主的、自発的な参加による課外活動の一環としての部活動が行われている。フランスや北欧などは日本のように学校管理下、教員顧問による指導の部活動自体が殆ど無く、地域のスポーツクラブに任意で加入して、そこで柔道(や、他スポーツ)の指導、練習を受けるのが一般的となっている。民間道場での活動のほかに、企業の実業団活動が行われている。柔道がオリンピック種目となってから、企業は実業団による選手育成に力を入れ、現在は警察柔道を凌ぐ勢力となっている。柔道の試合競技は、オリンピックでは1932年のロサンゼルスオリンピックで公開競技として登場し、1964年の東京オリンピックで正式競技となる。東京オリンピックでは、無差別級でオランダのアントン・ヘーシンクが日本の神永昭夫を破って金メダルを獲得し、柔道の国際的普及を促す出来事となった。女子種目も1988年のソウルオリンピックで公開競技、1992年のバルセロナオリンピックでは正式種目に採用された。世界選手権は1956年に第1回大会が開催され、女子の大会は1980年に初開催された。日本の女子は明治26年以来長年試合が禁止され、昇段も「型」が中心であった。1979年夏に日本女子の一線級と西ドイツのジュニア選手が講道館で対戦したが、日本は一勝三敗で二人が負傷し、ドイツ選手との腕力の差は日本の柔道関係者に衝撃を与えた。現在は、世界中に普及し国際柔道連盟の加盟国・地域が199カ国もある(2007年9月現在)。日本以外では、韓国、欧州、ロシア、キューバ、ブラジルで人気が高く、特にフランスの登録競技人口は50万人を突破し、全日本柔道連盟への登録競技人口20万人を大きく上回っている。ただし、幼少期の数など両国の登録対象年齢が異なるため、この数字を単純に比較することはできない。また、この登録人口そのものに関しても一般に想起されるいわゆる柔道人口とは異なる。これは、柔道の役員、審判員、指導者、選手として公的な活動に参加するために行われる制度で全日本柔道連盟の財政的基盤でもある。日本国内では、学校体育の授業として経験した人、学生時代に選手まで経験したが現在は全く柔道着どころか試合観戦程度という人、子供と一緒に道場で汗を流しているが、段がほしいわけでも試合をするわけでもない人など、未組織の人たちがたくさんいる。講道館でも、地方在住者は初段になった段階で入門するのが通例であり、門人、有段者ではあるが、毎年、登録しているとは限らない。したがって柔道人口、登録人口、競技人口、講道館入門者数は意味合いが違うので注意する必要がある。故に「柔道人口」を把握することはほぼ不可能で、推定でしかないのが実状である。講道館柔道において稽古は、主に形と乱取りによって行われる。嘉納治五郎はこれについて「形とは、攻撃防御に関し予め守株の場合を定め、理論に基づき身体の操縦を規定し、その規定に従いて、練習するものをいう。乱取とは一定の方法によらず、各自勝手の手段を用いて練習するものをいう」と述べている。形と乱取りは別物と考えてはならない、根本の原理、その精神は変わりがないからである。また、初期の講道館における状況を嘉納は師範は、次のように述べている。「明治維新の前は柔術諸流の修行は多く形によったものである。幕府の末葉にいたって楊心流をはじめ起倒流、天神真楊流その他の諸流も盛んに乱取を教えるようになったが、当時なお形のみを教えていた流派は少なくなかった。然るに予が、講道館柔道において乱取を主とし形を従とするに至ったのは、必ずしも形を軽んじたが為ではない。まず乱取を教え、その修行の際、適当の場合に説明を加えて自然と各種の技の理論に通暁せしむるようにして、修行がやや進んだ後に形を教えるようにしたのである。その訳はあたかも語学を教える際、会話作文の間に自然と文法を説き、最後に組織を立ててこれを授くるのと同様の主旨によったのである」。また、嘉納は柔道の修行の方法を四種、「形」と「乱取り」の他に「講義」と「問答」についても挙げている。講義により、技の道理を解剖学、生理学、物理学などの観点からも学び、勝負上必要な心の修め方、心身鍛練に関する注意心掛けなどをまた学び、心理学、倫理学などの観点からも学び、それらについて時間を費やして説き及す必要性について嘉納は説く。またや勝負事があり修行者の心が勇んでいるときにはその場に適する話をし、祝日、寒稽古の開始式などにはそれ相応の講義をし、平素においては礼儀作法、人としての一般の心得など講義する必要を説く。そして問答により修行上の理解、応用を深めることの重要性について言及している。柔道の修行目的の「練体」「勝負」「修心」のうちの、徳性を涵養する、智力を練る、勝負の理論を世の百般に応用する、人間の道を講ずることを目的とする「修心法」についての内容を多く含む修行法となっている。講道館柔道の技は「投技」「固技」「当身技」の3種類に分類される。投技は天神真楊流、起倒流の乱捕技をもとにしている。固技や絞技は天神真楊流の技に由来していて、当身技は攻撃することによって受の急所に痛みを負わせたりするのに適した護身術である、とされる。投技の過程を崩し、作り、掛け、の三段階に分けて概念化したことが特徴である。またこれと平行して、一般的には、立技と寝技にも分類するが、寝技は審判規定において使われる寝姿勢における攻防のことであり、固技と同義ではない。絞技と関節技は立ち姿勢でも施すことが可能である。練習形態は形と乱取りがあり、形と乱取りは車輪の両輪として練習されるべく制定されたが、講道館柔道においては乱取りによる稽古を創始当時から重視する。嘉納師範により、当身技は危険として乱取り・試合では「投げ」「固め」のみとした。そしてスポーツとしての柔道は安全性を獲得し、広く普及していく事となった。試合で用いることができるのは、投げ技と固め技であり、講道館では96本としている。しかし、実際のポイントになる技は92本である。(当身技は形として練習される。)