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特別攻撃隊

特別攻撃隊(とくべつこうげきたい)は、生還の見込みが通常よりも低い決死の攻撃、もしくは戦死を前提とする必死の攻撃を行う攻撃隊である。略称は特攻隊(とっこうたい)。特別攻撃(とくべつこうげき)とその略称の特攻(とっこう)も合わせて紹介する。語源は太平洋戦争の緒戦に日本海軍によって編成された特殊潜航艇「甲標的」の部隊に命名された「特別攻撃隊」の造語からである。同戦争の末期には、爆弾や爆薬等を搭載した軍用機、高速艇、潜水艇等の各種兵器、もしくは専用の特攻兵器を使用して体当たりし自爆するといった戦死を前提(後者)とするものが中心となった。海外の例では、第二次世界大戦末期の独空軍におけるゾンダーコマンド・エルベがある。転じて、軍事戦術以外でも「特攻」が戦略や事後の影響を度外視した捨て身による体当たり・自爆攻撃という意味で使われることもある。日本国外においても「"Tokko"」(トッコウ)、「"Kamikaze"」(カミカゼ)として通じている。日本陸軍は日露戦争において、白襷隊といった決死隊を臨時に編成したことはあったが、これは決して生還を期さない任務ではなく、ただ決死の覚悟で極めて困難で危険な任務を果たすというものであった。第二次大戦末期に組織的な特攻が始まる以前より、自発的な自爆攻撃が現場で行われることはあった。1944年(昭和19年)4月14日、アンダマン諸島へ向かう陸軍輸送船「松川丸」を護衛中の飛行第26戦隊の一式戦闘機「隼」(操縦石川清雄曹長)が、アメリカ海軍の潜水艦が発射した魚雷3本を発見、機銃掃射しつつ魚雷目掛け海面に突入し戦死するも爆破に成功した。1944年8月20日、アメリカ陸軍航空軍のB-29爆撃機による八幡空襲において、迎撃に出た飛行第4戦隊の二式複座戦闘機「屠龍」(操縦野辺重夫軍曹、後方射手高木伝蔵伍長)が第794爆撃飛行隊の「ガートルードC」号に対し体当たり攻撃を敢行し、「ガートルードC」号は空中爆発し墜落、またその破片の直撃を受けた僚機の「カラミティ・スー」号も墜落した。「屠龍」は墜落し野辺・高木共に戦死するも、1機で2機のB-29を撃墜した。1943年(昭和18年)には現場において特攻の必要を訴える者が現われており、1943年3月初旬、ラバウルの飛行第11戦隊の上登能弘准尉は、防弾装備が整った大型のB-17爆撃機は弾丸を全弾命中させても撃墜できないため体当たり攻撃が必要、体当たり攻撃機を整備すべきと現地の上級部隊司令部に上申したが、陸軍中央へは届かなかった。5月上旬、同じ第11戦隊の小田忠夫軍曹はマダン沖でB-17に体当たりして戦死している。同年11月9日、ビルマ方面の重爆隊である飛行第98戦隊第2中隊長西尾常三郎大尉は、機体に500kg爆弾を装備しての組織的な体当たり攻撃を計画すべしと日記に記している例もある。1944年(昭和19年)5月27日、ビアク島の戦いで来攻したアメリカ海軍艦隊に対し飛行第5戦隊長高田勝重少佐以下二式複戦「屠龍」4機は独断による自爆攻撃を実施。「屠龍」4機は超低空飛行で艦隊に接近し、2機が撃墜され1機は被弾撤退するも、残る1機は上陸支援を行う第77任務部隊司令官ウィリアム・フェクテラー少将の旗艦である駆逐艦に接近。被弾のためサンプソンへの突入はわずかに逸れ、付近の駆潜艇SC-699に命中し損害を与えた。また現地で艦船攻撃に際し爆弾投下前に被弾し生還が望めない場合、機上で信管を外し体当たりできるように改修するものもあった。同年中後半、ビルマ方面の防空戦闘で陸軍戦闘隊は、新鋭爆撃機として投入されていたB-29に一式戦「隼」で数次の体当たりを行っていた。これらの訴えは飛行機への体当たりであり、一部破壊(撃破)でも墜落する可能性があり生還する余地もあった。陸軍中央では1944年初頭に組織的な航空特攻の検討が始まった。陸軍はそれまでも前線からの切実な要望を受けて 浜松陸軍飛行学校が中心となって艦船に対する攻撃法を研究していた。まずは陸軍重爆の雷撃隊への改修を決定し、1943年12月に海軍より九六式陸上攻撃機の提供を受けて訓練が実施された。同時に四式重爆撃機「飛龍」の雷撃機改修も行われた。後に雷撃訓練は海軍指導のもとに行われ、陸軍の技量は向上したが、その頃には航空機による通常雷撃がアメリカ艦隊に対してほぼ通用しなくなりつつあった。また連合軍が採用し、ビスマルク海海戦などで成果を挙げていた反跳爆撃なども研究が行われ、1944年4月浜名湖で陸軍航空審査部との合同演習が行われ、8月には那覇で沈船を目標にした演習が行われ一定の成果はあったが、爆弾の初速が低下することや、航空機の軽快性を確保するためには大重量の爆弾を携行できないことが判明した。その後、実際に運用もされたがめぼしい成果を挙げる事はできなかった。