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大乃国康

大乃国 康(おおのくに やすし、1962年10月9日 - )は、北海道河西郡芽室町出身の元大相撲力士。第62代横綱。本名は青木 康(あおき やすし)。1962年に、北海道河西郡芽室町で牧畜と農業を営む家の長男として生まれる。2歳のときには北海道東部の健康優良児として表彰を受けた。小学校までは通学だけで数時間かかるほどだったが、毎日繰り返すことで自然に足腰が鍛えられ、勉強よりスポーツを好んだ。離農者が多かったことから生徒が著しく減少し、部活動としては活動できなかったが野球・水泳・スキー・スケートで運動していたが、スキーでは6年生で3級を取得するほどの腕前だった。芽室中学校では柔道部に所属し、芽室町の学年別大会で優勝したほか全十勝中体連大会・北北海道大会でも優勝するほどの強豪だった。十勝管内の柔道関係者の中では1年後輩の保志(のち第61代横綱・北勝海信芳)と共に名前が知られていた。身体の大きさを見込まれただけで出場した陸上競技大会では全く練習していなかった砲丸投げに出場させられたもののいきなり優勝してしまい、ぶっつけ本番で残したこの実績を買われて東海大学付属第四高等学校から勧誘されたほどである。数々の大会で優勝していた自信から入学に乗り気だったが、夏に地元で行われた巡業を柔道部全員で見学に行った際に、恵まれた体格をした青木少年を見つけた人物から成り行きでまわしを付けられ、相撲を取らされた。かなりの力量を引退したばかりの若十勝正雄に見出され、連絡を受けた魁傑(元大関・のち放駒親方)から勧誘を受けたが、親族会議を開催したものの進学を決めていたために逃げ回った。「部屋見学だけでも」と熱心に食い下がれたために4泊5日で部屋へ見学に行くと、東京見物をさせてもらっただけでなく小遣いをもらい、さらに靴も買ってもらえた上に魁傑自身が入門したときの経緯を聞かせてもらった(大学で柔道を行っていたが両親の意向で嫌々ながら相撲に転向した)ために気持ちが揺らぎ、翌年の入学願書締切日の前日に魁傑から電話で「柔道じゃ食っていけないよ」と言われたことで決心が固まり、内弟子として相撲界へ入門した。入門当初は185cm、83kgという体格であり、後に横綱となった自身とは似ても似つかぬ体型であった。「大ノ国」の名は、元花籠親方(元幕内・大ノ海)の現役時代の四股名と、故郷である「十勝平野」にちなんで命名。1978年3月場所で初土俵を踏む。本人が述懐するところによると花籠部屋時代は稽古も然ることながらちゃんこ番や雑用、付き人など部屋の仕事に特に真剣だったといい、若い衆としての仕事は花籠部屋時代の内にほぼ完璧にこなせるようになったと自らについて胸を張って証言している。創設当初の放駒部屋は稽古相手すらいないほどの小部屋であり、稽古を行うために毎日二子山部屋へ出掛けていた。当時の二子山部屋には若乃花や隆の里の2横綱始めとした大勢の現役関取が所属していた上に当時の角界の中でも一際厳しい二子山が指導を行ってたので、恵まれた環境の中で真剣に稽古に打ち込むことができた。1981年には引退したばかりの魁傑が創設した放駒部屋へ移籍すると部屋のホープとして頭角を現し、1982年3月場所で新十両に昇進。本人は1981年3月場所から6場所連続で勝ち越した時期について「今振り返ってみても、1年間負け越しなしで十両に上がったというのはすごかったなぁと思いますよ。花籠部屋で鍛えられて、さらに二子山部屋の先輩たちに揉まれたことが、知らないうちに、私にとって大きな財産になっていたんですね」と振り返っている。翌5月場所は幕下に逆戻りするも3場所の幕下暮らしを経て11月場所に再十両を果たす。だがこの場所で九州入りした直後の稽古で右足小指の甲を骨折する怪我を負い、痛みにより場所初日まで稽古ができなくなってしまった。それでも関取の地位を守りたいという思いで痛めた足をテーピングで固めて皆勤し、この場所で11勝を挙げた。翌1983年3月場所で、奇しくものちに第63代横綱となる旭富士と共に新入幕を果たした。新入幕の場所を8勝7敗と勝ち越した後、4場所目の1983年9月場所には新小結に昇進した。