対馬(つしま)は、日本の九州の北方の玄界灘にある、長崎県に属する島である。面積は日本第10位である。島内人口は約3万2000人である(2016年現在)。対馬の大半を占める主島の対馬島(つしまじま、つしまとう)のほか、その周囲には100以上の属島がある。この対馬島と属島をまとめて「対馬列島」、「対馬諸島」とすることがある。古くは対馬国(つしまのくに)や対州(たいしゅう)、また『日本書紀』において対馬島(つしま。3文字合わせてこう読むのが書紀古訓での伝統)と記述されていた。旧字体では對馬。地理的に朝鮮半島に近いため、古くからユーラシア大陸と日本列島の文物が往来し、日本にとっては大陸との文化的・経済的交流の窓口の役割を果たしてきた。現在は韓国から来る観光客が増加しており、島内の至る所にハングル文字が併記された標識や案内を見ることができる。日本の海釣りの名所として知られている。地政学的にはチョークポイントにあたるところから古代より国防上重視され、明治時代から、陸軍は対馬警備隊・対馬要塞を置き、戦後は1956年より航空自衛隊の海栗島分屯基地が設けられ、1961年より陸上自衛隊の対馬駐屯地も置かれ、対馬警備隊へと発展している。また、明治時代には海軍の施設が置かれたこともあり、現在は海上自衛隊の対馬防備隊も所在している。日本海の西の入り口に位置する対馬島は、九州本土より玄界灘と対馬海峡東水道(狭義の対馬海峡)をはさんで約132キロメートル、朝鮮半島へは対馬海峡西水道(朝鮮海峡)をはさんで約49.5キロメートルの距離にある。形状は、南北に82キロメートル、東西に18キロメートルと細長く、面積は約700kmで、日本の島では第10位の広さである。対馬全島の人口は、1960年の6万9556人をピークとして減少し、1980年には5万0810人、2016年には3万1963人まで減少した。世帯数は1万5166世帯で、1980年からあまり減少していない。島に若者が働ける仕事先が少なく核家族化と高齢化が進んでいる。行政は長崎県に属しているが、人びとの日常生活のうえでは航空機やフェリーの直行便数が多い福岡県との結びつきが深い。対馬は、南北に細長い形状の対馬島と、100を超える小島から形成される。主島の面積は696.29kmであり、すべての島を合わせた面積は、708.61kmである。有人島は、主島、泊島、赤島、沖ノ島、島山島、海栗島の6島である。このうち海栗島を除く5島は橋梁または埋め立てにより結ばれている。東海岸の一部と下島の西海岸の一部を除くほぼ全域でリアス式海岸が発達し、海岸線の総延長は915キロメートルにもおよぶ。特に主島の中央には西から大きく切り込んだ浅茅湾(あそうわん)があり、東からも三浦湾、大漁湾(おろしかわん)などが切れ込んで、多島海を形成している。また、浅茅湾の自然海岸線の延長は日本一の長さとして知られる。その他、各地に小さな湾があり、多くは漁港として利用される。断崖絶壁もしばしば見られ、なかには、標高差が100メートルにおよぶものもある。主島はかつて1つの島だったが、地峡となっていた部分が、1672年(寛文12年)に大船越瀬戸が、1900年(明治33年)に万関瀬戸が人工的に開削され、細長い主島は南北3島に分離された。過去には南部を上島、北部を下島と呼んだこともあったが、現在は万関瀬戸より北部を上島(かみじま)、南部を下島(しもじま)と呼ぶ。全体的に山がちで険しいが、下島の方が標高が高い。下島中央部には最高峰の矢立山(標高648.40m)があり、舞石ノ壇山(めいしのだんやま、標高536.32m)・龍良山(標高558.38m)などの矢立山系が内山盆地を囲む。その北東に有明山(標高558.38m)があり、浅茅湾南岸に白嶽(しらたけ、標高518m)がある。上島の最高峰は北部にある御嶽(みたけ、標高479m)である。島内の分水界は東に偏っていて、主要6河川のうち佐護川・仁田川・三根川・佐須川・瀬川の5河川まで西向きに流れる。東へ流れる最大の川は島内流域面積5位の舟志川である。各河川の下流部には谷底平野があるものの、耕作に適した平地は少なく、陸上交通も概して不便である。このような地形は人々の生活や歴史に大きな影響を与えてきた。地質は、大部分が新生代古第三紀に形成された泥質の堆積層で、「対州層」と呼ばれ、北の一部には新第三紀層もみられる。対州層は、主として黒灰色の頁岩や粘板岩から成り、これに砂岩が混じる場合が多く、ところどころに石英斑岩やはんれい岩、花崗岩が陥入する。上島北部の御岳周辺には玄武岩、下島東部に石英斑岩、下島中央部の内山盆地周辺に花崗岩、それを囲む矢立山系には硬いホルンフェルスがそれぞれ分布している。更新世の中頃までは、日本列島と大陸は陸続きであったが、その終末期に海進によって九州と朝鮮半島の間が離れ、対馬は壱岐とともに地塁島(飛び石のようになった島)として取り残された。海岸地形と海底地形より判断して隆起と沈降とを繰り返して今日にいたったと考えられる。陸地の大部分が低山性の山峰で占められ、低平な平坦地は少ないものの、山頂部には平坦面もみられる。山地は隆起準平原によるものと考えられる。北部の御嶽や香ノ木山(標高307m)は準平原上に突出した残丘であり、南部の内山盆地は陥入した花崗岩が浸食を受けたことにより窪地になって形成されたものと考えられている。対馬海峡には暖流の対馬海流が流れているため、その影響で年間通して比較的温暖で雨が多いという典型的な海洋性気候である。春は西のアジア大陸から吹いてくる季節風が原因で、ゴビ砂漠などの黄砂の影響を受ける。夏は30℃を超える日は滅多になく、比較的涼しく過ごしやすい。秋は比較的雨が少なく、冬は大陸から吹く季節風の影響で寒さが厳しくなる。島の面積の約88%を照葉樹などの山林が占める。原始林やスギ、大ソテツなどが国や県によって天然記念物に指定されており、豊かな自然にめぐまれている。本来の植生は広葉樹林であるが、林業によって生まれた針葉樹林も多い。植生は全般的に九州本土に類似するが、九州では山地に多い夏緑樹が低地にも見られる。動植物とも、大陸系種、対馬固有種、対馬固有亜種、および日本本土系種が混在する。九州本土に多くて対馬に全くいない種や、対馬に多く九州本土では少ないという種もあり、独特の生物相を形成している。対馬の沿岸部には、所々に小規模なサンゴ礁が分布している。2007年(平成19年)には、対馬のサンゴ礁でも白化現象が確認された。対馬は、日本では対馬でしか生息しないユーラシア大陸との共通種が数多く生息しており、これらはかつて大陸と陸続きであったことを物語る貴重な動植物である。