100系とは、日本国有鉄道(国鉄)および本系列を承継した東海旅客鉄道(JR東海)、西日本旅客鉄道(JR西日本)が設計、製造した、東海道・山陽新幹線の二世代目の営業用新幹線電車である。1970年代になると、1964年の東海道新幹線開業時から運用されていた0系車両の中には経年劣化が生じ始めていた。その原因は、安全・快適な高速走行のための技術的特徴が盛り込まれた車両を、高速かつ高頻度という過酷な条件によって運行する新幹線の運行形態そのものにあった。例えば、0系車両では快適性のために気密構造を採用したが、列車同士のすれ違いやトンネルの出入りで生じる圧力ストレスの繰り返しによって、金属疲労などのために車体の気密性が保てなくなるという劣化が生じ始めた。この事態は、0系車両が初めて設計された営業用の新幹線車両であること、および、新幹線自体が高速列車を長期間運用した最初の事例でもあったことから、予期しがたいものであった。この状況に合わせ、国鉄は0系の廃車基準を製造後13年と設定した。そのため、古い0系車両が新造した0系車両によって置き換えられるという状態が数年間続いた。なお、この時点で新形式の投入が行われなかったのにはこれ以外にもいくつかの理由があった。例えば、国鉄の経営状況悪化や労使問題なども影響した。それに加え、車両の経年数が揃っていない編成が運用されており、既存の車両と混成・編成替えを行う場面における互換性に対して配慮された。このような経年数の不揃いな編成が生じたのは、開業以来0系の増備が続いたという導入初期特有の事情もあった。新幹線車両に起こりうる事象が0系の運用経験からある程度把握できるようになってきたことに加え、0系の基本となるデザイン・内装が1964年の登場当初のままでもあったため、何度かマイナーチェンジを経たとはいえ、既に陳腐化の印象は否めなくなってきた。こうした背景に加え、新幹線博多開業の際に編成単位で大量増備された車両が1980年代後半になると取替え時期を迎えることも契機となり、モデルチェンジの機運が高まった。そこで、0系の設計を改めた100系が投入されることになった。100系では0系・200系で培った技術を踏襲しつつ、主に内装・外装を中心にデザインが一新され、1985年10月から1992年までに16両編成66本の計1,056両が製造・投入された。ただし、内装や技術面で、これ以降生産される新幹線車両に搭載されることとなった設備・技術も数多い。デザインについては、前述のように0系のイメージの陳腐化により、後発の高速鉄道であるTGVやICEに比べても見劣りがしていたため、新たな造形が模索された。それにあたって、国鉄車両設計事務所内に車両デザイン専門委員会が設けられ、そのメンバーには手銭正道、松本哲夫、木村一男が参画した。デザイン提案については各車両メーカーが行ない、それを車両デザイン専門委員会が検討して採用する形が採られた。100系の試作編成であるX0編成は0系37・38次車 よりも先に落成している。100系の最終増備編成であるG46編成より300系の量産車第1号であるJ2編成が先に落成した が、G46編成が先に廃車になった。JR発足から、東海道・山陽新幹線における主力車種として活躍したが、後継車両の登場により2003年9月16日に東海道新幹線から撤退し、2012年3月16日に山陽新幹線での運用からも撤退した(#運用および#外部リンク参照)。0系引退後、東海道・山陽新幹線を走る最後の国鉄新幹線だった。老朽化した0系の置き換えを目的としており、輸送力(編成定員)・車両の製造費は現状と同等のものとし、地上設備の改良を最小限に抑えつつ、到達時間の短縮を行うことを念頭に置いている。先代である0系との最大の違いは、そのフロントマスクと2階建車両の存在である。フロントマスクは、騒音と空気抵抗の低減を図るために、鋭角にした前頭部から徐々に断面積を大きくしていく「流線型」とし、標識灯内のライト配置を0系の縦2灯から横2灯に変更して、横に細長い形に変えた。このデザインは近畿車両が提案したものが採用された。前部標識灯の際はそのまま点灯し、後部標識灯の際には赤色のフィルターが自動的に装着されて赤く点灯しているように見える。運転台の窓と車体の段差は極力小さくなり、0系では開閉可能であった側窓も固定化することで極力平滑化された。これにより、走行抵抗を0系比70%に軽減することができた(220 km/h走行時で、0系は約120kN、100系は約80kN)。なお、試作車は前照灯に角度がついているためツリ目形状であったが、量産車は角度が小さくなっている。これらの形状から「シャークノーズ(サメ鼻)」とも呼ばれる。前照灯の間にある中央の丸い部分は、非常用の連結器が収納されている。足元はスカートで覆われ、その内部には何重ものアルミ板を重ねた排障器がある。また、空調装置の室外機は200系と同様に天井車端に一括配置された。材質は0系と同じく1.6mm厚の耐候性鋼を主体に、屋根部分はコルゲート(波形)ステンレス鋼(0.8mm厚)を使用した一体構造となっている。構体重量は、0系より0.2t軽い10.3tである。客室窓は、9000番台の(X0→)X1編成は0系1000・2000番台と同じく小窓だが、量産編成は0系0番台と同じく2列に1つの窓である大窓が採用されている。窓の大きさは、普通車が1,660mm×610mm、グリーン車が1,870mm×610mmで、グリーン車の窓は0系0番台のそれと同じ大きさである。窓ガラスの板厚と構成を見直し、強度をアップさせている。オリジナルの塗装は、車体は0系(クリーム10号、アイボリーホワイト)よりも明るい白3号(パールホワイト、オイスターホワイトとも)を地色に、窓周りが青20号(ディープブルー)の塗りわけである。また、ブルー塗装の下には、ピンストライプが追加されている。JR西日本所属のK・P編成の塗装の変更については#K・P編成を参照。国鉄時代には「New Shinkansen」の愛称を与えられ、2階建車両(X編成8・9号車)の車体にこれを意匠した赤色のマーク(NSマーク)が標記されていた。X1編成のみ、海側は青帯と同じ大きさで、山側がそれよりも大きく描かれていた。比較検討の結果、量産車(X2 - X7編成)では、X1編成の山側と同じく若干青帯より大きい方が採用された。1987年の分割民営化後は、代わりにJRマークが貼付された。なお、JR東海所属車については、16両G編成は落成時から1・8・15→16号車の車両番号横にJR東海のコーポレートカラーであるオレンジ色(JR西日本へ譲渡された編成は青色)の小さなJRマークが張り付けられ、分割民営化前に落成していたX編成は同様に貼り替えられた。JR西日本所属車(V編成)は初期のX編成と同様に1・15号車のトイレ区画、8号車のNSマークが標記されていた箇所にJRマークが貼付されていたが、幾分小さくなっている。編成番号は運転台下端・先頭車両乗務員扉・乗務員扉下部のスカート部分に記されるが、JR東海所有分は、1999年から運転台上端に編成番号を記載するように変更された。