以上の実績も踏まえて、陸軍中央航空関係者の間で 圧倒的に優勢な敵航空戦力に対し、尋常一様な方策では対抗できないとの結論に至り、1944年3月には艦船体当たりを主とした航空特攻戦法の検討が開始され 、春には機材、研究にも着手した。1944年3月28日、陸軍航空本部には特攻反対意見が多かったことから、内閣総理大臣兼陸軍大臣兼参謀総長東條英機大将は航空総監兼航空本部長の安田武雄中将を更迭、後宮淳大将を後任に据えた。1944年春、中央で航空関係者が特攻の必要に関して意見を一致した。当初は精鋭と器材で編成し一挙に敵戦意をそぐことを重視した。そこでまず九九式双軽爆撃機と、四式重爆撃機「飛龍」を改修することになり、中央で2隊の編成準備を進めた。特攻隊の編成にあたっては、参謀本部の「特攻戦法を中央が責任をもって計画的に実行するため、隊長の権限を明確にし、その隊の団結と訓練を充実できるように、正規の軍隊編制とすることが必要である」という意見と陸軍省(特に航空本部)の「軍政の不振を兵の生命で補う部隊を上奏し正規部隊として天皇(大元帥)、中央の名でやるのはふさわしくない。現場指揮官の臨機に定めた部隊とし、要員、機材の増加配属だけを陸軍大臣の部署で行うべきである」という意見で議論が続けられたが、後者で実施された。また同年5月、体当たり爆弾桜弾の研究が第3陸軍航空技術研究所で開始される。マリアナ沖海戦の敗北で1944年6月25日元帥会議が行われた。伏見宮博恭王より「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言がある。東條、嶋田はすでに考案中であると答えた。サイパンの玉砕を受け1944年7月7日の会議で参謀本部航空参謀からもう特攻を行う以外にないと提案した。1944年7月11日、第4航空技術研究所長正木博少将は「捨て身戦法に依る艦船攻撃の考案」を起案し、対艦船特攻の方法を研究し、6つの方法を提案した。1944年7月、鉾田教導飛行師団に九九双軽装備、浜松教導飛行師団に四式重爆「飛龍」装備の特攻隊を編成する内示が出た。8月中旬からは九九双軽と四式重爆「飛龍」の体当たり機への改修が秘かに進められた。9月28日、大本営陸軍部の関係幕僚による会議で「もはや航空特攻以外に戦局打開の道なし、航空本部は速やかに特攻隊を編成して特攻に踏み切るべし」との結論により、参謀本部から航空本部に航空特攻に関する大本営指示が発せられる。陸軍の特攻は鉾田教導飛行師団の万朶隊と浜松教導飛行師団の富嶽隊によって最初に行われた。通常の編成は航空本部から電文で命令されるが、命令は天皇を介するため、任命電報が送れず、菅原道大中将が編成担当者に任務を与え派遣した。富嶽隊、万朶隊は、梅津美治郎参謀総長が藤田東湖の「正気の歌」から命名した。万朶隊は、1944年10月4日航空総監部から鉾田教導飛行師団に九九双軽装備の特攻隊編成の連絡があった。10月13日、師団長今西六郎中将は航空総監と連絡し特攻部隊を編成の打ち合わせをした。中旬に九九双軽の特攻改修機が到着した。10月20日、参謀本部から編成命令が下され、21日岩本益臣大尉以下16名が決定した。22日航空総監代理により総監訓示が行われ、今西師団長も訓示を行う。26日九九双軽の特攻隊はフィリピンのリパに到着。29日万朶隊と命名された。富嶽隊は、浜松教導飛行師団長川上淸志少将は特攻隊編成の内示を受けると、同師団の第1教導飛行隊を母隊として編成し1944年10月24日から特別任務要員として南方へ派遣した。26日参謀総長代理菅原道大航空総監が臨席し出陣式が行われ、富嶽隊と命名された。万朶隊は初出撃を待つが11月5日、第4航空軍の命令で作戦打ち合わせに向かった隊長岩本大尉以下5名がアメリカ軍戦闘機と遭遇し戦死。富嶽隊もフィリピンに到着後、こちらも待機していたが11月7日早朝、初出撃した。しかしこの出撃は空振りに終わり、山本中尉機が未帰還となった。富嶽隊は13日に、隊長西尾常三郎少佐以下6名が米機動部隊に突入して戦死(戦果未確認)。残った富嶽隊、万朶隊はその後順次出撃し、戦後の復員者は万朶隊の佐々木友治伍長のみであった。遠距離目標を指示されて未帰還となるなど、4航軍は焦りから無理な特攻隊運用を行っていた。1944年11月6日陸軍中央は新たに編成した6隊の特攻隊に「八紘隊」と名付けてフィリピンに投入した。名前の由来は日本書紀(准南子)の「八紘をもって家となす」(八紘一宇)による。この6隊は当初は「八紘隊第1隊」「八紘隊第3隊」などと区分されていたが、4航軍司令官冨永恭次中将によって現地で行われた命名式でそれぞれ、八紘隊、一宇隊、靖国隊、護国隊、鉄心隊、石腸隊と改名された。その後も特攻隊は増加していったが、この命名式は終戦まで続けられた。