飯田線(いいだせん)は、愛知県豊橋市の豊橋駅と長野県上伊那郡辰野町の辰野駅を結ぶ東海旅客鉄道(JR東海)の鉄道路線(地方交通線)である。開業・ダム建設輸送・戦時国有化・国鉄分割民営化と、折々の時代の要請の中で愛知県、静岡県、長野県に跨る険しい山岳地帯を貫き全通を果たし、現在も東三河・天竜・中南信の都市農山村を結ぶ路線。起点の豊橋駅から終点の辰野駅を経て長野県の上諏訪駅まで各駅停車で直通する列車もあり、豊橋駅から辰野駅までは約6時間かかるが、一度も乗り換えることなく行くことができる。1983年までは旧形国電の宝庫として鉄道ファンの注目を集めたが、現在でも天竜川の険しい渓谷を縫うように走る車窓風景や、小和田駅や田本駅などのいわゆる秘境駅の存在から、鉄道ファンや旅行者に人気のある路線である。もともと直結した4社の私鉄路線(豊川鉄道・鳳来寺鉄道・三信鉄道・伊那電気鉄道)を戦時国有化・統合したことで成立した路線であり、駅はほぼ開通時の沿線集落ごとに設けられている。このため駅間距離が旧国鉄の地方路線としてはとても短いのが特徴で、全長195.7km中に起終点を含めて実に94の駅がある。それらの平均駅間距離は約2.1kmと大都市の市街地路線並みであり、また地方鉄道の簡易な規格で建設されたことから速度は低く、急カーブや急勾配も多く見られる。中でも赤木駅 - 沢渡駅間の勾配は40‰で、信越本線の横川駅 - 軽井沢駅間(碓氷峠)が廃止された後は、JR最急勾配となった。豊橋駅 - 豊川駅間はIC乗車カード「TOICA」の利用エリアに含まれている。全線がJR東海東海鉄道事業本部の直轄である。ただし、辰野駅構内はJR東日本長野支社の管轄で、構内にある上り場内信号機が線路上の会社境界になっている。豊橋駅 - 豊川駅間の複線区間のうち、豊橋駅 - 平井信号場間は名古屋鉄道(名鉄)と共用しており、JR東海が所有する下り線を飯田線と名鉄の下り列車(中部天竜・名鉄岐阜方面行)が通り、名鉄が所有する上り線を名鉄と飯田線の上り列車(豊橋方面行)が通る。これは、1927年6月に愛知電気鉄道(名鉄名古屋本線の前身)の豊橋延長に際し、豊川鉄道(飯田線大海駅以南の前身)と線路共用を行う協定が結ばれ、これが現在にまで踏襲されているものである。この区間にある船町駅と下地駅は飯田線専用で名鉄の列車は停車しない。1991年3月16日のダイヤ改正からは、朝夕をのぞく新城駅以北直通の飯田線列車のほとんどについても、この両駅を通過するようになった。共用区間の信号・電気・運行管理は上下線ともJR東海が行っており、基本的に飯田線列車の運行が優先され、名鉄の列車は1時間に最大6本に制限されている。制限速度も85km/h以下に抑えられ、遅延が長引くと入線できず、伊奈駅以西で折り返すことがある。優等列車については、1996年3月16日に登場した特急「伊那路」が、豊橋駅 - 飯田駅間に1日2往復運転され、飯田駅 - 辰野方面には快速「みすず」が運転されている。普通列車については、飯田線全線を約6 - 7時間かけて走り抜く直通列車もあるが、列車の運行区間はおおむね、豊橋近郊の東三河地区、本長篠駅から中部天竜駅を経て天竜峡駅に至る急峻な3県県境越えの三遠南信、および飯田・伊那周辺の伊那谷の3区間に分けられる。また、中部天竜駅 - 天竜峡駅間をのぞく区間では一部の普通列車でワンマン運転が行われている。このうち、北部の天竜峡駅 - 辰野駅間については2001年3月から119系電車にワンマン対応工事を施した上でワンマン運転が開始され、2007年3月以降は辰野駅から先の中央本線岡谷駅までワンマン運転を行っている。また、南部の豊橋駅 - 中部天竜駅間についても313系3000番台電車の導入を機に2012年3月17日のダイヤ改正からワンマン運転が行われている。なお、飯田駅 - 駒ケ根駅間などでは普通列車では珍しく昼間に弁当が車内販売されていたが、2004年1月をもって廃止された。1960年から1980年代にかけては、新宿駅・長野駅・名古屋駅などとの間に直通急行列車が4 - 7両編成で走っていたが、中央自動車道が全通し、これを経由する高速バス(中央高速バス・中央道高速バス)が設定されると利用客数が激減したため廃止された。