東北・上越新幹線向けとして開発されていた200系の機構をベースにコストパフォーマンス面から改良を進めた構造となっている。0系と同じくMM'ユニットを採用し、M車(121形・125形)には主制御器と抵抗器が、M'車(122形・126形)には主変圧器・整流装置・補助電源装置・電動空気圧縮機・集電装置が搭載される。床下の平滑化による騒音の低減と着雪障害の防止のため、床下機器の横幅が2,400mmに揃えられた上で機器類の隙間を塞ぐ機器間塞ぎ板方式を採用しており、走行中の走行風による騒音を低減させている。主制御器は電動カム軸方式の CS56 を採用する。車両の前進力行、後進力行、前進ブレーキ、後進ブレーキの切替、搭載する抵抗器を用いて、発電ブレーキ回路を構成し発電ブレーキを掛けることを主な機能としており、それを行うための転換カム軸と抵抗カム軸を搭載している。カム接触器の数を減らすため、一部に双頭カム SR38 を採用している。重量は940kgである。力行制御は0系の低圧タップ制御に替えて、架線からの交流25kVを主変圧器の二次巻線を分割し、それぞれにサイリスタとダイオードで構成されるブリッジ(整流回路)を取付けて分割構成としたサイリスタ・ダイオード混合ブリッジとし、それにより整流・制御された直流電源で主電動機を駆動するサイリスタ位相制御が採用されている。これは200系とほぼ同等の制御方式である。主シリコン制御整流装置はさらなる軽量化とコスト削減を図った RS203 を搭載する。素子の耐圧を200系の2,500Vから4,000Vまで上昇させ、二次巻線の分割を200系では不等6分割だったのが100系では等4分割にしてブリッジの数を減らし、素子数の削減と軽量化(200系:RS202重量比62%)とコスト削減を図っている。また、整流ユニットを車側からも取り出せるように工夫されており、整備性の向上が図られている。主電動機は直流直巻式の MT202 を電動車両1両あたり4基搭載している。0系に比べて編成中の電動車数が減少すること、起動時の引張力を増大させて加速性能を向上させたことから、0系に比べて高出力(連続定格出力230kW)となった。重量は825kgである。構造的特徴として、他力通風方式の採用で鉄心長を増加させて出力向上を図り、H種絶縁の採用や冷却用排風覆いの簡素化で軽量化が図られるとともに、長尺ブラシを使用してブラシ摩耗代を長くし、軸受構造に第2グリース室を設けて潤滑寿命を長くして、無保守走行距離の延長を図っている点。は MT201(200系)と同じである。重量は825kgである。主変圧器は外鉄形強制風冷式の TM203 を採用する。定格容量は2,500kVAの容量を備えるが、二次巻線側(主回路)の利用率を勘案し、一次巻線容量は二次巻線と三次巻線(補機類)の容量和よりも小さくなっている。シリコーン油とポリアミド絶縁物を主体とする特別A種絶縁の採用、付属品の改良を行うことで、TM201A(0系)と比べて容量で152%の増加を達成しつつ、総重量は76%に削減されている。補助電源装置には静止型インバータ SC202 が採用され、電動発電機と比べてカーボンブラシの交換などの検査の省力化を図っている。補助変圧器、定電圧装置、整流装置で構成されており、主変圧器の三次巻線(単相交流440V 60Hz)を電源とする。供給する電源としては、温水器などで使用される低圧交流電源交流100V、冷水機や汚物処理装置などで使用される低圧安定化交流電源交流100V、セクション通過時の停電を防ぐために使用される無停電交流安定化電源交流100V、制御・ブレーキ電源、蛍光灯などで使用されている直流100Vの4種類がある。加えて、東京寄り先頭車両ボンネット内にインバータ SC18 を備え、直流100Vを交流100V 60Hzに変換する。停電時には、一部交流機器に電源供給を行う。電動空気圧縮機は MH1091-TC2000 を搭載する。1分間定格出力2,063Lであり、主変圧器の三次巻線を電源としているため、かご形誘導電動機を使用して駆動する。機器冷却用の電動送風機は主変圧器の三次巻線を電源とした主整流装置用 MH1092-FK156 と主変圧器用 MH1093-FK157 を搭載する。0系では主整流装置・主変圧器共用で1台の電動送風機が搭載されていたが、個別に設計した電動送風機を使用することで小型軽量化を図った。 ブレーキには、電動車は抵抗器を使用したバーニアチョッパ制御による発電ブレーキを高速域での減速に使い、低速域では空気ブレーキを使う。空気ブレーキは電気指令式に変更された。新幹線で初めて設定された付随車のブレーキには、渦電流ブレーキ(ECB)を各車軸あたり2台設置した。これは、以降製造された東海道・山陽新幹線の新幹線車両のうち300系と700系の付随車に採用された。200系で使用されたドットマトリクス表示の運転台モニタ装置は、本系列ではカラー表示が可能なブラウン管モニタ(1面設置。後の300系や500系などは2面設置)へと進化している。パンタグラフや空調設備の作動状況、走行情報などが逐一、運転台から監視・制御できるようになった。全体では、点検作業効率化の観点から機器の配置見直しなども行われ、保守の省力化を図っている。主に制御機器・主電動機の軽量化・高性能化により、0系の16両全電動車方式から16両中4両が付随車となった。モーターの高出力化により、電動車を4両減らしても0系とほぼ同等の出力(16両の編成出力:0系=11,840 kW、100系=11,040 kW)を得ることができる。電動車台車はDT202、付随車台車はTR7000と呼称され(いずれもJR西日本の場合は頭に「W」を付す)、0系のDT200と同じくIS式軸箱支持装置、枕バネを採用している。コスト削減のため、DT202とTR7000の台車枠は共通のものが用いられ、車輪径は910mm、輪距は2,500mm、重量は9,800 kg (DT202) 9,225 kg (TR7000) となっている。乗り心地向上を目指し、DT200と比較して、左右の振動の減衰に関係してくる空気ばねの横剛性は1.33倍、左右動ダンパー減衰係数も1.5倍となっている。また、車輪のレール接触面の形状を円弧にし、軸箱の強度もDT200の2倍とすることで、フランジの磨耗を防いでいる。集電装置は0系から引き続き下枠交差型パンタグラフが採用された。PS202と呼称される。基本構造は PS200A(0系)と同一であるが、PS201(200系)と同様に集電舟(架線と接触する部分)が可動式となった微動すり板を採用したことにより架線追従性が向上し、0系に比べて離線率を20%減少させることができた。また、パンタグラフ半減に対応し、走行時に立ち上がることを防ぐためにかぎ装着部を二重ロックとしている。当初は各電動車ユニットごと、16両編成で6基のパンタグラフを使用していたが、1991年3月の東海道新幹線のATき電化により3基に半減された。