最初期の陸軍特攻隊であるこれら6隊の戦果として、11月27日に八紘隊(一式戦闘機「隼」)が戦艦「コロラド」、軽巡洋艦「セントルイス」、軽巡洋艦「モントピリア」に突入し損害を与え、駆潜艇「SC-744」を撃沈。11月29日、靖国隊(一式戦「隼」)が戦艦「メリーランド」、駆逐艦「ソーフリー」、駆逐艦「オーリック」に突入し損害を与えている。さらに12月13日には一宇隊(一式戦「隼」)あるいは海軍特別攻撃隊第2金剛隊が軽巡洋艦「ナッシュビル」に突入、1月5日には重巡洋艦「ルイビル」に石腸隊あるいは進襲隊(九九式襲撃機)、1月8日には軽巡洋艦「コロンビア」に鉄心隊あるいは石腸隊(九九式襲撃機)がそれぞれ突入し損害を与えた。なかでも戦艦「メリーランド」は靖国隊の突入により大破炎上し翌1945年3月まで戦列を離れている。陸軍は比島での捷一号作戦だけで約210機を特攻に投入した。1944年末、陸軍航空総監部は『航空高級指揮官「と」号部隊運用の参考』の作成に着手、これは1945年4月ごろ関係部隊に配布された。1945年1月19日陸海軍大本営は、「帝国陸海軍作戦計画大綱」の奏上で、天皇に全軍特攻化の説明を行う。1945年1月29日陸軍中央は『「と」号部隊仮編成要領』を発令。2月6日参謀本部は特攻要員の教育を『「と」号要員学術科教育課程』の通り示達。2月23日、中央はと号部隊の第二次編成準備を指示。3月20日実行発令。沖縄戦では、第6航空軍所属の各振武隊と第8飛行師団所属の各誠飛行隊が次々と編成され、出撃していった。また飛行第62戦隊の重爆撃機による特攻も行われた。このうち、6航軍司令官は菅原道大中将が務め、知覧・都城などを基点に作戦が遂行された。また、海上から四式肉薄攻撃艇(マルレ)を装備した陸軍海上挺進戦隊による水上特攻も行われた。6航軍航空参謀倉澤清忠少佐によると、当時の陸軍では部隊を天皇の命令で戦闘をする直結の「戦闘部隊」と志願によって戦闘する「特攻部隊」に区別されたと言う。決号作戦のために航空機を温存するため、また操縦が容易な機体である九七式戦闘機といった旧式機や九九式高等練習機などの練習機も特攻に投入されたが、 同時に三式戦闘機「飛燕」や四式戦闘機「疾風」といった主力戦闘機も多数特攻に投入されている。(詳細は#特攻兵器陸軍戦闘機を参照)終戦間際になると、東日本を統括している第1航空軍の指揮下で各神鷲隊が編成された。これらの隊は主に太平洋側に配備され、大戦最末期の1945年(昭和20年)8月9日には第255神鷲隊(岩手より釜石沖に出撃)が、13日には第201神鷲隊(黒磯より銚子沖に出撃)、第291神鷲隊(東金より銚子沖に出撃)、第398神鷲隊(相模より下田沖に出撃)と3隊が出撃している。日露戦争の旅順閉塞隊、真珠湾攻撃の甲標的など特攻的決死戦法思想は古くからあったが、最高指揮官は攻撃後の生還収容方策手段を講じられる時のみ計画、命令したものであり、1944年10月以降に行われた特攻作戦とは本質的に異なる。1941年12月太平洋戦争の劈頭で実施された甲標的の部隊が「特別攻撃隊」と命名された。1941年11月11日、第六艦隊において、首席参謀松村寛治中佐の発案で、長官の清水光美中将が命名した。甲標的は攻撃後に帰還する計画だが、一度出撃すれば、自力での帰還はほぼ不可能に近いため、決死の作戦だった。その後も甲標的による特別攻撃隊は、1942年4月シドニーの「第一特別攻撃隊」、マダガスカルの「第二特別攻撃隊」、ガダルカナルの「第三特別攻撃隊」が実施されたが、全て帰還者はいなかった。甲標的の部隊は、その後も数が増えていったため、「特別攻撃隊」の名前は使われなくなったが、後の特攻隊に名前は受け継がれた。また、自発的な体当たり、自爆攻撃が行われることもあった。真珠湾攻撃で制空隊中隊長飯田房太大尉の搭乗機は被弾し母艦への帰還が困難と判断し、カネオヘのアメリカ海軍飛行場格納庫に向け突入した(命中できず妻帯士官宿舎付近の舗装道路に激突)。珊瑚海海戦で機動部隊の上空直衛を行っていた宮沢武男兵曹は、空母翔鶴へ雷撃態勢に入ったTBD デバステーターに対して撃墜の暇なしと見て体当たりを敢行し戦死した。ミッドウェー海戦で南雲機動部隊の空母3隻が致命打を受けたあと、空母飛龍から米機動部隊に向け発進した攻撃隊隊長友永丈市大尉は米空母ヨークタウンを攻撃した際に被弾し同乗の赤松少尉・村井一等飛行兵曹と共に同艦に体当たりした。南太平洋海戦で南雲機動部隊の上空直衛の大森茂高一飛曹の零戦が、翔鶴へ攻撃態勢に入ったSBDドーントレス投弾体勢に対し体当たりを敢行し戦死している。また、翔鶴ならびに瑞鶴から出撃した米空母機動部隊への攻撃隊のうち、第5航空戦隊艦攻隊隊長・第1次攻撃隊総指揮官村田重治少佐の九七式艦上攻撃機、第5航空戦隊艦爆隊隊長坂本明大尉の九九式艦上爆撃機が米空母ホーネットを攻撃中に同艦の対空砲火により被弾し、2機とも同艦へ突入し戦死した。