また、南方系の動物も生息し、対馬固有の動植物も多い。このため、各地に自然保護区が指定され、自然環境の保護がはかられている。透明度の高い海は浅茅湾や神崎などで海中公園となっており、1968年(昭和43年)7月22日には、対馬全島は壱岐島とともに壱岐対馬国定公園に指定された。ツシマヤマネコなど希少種の保護のため、1989年(平成元年)11月1日に主島北部の伊奈地区が国指定伊奈鳥獣保護区(希少鳥獣生息地)に指定された(面積1,173ha)。また、洲藻白岳原始林、龍良山原始林、御岳鳥類繁殖地、鰐浦ヒトツバタゴ自生地が、国の天然記念物としてそれぞれ地域指定されている。とりわけ龍良山原始林は、日本有数の原生林として知られる。島の北西には環境省対馬野生生物保護センターが設けられた。2013年8月29日、絶滅危惧種である「ツシマヤマネコ」が唯一生息する広大な森林地(260万平方メートル)が競売入札に付されていたが、市や裁判所に環境保護団体など全国から購入の申し出が相次ぎ、対馬市は反響の大きさなども含め購入に踏み切った。森林の大きさは東京ドーム55個分に相当し、対馬でこのような広大な森林地が売りに出されるのは初めてで、韓国の業者も関心を示していた。旧石器時代に人が、大陸から対馬の陸橋を通過した足跡は発見されていない。現在までに確認された最古の遺跡は、新石器時代に属する縄文文化のもので、この時代はすでに陸橋が切れ、対馬が、島として孤立している。大陸からのナウマンゾウ等の哺乳類の化石も見つかっていない。縄文時代の峰町佐賀貝塚や上県町志多留(したる)貝塚からは外洋性の魚の骨が出土し、峰町では多くの貝輪(腕に付ける装飾品)の材料が、沖縄の貝(イモガイ、ゴウボラ他)と北海道産の貝(ユキノカサ他)を使っていることが確認されている。また、石器の材料は、佐賀県伊万里市腰岳産の黒曜石である。さらに、峰町吉田貝塚からは縄文時代晩期の夜臼式土器、弥生時代前期の板付I式土器などが出土し、九州地方北部と同じ文化圏に属していたことが判明している。これらの石器・貝輪、土器は、峰町歴史民俗資料館や豊玉町郷土館等で収蔵・展示されている。北部九州ではこの頃から水稲耕作が始まり、平野が開発されてゆくが、対馬では河川や低平な沖積地に恵まれず、水田を拡大できなかったことから、弥生時代に入っても狩猟や採集・漁労などの生業が依然として大きな比重を占めたものと推定され、イネの収穫具であった石包丁はあまり出土していない。ただし、大陸系磨製石器や青銅器・鉄器などの金属器などは出土している。弥生時代前期の舶載品の有柄式石剣が多く見られる一方、北九州で製作された中広銅矛・広形銅矛も多く出土している。『古事記』の建国神話には、最初に生まれた島々(「大八洲」)の1つとして「津島」と記されている。『日本書紀』の国産み神話のなかには「対馬洲」「対馬島」の表記で登場する。古くから大陸との交流があり、歴史的には朝鮮半島と倭国・倭人・ヤマトをむすぶ交通の要衝であった。『魏志』倭人伝では、「対馬国」は倭の一国として登場する。帯方郡から邪馬台国への経路の途上、「狗邪韓国」(韓国慶尚南道金海)の記述につづいて「一海を渡ること一千余里」の南に位置するとしており、邪馬台国に服属した30余国のなかの一国であった。そこには、対馬は、居る処は絶島で、土地は山が険しく、深林が多く、道は獣の径(みち)のようであり、千余戸の家はあるものの、良田がないので海産物を採集して自活し、船による南北の交易によって生活していたと記されている。また、他の倭の諸国同様に、「卑狗」(ヒコ)と呼ばれる大官と「卑奴母離」(ヒナモリ)と呼ばれる副官による統治がなされていたとする。古墳時代初期に築かれた出居塚古墳は前方後円墳で、有茎柳葉式銅鏃、鉄剣(部分)、管玉等が出土している。前方後円墳は、3世紀代にヤマトで生まれた古墳形態であり、出土した有茎柳葉式銅鏃は古式畿内型古墳の典型的出土品であることから、この時代の対馬の首長はヤマト王権と深く結びつき、その強い影響下にあったことを示している。首長墓のうち比較的大規模なものは、対馬市美津島町高浜曽根の海岸に集中して分布している。えべすのくま古墳は前方後円墳とみられているが、前方後方墳の可能性もあり、墳丘の全長は約40メートルである。箱式棺で銅鏃12点、管玉1点、鉄剣を出土しており、銅鏃は京都府の妙見山古墳や福岡県の石塚山古墳のものと類似し、古墳時代前期(4世紀ころ)の築造と推定される。美津島町の鶏知(けち)ネソ1号墳は全長30メートルで箱式棺をともない管玉・鉄鏃・刀を出土している。鶏知ネソ2号墳は全長36メートルで、主室は箱式棺をともなって須恵器や鉄刀が出土しており、副室は箱式棺より土師器と鉄剣が出土している。ネソ1号墳、2号墳はともに積石塚である。島の首長について、『先代旧事本紀』の「国造本紀」では「津島県直」と伝える。古墳時代はヤマト王権がたびたび朝鮮半島に出兵し交戦を繰り返した時代であり、こうした状況は『日本書紀』、『広開土王碑文』、『宋書』倭国伝、『三国史記』の記載でも認められる。このなかで対馬の具体的な地名が登場するのは、『日本書紀』において、対馬北端の和珥津(わにのつ、現在の上対馬町鰐浦)から出航した神功皇后率いる大軍が新羅を攻め、服属させたうえ、屯倉を設置したという記述である。皇后が三韓征伐の帰途、旗八流を納めたとされるのが和多都美神社(現海神神社)であり、この神社が対馬国の一宮である。また、朝鮮側の記録としては、12世紀に編纂された朝鮮最古の歴史書『三国史記』に、第18代新羅王実聖尼師今の治世7年(408年)に、倭人が新羅を襲撃するため対馬島内に軍営を設置していたことが記されている。このように、対馬はヤマト王権による朝鮮半島出兵の中継地としての役割を担っていたことが知られる。大化改新ののち律令制が施行されると、対馬は西海道に属する令制国すなわち対馬国として現在の厳原(いづはら)に国府が置かれ、大宰府の管轄下に入った。推古天皇における600年(推古8年)と607年(推古15年)の遣隋使も、また630年(舒明2年)の犬上御田鍬よりはじまる初期の遣唐使もすべて航海は壱岐と対馬を航路の寄港地としている。663年(天智2年)の白村江の戦い以後、倭国は、唐・新羅の侵攻に備え、664年には対馬には防人(さきもり)が置かれ、烽火(とぶひ)が8か所に設置された。防人はおもに東国から徴発され、『万葉集』には数多くの防人歌がのこっている。667年(天智6年)には浅茅湾南岸に金田城を築いて国境要塞とし、674年(天武3年、白鳳2年)には厳原が正式な国府の地に定まり、同年、対馬国司守忍海造大国(おしみのみやつこのおおくに)が対馬で産出した銀を朝廷に献上した。