この場所は6勝9敗と負け越したために1場所で明け渡したものの、東前頭3枚目で迎えた同年11月場所では北の湖(第55代横綱)・千代の富士(第58代横綱)・隆の里(第59代横綱)の3横綱を破る大活躍を見せ、10勝5敗で初の三賞(殊勲賞)を受賞。1984年1月場所では新関脇で迎えて9勝6敗と勝ち越し。同年3月場所では、大ノ国から大乃国と四股名を改名。同場所では3横綱・3大関を破って10勝5敗の成績を挙げ、殊勲賞・敢闘賞を獲得するが、下位に対する取り零しの多さが課題として残った。大関獲りの足掛かりだった次の5月場所は4日目まで3勝1敗と順当だったが、5日目の北の湖戦で敗れてから調子を狂わせてしまい、6勝9敗と負け越した。平幕に落ちた1984年7月場所は10勝5敗で殊勲賞を獲得するなど持ち直し、蔵前国技館最後の場所となった同年9月場所では、初日から好調で9日目に千代の富士貢を土俵際の掬い投げで破って勝ち越した。幕内初優勝の期待を持たせたが、10日目の時点で既に負け越していた逆鉾の出足に苦杯を喫して2敗と後退。さらに翌11日目、同年9月場所で平幕優勝を果たした多賀竜に上手出し投げで脆くも横転し3敗、そして13日目は小錦にも上手投げで屈して、結局10勝5敗に終わった。その後3場所を一桁勝ち星と不振の場所が続いたが、1985年5月場所は前に出る攻撃相撲が増え復調し10勝5敗、東関脇で迎えた7月場所では終盤まで優勝を争って12勝3敗の成績を挙げた。それまでの直前3場所の成績は9勝・10勝・12勝の合計31勝(14敗)で、大関昇進の基準となる通算33勝以上には物足りなかったが、前年9月から6場所連続で関脇の地位に定着していたことや将来性も期待されて、大関昇進が決定した。この関脇時代については「上位力士を苦しめて当たり前という感じで、とても楽しい時期だったと思います」と本人が語っている。大関昇進後は12勝3敗・11勝4敗と着実に星を残して、「昭和の大横綱」千代の富士に次ぐ実力ナンバー2と目され、横綱候補の筆頭だった。1986年1月場所では13日目まで1敗で、星一つの差を付ける千代の富士との14日目の直接対戦に幕内初優勝を賭けたが、極度の緊張から力を全く出し切れずに敗れ、千秋楽も北尾(のち北尾改め第60代横綱・双羽黒)の引きに敗れて12勝3敗に終わり、優勝決定戦すら出場できなかった。翌3月場所に初めての横綱挑戦権が与えられたものの、序盤で2敗を喫したことで9勝6敗に終わりチャンスを逃した。同年5月場所では、逆鉾に寄り切られた際に右足を骨折する重傷を負った。それでも休まず11勝4敗の成績を挙げたが、この無理が影響して約1年間低迷する。同年9月場所は7勝1敗で迎えた9日目から失速して8勝7敗。次の11月場所は10勝5敗だったものの、翌1987年1月場所から2場所連続で9勝6敗と期待を裏切り続けた。それまで新勢力の一番手と見なされてきたが、この過程で優勝では第61代横綱・北勝海(大乃国と同じ北海道十勝支庁出身)に、横綱昇進では双羽黒に、共に大乃国より1年年下の「花のサンパチ組」(昭和38年生まれ)にそれぞれ先を越されてしまった。同年11月場所には千代の富士を土俵際の投げで破った際に失神させたり、初優勝を目指す双羽黒に土をつけたり、1987年3月場所で優勝を決めた北勝海を破るなど存在感は見せつけたが、下位力士への取りこぼしは相変わらず多かった。しかし、1987年5月場所は初日から見違えるような安定した相撲で連勝を続けて、千秋楽には当時横綱昇進が掛かっていた北勝海を下して、見事15戦全勝で初の幕内最高優勝を果たした。横綱昇進がかかった同年7月場所は千秋楽では前場所とは逆に、この場所で横綱に昇進した北勝海に痛い敗戦を喫し、12勝3敗で惜しくもチャンスを逸したものの、横綱挑戦権は継続され、次の9月場所は13勝2敗と順調に星を重ねて、場所後に第62代横綱への昇進を果たした。昇進直前の2場所は全て優勝次点だったが、直前3場所通算の成績は40勝(5敗)で近年では貴乃花(41勝)に次ぐ高い数字(当時第56代横綱・2代若乃花と並ぶ最高タイ記録)であった。ただし、1987年11月場所後に双羽黒が師匠・立浪親方(元関脇・安念山)らとの衝突の末廃業事件を起こしたきっかけに、その後「横綱昇進の条件は(原則として)大関の地位で2場所連続優勝」に事実上変更される。