台湾沖航空戦で第26航空戦隊司令官有馬正文少将は一式陸上攻撃機に搭乗し攻撃部隊の空中指揮を執り、敵艦に突入した。連合艦隊主席参謀としてモーターボートによる特攻の構想(後の震洋)を軍令部に語っていた黒島亀人が軍令部第二部長に就任すると、1943年8月6日戦備考査部会議において突飛意表外の方策、必死必殺の戦を提案し、一例として戦闘機による衝突撃の戦法を挙げた。1943年8月11日には第三段作戦に応ずる戦備方針をめぐる会議で必死必殺戦法とあいまつ不敗戦備確立を主張した。1943年6月末、侍従武官城英一郎が航空の特攻隊構想である「特殊航空隊ノ編成ニ就テ」を立案する。内容は爆弾を携行した攻撃機による艦船に対する体当たり特攻で、専用機の構想もあり、艦船ごとの予期効果までまとめられていた。城は航空本部総務部長大西瀧治郎中将に相談して「意見は了とするが未だその時にあらず」と言われるが、城の決意は変わらず、上の黙認と機材・人材があれば足りると日記に残している。1943年末、甲標的搭乗員の黒木博司大尉と仁科関夫中尉が人間魚雷の構想を血書で省部に上申したが、12月28日軍令部総長永野修身は「それはいかんな」と却下する。マーシャル陥落、トラック島空襲を受けて中央は1944年2月26日初の特攻兵器となる「人間魚雷」の試作を決定した。最初は搭乗員の水中放出を条件としていたが、海軍はここから組織的特攻に動き出した。1944年4月4日、軍令部第二部長黒島亀人により「作戦上急速実現を要望する兵力」として、「体当たり戦闘機」「装甲爆破艇(震洋)」「大威力魚雷(回天)」の特攻兵器の開発が提案された。軍令部はこれを検討後、他の兵器とともに「装甲爆破艇(震洋)」「大威力魚雷(回天)」の緊急実験を海軍省に要望した。海軍省海軍艦政本部は仮名称を付して担当主務部定め特殊緊急実験を開始した。マリアナ沖海戦の敗北を受け、1944年6月25日元帥会議が行われた。伏見宮博恭王より「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言がある。陸軍の参謀本部総長東條英機、海軍の軍令部総長嶋田繁太郎はすでに考案中であると答えた。会議後、軍令部総長兼海軍省大臣の嶋田繁太郎は、海軍省に奇襲兵器促進班を設け、実行委員長を定めるように指示する。1944年7月1日大森仙太郎が海軍特攻部長に発令される(正式就任は9月13日)。大森の人選は、水中特攻を重視しての人選であり、大森は全権を自分に委ねてどの部署も自分の指示に従うようにするという条件を出して引き受けた。1944年9月13日海軍省特攻部が発足。特攻兵器の研究・調査・企画を掌握し実行促進を行う。1944年7月10日特攻兵器回天の部隊として第一特別基地隊の編成が行われる。1944年7月21日、総長兼大臣の嶋田繁太郎は連合艦隊司令長官豊田副武に対して特殊奇襲兵器(「回天」)の作戦採用が含まれた「大海指四三一号」を発令した(水中特攻のみで航空では夜間の奇襲作戦が採用されている)。航空特攻は、前述の1943年7月ごろの城英一郎大佐による「特殊航空隊の編成に就て」が最初の具体的な提言と思われる。目的はソロモン、ニューギニア海域の敵艦船を飛行機の肉弾攻撃に依り撃滅すること、部隊構成、攻撃要領、特殊攻撃機と各艦船への攻撃法、予期効果がまとめられている。その後、軍令部第二部長黒島亀人の提案や1944年春に海軍省兵備局第3課長大石保から戦闘機による大型機に対する体当たり特攻が中央に要望されていたが、1944年6月マリアナ沖海戦敗北まで中央に考慮する動きはなかった。マリアナ沖海戦敗戦後は、通常航空戦力ではもはや対抗困難という判断が各部署でなされ、特攻検討の動きが活発化しており、城英一郎大佐から機動部隊長官小沢治三郎、連合艦隊司令部、軍令部に対して航空特攻採用の上申が行われている。1944年6月19日、341空司令岡村基春大佐は第二航空艦隊長官福留繁中将に「戦勢今日に至っては、戦局を打開する方策は飛行機の体当たり以外にはないと信ずる。体当たり志願者は、兵学校出身者でも学徒出身者でも飛行予科練習生出身者でも、いくらでもいる。隊長は自分がやる。300機を与えられれば、必ず戦勢を転換させてみせる」と意見具申した。数日後、福留は上京して、岡村の上申を軍令部次長伊藤整一中将に伝えるとともに中央における研究を進言した。伊藤は総長への本件報告と中央における研究を約束したが、まだ体当たり攻撃を命ずる時期ではないという考えを述べた。また、また7月サイパンの失陥で国民からも海軍省、軍令部に対して必死必殺の兵器で皇国を護持せよという意見が増加した。マリアナ沖海戦前後に海軍省の航空本部、航空技術廠で研究が進められていた偵察員大田正一少尉発案の航空特攻兵器「桜花」を軍令部も承認して1944年8月16日正式に桜花の試作研究が決定する。1944年10月1日桜花の実験、錬成を行う第七二一海軍航空隊(神雷部隊)を編制。