東三河の市街区間であり、飯田線では最も旅客輸送の盛んな区間である。1時間あたり豊橋駅 - 豊川駅間が4本(15分間隔)、豊川駅 - 本長篠駅間は1 - 2本程度(30 - 60分間隔)で運行されている。初詣シーズンなどは豊川稲荷への参詣輸送も行われる。2012年3月17日のダイヤ改正からこの区間の一部列車でワンマン運転が行われている。2006年9月30日までは朝夕に本長篠駅・新城駅と東海道本線名古屋方面との間で直通列車が運行されていた。1999年12月3日までと翌4日から2006年9月30日までとではパターンが異なっていた。前者は新城行きの片道のみの設定で、1991年より夕方に当時の大垣電車区に配属されていた211系5000番台3両編成を使用し、東海道線内は普通、飯田線内は快速として運転されていた。後者は大垣区の313系300番台2両編成(豊橋駅で増解結し、東海道線内は4または6両編成で運転)を使用し、前者の場合とはほぼ逆に、東海道線内は主に特別快速(一部新快速)、飯田線内では下りは小坂井駅 - 本長篠駅間、上りは牛久保駅 - 本長篠駅間を各駅停車として運転されていた(豊橋駅 - 小坂井駅または牛久保駅間はノンストップ)。本長篠駅までの直通列車が設定されるようになったのはこの時からである。その後、2006年10月1日のダイヤ改正で東海道線との直通列車が全廃され、それ以降は全列車が豊橋駅での折り返しとなっている。また、過去には初詣シーズンの昼間に東海道線の新快速が豊川駅まで延長運転されたこともある。この時は飯田線内ではノンストップで運転されていた。宇連川・天竜川沿いの小町村・小集落を縫って走る急峻な山岳路線である。列車は豊橋方面との直通が多いが、一部は豊橋駅 - 中部天竜駅または水窪駅間および飯田駅・天竜峡駅 - 平岡駅間の区間運転となり、列車はおおむね朝夕1時間1本、日中は2 - 3時間程度間隔が開く。愛知・静岡・長野の3県にまたがる区間で沿線人口も少ないため、この区間を通しで普通列車に乗車する利用者は少ない。2012年3月17日のダイヤ改正から本長篠駅 - 中部天竜駅間の一部列車でワンマン運転が行われているが、中部天竜駅 - 天竜峡駅間では全列車に車掌が乗務している。中部天竜駅 - 水窪駅間には、川の対岸に渡らず戻ってくる通称S字橋こと第六水窪川橋梁がある。水窪駅 - 天竜峡駅間には秘境駅と呼ばれる駅もいくつか存在する。かつて1987年から2006年まで、行楽シーズンに豊橋 - 中部天竜間でトロッコ列車「トロッコファミリー号」が運転されていた。その後も2009年春から中部天竜駅前にあった佐久間レールパークの閉園まで、同区間で臨時快速列車「佐久間レールパーク号」が運転されていたが、こちらは名古屋駅からの東海道本線直通列車であった(ただし、2009年11月1日運転の「佐久間レールパークフィナーレ号」は豊橋駅 - 中部天竜駅間のみの運転)。おおむね1時間に1本が運転され、飯田市・駒ヶ根市・伊那市などの南信地方主要都市を結んでいる。この区間の一部列車ではワンマン運転が行われている。また、飯田駅 - 辰野駅 - 岡谷駅 - 塩尻駅 - 長野駅間を篠ノ井線経由で「みすず」が結んでおり、このうち一部は飯田線内で快速運転を行う。特急「伊那路」のほかは普通列車と一部の快速列車の運行であるが、一時期、臨時特急「ふれあい伊那路」が豊橋方面から駒ケ根駅まで運行されていた普通列車は朝の上り1本・夜の下り1本が辰野駅始発・終着である以外は中央本線の岡谷駅まで直通しており、中央本線の辰野駅 - 岡谷駅間は飯田線と一体の運行になっている。先述の「みすず」のほか、一部列車は岡谷より先の中央本線上諏訪駅または茅野駅まで直通する。すべて電車で運転されている。飯田線において2両編成の車両で車掌が乗務する列車は、運転士がドアの開閉操作を行うため、駅に到着してもすぐにドアは開かない。これは車掌が無人駅(夜間が無人となる有人駅を含む)で乗車券を回収するためである。3両以上の編成の列車は車掌がドアの開閉操作を行う。