これは天井に這わせた高圧ケーブルによる特高圧引き通しを実施し、パンタグラフのないユニットへの主電動機への電力供給も可能になったためで、この方法は以降新製される新幹線全車両に採用されている。列車無線装置はバージョンアップされ、0系で使用していたVHFによる無線から線路のそばに敷設された漏洩同軸ケーブル (LCX) に流れた情報を先頭車(1号車)の足元に設置されたアンテナが受信して通信をやり取りする方式に変更し、東海道区間ではJR化後の1989年3月から、山陽区間では2000年3月から岡山まで、2004年3月から全線で本格運用を始めた。回線数が増えたことから、車内公衆電話は2両に1箇所設置することが可能となった。そのための準備工事は事前に実施されていた。また、それまでの車内電話は列車内発信時にはオペレータを通し、なおかつ沿線の都市のみが通話可能エリアであったが、これにより日本全国へのダイヤル通話ができるようになった。平屋車両の場合、グリーン車は博多寄り車端の1か所に、普通車は各車両端の2か所に客用扉・デッキを設けた。なお食堂車として製造された168形には車端にデッキがあり、客用扉と同様の扉を持つが、業務用扉であり、乗客の乗降には供されない。また、グリーン・カフェテリア合造車として製造された148形には、東京寄りのデッキに客用扉と同様の扉を持つが、業務用扉であり、乗客の乗降には供されない。便所は2両に1箇所(奇数号車の東京寄り)に設置されており、大便所2箇所(洋式便器1箇所+和式便器1箇所)と小便所1箇所、洗面所2箇所という構成である。空調機器は0系同様のヒートポンプ式である集約分散式の AU83 (冷房能力25000kcal/h、暖房能力17000kcal/h)を1両あたり2基搭載とし、0系ではやや不足気味であった暖房能力の強化を図った。壁などは、内装の工事が容易に行えるようにフィルムシートが張られ、できるだけ金属色やねじを見せないようにねじ隠しがされている。普通車の内装は、奇数号車がブルー系、偶数号車がブラウン系の配色となり、シートモケットやカーテンなどのデザインが異なっている。平屋車両の場合、室内高さは2,100mmで、0系よりも10mm大きくなった。普通車には直接照明が採用されているが、グリーン車と食堂車には、新幹線車両として初めて間接照明が採用された。また、グリーン車では、荷棚の下に読書灯が各席毎に設置された。0系2000番台に引き続き、車内の窓周辺部がFRPユニットとなっており、窓下のかまちが復活している。普通車は通路を挟んで3列+2列に座席を配置しているが、前後間隔(シートピッチ)を0系2000番台の980mmから1,040mmに広げ、リクライニング角度を、0系の17 - 22度から、6 - 31度まで拡大することによって、3人席においても回転・リクライニング可能とした。内装にあわせて、奇数号車の座席はブルー系、偶数号車の座席はブラウン系にまとめられている。肘掛先端にはリクライニング用のレバーと灰皿(喫煙席のみ)が設置されている。グリーン車は通路を挟んで2列+2列に配置している。開放式座席がほとんどであるが、X・G編成9号車には個室も設置された。座席間の肘掛部分にオーディオサービス用機器が埋め込まれ、喫煙車の座席には端側の肘掛に灰皿が設置されている。肘掛内部にはインアームテーブルが備えられ、取り出して使用することが可能である。初期の座席には、座席背面のテーブルが設置されていないものがある。ミュージックサービスとNHKラジオ第1放送の送信を始めた。普通車では手持ちのFMラジオ で、グリーン車内では備え付けのイヤホンで聴くことができる。このサービスは、以降新製される東海道・山陽新幹線の16両編成の全車両に装備されている。LED式(単色、V編成は2色)の電光掲示板が装備された。電光掲示板の上部にはデジタル式の時計、右側に次の停車駅までの距離を7セグメントで表示する装置が配され、通常走行時はLCXから送信されたニュースを表示した。X編成では当初速度表示もなされていたが後に取りやめとなっている。G32 - G50編成では電光掲示板の文字を大きくし、時計と距離表示は省略された。後者の電光掲示板は、300系では同じタイプのものが搭載され、以降の全ての新幹線車両に標準搭載されている。この電光掲示板は、一部が0系WR(R60番台)編成に転用された。東海道新幹線の利用客は昭和51年をピークに減少傾向をたどり、列車の減便さえ行われる厳しい事態となっていた。そのような経緯から、新幹線100系電車は客室(サービス面)を中心としたモデルチェンジが指向された。そしてより明るく快適な新幹線として、話題性を高めイメージアップを図るべく、新幹線としてはじめて2階建て車両が組み込まれた。基本的に階上は、車窓が良いことや乗客の通り抜けがないことからグリーン席や食堂、階下は普通車指定席、カフェテリアもしくは個室が設定された。詳細は#各編成の概要を参照。客席部分を最大限使用するため、電動機などの機器を搭載することができず付随車となった。また、空調設備は室内機と室外機を分離したセパレート方式とし、床上には機器室を設けることで搭載スペースを確保した。2階建て車両は、平屋車両との段差が大きくなるために空気抵抗が増加することや車体重心が高くなることから、車高はできるだけ低い方が望ましい。しかし、2階建て車両投入によるイメージアップも重要なテーマのひとつであることから床面をレール面上200mmまで下げ、屋根高さを平屋車両と比べて500mm高い位置に持ってくるなど、車両限界を有効に使い設計された。V編成「グランドひかり」の場合、室内高さは、1階部分が1982mm、2階部分が1986mmとなっている。なお、車体重心をできるだけ下げるため、1階部分の車体構造が強化され、厚い鋼板が張られている。東海道・山陽新幹線区間では、300系以降で車両軸重を11.4t以下にすることを目標に設定したことや定員の相違による互換性の面での支障、速度向上のために車両の軽量化や走行抵抗の軽減が求められた結果、2階建て車両の新造はされていない。16両編成の中央に連結された2階建て車両のうち、8号車にはカフェテリアもしくは食堂といった供食設備がおかれた。東京駅 - 博多駅間の長距離運用向けに製造されたX・V編成には8号車の1階に厨房・売店と通路が、見晴らしの良い2階には食堂が設置された。X編成とV編成では、車両外観はほぼ同じであったが、内装は全く違っていた。X編成に組み込まれた9000, 0番台車両では、食堂出入り階段付近に設置された、東海道・山陽本線を駆け抜けた代表列車のエッチングによる装飾が大きな特徴である。このエッチングは、元国鉄の黒岩保美が製作したものである。この中には100系もあるが、9000番台(X1編成)では小窓で描かれていた100系は、0番台(X2 - X7編成)では大窓で描かれている。V編成に組み込まれた3000番台車両は、入り口付近の装飾や壁面に大きな飾り花が設置されたのが特徴である。1階の厨房から料理を2階に運ぶために料理用エレベータが設置された。