この編制ではまだ特攻部隊ではなく、普通の航空隊新設と同様の手続きで行われている。1944年10月5日、大西瀧治郎中将が第一航空艦隊司令長官に内定し、10月20日神風特別攻撃隊を創設。神風特攻隊は大西独自の動きであり、事前に報告はあったが、同攻撃隊の編成に海軍部が関与することはなかった。大西はフィリピンに出発する前に海軍省大臣米内光政に現地で特攻を行う決意を語り承認を得て、軍令部総長及川古志郎に対しても決意を語り、「決して命令はしないように。戦死者の処遇に関しては考慮します。」「指示はしないが現地の自発的実施には反対しない」と及川の承認も得た。大西は「中央からは何も指示をしないように」と希望した。また大西は発表に関する打ち合わせも行い、事前に中央は発表に関して大西からの指示を仰ぐ電文も用意し、事後に発信している。大西はフィリピンに到着するまでに、豊田副武連合艦隊長官に「単独飛行がやっとの練度の現状では被害に見合う戦果を期待できない、体当たり攻撃しかない、しかし命令ではなくそういった空気にならなければ実行できない」と語った。フィリピンに到着すると前任者である寺岡謹平に特攻隊の構想を打ち明けて同意を求めたが、寺岡は後任の大西に一任した。1944年10月19日夕刻マバラカットに到着後、第201海軍航空隊副長玉井浅一中佐、1航艦首席参謀猪口力平中佐などを招集し体当たり攻撃法を披瀝する。玉井が人選を行い、指揮官は猪口の意向で海軍兵学校出身の現役士官から関行男大尉が選ばれた。10月20日に大西による訓示と部隊名発表があり、神風特別攻撃隊が編成される。日本海軍では、航空機による体当たり攻撃を「神風特別攻撃隊」として統一名で呼称した。名称は猪口力平中佐の発案によるもので、郷里の古剣術の道場「神風(しんぷう)流」から名付けたものである。一方で第201航空隊飛行長中島正少佐の証言では「かみかぜ」と読む。神風特別攻撃隊の初出撃は1944年10月21日であった。敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊の計24機が出撃したが悪天候などに阻まれ、ほぼ全機が帰還したが、大和隊隊長久納好孚中尉が未帰還となった。各隊は出撃を連日繰り返すも空振りに終わり、23日に大和隊佐藤馨上飛曹が未帰還。そして25日、敷島隊の関行男大尉以下6機が、4度目の出撃で1機(2機)がアメリカの護衛空母セント・ローを撃沈したのをはじめ、大和隊の4機、朝日隊の1機、山桜隊の2機、菊水隊の2機、若桜隊の1機、彗星隊の1機等が次々に突入し、護衛空母を含む5隻に損傷を与える戦果を挙げた。これを大本営海軍部は大々的に発表し、敷島隊指揮官であった関は軍神として祀り上げられることとなった。10月26日、及川軍令部総長が神風特攻隊の戦果を奏上し、昭和天皇(大元帥)から 、「そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった。」と御嘉賞のお言葉を賜った。また、10月30日には米内海軍大臣に、「かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である。神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏には哀惜の情にたえぬ。」と仰せられた。。特攻成功後、大西は福留繁第2航空艦隊長官を説得し第1航空艦隊と第2航空艦隊を統合した連合基地航空隊を編成し、特攻隊の規模を拡張した。10月27日、大西によって特攻隊の編成方法、命名方法、発表方針などが軍令部、海軍省、海軍航空本部など中央に通達された。大西の強引な特攻隊拡大に批判的な航空幹部もいたが、大西は「今後俺の作戦指導に対する批判は許さん」と指導している。1944年11月5日、豊田副武連合艦隊司令長官は玄作戦によって回天による特攻を下令し、11月20日に戦果を上げ、以後繰り返された。ここまで航空特攻は現地部隊の自発による編成の形式をとっていたが、1945年1月19日に陸海軍大本営は「帝国陸海軍作戦計画大綱」の奏上で、天皇に全軍特攻化の説明を行い、1945年2月10日には第5航空艦隊の編成で軍令部、連合艦隊の指示・意向による特攻を主体とした部隊編成が初めて行われた。5航艦司令長官となった宇垣纏中将は長官訓示で全員特攻の決意を全艦隊に徹底させた。1945年2月4日、軍令部の寺内義守航空部員は、今の訓練様式では駄目で特攻なら使用可能と言い、松浦五郎とともに命中の良さから特攻をすべきと主張した。田口太郎作戦課長は練習生が練習機で特攻を行う方法の研究を求め、寺崎隆治も練習機「白菊」が多数あることから戦力化が必要と発言。1945年2月、硫黄島の戦いが開始されたことを受けて、全航空隊特攻化計画が決定する。