これが日本で初めての銀の産出となった。この対馬銀山は含銀方鉛鉱の鉱床であり、鉱石を山上に運び数日間焼き続けることにより残った銀を採取したものであるという。この金属精錬法は灰吹法に類似している。701年(文武5年)、対馬で産出したと称する金を朝廷に献上したところ、これを慶んだ朝廷によって「大宝」の元号が建てられた。ただし、これは現在では偽鋳であるといわれている。対馬国には伊奈、久須など5郷からなる上県郡と豆酘、鶏知など5郷からなる下県郡が置かれた。741年(天平13年)、「鎮護国家」をめざした聖武天皇の国分寺建立の詔により対馬にも厳原の地に国分寺が建立されている。防人の制は、3年交代で東国から派遣された兵士2,000余人によって成り立っていたが、737年(天平9年)にはこれを止め、九州本土の筑紫国人を壱岐・対馬に派遣することに改めたが再び東国防人の制が復活し、757年(天平宝字元年)にはそれも廃して西海道のうち7国(筑前国・筑後国・肥前国・肥後国・豊前国・豊後国・日向国)の兵1,000人をもってこれに代えることとした。神護景雲2年(768年) 波自采女が続日本紀に「対馬島上県郡の人高橋連波自采女、夫を亡くして後誓って志を改めず。その父もまた死す。盧を墓の側に結んで、毎日斎食す。孝義の至り。路行く人を感ぜしむることあり。よってこれを其の門閭(里の入口)に表彰し、租(年貢)を免じて一生を終わらしむ。」と記されており、対馬市豊玉町に墓がある。8世紀中葉の成立と思われる和歌集『万葉集』には、の短歌が収載されているが、『万葉集』には、他にも「浅茅浦」「竹敷の浦」などの地名がみえ、また、「玉槻」という対馬在住とみられる女性による、の歌も収められている。古代において、新羅から日本には540年(欽明天皇元年)から929年(延長7年)まで89回におよび入朝しており、日本から新羅へは571年(欽明天皇32年)から882年(元慶6年)まで45回にわたり使節(遣新羅使)を派遣している。これらは、すべて対馬を経由した。平安時代に入って桓武天皇の時代には防人制は広く廃止され、軍団制に改められたが、壱岐・対馬の両国に関しては例外として防人を残した。4度にわたる新羅の入寇では、813年(弘仁4年)の弘仁の韓寇は対馬を襲撃したものではなかったが、入寇ののち対馬には新羅語の通訳を置いた。承和4年(837年)和多都美神社が神位を拝受した。894年(寛平6年)には新羅の賊船大小100隻、約2,500人が佐須浦(さすうら)に襲来したが撃退している。1019年(寛仁3年)、正体不明とされた賊船50隻が対馬を襲撃した。記録されているだけで殺害された者365人、拉致された者1289人で、有名な対馬銀鉱も焼損した。これは、奴隷にすることを目的に日本人を略奪したものであり、被害は対馬のみならず壱岐・北九州におよんだ。のちに賊の正体が刀伊(女真族)であることが判明し、この事件は「刀伊の入寇」と呼ばれるようになる。女真族は、このとき対馬の判官代長嶺諸近とその一族を捕虜にしており、諸近は一度は逃亡できたものの妻子をたずねて高麗にわたり、日本人捕虜の悲惨な境遇を見聞して帰国したという記録が残っている。治承・寿永の乱の際、当時の対馬国司藤原親光は源頼朝の外戚であったため、源氏軍に心を寄せて、1183年(寿永2年)京都へ赴こうとしたが、平氏が九州全土を制圧していたため対馬を出発できなかった。平知盛は、大宰少弐原田種直を通して西海道の武士に屋島への参陣をうながしたが、親光が拒否したので平氏より3度追討をうけた。親光主従は高麗国に逃亡したのち、1185年(文治元年)6月に対馬に戻った。中世の対馬では、荘園制度の発展はみられなかったが、鎌倉幕府は国ごとに守護を置き、対馬国守護職は少弐氏(武藤氏)にあたえられた。12世紀には、のちの宗氏の始祖となる惟宗(これむね)氏が対馬に入部している。惟宗氏は、もと大宰府の官人であったが、筑前国の宗像郡から対馬へ向かったとされる。史料で惟宗氏の名が対馬の在庁官人として確認される初見は、建久7年(1196年)である。惟宗氏(宗氏)は、少弐氏の守護代として次第に対馬で勢力をのばし、武士化していった。従来対馬で勢力を保っていた阿比留(あびる)氏は、当時国交を結んでいな高麗との交易をおこなっていた。大宰府はこれを詰問したが、阿比留氏が従わなかったため、1246年(寛元4年)、大宰府の命により惟宗重尚(これむねしげひさ)が、鶏知を中心に強い勢力を持っていた阿比留在庁(平太郎)を征討して対馬の支配権を確立した。なお、鎌倉時代では、1265年(文永2年)成立の『続古今和歌集』に寄せられた大納言俊光の女の、の歌が、上対馬の網代村の「夕影山の伝説」にちなみものだといわれている。鎌倉時代の日本は、2度にわたる元(モンゴル帝国)とその属国高麗による侵略(元寇)を受けた。対馬はその最初の攻撃目標となり、史上最大の受難を迎えることとなった。1274年(文永11年)、蒙古・漢兵25,000人、高麗兵8,000人および水夫等6,700人は、高麗が建造した艦船900隻に分乗し、10月5日佐須浦・小茂田浜に殺到した。この大軍に対し宗助国は一族郎党80余騎を率い果敢に迎撃したが、圧倒的な兵力差により勇戦及ばず全員玉砕した。この受難を小茂田浜神社で伝えられている。『日蓮聖人註画讃』によると、上陸した蒙古・高麗軍は、男を殺戮あるいは捕らえ、女は一ヶ所に集め、手に穴を開け、紐で連結し、船に結わえつけたという。これが対馬における文永の役である。1281年(弘安4年)に2度目の日本への侵略弘安の役が起こった。元・高麗軍の陣容は、合浦(現在の馬山市)より侵攻した蒙古・漢兵30,000人、高麗兵9,960人、水夫等17,029人より構成される東路軍と、寧波より侵攻した旧南宋・漢兵を主力とした100,000人の江南軍であった。弘安の役においても残虐行為は再び繰り返された。『八幡愚童記』正応本には、と記されており、とくに高麗兵の残虐性を詳細に伝えている。元寇終結後倭寇の活動が激しくなり、対馬は倭寇の根拠地の1つとなった。これは、ひとつには元寇に対する防衛や報復の意味があったといわれている。1366年(正平21年、貞治5年)、高麗王朝が倭寇と海寇の取締を宗氏に要請すると宗経茂はこれに応え、高麗との通交が始まるが、1389年(元中6年、康応元年)、慶尚道元帥朴葳に率いられた高麗軍が激化していた倭寇討伐のために対馬を襲撃した。朴は、倭寇船300余隻を撃破し、捕虜となっていた多数の高麗人を救出したといわれる(康応の外寇)。