G編成は、グリーン席の増加と短距離運用中心のため、8号車の2階席をグリーン席にあて、1階部分にカフェテリアを設置した。山側に通路が、海側にショーケースと簡易厨房が設けられていた。製造次によって、床模様や柱の本数・デザインが異なっている。食堂車の営業は2000年3月10日で終了したが、その後も食堂車は連結されたままだった。カフェテリアの営業は100系による定期「ひかり」運用が消滅した2003年8月22日まで続けられた。本系列に属する各形式名とその車種は以下の通り。基本的に電動車は奇数形式と偶数形式でペアを組んでMM'ユニットを構成し、16両編成の場合は6組のMM'ユニットと4両のT車(X・G編成は1・8・9・16号車、V編成は7・8・9・10号車)で、6両および4両編成の場合は全てMM'ユニットで組成される。番台としては、試作編成でもあったX0(後にX1編成に改造)編成は9000番台、それ以外のX・G編成は0番台を、V編成とK・P編成の中間車は3000番台を、K・P編成の先頭車は5000番台を名乗る。1985年から1987年に落成した100系初の編成。先頭車と2階建車両各2両の計4両が付随車である。2階建車両は8号車と9号車に組み込まれ、8号車は食堂車、9号車は階上がグリーン車・階下がグリーン個室(1人用5室、2人用3室、3人用1室)である。1984年5月14日に国鉄常務会において、後にX0編成となる新幹線試作車の製作を決定した。試作車である9000番台X0編成(1985年3月27日落成・1986年8月から10月にかけて量産化改造を実施し、X1に改番)は、量産車とは以下にあげる違いが見られた。1985年3月27日に公式試運転を東京 - 三島間で行った。その後、直ちに営業運転に使用せず、4月には東京 - 博多間で営業速度での試験を実施した。さらに、9月まで速度向上試験を実施し米原駅 - 京都駅間で230km/hを、小郡駅(現在の新山口駅) - 新下関駅間で260km/hを記録した。1985年10月1日から「ひかり3号」(東京8:00発博多行)と折り返し「ひかり28号」(博多15:45発東京行)の1往復で営業運転を開始した。ともに食堂車の担当は日本食堂。当日は、営業運転開始に当たって東京駅で出発式が行われた。ただし、1編成しか在籍していなかったため、検査日などは0系が代走した。1986年落成の量産車である1次車(4編成・48両)は2階建車両のない12両編成(暫定G編成・G1 - G4)として搬入され、6月13日から「こだま」として運用された。これは、100系がすでに登場した当時、「こだま」用車両の置き換えとして0系を製造するのも今更どうかということになったためである。車椅子対応設備・多目的室は「ひかり」用編成が11号車なのに対して、「こだま」用編成ということで0系12両編成と同じ5号車となっていた。12両G編成は、2次車(中間車両のみ・12両)が組込まれて16両編成化され、編成番号をX2 - X5に変更した。11月からは「ひかり」として営業運転を開始した。同時に、最高速度が220km/hに向上された。分割民営化直前の1987年3月に3次車2本 (X6・X7編成)が落成され、X編成の増備は終了した。分割民営化後は全編成がJR東海に承継された。東京駅 - 博多駅間の「ひかり」を中心に運用されており、運用によっては1日の走行距離が2,500km以上にも達し、7編成しかないことから0系H編成のように走行距離を平滑化するのは難しく、検査周期も他の編成に比べて極端に短かった。1998年10月2日の「ひかり126号」(新大阪発東京行き:X1編成)を最後にX編成の食堂車営業と「ひかり」運用が終了し、以降は東海道区間の「こだま」のみとなった。総走行距離が車齢に比して多かったことから、0系Y編成の撤退半月後である1999年10月1日の「こだま429号」(東京発新大阪行き:X1編成)を最後に定期列車の運用から離脱した。同年8月から2000年11月にかけて全車が廃車となった。1987年から1991年までに落成した編成で、当初はJR東海のみ所有していた。部内で「100'(ダッシュ)系」と呼称される。車両番号のハイフン以下の数字はX編成からの通し番号だった。X編成と同じく先頭車と8号車と9号車に組み込まれる2階建車両各2両が付随車である。2階建車両のうち9号車はX編成と同じくグリーン車とグリーン個室であるが、「ひかり」の利用客が増加傾向にあったことや東京 - 新大阪間で重点的に運用することを念頭におき、0系と比べて個室を除いたグリーン車定員が少ないことから、8号車については食堂車の設定をやめ、階上にグリーン車・階下にカフェテリアを設け、グリーン車の定員を増やした。16両1編成の製造価格は31億円とされており、後継車両である300系と比べると2 - 3割小さい。1編成に対して1社が製造を担当したが、技術力の向上とコスト削減を目的として、6両(G30・G37・G50編成の12・13号車)が浜松工場で製造された。車両製造のため、浜松工場の従業員22名が日本車輌製造豊川製作所で8か月もしくは10か月の間研修を受けている。なお、該当編成の残り14両は豊川製作所が担当した。G編成としての最初の編成であるが、X編成から連続して扱われたため4次車となっている。山陽新幹線博多開業用として増備された0系16・17次車置き換え用として、1988年2月から3月にかけて3編成48両(G1 - G3編成)が落成した。新製時、8号車が食堂車(168形)からカフェテリア・グリーン合造車(148形)に変更された以外はX編成と同様であった。1989年1月から2月にかけて、5次車以降と個室配置を統一するための工事(1人用2室を4人用1室に変更)を実施した。それに伴い、車両番号の変更が行われている(149-7, 8, 9 → 149-101, 102, 103)。山陽新幹線博多開業用として増備された0系16 - 20次車置き換え用として、1988年12月から1989年3月にかけて12編成192両(G4 - G15編成)が落成した。落成時から個室配置が、1人用3室、2人用3室、3人用・4人用各1室となっている。0系16 - 20次車置き換え用として、6次車として1989年4月から9月にかけて5編成80両(G16 - G20編成)が、7次車として1989年7月から1990年3月にかけて11編成176両(G21 - G31編成)が落成した。普通車座席に足掛けとバケット形状の座席が採用され、カフェテリア通路部分のポールの本数が5本から4本に減らされている。また、東海道区間のATき電化への準備としてパンタカバー設置と特高圧引き通し準備工事が施された。0系16 - 20次車置き換え用として、1990年4月から1991年2月にかけて10編成160両(G32 - G41編成)が落成した。視認性を向上させるため、電光掲示板の文字の拡大と行先表示器への蛍光灯内蔵、2・3人用個室のデザイン変更が行われた。このため、電光掲示板の時計と距離表示は省略された。