同年3月1日、海軍練習連合航空総隊を第10航空艦隊に改編し、特攻隊員訓練のため一般搭乗員の養成教育を5月中旬まで中止した。1945年5月15日、中止されていた新規搭乗員教育が再開したが、戦闘機搭乗員の他は特攻教育が主になった。1945年2月17日、豊田副武連合艦隊司令長官はアメリカ艦隊をウルシー帰着の好機をとらえて奇襲を断行する丹作戦を命令した。宇垣纏5航艦司令長官は陸上爆撃機「銀河」を基幹とする特攻隊を編成し菊水部隊梓特別攻撃隊と命名した。3月11日からウルシーに帰投した米機動部隊の正規空母を目標に特攻が繰り返された。1945年4月頃から沖縄周辺に侵攻した米英豪海軍を中心とした連合国軍の艦隊に対し、日本軍は菊水作戦を発動して特攻隊を編成し、九州・台湾から航空特攻を行った。(詳細は#沖縄戦での特攻を参照)これと連動して戦艦大和以下の艦艇による水上特攻や「回天」、「震洋」などの体当たり艇など、各種特攻兵器が大量に投入された。機材、燃料の不足、本土決戦のためなどから温存され始め、十次に渡る菊水作戦が終了すると出撃のペースは鈍化、沖縄方面への特攻は1945年8月11日、喜界島に最後まで残っていた第2神雷爆戦隊岡島四郎中尉以下2機の爆戦が米機動部隊突入を行い途絶えた。本土からの特攻は1945年8月15日、百里原基地からの第4御楯隊の「彗星」8機、木更津から第7御楯隊の流星1機によって行われたが全機未帰還。これが玉音放送前の最後の出撃であった。当初より問題視されていた威力不足の改善を図る等の対策を採り、想定される決号作戦に向けて大量の特攻戦備を整えている段階で終戦を迎えた。なお、1945年8月10日に次期第五航空艦隊司令長官の内命を受けていた(宇垣纏の後任となる。終戦後の8月17日に着任。)草鹿龍之介によれば、本土決戦では九州に上陸してくる連合軍に対し、「六分の一が命中すれば上々」として、約1,000機を一波とし、これを10派、10,000機の特攻機で攻撃をかける目算であった。内命された時点ですでに九州南部に、訓練中のものを含めて5,000機が用意されていたという。大本営の目論見では、フィリピンでも沖縄でもできなかった、連合軍の迎撃を無力化するほどの十分な数の特攻機を集め、陸海軍交互に300機~400機の特攻機が一時間ごとに連合軍艦隊に襲い掛かる情景を描いていた。その為に稼働機は練習機であろうが旧式機であろうがかき集めて全て特攻機に改造するつもりであった。1945年8月15日、敗戦を迎え菊水作戦の最高指揮官であった5航艦司令長官宇垣纏中将は、玉音放送終了後8月15日夕刻、大分から「彗星四三型」の後席に搭乗し列機10機(長官搭乗機を含めて計11機)を率いて沖縄近海のアメリカ海軍艦隊に突入、戦死した(うち3機は、途中で不時着)。8月16日、神風特攻隊を創設した大西瀧治郎中将は自決した。終戦後の自発的な体当たり攻撃として、8月18日北千島の陸海軍航空部隊によって占守島に侵攻してきたソ連赤軍艦艇や輸送船団に対する反撃が行なわれ、九七艦攻1機が対空砲火により被弾、別の艦艇に体当たりし自爆した。同18日、ウラジオストクに停泊していたソ連タンカーに鎮海海軍航空隊塩塚良二中尉の操縦する二式水上戦闘機が特攻をしかけるが、対空砲火で撃墜されている。第一次世界大戦中の1914年9月8日、にロシア帝国のピョートル・ネステロフ大尉がオーストリア機に対して行った行動が、世界初の航空機による体当たり攻撃とされる。これにより墜落した2機の乗員3名は死亡している。第二次大戦初期(独ソ戦)のソ連軍には、旧式化していたI-16などの旧式機が多数存在していたが性能が劣っていたため、タランと称される航空機による体当たり攻撃が行われた。タランが完全にパイロットの自由意志で行われたかは不明であるが、以上の体当たり戦術が行われていたとソ連空軍のノビコフ上級大将が戦後に著書で解説している通り、体当たりの技術はかなり研究・洗練され体系化されており、軍による戦術の指導があった可能性が高く、パイロットが個別判断でその場の思い付きで行っていたとは考え難い。またタランで戦死したパイロットは国家英雄としてソ連邦英雄やレーニン勲章などで叙勲されて、大祖国戦争遂行の為に兵士の士気を鼓舞する事に利用された。ソ連軍のパイロットは機体が損傷したり弾薬が尽きると、ドイツ軍の戦闘機や爆撃機に対する体当たり攻撃だけでなく(を参照)地上のドイツ軍の戦車などにも体当たりしたパイロットも多かった。(を参照)体当たり攻撃したパイロットの多くは戦死したが、中にはの様に4回も体当たりしながら生還したパイロットもいた。タランは新型機の配備が軌道に乗ってからも引き続き行われている。第二次世界大戦のアメリカ軍側においても自発的な体当たり、自爆攻撃が行われている。ミッドウェー海戦で、空母飛龍を攻撃した米海兵隊のSBD ドーントレス指揮官ロフトン・R・ヘンダーソンは、被弾炎上後に飛龍へ体当たりを試みたが失敗した。