競技としては投技を重視する傾向が強く、寝技が軽視されてきたきらいがある。しかし、寝技を重視した上位選手や指導者らによって寝技への取り組みは強化されるようになった。またIJFルールの改正によって寝技の攻防時間が短縮し決着の早期化が計られたことと、主に外国選手による捨て身技や返し技と一体化した寝技の技法の普及によって、寝技の重要性は一層増している。投技とは理合いにしたがって相手を仰向けに投げる技術である。立って投げる立ち技と体を捨てて投げる捨身技にわけられる。立ち技は主に使用する部位によって手技、腰技、足技に分かれる。捨身技は倒れ方によって真捨身技、横捨身技に分かれる。また、関節を極めながら投げると反則ではないが投技とはみなされない。詳しくは投技を参照。固技(かためわざ)には抑込技、絞技、関節技がある。主に寝技で用いることが多いが、立ち姿勢や膝を突いた姿勢でも用いられ、固技のすべてが寝技の範疇に入るわけではない。(寝技と固技は互いに重なり合う部分が大きいとは言える。)固技のうち関節技は、肘以外はあまり採用されず、乱取や試合では肘以外に関節技をほどこすことは反則とされている。立技での関節技もほとんど行われていない。抑込技は、寝技の場面での攻防を続けるために、うつ伏せでなく、仰向けに抑えるのが特徴である。絞技は、天神真楊流から多様な方法が伝わっており、柔道を首を絞めることを許すという珍しいルールを持った競技にしている。創立当初、寝技はあまり重視されておらず、草創期に他流柔術家たちの寝技への対処に苦しめられた歴史がある。分類講道館柔道では固技が全部で29本あり、抑込技(おさえこみわざ)7本、絞技(しめわざ)12本、関節技(かんせつわざ)10本である。IJFルールでは一部異なるものがある。抑込技(7本)相手の体を仰向けにし、相手の束縛を受けず、一定時間抑える技。絞技(12本)頸部すなわち頚動脈か気管を、腕あるいは柔道着の襟で絞めて失神または「参った」を狙う技(胴絞は足でどうを絞める技で、乱取りでは禁止技である)。指や拳、帯、柔道着の裾、直接足などで絞めること及び頸椎に対して無理な力を加えることは禁止されている。関節技(10本)関節を可動域以上に曲げたり伸ばしたりして苦痛を与える技。乱取りでは肘関節のみが許されている。上記以外の技当身技は、天神真楊流の技術を踏襲している。当身技もしくは当技(あてわざ)とは、急所といわれる相手の生理的な弱点などを突く、打つ、蹴るなどの技であり、試合や乱取りでは禁止されているが、形の中で用いられる。そのため柔道では当身技が禁じ手・反則技として除外されたと思われている。講道館では極の形・柔の形、講道館護身術などに含まれる柔道の当身技について、「当身の優れたテクニック同様、こういった攻撃されやすいところ(編注:急所のこと)という認識は天神真楊流から伝えられてきたものである」としている。極の形、柔の形は精力善用国民体育の形・相対動作の元になっている。極の形は、初め天神真楊流から引き継いだ形を元にしており真剣勝負の形と呼ばれていたが、武徳会時代に嘉納治五郎を委員長とし武徳会参加全流派からの代表を委員とした日本武徳会柔術形制定委員会によって講道館の真剣勝負の形を元に長時間の白熱した議論がなされ、柔術緒流派の技を加えて柔術統一形としての今の形となった。一方、空手界側から柔道の当身技のうち精力善用国民体育の形・単独動作の当身技は唐手(現・空手)の影響を受けているという説が唱えられている点についても下に記載する。当所(用いる部位)臂(うで):脚(あし):急所急所は、天神真楊流の名称を踏襲している。天倒、霞、鳥兎、獨鈷、人中、三日月、松風、村雨、秘中、タン中、水月、雁下、明星、月影、電光、稲妻、臍下丹田、釣鐘(金的)、肘詰、伏兎、向骨。当身技は形の中で教授されるが、現在では昇級・昇段審査においても行われる事が稀である為、柔道修行者でもその存在を知らない事も多く、また指導者も少ない。嘉納治五郎の体育と当身技を合わせた論考は、明治42年7月発行『中等教育』掲載の小論「擬働体操について」にある四方蹴と四方当についての記載や、『柔道概説』(大正2年)などと続いて行き、昭和に入ってからは「攻防式国民体育」(昭和2年)として精力善用国民体育の形が発表され、『精力善用国民体育』(昭和5年)や『柔道教本』(昭和6年)等も併せて昭和2年から6年の間に発表された一連の著作で夥しい言及がなされている。研究成果は「精力善用国民体育の形」(単独動作・相対動作)としてまとめられたが、この形の制定理由について、嘉納治五郎は「私がこの国民体育を考察した理由は、一面に今日まで行われている柔道の形・乱取の欠陥を補おうとするにあるのだから、平素形・乱取を修行するものも、そこに留意してこの体育を研究もし、また実行もしなければならぬ」(昭和6年)と述べ、従来の講道館柔道の稽古体系に不足していた点を補う目的があったと述べている。精力善用国民体育の形には、単独動作と相対動作がある。下記の形は1930年(昭和5年)発行の嘉納治五郎『精力善用国民体育』による分類であるが、時期によって分類の仕方に多少の差異がある。単独動作:高蹴)。相対動作:また、この形に使用されている当身技、特に単独動作の当身技については、嘉納治五郎の唐手(現・空手)研究の成果によるものとの空手界からの指摘がある。1922年(大正11年)5月、船越義珍は文部省主催の第一回体育展覧会に唐手を紹介するために上京してくる。その第一回体育展覧会における唐手の演武の実現は船越からの頼み込みを受け、その同郷の先輩であった東京高等師範学校教授の金城三郎の懇願を通して、当時大日本体育協会名誉会長として本大会主催者であり東京高等師範学校前学校長であった嘉納治五郎の斡旋により実現したものであった。同年6月、嘉納は船越を講道館に招待して、唐手演武を参観した。