電光掲示板の改良は既存編成には行われていない。「ひかり」運用の増加に対応するため、9次車として1991年1月から3月にかけて4編成64両(G42 - G45編成)が、10次車として1991年5月から1992年2月にかけて5編成80両(G46 - G50編成)が落成した。1992年2月26日落成のG46編成が100系の最終増備編成である、落成時から特高圧引き通しの実施と集電装置の削減(2・6・12号車のみ搭載。)、集電装置すり板の改良(すり板幅を25mmから40mmに拡大)が行われた。既存編成には追工事の形で対応がなされた。1988年3月13日改正で、東京駅 – 新大阪駅間3往復の「ひかり」で運転を開始。当初は東京駅 - 新大阪駅間の「ひかり」のみ使われていたが、増備が進むにつれて運転区間が拡大した。1989年3月11日改正で広島まで、1993年3月18日改正で博多まで運転区間を拡大した。それでも、東京駅 - 博多駅間の「ひかり」はX編成やV編成などを使用していたことからG編成が使用されることは少なかったが、X編成が「こだま」へ転用された後は本数が増えた。一方では300系の増備と0系の廃車が進んだために1995年ごろから「こだま」にも充当されるようになっていた。2003年9月16日の「ひかり309号」(東京発新大阪行き:G49編成)を最後に東海道新幹線での運用から離脱、2004年3月1日のG50編成の廃車を最後にJR東海所属のG編成は消滅した。山陽新幹線においては、2003年9月15日の「ひかり556号」(博多発新大阪行き:G2編成)を最後に16両編成の営業運転を終了する予定であったが、2004年1月22日に代替編成として使用され、「こだま651号」(岡山発博多行き:G7編成)が最後の営業列車であった。2004年3月30日にG7編成が廃車となったことでG編成は消滅した。これによって16両編成の100系も消滅した。1996年にG1 - G3・G6の4本、1997年にG4・G5・G7の3本、7編成の計112両がJR西日本へ譲渡された。背景としては、JR西日本はJR東海に比べ新幹線の輸送量が少ないため短期間で新車を大量投入することは難しく、JR西日本受け持ちの東京直通「ひかり」にも0系を充てる状況であったことが挙げられる。しかし、それでは100系に比較すると動力性能の低い0系の運転曲線を基準にしたダイヤを組まなくてはならないため、それを嫌ったJR東海がJR西日本に譲渡したものである。また、JR西日本も阪神・淡路大震災で山陽区間に閉じ込めとなったG編成の検査経験があることから譲渡が実現した。JR西日本に譲渡されたG1 - G7編成は、0系のN編成の運用をそのまま置き換えたため、運輸上の区別でのみ「N編成」と称されていた。譲渡後は東海道直通だけでなく山陽区間のみの「ひかり」にも使用された。そのG編成のうち、1999年11月9日付けでG6編成の9両、2000年2月7日付けでG2編成の3両、同年3月27日付けでG6編成の1両 が廃車となり、残った車両で新G2編成を組成した。なお、このとき組成から外れたG6編成の3両 は保留車となり、K・P編成組成時に使用された。2000年以降、JR西日本が所有することとなった「こだま」用のK・P編成を製作する際に必要な先頭車(121形・122形)と車椅子スペース設置車(125形3700番台)が不足するため、JR東海所有のG編成のうちG9・G10・G15・G19・G30・G43編成 が、8両に減車(1/2/11/12/13/14/15/16号車)されて浜松工場から博多総合車両所まで自力回送された。回送された車両のうち、両先頭車(123形・124形)と車椅子スペース設置車(125形700番台)がJR西日本に譲渡され、譲渡されなかった車両は博多総合車両所で廃車・解体となった。JR西日本が1989年から1991年にかけて製造した編成で、部内で「100N系」と呼ばれ、「グランドひかり」の愛称を持つ。X・G編成とは異なる点が多い。V編成による将来の270km/h運転を見据え、270 km/hが可能な走行性能が与えられた。具体的には、また、山陽新幹線区間230km/h走行を行うため、ATCの220信号を230に読み替えるトランスポンダ車上子を搭載する。通常のATC信号はATC受電器が受信するが、220信号の時のみ、トランスポンダ地上子が230km/h走行を許可するか否かの信号に変換してトランスポンダ車上子に送信する。先頭車を制御電動車とすることで付随車は2階建車両4両(7 - 10号車)に充てた。7・9・10号車の3両は、階上はX・G編成と共通のグリーン席であり、座席ごとに液晶モニターが設置され、山陽区間ではビデオソフトの視聴ができた。階下はその後の「ひかりレールスター」(700系7000番台)につながる、普通車指定席でありながら、横4列配置のゆったりとしたサイズの座席(WRK206形)が配置されていた。7号車にはビデオスクリーンが、9, 10号車には28インチのモニタディスプレイが設置され、ビデオの視聴が出来た。その上、利用客の嗜好に配慮した、適度な照明と、落ち着いた色調のインテリア、付随車ならではの静粛性などから、この指定席を指名買いする常連客も存在した。東京駅 - 博多駅間の長距離を運転することが基本であったことから、8号車はX編成と同じく食堂車とされたが、内装は大きく変更され、階下の売店は面積が2倍に拡大された。しかし、発電ブレーキを持たない付随車は、動力車に比べ制動時の減速度の立ち上がりが遅く、少なからず振動が発生する傾向があった。しかも4両連続で編成中間に組成された2階建車両の慣性エネルギーは相当なもので、制動のたびに大きな前後衝動が発生することになった。非常連結器の下に、空気取り入れ口が設けられた。これは、先頭車が電動車となったため、主電動機を冷却するためのものである。中間電動車は床下から冷却風を取り入れていたが、制御車では排障器(スカート)があり、走行風を取り込みにくいため、この部分から取り入れることになった。出入口付近に設置してある行先表示器を字幕式から3色LED式に変更し、上部に列車名と行先を表示しながら下部での停車駅のスクロール表示などを可能にした。これは、JR西日本独自仕様として、これ以降JR西日本で新製投入された300系以外の全新幹線車両 に採用されている。1989年2月から3月にかけて2編成32両(V1・V2編成)が落成した。V1編成が270km/h走行対応編成、V2編成は270km/h走行準備工事編成である。2次車として1989年6月に1編成16両(V3編成)が、3次車として1989年12月に1編成16両(V4編成)が落成した。1990年7月から12月にかけて2編成32両(V5・V6編成)が、5次車として1991年2月に1編成16両(V7編成)が落成した。グリーン席に新たに5インチの液晶テレビが搭載される。既存編成にも追工事の形で行われている。また、大便器の構成が和式便所2か所から洋式便所1か所+和式便所1か所に改められ、洗面所の内装が変更されている。