倭寇の活動は高麗王朝滅亡の一因ともいわれており、李氏朝鮮王朝の祖である李成桂も倭寇討伐で功名をなした人物であった。対馬では倭寇の禁止や日朝貿易の進展に積極的であった宗貞茂が死去すると倭寇の活動が活発化し、朝鮮王朝第3代の太宗は1419年(応永26年)6月、倭寇討伐を大義名分とした掃討戦を決意した。朝鮮軍は、兵船227隻・軍兵1万7,285人で来襲し、尾崎浦(おさきうら)を焼き払い、つづいて小船越を襲撃し、さらには仁位浦に進んで如加岳(糠嶽、ぬかだけ)で対馬兵とのあいだで激しく戦った。朝鮮軍は、対馬の人びとの伏兵などによる反撃などにより損害が大きく、戦況が膠着状態に陥ったところ暴風雨も近づいたため、対馬側の和平提案を受け入れて、7月3日に巨済島へ全面撤退した。これが応永の外寇であり、朝鮮では乙亥東征と呼んでいる。1433年(永享5年)、宗氏の主君少弐嘉頼は周防の大内氏に敗れて対馬に逃れ、三根の中村に居を構えた。これにより少弐氏と宗氏はともに筑前国での勢力基盤を失った。太宗の死後、第4代の世宗は日本との善隣政策をとり、3度にわたって通信使を送って通交の制度を整備した。1438年(永享10年)ころには文引制を採用し、1443年(嘉吉3年)には癸亥約定(嘉吉条約)を結んで、対馬から朝鮮への歳遣船は毎年50隻を上限とし、代わりに歳賜米200石を朝鮮から支給されることとした。日本から朝鮮へ渡航する者は宗氏の統制下に置かれることとなり、朝鮮南部海域の漁業特権も宗氏にあたえられた(このころの対馬島の状況は1471年刊行の「海東諸国紀(申叔舟 著)」に詳しく記されている。)。こうして朝鮮との通交に関係のある諸権益は宗氏に集中したが、この過程は同時に対馬島内における宗氏の領国支配が確立していく過程でもあった。島内の諸豪族も、経済的基盤は土地による収入よりも交易に依存する度合いが大きかったので、宗氏が朝鮮より優遇されることは、彼らにとっても好ましいことであった。宗氏の握る貿易権・漁業権は、みずからの家臣団編成などにおいて重要な役割をになったのである。1510年(永正7年)、朝鮮王朝の貿易抑制政策や恒居倭(朝鮮在留日本人)に対する締め付けに耐えかね、恒居倭と宗氏は富山浦、乃而浦、塩浦において兵乱を起こしたが、対馬島主の子息宗盛弘を大将とする4,000名から5,000名にのぼる軍勢は数に勝る朝鮮の官憲に大敗し、盛弘は熊川で戦死した。これが「三浦の乱」である。これ以後、中国人を主体とする後期倭寇が東シナ海や黄海の広い海域で活動し日朝貿易は衰えた。また、宗氏は戦国時代には壱岐に進出した松浦氏との対立がはじまった。1587年(天正15年)豊臣秀吉の九州平定に際して、宗氏は事前に豊臣政権への臣従を決め、本領安堵された。1590年(天正18年)には、宗義智が従四位下侍従・対馬守に任ぜられ、以後、宗氏の当主にあたえられる官位の慣例となった。秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では、出兵に先立つ1591年(天正19年)、厳原には古代の金石城の背後に清水山城が、上対馬の大浦には撃方山城が築かれて中継基地となった。対馬からは宗義智が5,000人を動員した。義智率いる対馬勢は一番隊から九番隊に編成された派遣軍のなかでも最先鋒部隊にあたる小西行長の一番隊に配属された。1592年(文禄元年)義智らは全ての日本軍の先陣となって渡海し、朝鮮軍や明軍と戦い、釜山、漢城(現韓国首都ソウル)、平壌(現北朝鮮首都)を次々と攻略した。義智は、戦闘だけでなく行長とともに日本側の外交を担当する役割も担っており、行長とともに常に講和を画策していた。30万の軍隊がここを中継地として渡海したため、対馬ではたちまち食糧が底をつき、駐留する兵士が鶏・犬・猫などを住民から奪う禁令が出されたという。なお、対馬には小西行長着用の兜が伝えられている。義智は、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは西軍に加わって、みずからは伏見城攻撃に参加し、大津城攻めや関ヶ原本戦では家臣を派遣して参陣した。西軍敗北後は徳川家康から許され、以後代々徳川氏に臣属し、李氏朝鮮に対する外交窓口としての役割を担うこととなる。こうして江戸時代を通じて宗氏が対馬府中藩(通称対馬藩)の藩主を務め、城下町は対馬府中(厳原)につくられた。1609年(慶長14年)には己酉約条(慶長条約)が締結され、釜山には倭館が再建された。倭館は、長崎出島の25倍におよぶ約10万坪の土地に設けられ、500人から1,000人におよぶ対馬藩士・対馬島民が居留して貿易が行われた。2代藩主宗義成の代には、1615年(元和元年)に大坂の役に徳川方として参加した。その後、義成と対馬藩家老柳川調興とのあいだに柳川一件が起こっているが、1635年(寛永12年)、3代将軍徳川家光によって裁可され、調興敗訴となった。1637年(寛永14年)から翌年にかけては島原の乱に幕府側として参加した。佐須鉱山を再掘したのも義成の時代であった。対馬藩は、参勤交代制度に基づき、3年に1度、江戸の征夷大将軍に出仕することとされ、江戸に藩邸を構え、厳原との間を藩主自らが大勢の家臣を率い、盛大な大名行列を仕立てて往来した。外交面では鎖国体制のなか、朝鮮通信使を迎えるなど日朝外交の仲介者としての役割を果たした。また、日朝それぞれの中央権力から釜山の倭館において出貿易を許されていた。現在の釜山市は対馬の人びとによってつくられた草梁の町から発展したものである。柳川一件以来、日朝外交の体制が整備され、府中の以酊庵(いていあん)に京都五山の禅僧が輪番で赴任して外交文書を管掌する「以酊庵輪番制」が確立するなど幕府の統制も強化された。1663年(寛文3年)には、対馬藩により5基の船着き場が造成されており、現在「お船江跡」という遺構として当時のつくりのまま保存されている。寛文元年 1661年 仁位郡検地が実施された。対馬藩は10万石の格付けであるが、山がちで平野の少ない対馬では米4,500石、麦15,000石程度の収穫であり、藩収入は朝鮮との交易によるものであった。作付面積のうち最も多いのは畑で、それに次ぐのは「木庭(こば)」とよばれる焼畑であり、検地では「木庭」も百姓持高に加えられた。また、石高制に代わって間高制という特別の生産単位が採用された。17世紀後半は、日朝貿易と銀山の隆盛から対馬藩はおおいに栄え、雨森芳洲や陶山鈍翁(訥庵)、松浦霞沼などの人材も輩出した。往時の宗氏の繁栄のようすは、菩提寺万松院のみならず、海神神社や和多都美神社の壮麗さが今日に伝えている。