その際全ての演武が終了すると、嘉納は師範席から立ち上がり、「形」の運足法や組手形の要領について鋭い質問した。当時、講道館には柔術や拳法の家系や流派出の専門家も沢山おり質問も専門的なものであった。船越と共に唐手の演武を行った儀間真謹は嘉納の質問の鋭さ、具体性に舌を巻きその際の緊張感について述懐している。嘉納が唐手に興味をもったきっかけは、1908年(明治41年)、沖縄県立中学校の生徒が京都武徳会青年大会において、武徳会の希望により唐手の型を披露としたときであったとされ、このとき「嘉納博士も片唾を呑んで注視してゐた」という。また、1911年(明治44年)、沖縄県師範学校の唐手部の生徒6名が修学旅行で上京した際、嘉納治五郎に招かれて講道館で唐手の演武、形の解説、板割りなどを行った。このときも「柔道元祖嘉納先生をして嘆賞辟易せしめた」という。これは船越が上京する11年前の出来事であった。また、嘉納が沖縄を訪問した際には、本部朝基を料理屋に招いて唐手について熱心に質問するなど、唐手に対して並々ならぬ関心を抱いていた。嘉納は、「乱取だけでは、当身の練習ができぬ」と述べ、当身技を研究した。講道館で唐手演武をした儀間真謹によれば、「この形(精力善用国民体育の形)の中には、沖縄唐手術の技法が随所に用いられている」と指摘し、その研究成果は精力善用国民体育の形としてまとめられた、と考えている。ただし、嘉納が明治42年に発表した「擬働体操」には竪板磨、四方蹴、四方当など、精力善用国民体育の形に含まれる鏡磨、五方蹴、五方当の原型とも考えられる動作が既に紹介されている。なお、嘉納の船越義珍、本部朝基、宮城長順、摩文仁賢和等への接近やその上京への斡旋、協力などを通し、1936年には唐手の名称改め空手は嘉納の斡旋によって大日本武徳会の柔道部門への入部が認められることになる。空手の本土における上陸、全国的な普及活動の糸口となったのが講道館での演武会であり、それが近代空手道の出発点となる。嘉納治五郎は、柔道形について次のように述べている。「形には色々の種類があって、その目的次第で練習すべき形が異なるべきである。勝負に重きを置いてする時は、極の形の類が大切であり、体育としても価値はあるが特に美的情操を養うというようなことを目的とする時は、古式の形とか、柔の形の類が必要である。体育を主眼とし、武術の練習、美的情操の養成および精神の修養を兼ねて行おうと思えば、精力善用国民体育に越したものはないというふうに、その目指すところによって異なった形を選択せねばならぬ。今日はあまり多くの種類はないが、形はどれほどでも増やすことが出来るものであるから、将来は特種の目的をもって行ういろいろの形が新たに出来てよいはずである」。嘉納は、目的に応じて形を新たにつくり出されること、その必要性も想定していた。現在、講道館が認定している形以外にも、例えば三船久蔵とその高弟の伊藤四男との共同研究で作られ、現在も国際武道院の昇段や日本柔道整復師会の柔道の大会においても伝えられ行われている「投技裏之形」や、伊藤四男が創意工夫した「固め技裏之形」、平野時男の考案した「投げの形(応用)」や「五(後)の先の形」などのように、歴史的に見ると個人が創意工夫し創作された形も幾つも存在する。またヨーロッパにおいては技の種別毎や、目的に応じた様々な形の創作が流行っており、研究が行われ、実演されている実態もある。。今日周知されているような体育としての柔道観、人間教育としての柔道観以上に、嘉納治五郎の柔道観は元々幅の広いものであった。嘉納は柔道修行の目的を「修心法」「体育法」「勝負法」(時に「慰心法を含む」)とし、柔道修行の順序と目的について、上中下段の柔道の考えを設けて、最初に行う下段の柔道では、攻撃防御の方法を練習すること、中段の柔道では、修行を通して身体の鍛練と精神の修養をすること、上段の柔道では終極的な目的として下段、中段の柔道の修行で得た身体精神の力を最も有効に使用して、世を補益することを狙いとした。武術としての柔術(勝負法)をベースに、体育的な方法としての乱取り及び形(体育法)、それらの修行を通しての強い精神性の獲得(修心法)を同時に狙いとしていた。その一方で嘉納は武術としての柔道について「まず権威ある研究機関を作って我が国固有の武術を研究し、また広く海外の武術も及ぶ限り調査して最も進んだ武術を作り上げ、それを広くわが国民に教へることはもちろん、諸外国の人にも教へるつもりだ」との見解を述べており、研究機関を作り世界中の武術を研究して最も進んだ武術を拵えたいとの考えも持っていた。嘉納は柔道に柔術のもつ武術性を求めていたが、しかし勝負に効き目ある手(当身技)が危険であり教えることが難しいため、従来の柔術諸流派の修行法と同じ様に「専ら形に拠って練習」 しなければならぬとした。しかし形だけではなく、そこから先へと進めた、当て身を含む乱取りも工夫すべきという考えを嘉納は早くから持ち続けた。1889年の講演「柔道一班並二其教育上ノ価値」の中において、嘉納は当身を含み対処する柔道の「勝負法の乱取り」の可能性、構想について述べている。「初めから一種の約束を定めていき又打ったり突いたりする時は手袋の様なものをはめてすれば、勝負法の乱捕も随分できぬこともない。形ばかりでは真似事のやうで実地の練習はできないから、やはり一種の乱捕があったほうがよい。」とし勝負法の技を実演している。その際、勝負法の形のうちから簡単な技として5つほど、を実演し、またその上に種々込み入った手があり大抵の場合に応ずることを目的とするものであることを説明する。嘉納は古流柔術の定義について「無手或は短き武器を持って居る敵を攻撃し又は防御するの術」とし、柔道の修行・技術についても「その修行方法は攻撃防御の練習によって身体精神を鍛錬修養し斯道の真髄を体得することである」「攻撃防御の練習、柔道でいう攻撃は、便宜上、投、固、当の三種に分けることとしている。