JR東海では2012年度までに313系120両の投入を進めており、その玉突き転配で神領車両区から大垣車両区に転属した213系5000番台や313系3000番台が2011年11月から2012年3月にかけて飯田線に導入された。213系5000番台は2扉車で、飯田線南部で普通列車に2扉車が定期運用されるのは、1989年に運用終了した165系以来22年ぶりのことである。これにより、119系の運用は2012年3月に終了した。かつて、飯田線はいわゆる旧形国電や旧形電気機関車が残存することで知られていた。山岳勾配線区のため、旧形国電の電動車はMT30モーター搭載車が多かったようにいわれるが、ほとんど各駅停車ばかりで最高速度75km/h(当時)程度では出力の差はさほど影響せず、実際は多数在籍していたMT15モーター搭載車と共通に運用されていた。「流電」クモハ52形や「合いの子」クモハ53形が有名であるが、両数的には51系(クモハ51またはクモハ54+クハ68)が主力であり、同系のクハユニ56形やクモハユニ64形も含めて1983年の完全新性能化まで残っていた。国鉄編入前から既に電化されていたため、臨時列車や団体列車、気動車で運転していた一部の中央本線の急行と併結運転していた急行・準急列車以外で気動車やディーゼル機関車が走ったことは少ない。旧形国電における塗色の変遷は、一般車は1968年頃までぶどう色2号、快速用車は1952年からクリームとマルーンの「初代快速色」(17m車に採用)、1957年から黄かん色と青2号の「静鉄快速色」(20m車のみに採用)、1964年から「湘南色」(1961年の準急「伊那」新設に伴い戦前形を使用した快速は廃止されたが、旧快速用の2扉車を中心とした4両貫通編成に充当される車のみ湘南色とされた。)、1968年以降は全車クリーム1号と青15号の「スカ色」の順だった(1978年転入の80系300番台のみ例外で「湘南色」のまま運用された)。国有化以前は以下の項目を参照。飯田線の経路は、伊那谷地域を経由して東海道本線と長野県を結ぶものであり、明治時代以来長い時間をかけて建設が進められたルートである。特に大正期以降に建設・延伸された区間については、この時代に中部山岳地帯各地において盛んに行われた水力発電所建設に伴う資材の輸送を担うべく延伸が促進されたものであり、合わせて早期に電化が行われる一因ともなった。豊橋駅 - 大海駅間は豊川鉄道が開通させた。1897年に最初の区間として豊橋駅 - 豊川駅間が開業、大海駅まで開通したのは1900年である。1925年に全線が電化され、翌年には名古屋からの路線を延ばしてきた愛知電気鉄道(名古屋鉄道の前身の一つ)が乗り入れを開始している。大海駅 - 三河川合駅間は豊川鉄道傍系会社の鳳来寺鉄道により1923年に開業した。豊川鉄道と同年に電化されている。三河川合駅 - 天竜峡駅間は三信鉄道によって開通した。鉄道会社が設立されたのは、鉄道が投機の対象となっていた1927年であり、路線測量はその翌年4月から開始された。測量には、アイヌ民族の測量士で山地での測量技術に長けた川村カ子トらが高給で招聘されて従事した。ところが、1929年には昭和恐慌が起こり、経済情勢が急変。だが、筆頭株主が東邦電力と天竜川電力という電力会社で、濃くなる戦雲の中、天竜川に国内エネルギー資源開発をもくろんでいた両社は、電源開発(発電所建設など)の資材や労働力運搬のため鉄道を使用しようとして、1929年8月の天竜峡駅 - 門島駅間の着工後も工事は放棄されることなく、1930年には南から三河川合駅 - 出馬駅間も着工した。しかし、中央構造線のもろい地層と、天竜川峡谷の断崖絶壁に阻まれて工事は難航。コスト削減のため、実際の土木工事は、ほとんど朝鮮半島から来た人々が担った。それでも会社の資金繰りは悪く、朝鮮人の労働者は労働争議に訴えてようやく不払いの賃金を一部だけ獲得するというありさまであり、もろい地層の工事にもかかわらず保安設備は劣悪で犠牲者が続出、恐れをなした朝鮮人労働者が現場から逃げ出し、近隣の農村に駆け込む事態も起こった。1931年からとうとう工事は中断したが、三菱銀行などから多額の融資が得られ、この工事に生命をかけた飛島組の熊谷三太郎の工費を自分で立て替える熱意とあいまって、工事は再開された。