6次車として1991年7月から12月にかけて2編成32両(V8・V9編成)が落成した。東海道新幹線のAT饋電化完了後に落成したため、落成時から集電装置の削減(4・6・12・14号車のみ搭載で、6号車のものは予備扱い。)が行われている。1989年3月11日改正から「ひかり」で運用を開始した。1990年から高速試験が実施される。ライバルである航空機に対抗するため、新大阪駅 - 博多駅間を2時間30分前後で結ぶことを念頭に目標速度は275km/hに設定された。「We try 275」とマーキングされ、騒音源となるパンタグラフを6個から3個に減らしたV編成は、同年2月10日に277.2 km/hを達成した。しかし、試験走行の結果、255 km/h付近から騒音が急激に増加し、275 km/hでは騒音値が環境基準 をクリアできなかった。また、ATCに速度段を追加するほどの時間短縮効果が得られないとのことから、最高速度は230km/hのまま営業が続けられた。このV編成も高速化の影響を受けた。需要の急減に伴い、2000年3月10日をもって食堂車の営業は休止され、山陽新幹線博多開業前年の1974年から始まった新幹線食堂車の歴史は終了した。その後、2002年5月18日で定期列車の運用を終了し、同年11月23日の「ひかり563号」(新大阪発博多行き:V2編成)の運転をもって営業運転から離脱した。そして同月25日にV2編成が編成名削除となり、V編成が消滅した。運用は東京駅 - 博多駅間の「ひかり」を中心に使われ、最後まで、東海道新幹線内運行の「こだま」に使われることはなかった。経年が20年と、老朽化が進行していた「こだま」用0系R編成の大半とQ編成の置き換え目的で、長距離運用から離脱したV編成に短編成化・車両延命工事を実施したものである。全車がJR西日本に所属し、6両編成はK編成、4両編成はP編成と呼称される。P編成は2000年から2001年、2003年から2005年に、K編成は2002年から2003年に組成されている。P編成は2000年10月4日(P1編成)から、K編成は2002年2月12日(K51編成)から 営業運転に充当されている。全車普通車で構成されている。前述の通り、P編成は2011年3月12日のダイヤ改正で運用離脱した。同年6月8日付のP7編成の廃車をもって、P編成は消滅した。編成が短くなり、2階建車両を外したことから全車電動車となった。16両編成では10号車(116形もしくは178形)に車掌室が設置されていたが、短編成化によってグリーン車と2階建て車両が編成から排除された結果、新たに車掌室を設置する必要が生じた。そのため、P編成は両先頭車乗務員室出入り台に案内用設備を取り付け、K編成は4号車に車掌室を設置した。短編成化において、V編成の車両だけでは先頭車(121・122形)と車椅子対応設備設置車(125形3700番台/3号車に組み込み)が不足するため、G編成車体を利用した改造車両(121・122形5050番台、125形3750番台)がK52・K55・K57・K60・P3 - P5・P7 - P12編成に組み込まれる。この改造車両は車両番号の下2桁が50番台で区別されている。V編成では東京寄り先頭車両(16号車・122形)のパンタグラフは撤去されていたが、K・P編成組成時に再設置され、2・6号車(K編成)2・4号車(P編成)に搭載し、高圧引き通し線も設置されている。また、V編成に引き続いて先頭車が電動車であることから、非常連結器の下に、空気取り入れ口が設けられている。V編成に搭載されていた230km/h走行用トランスポンダ車上子は短編成化改造時に撤去され、トランスポンダ地上子も「グランドひかり」運転終了後に撤去されているため、230km/h走行を行うことはできない。短編成化改造において新たに発生した番台区分について以下に記す。P1 - P3編成は当初、V編成普通車の2列+3列のものを流用していた。K編成とP4 - P12編成は登場当初から2列+2列の座席を使用していた。これには、0系「ウエストひかり」普通席仕様の座席、100系G・V編成のグリーン席、100系V編成2階建て車両1階席の4種類がある。元グリーン席についてはフットレストなどの付帯設備を取り外して普通席と同じシートピッチに配列する方法で、「ひかりレールスター」の指定席並みの座席にグレードアップした普通車として改造された。ウエストひかりからの流用車の一部(肘掛けのやや大きいもの)は肘掛内蔵テーブルが存置されている。一方、グリーン車から流用した座席では、背面テーブルのある座席は肘掛内蔵テーブルが撤去されているが、背面テーブルのない座席では肘掛内蔵テーブルが存置されている。現在は全編成が前述の2列+2列シートに交換されている。なお、座席の変更に伴う車両番号の改番は実施されていない。元ウエストひかり普通車と元V編成DD1階席はシート自体の形が酷似しているが、シートの足の部分(箱型のものが元V編成1階席のもの、そうでないものが元ウエストひかり普通車)で区別ができる。ただし、3号車の車椅子対応の1人掛け座席は、K編成とP7 - P12編成には元V編成、それ以外の編成は元ウエストひかり用のものに車椅子固定用金具が装着された物が設置されている。モケットの色は奇数車両が赤系、偶数車両が青系に統一されている。奇数号車偶数号車客室扉は、種車が2列+3列の座席配置であったため座席の配置とずれているが、車椅子対応設備が設置されている3号車新大阪寄りと車掌室を挿入したK編成4号車博多寄りの扉は車両の中心にあるため、座席とのずれはない。登場当初のK51 - K53・P1 - P6編成は従来の白地に青帯を配したものであった。2002年8月に出場したK54編成からは、「こだま」のアコモデーション改善(2列+2列座席化)を認知しやすいように塗装が変更された。「新緑や若草など新たな誕生の息吹」をイメージして、ライトグレーを基調に、窓部分にフレッシュグリーンとダークグレーの帯を配した。スカートも濃いグレーに、車内のカラースキームもシルバー系に変更した。この塗装変更に伴い、車両側面に配されていた大型のJRマークが撤去され、車両番号横の小さいJRマークに変更された。従来塗装車も全検時に塗り替えられた。0系が2008年12月に引退したが、2009年4月以降、デッキにある車両案内板が新型に交換されている。従来のものは0系R・WR編成と共通のものであったが、案内板上部に「100系6両編成」もしくは「100系4両編成」と書かれた、500系V編成と同等のものに変更されている。2010年7月2日に、K編成のうち3編成を旧塗色(白地に青帯)に戻すことを発表した。6月から塗り替え作業が行われ、7月15日にK53編成が、8月にはK54編成が、9月にはK55編成が旧塗色に変更され、営業運転についている。なお、塗色変更1本目であるK53編成は、新塗色であったK54編成と並べられて、7月12日に博多総合車両所において公開された。