投とは場合場合でいろいろの動作をして対手を地に倒すことをいい、固とは絞業、関節業、抑業の区別はあるが、要するに対手の体躯、頸、四肢などに拘束を加えて動けなくしまたは苦痛に耐えられぬようにすることをいい、当とは手、足、頭、時には器物または武器をもって対手の身体の種々の部分に当て苦痛を感じしめ、または死に至らしめることをいうのである。そうして防御とはこれらの攻撃に対して己を全うするために施すいろいろの動作をいうのである。」と述べている。柔道の当身の中に武器術、対武器術の概念を含むことを述べている。嘉納は理想の柔道教師の条件として、「無手は勿論、棒、剣を使う術においても攻撃防御の術に熟練し、勝負上の理論も心得、同時に体育家として必要な知識を有し、且つその方法にも修熟し、また教育家として必要な道徳教育の理論にも通暁し、訓練の方法にも達し、のみならず柔道の原理を社会生活に応用する上において精深なる知識を有し、方法をわきまえている」人物としている。嘉納の理想としての柔道の攻撃防御の修行には無手のみではなく武器術を含むものであったことが伺える。また嘉納は大正15年(1926年)、当時の機関誌「作興」に、「武術としての柔道は無手術はもちろん、剣術、棒術、槍術、弓術、薙刀その他あらゆる武術を包含する」と書き、「剣術、棒術はいずれも価値あるものと認むるが、剣術の試合の練習はすでに世間に普及しているから、差し当たり無手術の他には剣術および棒術の形をするつもりである」と述べている。嘉納はそのような修行形態を再試行する目的で、1928年に講道館内に「古武道研究会」を立ち上げ、柔、剣、棒、杖術等の古い武術の保存と柔道としての体系化への研究に進んでいる。参加メンバーの望月稔は、古武道研究会について「武術が殺傷の技術であったのに対し、武道は青少年の体育、徳育、知育に志向した教育手段として近代化されたものである。従って技術的には殺傷の技としては有効であっても、体育的には不適当と見做された多くの技が全て淘汰されてしまった。嘉納治五郎先生は大正の末期から、之に対する再検討に入られて、当時既に消滅に瀕していた古流武術の保存に力を入れられたのである」と述べている。嘉納亡き後も、嘉納の求めた「離れて行う柔道」の試行は望月稔や富木謙治などに引き継がれ、1942年に講道館2代目館長南郷次郎時代に講道館において「柔道の離隔態勢の技の研究委員会」が設置されている。中でも富木謙治による離れて行う柔道の当身と立ち関節を主体とする「離隔態勢の柔道」の研究は、講道館護身術や合気道競技(柔道第二乱取り法)などとしてまとめられることになる。また一方で嘉納の志向した武術としての柔道とは異なる流れとして、海外に渡り柔道普及活動の一環で異種格闘技を戦い名声を上げた谷幸雄や前田光世などの活躍もある。世界を戦い渡り歩いた前田光世は旅先から日本にいくつかの手紙を送っており、幾多の戦いを通しての異種格闘技戦の「セオリー」が詳細に記録されている。そこでは前田が対峙したレスリング(西洋角力)やボクシング(拳闘)に対する歴史的分析、対策、勝負時の条件等を考察している。前田はレスリング、ボクシングの油断ならない面倒であることを述べながら、同時に柔道こそ世界最高の総合的かつ実戦的な格闘技だという自負を語る。「我が柔道は西洋の相撲(WRWSTLING)や拳闘(BOXING)以上に立派なものであることは僕も確信している。拳闘は柔道の一部を用いているだけで、護身術としては幼稚なものだ。(中略)(拳闘は)個人的なゲームで、八方に敵を予想した真剣の護身術ではない。だから体育法としても精神修養法としても、また理詰めの西洋人流に科学的に立論しても、我が柔道と彼らの拳闘とは優劣同日の談にあらずである。」前田はその言説において柔道=護身術と明確に定義しており、その体系にレスリング、ボクシング技術や当て身の突きや蹴りを内包するものという主張が見受けられる。フランス柔道の父川石酒造之助の「川石メソッド」などの例からも、海外に渡った柔道家の残した柔道技術の中には現在国内においては失われたものもあることが伺える。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、世界の軍における格闘技というのは基本的に軽視されていた。戦争はほとんど砲と銃で戦う時代であり、この時代の近接戦闘と言えば主に騎兵が使う軍刀(サーベル)と、歩兵がライフルに装着(着剣)して槍のように使う銃剣で戦うことだった。しかし第一次世界大戦では、大規模な塹壕戦が繰り広げられた。塹壕内での極めて近い距離、狭い場所での戦闘が頻発したことで近距離向きの銃器や手榴弾以外に、敵に悟られないように塹壕に侵入していくことも重要だったため、音を出さない白兵戦用の武器も重視された。そうした白兵戦で敵に対処するために防御側も同様の至近距離での戦闘技術が必要となった。このため各国で近接戦闘の工夫がされていった。塹壕戦によって近い距離で戦う武器術や格闘技術が求められるようになっていったのがこの時代の最大の特徴であり、軍における訓練では近接戦闘のために既存の格闘技を取り入れるようになった。第一次大戦を境に軍隊格闘技・近接格闘術の基として注目された格闘技の一つに日本の柔道や(古流)柔術がある。そしてこの時期の徒手格闘術はボクシングや柔道が中心となっている。柔道や柔術の海外への伝播はちょうど第一次世界大戦前であり、多くの柔道家・柔術家が海外に渡って普及活動を行っている。アメリカなどでは第一次大戦前、柔術ブームとでも呼ぶべき現象が起きていた。またそこには当時、日清・日露戦争での勝利に対して世界から向けられた日本への興味、東洋趣味からの観点や、嘉納治五郎の教育者の立場からの部下にあたるラフカディオ・ハーン(小泉八雲)などによる柔道(柔術)の海外への紹介、また嘉納治五郎自身の渡欧の影響なども柔道・柔術ブームへの影響が見受けられる。アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの信頼を得て合衆国海軍兵学校の教官として講道館柔道を教えた講道館四天王の一人山下義韶(のちの史上初の十段位)などの例や、講道館柔道を学びロシアにおいてサンボの創始者となったオシェプコフの例などから、米露英仏など各国で柔道は軍隊近接格闘技要素に取り入れられていった。日本においては明治維新、柔道創設以降、陸軍士官学校、海軍兵学校等の軍学校で柔道が取り入れられ盛んに行われた。またそれとともに大日本武徳会で講道館柔道が柔術部門を統一する立場となる役割の流派として正式採用され、大日本武徳会武道専門学校で稽古が行われた。嘉納治五郎の没後、第二次世界大戦が起こり戦況が拡大するにつれ、昭和十七年に従来の大日本武徳会は改組が行われ、内閣総理大臣東条英機を会長とする大日本武徳会(新武徳会)が結成される。戦況が深刻になるにつれ、学校においても明治以来の「体操科」は新たに「体錬科」と名称を変える。政府主導の国民学校体錬科においては皇国思想の養成と戦技能力の鍛錬が求められた。体錬科の教材として「教練」、「体操」(徒手体操、跳躍、懸垂、角力(相撲)、水泳など)、「武道」(剣道、柔道、銃剣道)が課せられ、柔道と剣道は偏ることなく併せて行い、常に攻撃を主眼として行うことが説かれた。体錬科武道の柔道の内容は、「基本」として「礼法」、「構」、「体の運用」、「受身」、「当身技」が教えられ、「応用」として「極技」、「投技」、「固技」があった。この当身技は、精力善用国民体育の単独動作の技であり、極技は相対動作の技と一致している。柔道技術の中の当身技が「基本」として重視され、戦時下において、柔道は実戦を目的とした教材に変えられたと言える。大戦の終戦に伴い、日本の民主化政策の一環としてGHQとその一部局であるCIEによって「武道」の実施に対する処置が検討された。CIEは武道を軍事的な技術(Military Arts)とみなし、国民に軍国主義を養成するものとして警戒した。これに伴い武道という枠組みに位置付けられていた柔道は、剣道や弓道同様に禁止された。(武道禁止令)さらに戦時中に軍による統制を受けていた大日本武徳会も「依然軍国主義的団体としての建前をとっている」とされ解散を余儀なくされた。しかし柔道復活の陳情は相次ぎ多く、文部省による請願書によるの説明、改革案が総司令官に提出される。そこで提示された新しい柔道は、“競技スポーツ”として向かう下地があったと言える。これに対しGHQから「学校柔道の復活について」という覚書が日本政府に出され、CIEからの注意事項として「実施してよい柔道とはあくまでも大臣の請願書に規定された柔道であること」とされた上で、その復活が認められる。しかし当身技、関節技等の中で危険と思われる技術を除外する旨が請願書には含まれており、その当身技や関節技を中心に構成された精力善用国民体育は武術的色彩が強いということで行われなくなってしまうこととなる。嘉納治五郎が生前に考案し発表した精力善用国民体育は、GHQの警戒した武術的側面のみではなく、体育として徳育としても従来の柔道を補完するものであり、練習法においても単独練習を可能にするものであり、嘉納の柔道の精神、「精力善用・自他共栄」の思いを強く含むものであった。嘉納の万感の思いのこもった精力善用国民体育が、占領期間中の禁止・制限が解かれることなく占領後もなおも軽視されていることを惜しむ声はいまだにある。戦後、日本の敗戦のため行われたGHQによる占領政策としての柔道のスポーツ化の流れの一方で、再び武術・武道としての柔道の再生を求める動きとして、1950年に、その乱取り競技内においてもほぼ全ての関節技の解禁などの実験的ルールを採用した武道・武術を志向した国際柔道協会(プロ柔道)も興っている。日本伝講道館柔道の創始者である嘉納治五郎は、武術に教育的価値を見出し整備した武道のパイオニアであり、武術家としてその実績から「維新以降百年の柔術界の最高の偉人」と評される武術・柔術界の第一人者であった。それと共に、教育界における教育者としての観点からも、若くして学習院大学教頭や東京高等師範学校(のちの東京教育大学を経た現・筑波大学)校長などを歴任し、灘中学校・灘高校の設立にも尽力するなど第一人者であった。また体育面・日本体育における観点においても「日本体育の父」、「教育上、体育を尊重し、体育の地位の向上をせしめたる卓見と努力は、他に比較すべき人を見ない」と言われるように卓越した見識を持ち、アジア初のオリンピック委員、大日本体育協会初代会長などの実績からも見られるように、嘉納は武術家・武道家としての面以外にも教育者としても卓見であり、また西洋の他の格闘技や体育・体操・スポーツへの知識、造詣も深くあった。嘉納が古流柔術の修行を修め、柔道が創始された明治初期の日本では、一刻も早く欧米列強に肩を並べ対峙できるよう近代化を推し進めることが至上命令とされ、「富国強兵」「殖産興業」というスローガンによって強い国家を構築することが重要な国策となっていった。国民の「体力の向上」が国家的課題となり、それは教育界においても、いわゆる「国民体育」の概念の下で身体鍛錬が重視され、そのための具体的な内容と方法が模索され続けた。学校教育では、体育が実施されるようになり、その中心教材には欧米に倣って西洋式の体操が位置づけられた。医学・生理学に根拠を持つ体操を採用した文部省では、体操を万能とする体育観が支配的となった。明治10年代頃から国内の学校教育の場への武術の正科採用を推す声が武術家を中心に出されるようになり、ついに明治16年文部省は体操伝習所に対し剣術や柔術の教育に対する利害適否を調査するよう通達した。そこで行われた剣術、柔術への、実施、医学的検討、視察、調査の結果として、明治17年10月、体操伝習所は次のような結論を出した。