SB2U ビンジゲーターに搭乗したアメリカ海兵隊のフレミング大尉は、対空砲火により被弾後、重巡洋艦三隈に自爆攻撃を敢行した。第三次ソロモン海戦で重巡洋艦摩耶に空母エンタープライズ所属のSBD1機が体当たりを敢行し摩耶は中破した。重巡洋艦足柄の乗員、黒木新二郎によれば、1944年12月26日、フィリピン防衛戦において対空戦闘中、被弾したアメリカ軍機1機が左舷中央に特攻を仕掛け、激しい火災が生じたという。足柄の乗員は連合国側の特攻と認識し、翌日、数十人の戦死者を水葬したが、その最後に艦に特攻を仕掛けた敵機パイロット(氏名不詳)を忠勇の軍人として丁重に弔ったという。1943年末、ドイツ空軍においてフォン・コルナツキー少佐によってシュトゥルム・フリーガーと命名されたB-17、B-24に体当たりを行う決死特攻が行われていた。落下傘で直前に脱出することとなっていたが、困難なため中止された。これに代わり1944年5月ヴァルター・ダールの案で、誓約書を書いた隊員で体当たりの肉薄攻撃を行っていたが、戦闘機隊総監アドルフ・ガーランドはこれを知り禁止命令を出した。イギリス海軍がドイツ海軍の戦艦であるティルピッツを撃沈するため、1942年にチャリオット人間魚雷による攻撃を実行しようとしていたが、事故で失われたために実行されなかった。また、1943年9月末に有人の小型潜行艇2隻がティルピッツに肉迫攻撃をかけるために、火薬を積んで突入してきた。これも生還を期さない特攻に近いものがあったとされるが、この場合は日本海軍の「回天」と違い隊員の命を確実に奪うというものではなかった。しかし、ハイリスクの攻撃であったことは確かであり、船底に2,000kg爆弾を据え付けて、ティルピッツに深手を負わせることには成功したものの、イギリス海軍は二度とこの作戦を採ることはなかった。1944年春頃、ドイツにおいてハンナ・ライチュによって提唱されたHe 111の下部にV1 有人飛行爆弾を搭載、空中発射されたV1に搭乗した操縦者が誘導し対艦攻撃する計画があり、志願者が集められ試験飛行も行われたが実施されなかった。ドイツ空軍のハヨ・ヘルマン大佐は、レイテ沖海戦より日本軍が投入した特別攻撃隊に触発され、その戦法が周囲でも話題になっていたこともあり、最終手段として劇的な戦法を試案するため、当時の駐独大使である大島浩をデーベリッツの司令部に招き特攻について質問して情報を得た。その効果については疑問を持ちつつも、第二次大戦末期はドイツでも通常の防空戦は困難になりつつあったことや「カミカゼ」戦術が衝撃的だったこと、過去にもその場の判断で敵機に体当たりを行い撃墜した事例、最新鋭のMe 262が圧倒的な速力で戦果を上げており機体生産を確保するための被害回避等の理由から「爆撃機への体当たり攻撃」を立案した。この作戦にヒトラーは難色を示し、空軍総司令官のヘルマン・ゲーリングも当初は反対したが、燃料も戦闘機も不足する中ではやむを得ない戦法だと説得し許可を得て、ヘルマンが指揮官となって「自己犠牲攻撃」として志願者を募り、作戦が独北部のエルベ川周辺に展開したため「エルベ特別攻撃隊」(Sonderkommando Elbe)と称された。この作戦は1945年4月7日に実行され、内容はMe 109とFw 190を使用し、機関砲を撃ちながら敵機目掛けて一直線に突進するものであり、衝突と同時に落下傘で脱出することで生還の可能性は残しており、必ず体当たりすることを要求されたのではなかったが、死を覚悟しなければ志願できない作戦であり、周囲もパイロットが戦死することを前提にすべての用意を整えていた。「敵重爆の直前で射撃し、各自1機は撃墜すること。必要とあれば激突せよ」と命じられ彼らは無線で流されるドイツ国歌を聞きながら突撃したと言う。しかし、P-51を始めとする多数の護衛戦闘機群に阻まれ、推定189機が出撃したが出撃機の大半とパイロットの約半数(約80人との資料もある)を失い、8機(B-17 5機撃墜との資料や、20数機との資料もある)の爆撃機を撃墜したに留まり、効果への疑問から作戦はこの一度のみで終了となった。この部隊は解散したが独空軍は別の特攻作戦「オーデル川作戦」を発動した。またドイツ空軍ではミステルと称す親子飛行機を開発し、これは子機(Ju 88爆撃機を改造して爆薬と無線操縦装置を取り付けた無人機)の上部に連結器を装備して親機のMe 109を乗せたものであり、目標上空で切り離し、親機が子機を誘導して目標に体当たりさせる仕組みになっていた。ミステルは若干ながら戦果を挙げ、さらなる組み合わせとして親機にFw 190を使用した型も生産された。しかし、速度の遅いミステルは通常の爆撃機以上に敵戦闘機の好餌であり、間もなく敵目標に対する攻撃は中止され、敵の進撃経路に当たる橋梁や道路を爆破するのに使用されたという。