1685年(貞享2年)には、藩主宗義真が府中に「小学校」と名づけた学校を建て、家臣の子弟の教育をおこなった。これが、日本で「小学校」の名のつく施設の最初であるという。18世紀初めには陶山鈍翁の尽力で10年近い歳月をかけて「猪鹿追詰(いじかおいつめ)」がおこなわれた。それにより、当時は焼畑耕作の害獣であったイノシシは絶滅している。以後、宗氏は改易もなく明治維新まで断絶することなく続き、明治維新後は伯爵となり華族に列した。14世紀後半から江戸時代にかけて、対馬の宗氏は一貫して日本の中央権力に服属してきたが、中世の一時期には朝鮮王朝から官職を与えられ、特殊な役割を果たしてきたことも事実である。高橋公明は、これを「対馬の境界性」と表現している。江戸時代後期の1861年(万延2年)にはロシアの軍艦ポサドニック号が浅茅湾に投錨し、対抗したイギリス軍艦も測量を名目に同じく吹崎沖に停泊して一時占拠するロシア軍艦対馬占領事件が起こった。ポサドニック号は芋崎を占拠し、兵舎・工場・練兵場などを建設して半年余にわたって滞留して藩主宗義和に土地の貸与を求めた。対馬藩は対応に苦慮したが、5月には幕府外国奉行の小栗忠順が派遣され、7月にイギリス公使オールコックの干渉もあってロシア軍艦が退去した。芋崎には、現在もロシア人の掘った井戸がのこっている。こののち対馬藩は1862年(文久2年)、長州藩とのあいだに同盟が成立した。1863年(文久3年)には孝明天皇より対馬藩に対して攘夷の勅許と御沙汰書が下っている。1864年(元治元年)、佐幕派で藩主宗義達の叔父にあたる勝井員周(勝井五八郎)が藩内で主導権を握り、家老大浦教之助をはじめとする勤皇派100余名を粛清するという大事件が起こっている。勤皇派の平田大江は、これに対し、尽義隊を結成して抵抗運動を繰り広げた。藩主義達は翌1865年(慶応元年)、まずは勝井五八郎を、続いて平田大江を殺害して、ようやく事件を終息させた。この一連のできごとを勝井騒動(甲子の変)といい、対馬全体では200名以上が犠牲になった。義達は、1868年(明治元年)には戊辰戦争に参加し、藩兵を率いて東上して大坂まで軍を進めた。1869年(明治2年)、宗義達は版籍奉還をおこない、新藩制により厳原藩と改称されて、厳原藩知事となった。これとともに「対馬府中」の地名も「厳原」に改められた。1871年(明治4年)7月の廃藩置県により厳原県となり、その後9月に伊万里県へ編入された。1872年(明治5年)、伊万里県は佐賀県に改められ、さらに1876年(明治9年)4月三潴県に合併され、8月には長崎県の管轄にうつされた。最後の藩主となった義達は、名を重正と改め、華族令の施行された1884年(明治17年)には伯爵を授けられた。明治維新後も対馬は国防や交易の最前線として重視された。1874年(明治7年)には、兵部省海軍部水路局によって厳原港の測量がなされている。1883年(明治16年)12月、門司税関厳原出張所(現厳原税関支署)が開設され、翌年の2月には「朝鮮貿易港」に指定されている。長崎県管轄になったあとの対馬には厳原支庁が置かれたが、1886年(明治19年)には対馬島庁と改められた。1889年(明治22年)の市制・町村制施行の際には上県郡に峰、仁田、佐須奈、豊崎、琴の5村、下県郡には厳原、久田、豆酘、佐須、鶏知、竹敷、船越、仁位、奴加岳の9村が発足した。対馬では、現在の東京都伊豆諸島(青ヶ島村を除く)、島根県隠岐諸島、鹿児島県三島村・トカラ列島及び奄美群島、沖縄県と同様、島嶼町村制が適用された。1919年(大正8年)には厳原村が町制施行し、厳原町となった。対馬島庁は、1926年(大正15年)には対馬支庁に改称されている。なお、1905年(明治38年)には上下県郡総町村立の対馬中学校(現在の長崎県立対馬高等学校)が島内初の中学校として創立された。ロシアやイギリスをはじめとする列強の対馬接近に脅威を感じた日本政府は、国境最前線であった対馬島の要塞化を図った。大日本帝国陸軍は、1878年(明治11年)には熊本鎮台から対馬分遣隊を対馬に派遣していたが、1886年には陸軍対馬警備隊が置かれた。対馬要塞の建設工事は、浅茅湾防備のため1887年(明治20年)より着工した。この工事は東京湾に次いで日本で2番目のものであった。1888年(明治21年)10月まで温江・大平・芋崎・大石浦の4砲台が完成し、日清戦争を迎えた。大日本帝国海軍は、1896年(明治29年)、対馬周辺海域を防衛する要港部として浅茅湾に竹敷要港部を置いた。これは、日本海軍初の要港部であった。1898年(明治31年)以降1903年(明治36年)まで、四十八谷・大平高・姫神山・城山・折瀬ヶ鼻には砲台が、城山・根緒・上見坂には堡塁が築かれた。1904年(明治37年)には、日露戦争に備え対馬海峡の重要性から要港部司令官が親補職となり、幕僚として、参謀長、参謀、副官、機関長、軍医長、主計長が配置された。また、バルチック艦隊から浅茅湾を防衛するため、郷山・樫岳・多功崎・廻の各砲台の建設に着手した(廻砲台の工事はのちに中止となった)日露戦争における日本の勝利を決定的なものとしたことで知られる日本海海戦は、海外では"(対馬の戦い)の名称で知られている。実際にその名の通り竹敷港や尾崎港からは連合艦隊の水雷艇が出撃している。この海戦の砲声は対馬に届いたといわれ、また、上対馬の殿崎・茂木・琴などの住民は、海岸に漂着した多くのロシア兵の救命救助をおこない、宿や食糧を与えている。1920年(大正9年)には対馬警備隊司令部を改編し対馬要塞司令部を設置している。こうした対馬全島の要塞化により昭和前期には対馬海峡全体の防衛が可能なほどであった。特に豊砲台には、1922年(大正11年)のワシントン海軍軍縮条約により巡洋戦艦から航空母艦へ転用された「赤城」の40センチメートル連装砲塔が、竜ノ崎砲台には、戦艦「摂津」の30センチメートル連装砲塔が設置された。太平洋戦争後期には豆酸にレーダー基地が設けられ九州と朝鮮半島の間を監視した。また、対馬と九州の呼子と平戸、対馬と沖島、対馬と本州浜田の間に電波警戒機甲がもうけられ、通過する飛行機の警戒にあたった。なお、豊砲台の跡地は今日でも見学することができる。太平洋戦争後は連合国軍が進駐した。1945年(昭和20年)10月14日、戦争中の機雷による事故や銃爆撃を奇跡的に逃れていた九州郵船の旅客船「珠丸」が触雷の結果沈没し、545名を超える人命が失われる大事故があった(珠丸事件)。