このような紆余曲折と日本鉄道史に残る凄惨な工事の末、最後の大嵐駅 - 小和田駅間の開業でこの区間が全通したのは1937年である(当初より電化)。これをもって、豊川鉄道の最初の区間が開業してから40年後、現在の飯田線である吉田駅(現在の豊橋駅) - 辰野駅間は全通、直通電車が走り始めた。なお、この難工事成功の実績により、熊谷三太郎は自立に成功、戦後に熊谷組として成長する地歩を築いた。天竜峡駅 - 辰野駅間は伊那電気鉄道が開通させた。最初の開業区間は辰野駅(のちの西町駅) - 松島駅(現在の伊那松島駅)間で、当初の社名を「伊那電車軌道」と称したとおり、一部が併用軌道であった。しかし、軌道では大量輸送・高速化に適さないため、伊那松島駅 - 伊那町駅(現在の伊那市駅)間が専用軌道に移設され、全線が軌道法による軌道から地方鉄道法による鉄道に変更されたのは1923年、天竜峡駅 - 辰野駅間が全通したのは1927年である。伊那電気鉄道・三信鉄道・鳳来寺鉄道・豊川鉄道各社の鉄道路線が国有化され、飯田線となったのは1943年である。鉄道路線を失った鳳来寺鉄道・豊川鉄道両社は翌年に名古屋鉄道に吸収合併された。太平洋戦争最中の1942年に、豊川にあった海軍工廠への物資輸送・通勤用に供するため、豊川鉄道が豊川駅 - 西豊川駅間の支線を開業した。戦後の1956年に廃止され、海軍工廠跡にできた国鉄名古屋工場豊川分工場の専用線となり、さらに同工場廃止後は日本車輌製造豊川製作所の専用線として同所で製造された鉄道車両の搬出などに使われている。なお、名古屋鉄道には名古屋本線の伊奈駅から分岐して飯田線の小坂井駅に至る小坂井支線が1926年から豊川線の開業する1954年まで存在しており、愛知電気鉄道時代から小坂井駅 - 豊川駅間で豊川鉄道→飯田線との直通運転を行っていた。初詣シーズンには豊川稲荷への参拝客輸送のため、新名古屋駅(現在の名鉄名古屋駅)と近畿日本名古屋駅(現在の近鉄名古屋駅)の間に存在した連絡線を用いて近畿日本鉄道(近鉄)からの団体列車が乗り入れたこともあり、その他にも戦前には愛知電気鉄道・豊川鉄道・鳳来寺鉄道・三信鉄道の4社線直通を行った行楽列車の「天龍号」が、戦後には本長篠駅から分岐していた田口鉄道に乗り入れる紅葉狩り列車などが小坂井支線を使用して運行されていた。1955年には、佐久間ダムの建設により線路が水没するため、佐久間 - 大嵐間が水窪経由の新線に切り替えられた(詳細は「佐久間ダム建設に伴う路線変更」を参照)。飯田線の優等列車の詳細な沿革については以下の項目を参照のこと。天竜川水系は、水量が豊富でなおかつ急流であるというダム建設に適した河川系であったために、戦前から数多くのダムが造られていた。戦後の経済復興にあわせた電力供給の拡充は経済発展の礎となるためにも急務とされ、その一環として、天竜川水系のうちダム建設に適した地形であった磐田郡佐久間町(現在の浜松市天竜区佐久間町)に発電用大型ダムの佐久間ダムが建設されることとなった。佐久間ダムは、当時日本で最大規模の堤体と発電量を持つ巨大ダムであり、そのダムによって生成された人造湖(佐久間湖)は上流の泰阜発電所付近に至る全長33kmにもなり、当時天竜川左岸を走っていた飯田線の佐久間 - 大嵐間約18kmの部分がダム湖に水没するため、ダム建設に伴う補償としてこの水没区間の路線変更が行われた。佐久間ダムにより水没する部分は佐久間駅 - 大嵐駅間の約18kmであり、この区間には豊根口駅、天龍山室駅、白神駅の3駅があったが、これらは線路共々廃止となった。変更路線のプランは、「大入川線」「水窪線」の2ルートが計画された。このうち「大入川線」は、上市場駅から北方、天竜川右岸の山中に進路を取り、途中「大笹」「田鹿」「横林」の3駅を経由した後に大嵐駅に出るルートであった。一方、「水窪線」は、佐久間からトンネルで水窪川水系に出た後、秋葉街道沿いに水窪町まで北上、そこからトンネルで再び天竜川水系に戻り大嵐に至るという現在のルートである。