衆生(しゅじょう、、、または)は、生命あるものすべて。玄奘訳では有情(うじょう)と表記する。「梵に薩埵(さった)という。ここに有情という。情識あがゆえに」("唯識述記")といわれるように、感情や意識をもっているものの意味で、山河大地などの非情(ひじょう)に対して、一切の生きとし生けるものを含めていう。多くのものが共に生存しているという意味でバフジャナ()ともいわれ、これは衆人とも訳される。衆生の中には、人間だけでなく、動物など他の生命も含まれている。したがって、衆生や有情という言葉は、広い意味に用いられる。一般的には、十界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏)の中でも前半の六道にあるものをさす。人間は、サンスクリット語でマヌシャ()といわれ、ヨーロッパでのマン()やメンシュ()と同じく「考えるもの」という意味である。仏教では人間とは人間の境界のことである。(中国語では、「人間」とは人の社会のことであって、個人ではなく、人びとと共にある世界のことである。)仏教では、主として思考を中心に生きているものという意味である。仏教の中に自分の在り方を求める場合、衆生という表現の方が「人間」と呼ぶより本来的である。サンスクリット語のサットヴア (sattva)、パーリ語のサッタ (satta) は、「生きているもの、存在するもの」という意味である。これを「衆生」と訳した中国人の受け取り方に、人間の在り方への深い反省がみられると同時に、そこには仏教の思想がよく言い表されている。衆生と訳されるバフジャナ (bahujana) は、多くのものと一緒に生存している衆多之生(しゅうたのしょう)を意味する。輪廻転生していろいろな生をめぐる人間の姿への反省からいわれる。これを、人間はみな別々の生活を営んでいるという点から「異生(いしょう)」と同じ意味とみることがある。異生は、サンスクリット語のプリタグジャナ()、チベット語のソソル・ケボ (so-sor-skyes-bo) であり、しばしば凡夫(ぼんぶ)と同じ意味である。各自の担っている業(ごう、karman)、現に造りつつある業によって生きている。日々心で考え、話し、行動する。この人間の心と言葉と行為は、それぞれの人びとの生活の仕方を決定し、規定づける。これによって、幸福も不幸も、一切の生活は自己の責任において行なわれる。このように、自己の生活を自己の責任において考えていく生き方こそ、もっとも人間らしい生き方であるとするのが、衆生と呼んで自己を見つめた仏教徒の態度を示している。漢訳仏典では、衆生を衆縁所生(しゅうえんしょしょう)と分析する。この場合は、一般にいろいろな原因と条件が組み合わさって、いろいろな結果を生み出すのであるから、このわたくしの生存は、単一の原因だけでなく、多くの条件によるのだと、外からの条件を重くみる考え方と思われる。この解釈の根源は、釈迦の正覚の内容といわれる縁起(えんぎ)による、縁生(えんしょう)である。すなわち、あらゆる存在は、自分自身に存在性をもつものではなく、他によって存在性が与えられて存在するということである。すべての存在は、もともと空(くう)でありながら、そのままで縁起して有(う)である。自らに即して言えば、わたくしは独りでは生きられず、他と関係することによってだけ生きられるのである。時間的には過去と未来を離れて現在のわたくしはありえないし、社会的には無限ともいうべき多くの横とのつながりにおいて生きている。これが、自己を衆縁所生と解釈することによる衆生の意味である。
出典:wikipedia
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