この日は、連合国軍総司令部による渡航差し止めが解除された日であり、珠丸は対馬経由で釜山港と博多港のあいだを航行中、旧日本軍の敷設した機雷に触れたものである。1946年(昭和21年)、戦時中の言論統制により離島新聞は廃刊を余儀なくされていたが、斉藤隼人によってタブロイド版の「対馬新聞」が創刊された。対馬は現在も長崎県に属しているが、経済的にはかねてより福岡県との交流が密であり、戦後すぐに転県運動が起こっている。1946年には転県期成会が結成され、長崎県から福岡県への転県を国に働きかけた。福岡県議会では転県提案が可決されたものの、同年9月の長崎県議会では転県提案が否決された。それ以降も転県運動がつづいた。1949年(昭和24年)には、「対馬開発5ヵ年計画」が策定され、対馬町村会では、それを受けて対馬開発計画の実現のため転県運動中止を発表した。1947年(昭和22年)9月には九州海運局厳原支局が、翌1948年(昭和23年)には厳原海上保安部が設置された。この年、済州島では韓国政府を承認しない島民が蜂起し、対馬では、それに対する韓国軍の鎮圧(済州島4・3事件)によって惨殺された済州島民の漂流遺体が多数収容された。1950年(昭和25年)の朝鮮戦争、1952年(昭和27年)の李承晩による一方的な海洋主権宣言(いわゆる「李承晩ラインの設定」)など、極東情勢の緊迫化は国境の島対馬に甚大な影響をあたえた。軍事要塞であった対馬は長い間開発が抑制されたため、本土より数十年遅れているといわれていた。戦後、民俗学的調査のため対馬を踏査した宮本常一は、厖大な民俗記録を記すいっぽう、あまりの開発の遅れに胸を痛め、離島振興法を制定するために奔走した。1953年(昭和28年)、長崎県知事の呼びかけにより東京都、新潟県、島根県、鹿児島県の知事が共同して「離島振興法制定に関する趣意書」を作成するなどの運動を展開し、同年7月、離島振興法が時限立法として成立した。厳原港では、1952年ごろから「片道貿易」と呼ばれる日韓輸出入が始まり、小型船が連日港を賑わわせていた。『つしま百科』(長崎県対馬支庁発行)によれば、最盛期の1960年には輸出額約9億8,200万円、輸入額約2億2,500万円を記録、町には20軒を超える貿易商社が立ち並び、遊興業も進出した。この日韓片道貿易は1961年(昭和36年)の朴正煕による5・16軍事クーデターによって終息した。島内14町村は、1955年(昭和30年)から1956年にかけての昭和の大合併によって上県郡に峰、上県、上対馬、下県郡に厳原、美津島、豊玉の6町村に再編された。昭和20年代から30年代にかけては、対馬がもっとも賑わった時代であった。西日本屈指の漁場をかかえる対馬近海にはサバ漁やイカ漁などのため遠方からも多くの漁船がおとずれ、各漁港や厳原の町も賑わった。さらに、山林にのこされた豊富な木材は製紙会社によってパルプ材として大量に買い上げられたため、林業収入も多かった。人口も6万5,000人を越えていた。しかし、片道貿易も終息し、食生活の洋風化や200海里問題などによる水産業の不振、森林資源の枯渇、交通における航空機時代の到来などによって、1960年代後半以降の経済は衰退し、人口流出が顕著となって過疎化に悩むこととなった。生活道路などの整備が充分になされないなか、公共事業も削減されて苦境に立たされている。2004年(平成16年)3月1日には、対馬の6町すべてが合併して市制施行し、対馬市の1市体制となった。全島が山林におおわれ平地は少なく、農業は全般的にふるわない。明治時代まで山地の焼畑によるアワ、ヒエ、ソバ、ダイズがつくられたが、現在はコメのほか、普通畑による麦、サツマイモ、ジャガイモが主である。林業は、かつては薪炭材やパルプ材として利用されてきたが、今日ではスギやヒノキが重要性を増しており、ヒノキは「対馬ひのき」としてブランド展開されている。豊富なコナラの資源を利用したシイタケ栽培もさかんで、とくにドンコの品質には定評がある。漁業は対馬の基幹産業のひとつで、伝統的に対馬近海や日本海でのイカの一本釣漁がさかんで、スルメが特産であった。タイやブリなどの一本釣漁、沿岸での定置網漁もおこなわれている。日韓漁業協定による共同規制水域の設定により出漁隻数の制限を受け、漁獲高は年々減少しており、アワビは密漁による被害を受けている。また、浅茅湾を中心に真珠の養殖がさかんであり、これは大正時代より始まったものである。朝鮮動乱のなか対馬を踏査した民俗学者宮本常一は、対馬で驚いたこととして、どの村にも鎌倉時代以来の古文書をもっている旧家が必ずあることだと述べている。まったく同じ土地で600年ものあいだ人びとが生活しつづけ、しかも、中世の宛行状や安堵状にみえた田畑を今日まで作りつづけていることについて「世の中にこういう世界もあるのか」「中世がそのままといいたいほど残っている」と驚嘆している。しかし、宮本の言う中世とは厳格な史料批判に基づいたものではなく、歴史学の観点からは批判が多い。ただし、『忘れられた日本人』(1960)に収録された対馬に関する聞き書きは、村の意志決定過程や身分制度、女性の在り方などに関する貴重な記録になっている。対馬における本格的な民俗学調査は1950年から1951年におこなわれた九学会連合対馬調査にはじまる。調査報告書である『対馬の自然と文化』(1954)はその後の研究の基礎となった。その結果、対馬は、独特の身分制度や村落構成、年齢集団や隠居制家族、親分・子分関係、天道(天童)信仰など、日本民俗文化を研究していくうえで多くの重要な文化項目が認められ、民俗学的にきわめて貴重な地域であることが指摘できる。対馬では旧士族が村落に居住し、本戸(山林や海浜の共有権を持ち村落の社会運営にたづさわる家)や寄留(次三男以下、あるいはタビノモンと呼ばれる他から来住した者)などとともにきびしい身分制度があり、新戸(明治になって分家した家)もふくめ、村落のさまざまな権利関係や祭祀運営などにおいて特別な秩序があった。この身分制度は、東北日本型村落の親分子分による同族型(家連合)とは異なり、本戸の平等性を維持する。本戸の数が村ごとに一定数に定められていたのは、資源確保の意味があった。そして、隠居制家族や年齢集団などでは西南日本型村落の要素が強くみとめられる。。かつて重要な役割を果たした焼畑は今日では衰退している。また、壱岐・対馬・五島列島・山陰・北陸など広い範囲で活動した筑前国鐘崎の海人(海士・海女)は、中世前半に宗氏が鐘崎を領有していたところから対馬でも漁業権を得たものであるという。なお、江戸時代には、採集したアワビを乾燥させ、俵物などとして中国へ輸出することも多かった。