2つのルートを比較すると、「大入川線」は、途中で掘削する長大トンネルはキビウトンネル(延長4,850m)の一本だけで済むものの、曲線とトンネルが連続するなど線形が悪く、また途中の3駅は小和田駅のように人家もほとんどない山中に建設されるため利用客がほとんど見込めない上、現路線が経由している佐久間の町を経由しないという最大の欠点があった。一方、「水窪線」は、佐久間から秋葉街道および水窪を経由していくため、ある程度の利用客が見込めたが、峯トンネル(延長3,619m)と大原トンネル(延長5,063m)という2つの長大トンネルを掘削しなければならない上に、この付近には中央構造線と天竜川断層という2つの断層地帯が走っており、難工事となることが予想された。比較検討の結果、「水窪線」ルートでの路線変更が決定され、1953年12月に着工された。前述したように、この付近は2つの断層地帯に挟まれたきわめて地盤の不安定な地域であったために、城西 - 向市場間のような工事の難航した箇所もあり、また、大原トンネルは当時の日本で十指に入る有数の長大トンネルであったが、関係者らの努力などもあって(大原トンネル掘削に際しては鉄道工事初の全断面掘削工法が採用され、12m/日、260m/月という掘削記録を樹立した)大きな事故もなく工事は終了。1955年(昭和30年)11月11日に路線変更が行われ、豊根口、天龍山室、白神の旧線上の3駅が廃止になるとともに、新線に相月、城西、向市場、水窪の4駅が新たに開業した。新線との合流地点となった大嵐駅はホームの移動や構内配線の変更が行われ、また佐久間駅は路線変更に合わせて移転し、旧佐久間駅跡には佐久間発電所が建設されている。これまでも書いたように、路線変更後の新線沿線となる水窪川沿岸は、右岸(天竜川とを隔てる山系)に中央構造線、左岸に天竜川断層と2つの断層地帯に挟まれた部分を通っており、飯田線付替線建設工事に際してもこれらの断層地帯に起因した不安定な地盤に悩まされた。「渡らずの橋」や「S字橋」と称され今や飯田線名物の一つとなっている第6水窪川橋梁(城西駅 - 向市場駅間)であるが、これは不安定な地盤を考慮した結果である。本来、飯田線は城西駅 - 向市場駅間のこの箇所を水窪川左岸側に穿った全長45mの向皆外トンネルで抜ける予定であった。向皆外トンネルは1954年2月に着工され同年6月に貫通したものの、その後の降雨や台風の影響により坑内のアーチ、側壁のコンクリートに剥脱が生じ始め、ついで地盤の変化によるトンネル中心線の移動や断面の変形が発生し、ついにはトンネル周辺の地山全体が水窪川に向かって滑り始めたため、放棄せざるを得ないと判断された。向皆外トンネルが放棄されたことにより、代替のトンネルをより奥に掘削することも検討されたが、工期や工費に余裕がないことや、この付近の地山自体が天竜川断層に近く不安定であることから、たとえ掘削しても「第二の向皆外トンネル」となる可能性も否定できなかったため、最終的には水窪川上にU字形の橋梁を建設し、不安定な箇所を迂回する方法が取られた。こうして建設された第6水窪川橋梁は、総延長400.7m、半径250mとなった。対岸に近い箇所まで大きく「迂回」しているのは、向皆外トンネルのある部分の地山がさらなる大崩壊を起こした場合に備えてのことである。不安定な地盤の影響を受けたのは、放棄された向皆外トンネルだけではなかった。同じ城西駅 - 向市場駅間、向皆外トンネルの先に建設された第一久頭合トンネルも完成はしたものの、同様の地山の地殻変動により廃棄の危険性が生じていた。ただ、第一久頭合トンネルが幸いだったのは、トンネル全体が損傷を受けた向皆外トンネルと異なり、危険箇所となったのは城西側坑口付近のみであったため、より城西側からトンネルを再掘削して第一久頭合トンネル内部につなげ、危険箇所周辺部分のみを放棄することで済んだことである。なお、この放棄された部分は埋め戻されることがなかったため、第一久頭合トンネルは珍しいY字状のトンネルとなっている。便宜上、辰野駅から多くの列車が直通する中央本線岡谷駅までの区間を記載する。括弧内は起点からの営業キロ。
出典:wikipedia
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