二術(剣術、柔術)の利とする方害若くは不便とする方その理由からとされ、武術の正課体操教材化はならなかった。その5年後にあたる明治22年、当時29歳であった嘉納治五郎は大日本体育協会の依頼により、文部大臣榎本武揚やイタリー公使らの出席を仰ぎ、「柔道一班並ニ其ノ教育上ノ価値」と題して講演を行った。講演「柔道一班並ニ其教育上ノ価値」においては、明治17年の体操伝習所答申に沿う形で構成されており、害若しくは不便とする方として挙げられた条件を一つ一つクリアーしていく形で構成されている。そこでは講道館柔道を従来の(古流)柔術から更に進めた柔道勝負法、柔道体育法、柔道修心法の分類により、修行目的、効用、修行方法を分けて考えた上で構成された。講道館柔道では「体育、勝負(武術の真剣勝負の方法)、修心の三つの目的を持っておりまして、これを修行致しますれば体育も出来勝負の方法の練習も出来、一種の智育徳育も出来る都合になっております。」と述べて、柔道の目的として体育と勝負と修心の三つを挙げ智徳体を学べる、と説いた。講道館柔道の独自性・理論的大系・教育界における影響力は、この嘉納の講演「柔道一班並ニ其教育上ノ価値」によって公に知るところとなり、武術改め武道の教育の場における正規採用に大きな影響を与えていくことになる。「柔道一班並ニ其ノ教育上ノ価値」において、柔道体育法の効用は乱取りと形の両立で説かれる。乱取りにおいては「身体の強化」や、実践者が「興味・面白み」を得られるという点、「主体性の育成」の点から価値を説く。形においては、学校体育の主目的たる「身体の調和的発達」の観点、「乱取」を補完するものとして必要性を強調し、老若男女が実施可能なものとしてしつらえ、「大衆性」や「生涯性」を備えた体育法として位置づけた。体育法における乱取りと形に嘉納は工夫をこらすことになる。従来の乱取りは体育としての利点がある反面、初学の者が方法を誤ると運動が過激になり過ぎ危険を生じることも懸念される。そのため嘉納は、子どもの発達段階と技の難易度を考慮した乱取技の指導順序を示して、学校柔道に適した段階的指導の方法を整備していく。また柔道における形はその目的から、それぞれ乱取りの形(投げの形、固めの形)、体操の形(柔の形、剛柔の形)、真剣勝負の形(極の形、講道館護身術、女子柔道護身法)、古式の形など目的用途ごとに分けられるが、嘉納は「柔道一班並ニ其ノ教育上ノ価値」において柔道体育法の目的に沿うものとして、その中から体操の形として体育法の形第一種(剛柔の形)、体育法の形第二種(柔の形)を挙げる。昭和期に入るとさらに改良を加えた「精力善用国民体育(の形)」を嘉納は考案し、学校柔道において「形」から「乱取」へという教習課程を確立していくことになる。また嘉納は「柔道一班並ニ其ノ教育上ノ価値」において柔道体育法として乱捕を体操に用いる際に怪我がないために、また道場を離れた日常においても車から転げ落ちたり梯子を踏み外したり他人から害を加えられかかったりしたとき危険を避けることの出来る利益のあることとして、危険を避ける方法として種々の受身の方法論と重要性を説明している。このような嘉納による学校柔道における教授内容・方法を整備・確立するための工夫の過程に共通する視点は、「易しいものから難しいものへ」ということである。それは、初学の者を対象とする学校柔道における段階的指導の観点の一環として捉えることができる。嘉納は柔道の体育法の目的・優位性・効用として、「強・健・用」(強化・調和的発達・実用性)を挙げる。昭和5年嘉納は「理想的体育」として次の条件・内容を述べている。また柔道修行における必要な医学・生理学的根拠を学ぶ方法・場としては柔道の修行法の一つ「講義」を設け、それによって補完する必要のあることを嘉納は述べる。柔道修行におけるその強度の違い、真剣勝負(武術)、競技、教育目的の体育、はその修行方法、修行者を考慮して行われるべきものである。武術としての真剣勝負の柔道勝負法の修行は、「柔道勝負法とは、人を殺そうと思えば殺すことが出来、傷めようと思えば傷めることが出来、捕えようと思えば捕えることが出来る。又相手がその様なことを仕掛けてきた時、自分は能く之を防ぐことの出来る術の練習である。要約すると肉体上で人を制し、かつ人に制せられない術といえよう。」と嘉納は説明するものであり、急所への当身技、武器術を含む柔道の勝負法の修行方法は「たやすいものではない」と嘉納は述べる。またチャンピオンシップにもとづいた競技中心の柔道においては「強い選手を育てること」に主眼が置かれる「強者のための柔道」であり、そこには弱者に対する配慮はほとんど行われない可能性があるという指摘がある。その一方で教育として行われるべき学校柔道は初学の者を対象としており、競技として行うことはできない「弱者」(例えば、子どもたち)に適した指導がなされるべきである。各々の柔道の修行目的、修行方法を見極める必要がある。講道館柔道の創始者嘉納治五郎は、明治22年に行われた「柔道一班並ニ其ノ教育上ノ価値」の講演において、柔道の三つの目的「柔道勝負法」「柔道体育法」「柔道修心法」のうち、「柔道修心法」について主に三つの効用を挙げる。嘉納は日本における古くからの高等教育の手段とされて来た武芸の精神を受け継ぐ柔道の修行によって、自ら「自国を重んじ」「自国の事物を愛し」「気風を高尚にし」「勇壮活発な性質」などの徳性を涵養することが出来るとする。また、礼に始まり礼に終わる柔道の修行は正しい礼儀作法を身に付け、かつ、自主、沈着、真摯、勇気、公正、謙譲等の諸徳目を涵養することが出来るとする。しかし、これらの徳性の涵養は、柔道の修行の固有の性質から自然に涵養することのできるものと、柔道に関係ある総ての外囲の事柄を利用して、特に徳育上の教育を施してその目的を達するものとがあり指導上留意する必要があるとした。前者は柔道修行のうち「乱取り」「形」から学び、後者は柔道修行の「講義」と「問答」の修行によって学ぶ必要性がある。