P編成は新大阪駅の信号システムの都合上、同駅に入線することができないため、博多駅 - 岡山駅(以前は姫路駅)間の限定運用とされている。姫路駅および相生駅にはP編成が停車していた名残として4両編成用の停止標識が現在も残っている。P2編成は、かつての訓練車であった0系元Q3編成に代わり、2009年2月8日未明に新下関乗務員訓練センターに訓練車として自力回送された。翌日の2月9日付けで廃車扱いとなり、以降は車籍の無い訓練用機械として乗務員の訓練に供用されていたが、2013年4月に訓練内容が車両の運転からシミュレーションに切り替わるため、同年3月末をもって訓練車としての役目を終えることが決定した。お召し列車としては1986年5月以降は100系が使われた。0系と違い、100系に装飾がなされないのは無線が普及したため、通常の列車とお召し列車の区別がつくようになったためである。新型車両として300系や500系、700系が主流となってしばらくの間も100系が使われていた。これは、100系にある個室や2階建てグリーン車の方が警備上都合が良い(1階に警備員を配置できるので同じ車両で警備することができる)ためである。100系のグリーン車が全て消滅し、一時期は700系グリーン車が一般編成に混ざって使用されていた。2010年6月12日からは、N700系のグリーン車が使用され始めた。100系は、300系から採用されているボルスタレス台車の試験車としても活躍した。試作台車として製作されたDT9023A, B, C, D, E, Fの6種類が試験で使用された。A, Bは0系用ボルスタレス試作台車のDT9022の改良版で1985年に製作された。同年に925形に搭載されて270km/h試験、翌1986年にX編成での210km/h走行試験が実施され、100系用のDT202よりも乗り心地の改善と横圧の減少が確認された。C, Dが乗り心地の改良版で輪軸、駆動装置、軸箱支持装置をA, Bから流用している。1987年に製作され、翌1988年から100系に搭載されて営業運転で使用、30万kmの走行を行った。E, Fは1989年に製作された300系仕様のプロトタイプであった。220 km/hでの走行試験を実施後、C, Dと同じく営業運転での30万kmの走行を行った。1991年にはV編成を使用して275km/hでの走行試験を行った。軸箱支持方式は、主にJR東海が「円錐積層ゴム式」と「円筒積層ゴムコイルばね併用式」を、JR西日本がV編成を使用して「軸はり式」を試験走行を実施した。「円錐積層ゴムコイルばね併用式」が300系、700系(JR東海所有分)、N700系(16両編成)に、「軸はり式」が500系、700系(JR西日本所有分)、N700系(8両編成)に採用された。1991年9月30日、新大阪行き最終列車となる「ひかり291号」に発生した。東京駅を発車して300m地点で、運転台に車輪固着を知らせる警報が作動。15号車新大阪寄りの台車のうち、東京寄りの車軸が固着していた。21時00分に東京を発車して、21時25分、浜松町駅通過までに計8回もの警報が鳴ったにもかかわらず警報のリセットを繰り返し、車輪が固着したまま三島駅(東京から約100km)まで走行した。8回目の警報が作動した後、運転士はCTCセンターの指令員に停止する旨を伝えると、指令員は運転継続を指示した。運転士は、新横浜駅に駅員と、近くの上り新幹線の運転士に床下から火花が出ているかどうか確かめてほしいと連絡を入れた。そして、固着が起きている15号車の床下から火花が出ていることが確認された。それを受けて、運転士は指令員に列車の停止を伝えると、指令員からは運転継続が指示された。「ひかり291号」が新大阪行きの最終列車であったことや、三島駅(三島車両所)に予備の編成があったためである。さらに、定刻から20分遅れであったため、上限速度ぎりぎり(ATCの頭打ち速度である225km/h)での運行も指示された。そのため、東京駅基準で41キロメートル地点と78キロメートル地点の計2度、ATCブレーキがかかっている。その時も、指令員は「運転を継続してください」との連絡を入れていた。三島駅で停車して全体を検査したところ、前述の15号車の新大阪寄りから2番目の車輪が長さ30cm、深さ3cmにわたって削られており、2つの車輪をあわせて約6kgもの金属が消滅していた。また、車輪が削られたことでフランジ部分が下がり、ATC信号を流すレールボンドが損傷していた。その後の調査で、このトラブルの原因は車軸の駆動用モータ脇に設置されている駆動装置が、油が漏れたことによって破損したために車輪が固着してしまったことによるものであることがわかった。該当列車に充当された編成は、1991年7月2日実施の台車検査時に油を交換したが2日後の検査時には油が完全に抜けてしまっていた。故障前日の仕業検査時にも3Lの油漏れが見つかったため、不足分を補給するために給油栓を開けると油が霧状になって噴出した。歯車箱内が異常な高温状態になっていたためと考えられる。通常の補給量は0.5L程度である。従来の点検マニュアルでは、車輪固着の警報が作動したときには、ブレーキの固着と車軸の過熱による「軸焼け」の点検が定められており、車軸の固着の点検については記載がなかった。しかし、この事故後、JR東海は、点検マニュアルに「列車を車転2回転分だけゆっくりと動かして、車輪の回転状態を確認する」という項目を追加した。なお、1992年6月15日に100系V3編成11号車 のもっとも博多寄りの車軸付近から大量の油漏れが発見された。軸受に使用していたベアリングが異常磨耗を起こして脱落していたことが原因であったが、前述の1991年9月30日に車輪固着を起こした車両のベアリングと同種類のものを使用していたため、その事故原因もベアリング破損による油漏れであるといわれることがある。2007年9月にK54編成 の鉄製骨組みやステンレス製屋根から、2009年6月にもK53編成2号車の鉄製骨組みからひびが発見されるなど、老朽化が進んでいるとみられるトラブルが発生した。山陽新幹線で運転される「こだま」と博多南線「特急」に充当されている。具体的には、JTBパブリッシング発行の時刻表では「100系」、交通新聞社発行の場合は「6両編成グリーン車なし」、JR発行の無料時刻表の場合は、6両編成の列車のうち、全席禁煙でない列車に充当されている。以上の列車が、2012年3月14日まで100系で運用された列車であり、100系の最後の定期運用であった。1985年10月1日から、東京 - 博多間の「ひかり」1往復(X0編成)で営業運転を開始した。食堂車を組み込んだX編成が1987年まで増備され、順次運用列車が増やされた。国鉄分割民営化後の1988年3月13日からは、食堂車に代わってカフェテリアを組み込んだG編成が、東京 - 新大阪間の「ひかり」3往復で運用を開始した。1989年3月11日からは、食堂車を含む2階建て車両を4両組み込んだV編成が、東京 - 博多間の「ひかり」4往復で運用を開始した。また、同改正からG編成が新大阪以西でも運用されるようになった。