それ以降、第63代・旭富士から第70代・日馬富士の8力士は全て「大関2場所連覇」での横綱昇進だったが、2014年5月場所新横綱の第71代・鶴竜は14勝(優勝同点)・14勝(優勝)と、27年ぶりに大乃国以来連覇無しでの横綱昇進となっている。横綱昇進を祝うパーティーの席上で、当時の春日野理事長(第44代横綱・栃錦)からは「今後の相撲界の歴史を大きく変える力士の一人だ。『角聖』と呼ばれた明治時代の名横綱・常陸山を目指せ」と期待されていた。しかし、新横綱の1987年11月場所は極度の緊張からか動きが悪く、序盤で3連敗を喫した。中盤は立ち直ったかに見えたが終盤も黒星を重ね、最後はギリギリ勝ち越しの8勝7敗(皆勤した新横綱としてワースト)に終わる。実は大乃国本人は、横綱昇進当初から体の異変を感じており、「睡眠時無呼吸症候群」の症状(土俵下でいきなり強烈睡魔に襲われる一方夜中に40分おきに目が覚めてしまう)により、睡眠が安定しないことで立合いの集中力が発揮できなかったという。1988年1月場所に際しては前場所中の太り過ぎの反省から食事を減らして減量したものの、これが裏目に出て力が入らなくなった。米をやめてニンジンやこんにゃくで腹を満たすようにしたが却ってむくみがたまり、筋肉が落ちて体が弛んだことでマスコミから「稽古不足」と批判される状態となった。この1月場所は9日目を終わって5勝4敗となり、「肝機能障害」によって10日目から途中休場し、引退危機と騒がれた。体調不良の原因としてプレッシャーや糖尿病を疑ったが血液検査の結果は「異常無し」であり、体調不良の正体が分からぬまま疲れを押して土俵に上がり続けることにした。早くも進退を懸けることとなった横綱3場所目の1988年3月場所は、序盤で2連敗したが連勝を続け14日目で12勝2敗、千秋楽結びの一番では前日まで13勝1敗だった北勝海を本割りで寄り倒し、大乃国と北勝海が13勝2敗の同点となった。優勝決定戦では北勝海に押し込まれながらも土俵際の突き落としで下し、大逆転勝利で5場所ぶり2度目の幕内最高優勝、横綱初優勝を果たした。しかしその後1988年5月場所以降から引退するまで、主に九重部屋(千代の富士・北勝海の両横綱)らの活躍に押されて、自身何度も終盤まで優勝争いには加わるも、幕内優勝は二度と果たせなかった。また、当時優勝決定戦での勝敗は翌場所の番付に反映されなかったため(1988年3月場所の番付は西正位横綱・北勝海、東張出横綱・大乃国)、1988年5月場所の番付は東正位横綱に優勝同点の北勝海、西正位横綱に優勝の大乃国だった。その後も大乃国は、当時の横綱陣で最高成績を挙げられず、東正位横綱を一回も経験することが出来なかった。それでも横綱としての最大の見せ場は1988年11月場所の千秋楽、結果的に昭和時代最後となった結びの大一番で、同場所14日目まで53連勝中だった千代の富士を怒涛の寄り倒しで54連勝目を阻止、歴史的な場面を演出したことだろう。その千秋楽前日の夜、部屋での食事中放駒親方からは「どうせ今のお前じゃ何をやっても勝てないんだから、(千代の富士を)ヒヤッとさせる場面ぐらいは作って来いよ」などと揶揄されるも、逆に大乃国は「連勝記録は俺が絶対に止めてやる!」と闘志に火がついたという。千秋楽当日の早朝、大乃国は普段より2時間早く稽古場に姿を現して徹底的に対策を行っていた。そして、ついに千代の富士の連勝記録を見事にストップさせた取組の後、報道陣のインタビューに対しては「俺だって横綱だ!」と珍しく声を荒らげた。後日、千代の富士はこの話を聞いて「全然知らなかった。俺はその頃明日は楽勝だと2・3軒飲み歩いていた。あのとき俺の特番の撮影のためにマスコミもいたんだ。どうして教えてくれなかったのか?恨むねぇ」と苦笑いしながら語っていた。大乃国はこの殊勲を特に大仕事とも思っておらず、同じ横綱として千代の富士の連勝記録を伸ばしてしまった責任を取ったまでであるという趣旨の弁明をしている。平成時代の1989年5月場所は、北勝海・旭富士らと3人で最後まで優勝争いを演じていた。12勝2敗で迎えた同場所千秋楽結びの一番で、北勝海との取組では肩透かしで大乃国が敗れるも、その寸前に大乃国の突き落としで北勝海の右手が土俵の上を掃いたのでは?と見られる場面があった(VTRではその光景がはっきり映し出されている)。