新進党(しんしんとう)は、1994年末から1997年末にかけて活動した日本の政党。55年体制成立以後、自由民主党以外で初めて日本社会党を上回る数の国会議員を擁する政党であった。1994年(平成6年)6月の自由民主党・日本社会党・新党さきがけによる村山富市内閣の発足で下野した非自民・非共産勢力は、次期総選挙で施行される小選挙区比例代表並立制への対応に迫られていた。小選挙区で自民党に対抗するためには野党各党が合流して各選挙区で候補者を1名に絞らなければならず、新・新党を結成する流れが一気に傾き、新生党・公明党の一部・民社党・日本新党・自由改革連合などが結集し、同年12月10日、結党された。理念は「自由、公正、友愛、共生」。党結成に関して、新生党の代表幹事であった小沢一郎(当時:新党準備委員会委員長)は「保守党」と名付けることを希望したが、周囲の反発により断念した。初代党首選挙は、自由改革連合代表の海部俊樹元首相、新生党党首の羽田孜元首相、民社党委員長の米沢隆の3名で争われ、海部が勝利した。結成時の所属国会議員数は214人(衆議院176人、参議院38人)である。結党時の国会議員数が200人を超える政党が結成されたのは、1955年(昭和30年)結成の自民党以来39年ぶりであった。公式の英語党名は、当初「New Progressive Party(新進歩党)」とする案も出されたが、異論があり「New Frontier Party (新開拓地党)」となった。公式の略称は新進、NFPとされた。日本の英字紙であるジャパン・タイムズは公式英称をあまり用いず、ローマ字名称の「Shinshinto」を多く用いた。1995年(平成7年)7月の第17回参議院選挙において改選議席の19議席から40議席へと議席を倍増させ、比例区の得票では自民党の獲得票を上回る躍進を見せた。1995年(平成7年)12月の海部党首の任期満了に伴い行われた党首選において、羽田孜と小沢一郎が激突し、小沢が党首に就任した。海部と争った前回の1994年(平成6年)12月党首選に続き敗退した羽田の支持グループはこれ以降、党運営を巡り小沢との対立を深めていくことになる。1996年(平成8年)10月の第41回衆議院総選挙では政権交代を目指し、野党第一党としては38年ぶりに衆議院議員定数の過半数の候補者を擁立した。消費税率を20世紀中は据え置くことや、減税およびそれに伴う経済の活性化による財政再建を公約の目玉にするも、解散前議席に届かなかった。主な敗因として、などが挙げられる。総選挙後、羽田・細川護煕らの離党や自民党による引き抜き工作により求心力を失いつつあった小沢執行部は、自民党との大連立構想、いわゆる保保連合構想を模索し、自民党内で自社さ派の加藤紘一・野中広務に対抗する保保派の梶山静六・亀井静香との関係強化を図った。しかしこれに対し、自民党に取り込まれると党内から反対論が吹き出し、小沢の求心力をさらに失わせる結果となった。1997年(平成9年)11月、旧公明党のうち新進党に合流していない参議院議員・地方議員を中心とする政党・公明が新進党への合流を取りやめ、1998年(平成10年)の第18回参議院選挙に独自で臨むことを決定した。同年12月、小沢党首の任期満了に伴い党首選が行われ、小沢党首と鹿野道彦元農水相の一騎討ちとなり、小沢が再選した。小沢は純化路線に進むことを決断し、同月27日に両院議員総会を開いて新進党の分党と新党の結成を宣言した。これによって新進党は消滅し、自由党・改革クラブ・新党平和・新党友愛・黎明クラブ・国民の声の6党に分裂した。新進党の分党後、地方組織の多くは中央と同一歩調で各党派に分裂したが、一部で新進の枠組みを維持した地方組織もあった。このほか、無所属の笹木竜三や「リベラルの会」を経て「改革」に参加していた山口敏夫らがいる。参院で統一会派「新緑風会」を結成していた民主改革連合(前代表中村鋭一除く)とスポーツ平和党、横山ノックらは参加しなかった。総理大臣指名選で羽田・海部を支持しながら新進党不参加の無所属徳田虎雄は前出の栗本・大内・柿沢・佐藤静・石井紘・小泉と自由連合を結成し自民党と歩調を合わせた。1994年12月10日、新進党結党に伴い、参議院新進党と公明(公明党に所属していた参議院議員と地方議員による政党。)の参議院院内会派。1997年12月、新進党分党と同時に平成会は解散した。(参考文献:石川真澄(一部山口二郎による加筆)『戦後政治史』2004年8月、岩波書店・岩波新書、ISBN 4-00-430904-2)
出典:wikipedia
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