嘉納の述べる柔道修行から学べる徳目の例を具体的に挙げると次のようになる。嘉納は柔道の修行、柔道修心法を通じて会得を目指す智力について多くある中で一部分として主に次のように挙げる。「観察」、「注意」、「記憶」、「推理」、「試験」、「想像」、「分類」、「言語」、「大量(新しい思想を嫌わず容れる性質と種々さまざまなことを同時に考えて混淆せしめぬように纏める力の二つ)」、「その他」となる。嘉納は柔道の修行について、勝負道の追求でもあり、勝負に勝つことが重要な目標になるともする。その勝負に勝つための理論は、単に勝負のみでなく、世の政治、経済、教育その他一切の事にも応用できる物であるとする。その応用の部分は修心法の中でも随分面白くもあり有益であると嘉納は説く。嘉納の挙げる勝負の理論の応用の例について要約すると次のようになる。自他の関係を見ること 迅速な判断 先を取れ(先の先、先、後の先) 熟慮断行 先を取られた時のなすべき手段 我を安きに置き、相手を危うきに置くこと 止まることを知ること 制御術 その他 等である。また、練習の必要 駆け引き 彼我の接触 眼の着けどころ おのれを捨てること 注意、観察、工夫 最善を尽くす 進退の仕方 あらゆる機会を利用する 格外の力に応じる時の心得 業に掛った時の心得なども嘉納の発言・著作から伺い知ることが出来る。嘉納はこれらの教えは、単に柔道勝負の修行のみでなく、総て社会で事をなす上で大きな利益の有るものであるとした。最後に最も肝要なる心得の一つとして「勝ってその勝ちに驕ることなく、負けてその負けに屈することなく、安きに在って油断することなく、危うきにあって恐るることなく、唯々一筋の道を踏み行け」の教えを強調して、いかなる場合においても、その場合において最善の手段を尽くせということを嘉納は強調する。柔道は世界的に普及が進み大きく広がり受け入れられる中で、フランスにおいても幅広く受け入れられ、その教育的効用も受け継がれている。その背景について、次のような意見がある。「東洋文化の象徴でもある柔道。だが、フランスには受け入れる土壌もあった。粟津(粟津正蔵)の教え子で、75年にフランス初の世界王者(男子軽重量級)になったジャン=リュック・ルージェ仏柔連会長は「礼儀を重んじる柔道の武士道とフェンシングに代表される騎士道には共通点がある。国民性に合っていた」と指摘する。」またフランス柔道には、武士道と騎士道を融合させた「8つの心得」があり、教育的目的、価値として重視される。そのフランス柔道における「8つの心得」として、「友情」「勇気」「謙虚」「礼儀」「誠意」「名誉」「尊敬」「克己」が挙げられる。そこには新渡戸稲造が『武士道』において挙げる徳目の、「義」「勇気・敢闘及び忍耐の精神」「仁・惻隠の情」「礼儀」「誠実・信実」「名誉」「忠義」「克己」と通ずるものであることが分かる。また、フランスにおける柔道の指導者資格は国家的ライセンスとなっており、その300時間に及ぶ講習は柔道の座学として、医学的見地などや修心的要素も学ぶものであり、嘉納の挙げる柔道修行法の一つ「講義」の応用となっていると言うことが出来る。残心(ざんしん)とは日本の武術、武道および芸道において用いられる言葉であり、武術、武道としての柔道における残心は、「相手を投げた後、相手の反撃に備える態度と心構え」等、技を決めた後も心身ともに油断をしないことを言う。たとえ相手が完全に戦闘力を失ったかのように見えてもそれは擬態である可能性もあり、油断した隙を突いて反撃が来ることが有り得る。それを防ぎ、完全なる勝利へと導くのが残心である。投げ技で崩れず態勢を保つ、立技から寝技へのスムーズな移行、相手の当身を意識する、当て身を含む形の技法においてはとどめの当て身を入れる動作をする等も柔道における残心となる。なお、柔道の投げ技には捨て身技も含まれており、寝技の攻防技法も含まれ、形の技法の中には居取り技も含まれるため、常に立ち姿勢で残心を取る訳ではないことを留意する必要もある。講道館柔道の母体の一つになっている天神真楊流においては、技を行う前の心構えとして「前心」、技の挙動中の心の動きとして「通心」、挙動を終わって我が目を相手に注ぐこととして「残心」を説き、前心、通心、残心まで気を抜いてはいけないことを説いている。また、残心は、茶道や日本舞踊など日本の芸道にも用いられるように、柔道における礼法にも通じる。何があっても興奮せず、油断せず、ゆとりを持ちながら周りを意識し、感情を抑えて冷静な態度・平常心を保ち、謙虚に勝敗を受けとめ、相手の気持ちを考えることができる。実戦から生まれたこのコンセプトは、確実なことがないという覚悟と同時に、倒した敵に対する懺悔と敬意を表す。安全面において:全日本柔道連盟主催の安全指導講習において、体育としての指導、初心者指導における柔道の「受け身」を指導する際、安全に受け身が取れるために、安全面でのキーワードとして(1)危険な時は自ら倒れる「潔さ」 (2)相手を投げる時は倒れない「残身(心)」(3)互いの柔道衣を引っ張り合ってバランスを保つ「命綱」の大切さを強調している。嘉納治五郎は1889 (明治22) 年に大日本教育会において文部大臣らを招き、「柔道一班並ニ其教育上ノ価値」と題した講演を行い,柔道の目的として体育,勝負,修心を挙げて、「此學科ヲ全國ノ教育ノ科目ノ中ニ入レマシタナラバ目下教育上ノ缺点ヲ補フコトノ出来ル」と述べ,全国の教育機関,とりわけ中学校への採用と国民への普及を主張していく。こうした嘉納の活動や剣道界の尽力により,1911 (明治44) 年に撃剣・柔術が正課採用を果し,柔道は日本の中学校における正科になる。その後,嘉納は柔道の目的として慰心法を含めて発表し,さらに新しい要素(運動の楽しさ,乱取,試合,そして形を見る楽しみ,芸術形式としての形による美育を含む)を柔道に付け加え柔道における幅広い目的を主張していく。