ところが審判委員はこの場面を5人共誰も気付いておらず、さらに物言いもつかなかったため、不幸にも大乃国が敗戦となった。もしこの一番が大乃国の勝利ならば、旭富士(当時大関)との13勝2敗同士の優勝決定戦に進出するはずだった(北勝海-旭富士との優勝決定戦は、北勝海が送り出しで勝利)。1989年7月場所では場所前から痛めていた右膝が悪化、1勝4敗で5日目から途中休場。日本大医学部付属板橋病院に入院、右膝の治療と同時に全身の問診を受けた結果、医師から初めて「睡眠時無呼吸症候群」という診断を受け、横綱昇進時から表れていた体調不良の真相を知った。睡眠時に一時間あたり60回呼吸が止まる程の重病であり、心不全による突然死も時間の問題であり、診断の直後に治療用の呼吸器を使用開始した。入院加療ののち病気の症状は回復し退院するも完治する迄には至らず、この影響で横綱として2年近くも低迷することとなる。同年9月場所も不調で4日目で1勝3敗、その後一旦は持ち直して11日目で7勝4敗としたが、そこから連敗を喫し14日目の千代の富士戦で7勝7敗、そして勝ち越しをかけた千秋楽結びの一番の北勝海戦でも敗北したことで、ついに7勝8敗と負け越した。横綱が皆勤しての負け越しは史上5人目(6例目)、しかも15日制が定着してからは初めての不名誉な記録だった。一旦は引退届を提出するも、当時の二子山理事長(第45代横綱・初代若乃花)からは「まだ若いんだから初心に帰った気持ちでもう一度やり直せ。汚名を残したまま辞めてはいかん」と慰留されて現役を続行する。なお大乃国本人はこの不名誉に対して、不調の際には休場するという横綱の固定観念に囚われず、不成績を恐れず全力で戦ってこそ横綱であると思いの丈を明かしており、大乃国としては「自分の力をこの世界でどこまで出せるかを試したい」という入門当初の志に従った結果であるという。一場所休場した後の1990年1月場所で進退を懸けるも、11日目で8勝3敗と勝ち越したが、翌12日目から終盤4連敗で8勝7敗。さらに千秋楽の千代の富士戦では左足首の靱帯を断裂、その上骨折という大怪我を負う悲惨な結末となり、その故障が長引き4場所も連続全休した。この頃に前述の呼吸器を使用した影響で体が顕著にしぼみ、放駒からは不審に思われたという。その呼吸器を使用している様子を実際に確認した放駒は「そんな変な器具を使ってはダメだ。勝てなければ夜眠れないのは当然だ」と叱咤したため、大乃国は放駒を連れて病院の医師に事情を説明させた。すると放駒は「お前、病気だったのか」と納得し、その後は放駒の理解を得た上で治療に励んだ。同年11月場所で復帰するが序盤で平幕に負けるなど2敗を喫し、相撲振りは決して良くなかったが、千秋楽に前日優勝を決めた千代の富士に土をつけ、何とか10勝5敗の二桁勝利を挙げて引退の危機を免れた。1991年1月場所も10勝5敗に留まったが、同年3月場所での大乃国は1989年5月以来11場所振りに千秋楽まで優勝を争い、ようやく復活の兆しを見せたかに思えた。14日目に12勝1敗同士の直接対決で、北勝海は大乃国に寄り倒しで勝ったがその際に膝を負傷。翌日の千秋楽北勝海はまともに戦える状態でなく、もし大乃国との優勝決定戦になった場合、北勝海はどうやって戦うかずっと悩んでいたという。しかし北勝海の故障に全然気が付かなかった大乃国は、前日まで4勝10敗と極度の不振だった霧島に大相撲の末よもやの敗北で12勝3敗、またしてもあと一歩で北勝海(結びの一番で旭富士に敗れて13勝)に優勝を奪われた。今度こそ優勝をと雪辱を期すはずだった同年5月場所は、不運にも場所前に蜂窩織炎による高熱と右膝関節を痛めて急遽入院することになり、またも全休となった。1991年7月場所は再び進退を懸けて土俵に上がることとなる。この場所が最初で最後の対決となった貴花田(のち第65代横綱)・若花田(のち第66代横綱)には勝利したが、初日に曙(のち第64代横綱)の突っ張りに一撃で土俵下へ吹っ飛ばされたり、最後の相撲となった安芸ノ島戦ではまともに引くところを見透かされ一方的に押し出されたりと8日目で4勝4敗という散々な成績だった。安芸ノ島戦での内容が「明日に繋がらない相撲」と悟った大乃国は現役引退を表明した。歴代横綱の中で28歳9か月での引退は、廃業した双羽黒や現役中に死亡した玉の海を除けば、栃ノ海の28歳8か月に次ぐ若さだった。