対馬方言は、九州方言に属し、かつては韓国語との関係を期待されて、その観点から多くの言語学的研究がなされた一時期もあったが、今日では語彙における借用語以上の共通性はみられないことが判明している。古くから対馬で言い伝えられてきた民話としては、「狐の仇うち」「夕影山の主」「美女塚」「京のさかづき」などがある。対馬特有の景観として、板状の粘板岩や頁岩で屋根を葺く「石屋根」と呼ばれる建物がある。おもに高床倉庫などに用いられる。卜部神道の源流をなすのが対馬神道であり、小国ながら対馬には29座もの式内社があった。対馬神道の原点ともいえる『天道縁起』には、ウツロ船に乗って感精した女が天童を生んだという独特の天童信仰があり、遠く北陸・出羽にも影響をあたえた。木坂地区と青海地区には海辺の石を積み上げて「ヤクマの塔」を造り、旧暦6月の初午の日に神饌を供えるヤクマ祭りの祭祀がのこっている。かつては、対馬全島にみられた風習であったが、現代では両地区にのみ継承されている。また、この2地区では、埋葬する墓と拝み墓を別に設ける両墓制という独特の葬制があった。2009年(平成21年)、豆酘(つつ)集落が、「海士による潜水漁や赤米の栽培・神事など、古い文化を残す。里山を利用した養蜂や在来種ソバの栽培も盛ん」として「にほんの里100選」(朝日新聞創刊130周年・森林文化協会創立30周年記念事業)に選ばれた。韓国では長らく、「対馬島()」の朝鮮語読みである「(テマド、Daemado)」という呼称を使用していた。現在、韓国政府の公式に出版する資料では、日本語のハングル表記法に基づき「(つしま+島)」と表記されるが、従来通り「」と呼ぶ場合もある。対馬は1990年代頃から、日韓交流の拠点となるべくイベントの開催等さまざまな活動を行っており、なかでも対馬アリラン祭は島最大のイベントとなっている。他にも国境マラソンin対馬、対馬ちんぐ音楽祭などがある。さらに島内のほとんどの道路標識に朝鮮語を併記するなど、観光客の誘致に力を入れている。また、対馬島内の複数の中学校が韓国内の中学校と姉妹校縁組を締結しておりホームステイなどの交流を行なっている。対馬市は釜山広域市の影島区と姉妹都市提携を結んでおり、釜山市内に市の事務所を構えている。対馬では流れ着いた漂着ゴミを減らすため、毎年、日韓合同で対馬北部の海岸の清掃(ゴミ拾い)を実行している。毎年夏に開かれている「厳原港まつり」では韓国人が参加者の半数を占めるようになり「対馬アリラン祭」と呼称されていた。しかし、対馬仏像盗難事件などの影響もあり、2013年には韓国との種々の交流行事がストップした。また2014年11月には新たな窃盗団による仏像盗難事件が起こった。長崎県は、対馬全域を「しま交流人口拡大特区」として構造改革特別区域提案・申請し、2003年(平成15年)11月28日に認定された。この認定により、以下の事業が可能になった。希少動物が多く生息してはいるが、その生息状況は芳しいとはいえない状態である。森林の伐採によりツシマヤマネコが住処を失い、1920年には日本で対馬にしか生息していなかったキタタキが絶滅している。また過疎による耕作地の荒廃が餌の小鳥やネズミを減らし、野猫対策の罠や農薬、道路開発による自動車事故もまたツシマヤマネコを危機に追い込んでいる(ツシマヤマネコ#絶滅に瀕するツシマヤマネコも参照)。壱岐対馬国定公園内に韓国の国花であるムクゲを無許可で植栽する者がおり、生態系の保全の観点から問題視されている。対馬島の沿岸には、対馬海流にのって外国からのゴミが漂着する。中華人民共和国や中華民国(台湾)、ロシアからのものもあるが、その大半は大韓民国のゴミである。漂着ゴミは、プラスチック製の各種容器・生活廃棄物・漁具類のほか、テレビや冷蔵庫等の大型ゴミもある。また、2000年以降は毎年、韓国の養殖業で使用されたと見られる薬品用ポリタンクが大量に漂着する。これらのポリタンクには、塩酸や過酸化水素等とハングル表記されている。実際に薬品が残っていた例もあった。これらの廃棄物は、1年間で約4400トンが漂着し、その量は対馬市が処理する一般廃棄物の3分の1に当たり、その費用として2001年(平成13年)からの7年間で2800万円を要する。なお、韓国からゴミを回収するボランティアが来島したこともあった。1960年(昭和35年)には6万9,556人であった人口も2010年(平成22年)には34,116人に減少しており、50年間で人口は半減し、年間400人から500人もの人口が減少している。特に旧峰町の減少率が著しい。島内には大学や短期大学もなく、若者の人口流出が著しく、少子高齢化が進んでいる。2009年(平成21年)における全人口に対する65歳以上の人の割合は28.7%であり、少子高齢化の速度は全国平均および長崎県平均よりも速い。小学校の閉校も相次いでいる。対馬市によれば、2030年の推計人口は、2万3,000人程度である。かつての主産業であった水産業・林業・鉱業はいずれも不振であり、生活道路などの整備も不充分ななか、公共事業も削減されて大きな痛手となっており、豊かな自然と長い歴史、独自の民俗文化等にめぐまれていることから、近年は観光に力を入れている。2009年、長崎県議会は国(内閣総理大臣、国家戦略担当大臣、総務大臣、財務大臣、内閣官房長官、衆議院議長、参議院議長)に対し、「新過疎法」の制定促進を求める意見書を提出している。1999年に厳原港・比田勝港-釜山港間の定期船航路開設以降、多くの韓国人観光客が対馬を訪れるようになったが、同時に一部の韓国人観光客のマナーの悪さが島内のみならず本土でも問題が取り上がられるようになった。対馬に対しては、韓国漁船による領海侵犯が日常的におこなわれており、その主たる目的はアワビの密漁である。密漁船の多くは釜山港を拠点としており、組織ぐるみで密漁している。韓国人密漁者には1年間で2億5,000万円を稼ぎ出す者がいるいっぽう、地元漁師のなかには、以前にくらべアワビ漁による収入が10分の1に激減した者がいる。対馬には陸上自衛隊対馬警備隊、海上自衛隊対馬防備隊、および航空自衛隊第19警戒隊が置かれているが、超党派の議員連盟日本の領土を守るため行動する議員連盟と自民党の真・保守政策研究会が2008年12月に現地で行った調査では、必要な艦船・航空機の欠如、少数の要員(全体で700人)、実弾の供給不足に起因する隊員の訓練不足が指摘され、防衛機能を果たすには不十分な状況にあることが明らかにされている。また、現地における自衛隊の国防意識が希薄になっている現状も指摘され、防衛上の新法作成が必要との提言がなされている(後述)。