100系を「ひかり」運用に投入していくことで、0系H・N・N編成を淘汰していった。1992年3月14日ダイヤ改正までに16両編成66本が揃った。同改正において、300系が登場し、「ひかり」運用でも徐々に使用されているようになると、とくにG編成は「こだま」運用にシフトした。それによって東海道区間に残る0系を淘汰した。2000年10月1日ダイヤ改正では、JR東海所有のG編成が定期「ひかり」から撤退し、臨時「ひかり」と「こだま」で運用されるようになる。また、山陽区間で「こだま」として運転されるP編成(4両編成)が登場した。P編成の当初の運用区間は姫路 - 博多間であった。2003年8月22日の「ひかり179号」で定期「ひかり」運用から撤退した。同年9月16日の「ひかり309号」(G47編成)をもって100系は東海道新幹線から完全に撤退した。ただし、新大阪 - 「鳥飼基地」間の回送列車は2010年3月12日まで走行していた。また、2003年度中に、JR東海所有分の100系は全て廃車になった。2003年10月1日のダイヤ改正以降、100系の定期運用は山陽区間における「こだま」のみとなった。K編成は新大阪 - 博多間で運用されるが、P編成の運用区間が岡山 - 博多間に縮小された。0系引退に伴う2008年12月1日のダイヤ修正以後、500系V編成の投入や「こだま」自体の減少によって一部編成に廃車が出ていたが、2011年3月12日のダイヤ改正で運用区間を岡山 - 博多間に縮小し、P編成は運用から撤退した。なお、鳥飼基地での夜間滞泊運用は2010年3月13日のダイヤ改正で消滅している。2011年12月1日にはさらに運用が縮小され、朝晩を中心に5本のみで運用された。2012年3月14日をもって定期運用から撤退し、同月16日のさよなら運転「ひかり445号」(K55編成)をもって営業運転から撤退した。のぞみ型車両と呼ばれる、300系、500系、700系が登場した1990年代には新幹線の高速化が進み、走行性能的に0系と大差ないレベルの100系は高速ダイヤに対応することができなくなった。また、山陽新幹線区間単独での運用の場合、16両編成では1編成当たりの輸送量が過剰なため、V編成を中心に短編成化が進められていった。そのため、車両自体の寿命を迎える前に大量淘汰を受けることとなった。以下、2003年5月以降のG編成は運用離脱状況を記す。5月1日時点で15本(G1 - G5, G7, G24, G32, G36, G40, G42, G44, G46 - G50編成)が在籍しており、ひかり1往復(名古屋駅 - 博多駅間)、こだま11往復(東京駅 - 新大阪駅間4往復、東京駅 - 名古屋駅間6往復、名古屋駅 - 新大阪駅間1往復)に充当されていたが、300系に置き換わる形で徐々に運用が減少していった。2003年8月31日に東海道新幹線での定期運用を終了した100系が、同年9月13日・15日・16日の3日間、以下の臨時「ひかり」として東海道新幹線区間で運転された(始発駅出発時刻順)。当該列車には、さよなら運転初日の2003年9月13日時点で在籍していたG42, G44, G46, G47, G49, G50編成の中からG46, G47, G49, G50編成が準備され(各編成の車番についてはG編成の節を参照。)、G47編成以外の4本が使用された。このうち16日の最終列車に使用されたG49編成は、先頭車と中間車の一部にさよなら100系の特別装飾が施された。また、G47編成は、G49編成の予備として先頭車のみに特別装飾が施され、東京第二車両所にて待機していた。東海道区間では2003年9月をもって運用終了した100系だが、山陽区間においてはK編成・P編成による「こだま」運用が続けられていた。しかし、前述の走行性能差の問題があることや、経年劣化が進行していることに加え、「のぞみ」のN700系化に伴う500系の8両化改造・「こだま」転用が2008年12月から行われ、さらに2011年3月12日の山陽・九州新幹線直通列車「みずほ」「さくら」への専用車両となるN700系7000番台・8000番台投入に伴う700系7000番台による「こだま」運用への充当に伴い、運用は縮小していった。P編成については2011年3月12日のダイヤ改正で運用離脱(上述)したが、残る100系K編成も2010年12月17日のプレスリリースで2011年度中に全廃する予定であることが発表された。2010年7月2日に、6両編成(K編成)3本を落成当時の白3号と青20号の車体塗装に復元することがJR西日本から発表された。2011年12月16日、この発表日の次のダイヤ改正日である2012年3月17日において、300系とともに運用終了となることが発表された。2012年3月14日のこだま766号をもって定期運用を終了し、3月16日に最終列車として臨時列車のひかり445号(岡山→博多)が運行され、100系の運用がすべて終了した。定期運転終了後の2012年3月16日にさよなら運転が実施された。車内放送用メロディーが2003年秋まで使用されていたものに戻され、岡山 - 広島間で記念乗車券の配布が行われた。また、岡山駅において同日に行われた300系さよなら運転「のぞみ609号」と並ぶ演出がなされた。このさよなら運転では万が一運行不能になった際に備え、K54編成が岡山支所に待機していた。2013年4月1日現在、元K54編成6号車の122-5003のみが車籍を有しており、正式には廃系列とはなっていない。最終的に本系列として実現する0系後継車の構想は1981年ごろには既に存在し、今後の国鉄車両の方向性を示すものの一つとして各種メディアや『鉄道ファン』などの鉄道雑誌に取り上げられた。当時公表された構想図のうち、先頭部形状や塗色については大まかな概念図が主であったが、アコモデーションのそれは2階建食堂車のレイアウトやグリーン個室など、この時点で後年の実車にかなり近いものであった。また、実現しなかったものでは2階部分をフリースペースのラウンジとした案もあった。これらの案に基づいて、浜松工場では2階建て車両のモックアップが制作された。また、V編成「グランドひかり」以外の編成による「ひかり」の通称として「スーパーひかり」が使われることがあった。この呼称は、前述の構想とは別の、300系列車およびその源流の超高速運転構想における仮称が転用されたものである。本形式は、鉄道ファンが新幹線に興味をむけるきっかけになったという意見もある。それまで新幹線車両は0系が20年以上継続生産されており、基本的な形態の変化がなかったこと、200系もメカニズムは新規ながら外見はほぼ0系と同じであったため、新幹線電車は鉄道趣味の対象にならないという認識であったが、本形式の接客設備やスタイルが一般に注目されるものであったことから、徐々にカメラを向けるファンが増えていったという。
出典:wikipedia
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