この際、既に10代芝田山(宮錦)から年寄名跡を譲渡され、年寄・芝田山を取得していたが、10代芝田山の停年(定年。以下同)まで10か月ほどだったため、5年期限付きの年寄・大乃国を襲名して芝田山の停年を待った。しかし、宮錦の退職後に同門の若獅子へ年寄名跡を一時的に貸すことになり、1993年3月場所後にようやく12代芝田山を襲名した。引退相撲は1992年5月場所後に行われた。なお、引退相撲での横綱土俵入りの露払いと太刀持ちは、従来は現役横綱の二人が務めていたが、同年5月場所前に一人横綱だった北勝海が引退となり、横綱空位となっていた。そのため大乃国は、同門であり当時二子山部屋の現役幕内力士だった隆三杉(露払い)と三杉里(太刀持ち)をそれぞれ指名し、最後の土俵入りが披露された。芝田山襲名後、しばらくは放駒部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たっていたが、引退8年後の1999年6月に独立して「芝田山部屋」を創設。横綱・大関経験者が引退・年寄名跡襲名後も部屋付き親方として長期間在籍した後、独立・部屋創設に至ったことは非常に珍しい。相撲協会の業務では監察委員や勝負審判などを歴任した後に、2014年に副理事に昇格、巡業部副部長となった。巡業でちゃんこが廃止されたことで巡業中における力士の食事がおざなりとなり、健康管理が憂慮されるようになったことから、巡業の食を管理する“食事係”の設置も検討したことがある。そして、2015年8月3日から始まった夏巡業では、21年ぶりに巡業でのちゃんこ配給を復活させた。これは相撲人気の回復によって夏巡業開催日数も前年の9日から20日に倍増し、力士の体力負担を補うという目的もあった。この主導に当たって芝田山は「弁当だけじゃ飽きるしね。ちゃんこは栄養バランスもいいから」と説明している。2008年3号よりダイヤモンド社の隔週刊テレビ情報誌「TVステーション」にて、「親方に訊け!」というコラムを連載。また2008年3月31日からは、ゆうどきネットワーク(NHK総合テレビ)にて「芝田山親方のごっつあんスイーツ」のコーナーを担当していた(大相撲千秋楽の翌日など、主に月曜に出演)。2016年7月31日、大乃国と同じ北海道出身で「昭和の大横綱」こと元千代の富士・九重親方が61歳で病死。「現役時代よく九重部屋に出稽古に行った。相四つだったので何とか先に左上手を取らせないよう研究した。体重は自分が上でも、力が強かった」と振り返った後、「こんなに早く亡くなるとは思っていなかった」と早過ぎる先輩横綱の死に驚きを隠せなかった。現役時代はきまじめで無口な横綱という印象だったが、引退後にスポーツニュースやNHK大相撲中継に出演すると、実際は話がうまく、解説が上手と評判の舞の海秀平が上手に説明できないような相撲内容も詳しくわかりやすい解説を披露し人々を驚かせた。また、バラエティ番組出演もこなしている。また最近では講演会でも大人気で各地を飛び回っているが聞き手が居なくても数時間の独演をこなすなど理論的で判りやすい内容が好評である。板井には8勝8敗と非常に苦手としていた。板井は金星を3個獲得しているが全て大乃国からで、入幕後の大乃国は全てガチンコ相撲を通したと言われており、昨今話題となっている大相撲八百長問題とは全く無縁の人と言われ、大相撲ファンからは真の横綱は大乃国と評価されている。角界きっての食通で、大の甘党。「男が甘党でなぜ悪い!」「甘党男児は誇りを持て!」を持論としている。本人曰く最近は「スイーツ王子」「スイーツおじさん」「スイーツ親方」「キング・オブ・スイーツ」などと呼ばれるという。元祖!でぶやなどのグルメバラエティ番組に出演している。おいしいものは後から食べるタイプで、香川県高松市に、芝田山が監修を務めるちゃんこ料理店がある。甘党だからといって下戸というわけではなく、甘いものの過剰摂取による糖尿病とも無縁である。「むしろ血糖値が基準値より低め」とのことで、「協会を辞めたらスイーツ評論家になりたい」と日刊スポーツで述べている。 (カッコ内は勝数の中に占める不戦勝の数)第62代横綱 大乃国康光文社のインタビュー

出典:wikipedia

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