嘉納は当時国内において採用されていた西洋式の普通体操に面白みが無く学校卒業後に長く続けられないことに関する当時の教育家からの不満と、柔道の様々な利益,逆に競技運動は面白く長く続けられるという社会的背景から慰心法の新しい発想を生み出した。1913 (大正2) 年,嘉納は「柔道概説」に「柔道は柔の理を応用して対手を制御する術を練習し,又其理論を講究するものにして,身体を鍛錬することよりいふときは体育法となり,精神を修養することよりいふときは修心法となり,娯楽を享受することよりいふときは慰心法となり,攻撃防禦の方法を練習することよりいふときは勝負法となる」と記し,柔道は「柔の理を原理とし,身体鍛錬には体育法,精神修養には修心法,娯楽には「慰心法」,そして攻撃防御の習得には勝負法となる」と説いた。「慰心法」の内容は「慰心法とは柔道を娯楽として修行する場合をいふ。眼の色を楽み耳の音を楽むが如く,筋肉も亦運動して快楽を感ずるものにして,人が他の人と筋肉を使用して勝負を決する如きは更に大なる快楽のこれに伴ふこと論を侯たざるなり,且自ら其の快楽を感ずるのみならず其勝負の仕方,業の巧拙等を味ひてこれを楽み得る素養ある人は,他人の勝負を見ても快樂を感ずるはまた當然のことなり。殊に名人の試合及起倒流扱心流の形,講道館五の形,柔の形の如きものに至りては,眞に勝負の形たる性質を離れ自ら美的情操を起さしむるものにして,其の見る者に快楽を感ぜしむるや大なり。かく單純なる筋肉の快楽より高尚なる美的情操に至るまで快楽を得るを目的として修行するは,これを慰心法として柔道を修行すといふ」と述べ、などを例に挙げた。また,修行に際しては「柔道はかく四様の着眼点より修行するを得るものなれど,實際に於てはこれを兼ね修むるを得策とす・・・(中略)・・・慰心法として修むるときも亦同様にして,実益の伴はざる娯楽は人事多端の世に於て多くこれを貧ることを得ざるものなれど,種々の實益を伴ふ柔道の娯楽は,これを享くること多きも益を得ることありて毫も其弊を見ず」と述べ,慰心法以外の目的を兼ねて練習を行うことで楽しみながらも体育や勝負,修心上の利益を得ることが出来ると主張した。しかしその後、嘉納の言説の中から「慰心法」の名称は見られなくなり、再び「体育法」「勝負法」「修心法」を中心としたものになっていく。それでも1915年3月の「立功の基礎と柔道の修行」の中に見られるように体育法としては①運動の種類が多く老若男女に適する②多目的で興味が尽きない③実生活に役立つといった3つの利点を挙げた。嘉納は②について「柔道は他の運動に比して最も多くの目的を有し,従って先から先へと尽きぬ興味がある。一体育そのものより外に目的のない運動やその目的の明かでない運動は,興味を感じないものである。興味のない運動は,人に持績して行はせることも出来ず,熱心に練習させることも出来ず,体育の方法として価値の少ないものである。然るに柔道は身体を強健にする外に,己を護り人に勝つことを目的とし,五體を自由自在に動作させることを目的とし,精神の摩礪を目的として居る為に,競争の興味,業の熟練の興味,人格向上の興味,美的感情の養成,その他言ひ蓋せぬ程多様の興味を喚起し知らず識らずの間に体育上の功果を収めることが出来る」と述べ,競技の楽しさを魅力の1つに挙げている。このように「慰心法」の名称は消失するが,その内容は柔道奨励の一手段として位置づけられていく。しかし明治後期から対校試合の隆盛と共に試合に対する学生の関心は高まる一方で、学生間の紛擾や学校間の対立などが生じることになる。やがて大正後期になると高等専門学校柔道大会が活況を呈し,学生が母校の名誉のために過熱し,様々な弊害が現れてくることになる。それらに対し,嘉納は慰心法に代わり、状況の改善策を講じ,柔道を本来のあり方へ戻そうと腐心していくことになる。時代は下り第二次大戦後には軍事的色彩が強しとして一時禁止されていた柔道であったが,1949 (昭和24) 年には全日本柔道連盟が結成され,翌年(1950) には学校柔道も解禁される。講道館の三代目館長となった嘉納履正は著書『伸び行く柔道一戦後八年の歩み一』において「スポーツとしての柔道」と題し「快適なスポーツとして柔道の練習方法を考へる場合,必ずしも鍛錬主義が全面的によいとは言へず, 教育的な見地からその対照によっては再考すべき点もあるであらう。講道館柔道を一部では,旧弊な非スポーツ的なものであるといふ様な誤解もあるが,遠く明治四十三年に嘉納治五郎の書いた柔道の説明の内に, 柔道は・・・(中略) ・・- 娯楽を享受する事より云ふ時は慰心法となり・・・(中略)・・・とある様に娯楽としての柔道の面も唱ってゐるので,決して講道館柔道は単なる武道的な厳しい面を強調するものでなく,心を慰むるものとして,則ちスポーツの字義通りの内容をも具備するものである」と述べ,これまでの柔道は勝負や精神面が強調され過ぎたが,娯楽の意義も今後大切であると説いている。柔道「慰心法」の存在と意義を再認識する時ともいえる。講道館柔道では段級位制を採用している。これは、数字の大きい級位から始まり、上達につれて数字の小さな級位となり、初段の上はまた数字の大きな段位になってゆくものである。段位制は囲碁、将棋において古くから行われていたが、それを武道・格闘技で最初に導入したのは、嘉納治五郎の講道館柔道である。その後大日本武徳会が、警視庁で導入されていた級位制を段位制と組み合わせて段級位制とし、柔道・剣道・弓道に導入した(なお、武徳会は戦後GHQにより解体されたため、1948年には武徳会で取得した段位を講道館の段位として認める特例が取られた)。初段が黒帯というのは広く知られており、クロオビは英語圏でも通用する単語となっていて、米国では黒帯を英
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