前韓国海軍作戦司令官の金成萬は2007年(平成19年)に対馬への軍事侵攻計画を作成するよう韓国政府に進言している。2008年には、韓国軍退役軍人の団体が対馬市役所前で指を噛み切り、韓国国旗に血書で「独島は韓国領土」などと書きこむ事件が起きた。2009年には、在日本大韓民国民団(民団)対馬島地方本部事務局長の妻を持つ、日本に帰化した元韓国人男性が20年間にわたって自衛隊員との親密な交流を深めながら、基地を訪れては自衛隊の演習や人員配置などを書き写していることが報じられている。2013年には観光客として対馬に潜入した数千人の工作員と韓国系自衛官などが韓国・北朝鮮政府に協力して対馬を征伐奪回するとした書籍が韓国でベストセラーとなる。2009年1月29日、財部能成対馬市長、作元義文対馬市議会議長をはじめとする対馬市民が防衛省を訪れて対馬市議会作成の自衛隊増強の嘆願書を提出している。要望書の概要は以下の通り自衛隊増強要望書提出に際しては、島民は、対馬が古来より現在まで変わることなく国境の最前線であるという認識を持ち続けていることを理由として掲げている。2008年頃から韓国資本が対馬で土地の買い占めを行っているとの報道がなされるようになり、浜田靖一防衛大臣は「政府で検討すべき問題」、中曽根弘文外務大臣は「わが国の領土を守るのは国家の最重要課題」と国会で答弁した。また、海上自衛隊対馬防備隊本部の隣接地で旧日本海軍の施設のあった土地の所有者が自衛隊への売却を希望したが、自衛隊側が買収予算計上に時間をかけている間に、韓国資本が日本人名義で土地を買収し、リゾート施設を建設したことも明らかになった。2008年12月20日に超党派の国会議員グループ11人が対馬を公式視察した際、視察団長の平沼赳夫はこの件に触れ、海上自衛隊が危機意識を感じていないとして「領土意識が希薄になっていることを象徴している」と危機感を表明し、国境対馬振興特別措置法(防人の島新法)制定の必要性を訴えた。2008年11月12日の合同会議では、韓国資本による不動産買い占めは5500坪(島全体の0.26%)におよぶことが報告された。新法では、国防機関の設置や領土保全に対する特別措置などを盛り込むよう求めた。ただし、韓国人が日本人名義で不動産の買収を行うケースもあるため、実際の買収状況を把握することは困難という指摘がある。長崎県議会からは、外国人参政権について日韓両国は相互主義の成り立つ条件にないことを指摘したうえで、「長崎県は、対馬の問題を抱えている。対馬は韓国領だと主張する韓国人がいて、実際に韓国資本により対馬の土地の多くが買われ、韓国人が移住しているという現在、もし、在日韓国人に地方参政権が与えられたとしたら、韓国政府の意向を受けた地方公共団体の長や議員が誕生し、実質的に対馬を韓国領とされてしまうという悪夢が実現するのではないかという大きな懸念を持っている」として、外国人参政権付与に反対する意見書が鳩山由紀夫内閣総理大臣、平野博文官房長官、横路孝弘衆議院議長、江田五月参議院議長などに提出されている。東京都江戸川区議会議員の田中健は、「外国人参政権が付与されれば数万人の韓国人が移住して行政に影響力を持ち、住民投票によって分離独立宣言がなされた後に韓国に併合される恐れがある」と指摘している。観光客は年間およそ68万人である。家々が密集する対馬の集落ではひとたび火災がおこると、その被害は甚大であったため、防火・防風兼用の石積みの塀がつくられた。代表的郷土料理として知られるのが「石焼き」で、対馬産の石英斑岩をコンロにかけて熱し、油をひいて新鮮な魚貝類や野菜を焼き、タレで食べるというものである。「いりやき」は地鶏に魚介や椎茸を加えた鍋料理であり、「ろくべえ」はサツマイモを細かく砕いて発酵させ、水にさらして、でんぷん質と植物繊維だけを抽出したせんから作った麺に、すまし汁をかけた料理である。また、日本の蕎麦は、対馬を経由して中国から伝えられたといわれており、対州蕎麦は対馬の特産の1つとなっている。なお、B級グルメとしては「対馬とんちゃん」が知られる。シイタケ(ドンコ)、イカの一夜干し、ウニ、日本酒、焼酎、銘菓「かすまき」、対州そば、蜂蜜(ツシマハチミツ)、真珠、若田石硯、対馬焼が名産として知られる。かつては、鉛や青砥(粘板岩製の砥石)、木炭も名産品として知られていた。なお、ツシマハチミツの巣箱「蜂洞」は、国土交通省「島の宝100景」に選ばれている。おもな釣りポイントとしては、舟志湾、大浦湾、佐須奈湾、三根湾、佐賀湾、長崎鼻、浅茅湾、神崎灯台下、大梶鼻、小茂田波止、豆酘崎がある。魚種は豊富で、年間を通してタイやチヌ、冬季から早春にかけてクロ(メジナ)、春から夏にかけてアラカブ、メバル、イシダイ、サヨリ、夏から秋にかけてはキス、イサキ、ベラ、ヒラス、夏の夜釣はアジ、サバ、タチ、イサキ、イカなどが釣れる。上島に三宇田海水浴場、井口浜海水浴場、湊浜海水浴場、茂木海水浴場、下島に美津島海水浴場、小茂田浜海水浴場、尾浦海水浴場、安神海水浴場、豆酘板形海水浴場の各海水浴場がある。道路は、比田勝(上島北東岸)から上島西部、下島北部東岸を経て厳原に至る国道382号が整備され、厳原から下島を時計回りにほぼ一周して鷄知(下島東岸中部)に至る長崎県道24号厳原豆酘美津島線と上島東岸沿いを走る長崎県道39号豊玉上対馬線ともに縦貫道路として南北をむすぶ動脈となっている。主要地方道はこの2路線の他に4路線、一般県道は9路線がある。公共交通機関は、バス(対馬交通・対馬市営バス)、タクシー、浅茅湾内を運航する市営渡船がある。坂道の多い対馬では、かつては小型で足腰の強い対州馬が農耕用のみならず、人々の移動手段として重要な役割を果たしていた。また、島内には、岬を一つへだてただけの隣村でも陸上の道がなく、船以外では行けない箇所がいくつもあったという。対馬空港が設置されており、福岡空港(全日空便)、長崎空港(オリエンタルエアブリッジ便)への航路が就航している。対馬空港は1975年(昭和50年)、旧美津島町の白蓮江山の山頂を切り開いて建設された。特記を除き、旅客営業を行っている航路を記載している。いずれの航路も、韓国の釜山広域市にある釜山港との間を高速船で運航している。島内をサービスエリアとして対馬市CATVが運営されている。実際の運営は指定管理業者が行っており、2008年11月1日からはコミュニティメディア(本社は長崎市に所在)が指定管理業者となっている。
出典:wikipedia
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