本来であれば、航空機で敵艦艇に攻撃するためには、まず敵の護衛戦闘機隊の迎撃を、次いで目標艦艇とその僚艦による対空砲火の弾幕を掻い潜らなければならない。こうした敵艦隊の防空網を突破するためには、本来なら最新鋭の機体に訓練を積んだ操縦者を乗せ、敵迎撃機を防ぐ戦闘機を含む大部隊が必要であり、攻撃機が雷爆撃を成功させるためには十分な訓練による技量が必要であった。さらに太平洋戦争後半には、レーダーによる対空管制、優秀な新型戦闘機による迎撃、また戦闘機の迎撃を突破しても、近接信管の対空砲や多数の搭載対空機関砲よる対空弾幕が待ち構えており、攻撃の難易度はさらに上昇し、マリアナ沖海戦や台湾沖航空戦の様に通常の攻撃では、日本軍攻撃機が連合国軍の艦隊に接近する事も困難になっていた。それまでに熟練搭乗員を大量に喪失していた日本軍は、補充の搭乗員の育成が間に合わず、搭乗員の質の低下が止まらなかった。1943年1月に海軍航空隊搭乗員の平均飛行訓練時間は600時間であったが、1944年1月には500時間と100時間減少し、1年後の1945年1月には250時間と半減、終戦時には100時間を切っていた。そのような状況下で特攻は、熟練搭乗員でなくとも戦果を挙げることが可能であり、積極的に推進される事となった。また訓練についても通常の搭乗員と比較すると簡単な課程で足り、陸軍航空隊は飛行時間70時間、海軍航空隊は30時間で出撃可能と考えられ、搭乗員の大量育成が可能なのも推進された理由であった。アメリカも戦後に行われた日本軍の航空戦略の調査で、特攻が開始されたころの日本軍の状況を「日本軍の航空戦力がソロモン諸島、ビスマルク諸島、ニューギニアで消耗されると、それらに匹敵する後継部隊を手に入れることができなくなり、日本の空軍力は崩壊しはじめ、ついに自殺攻撃が唯一の効果的な戦法となった。」と分析したうえで、日本軍が特攻を主要戦術とした判断に対しては「自殺攻撃が開始された理由は、冷静で合理的な軍事的決定であった。」と評価していた。最初の航空特攻隊となった神風特攻隊の目標は、連合艦隊による捷号作戦成功の為、創始者の大西瀧治郎中将の「米軍空母を1週間位使用不能にし捷一号作戦を成功させるため零戦に250キロ爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに確実な攻撃法はないと思うがどうだろう」との提案通り、空母を一時的に使用不能とすることであったが、最初の特攻で大きな戦果があり、特攻の効果が期待より大きかった為に、その後日本軍の主戦術として取り入れられ、目標に敵主要艦船も加えられた。そして1945年1月下旬には全ての敵艦船が目標になった。しかし、日本軍は過大な戦果報道とは裏腹に、特攻の命中率は現実的な評価をしており、沖縄戦の戦訓として当時の日本軍は航空特攻の予期命中率について対機動部隊に対しては9分の1、対上陸船団に対しては6分の1と判断していた。特攻機の攻撃隊は、偵察機と特攻機と護衛の直掩機から編成されていた。まずは偵察機が敵艦隊まで誘導し、直掩機は戦場まで特攻機を護衛し、戦場に到達した後は特攻機による突入を見届けた後、帰還して戦果の報告を行った。偵察機は陸軍一〇〇式司令部偵察機や海軍彩雲の高性能機が充てられたが、数が少ない上に、偵察機を操縦できる搭乗員も不足しており、十分な運用ができなかった。また、直掩機も特攻機とともに連合軍艦隊の防空圏に突入を行うわけであり、特攻隊とともに未帰還になる機体も少なくなかった。米国戦略爆撃調査団の戦後の調査では終戦時の日本軍の特攻機を含めた航空戦力は以下の通りであった。米国戦略爆撃調査団は「連合軍の空軍がカミカゼ(航空特攻)を上空から一掃し、連合軍の橋頭堡や沖合の艦船に近づかない様にできたかについては、永遠に回答は出ないだろう(中略)終戦時の日本軍の空軍力を見れば連合軍の仕事は生易しいものではなかったと思われる」と評価していた。海軍航空隊は特攻機による接敵法として「高高度接敵法」と「低高度接敵法」を訓練していた。。高度6,000m〜7,000mで敵艦隊に接近する。敵艦を発見しにくくなるが、爆弾を搭載して運動性が落ちている特攻機は敵戦闘機による迎撃が死活問題であり、高高度なら敵戦闘機が上昇してくるまで時間がかかること、また高高度では空気が希薄になり、敵戦闘機のパイロットの視力や判断力も低下し空戦能力が低下する為、戦闘機の攻撃を回避できる可能性が高まった。しかし敵のレーダーからは容易に発見されてしまう難点はあった。敵艦を発見したら、まず20°以下の浅い速度で近づいた。いきなり急降下すると身体が浮いて操縦が難しくなったり、過速となり舵が効かなくなる危険性があった。。敵艦に接近したら高度1,000m〜2,000mを突撃点とし、艦船の致命部を照準にして角度35°〜55°で急降下すると徹底された。艦船の致命部というのは空母なら前部リフト、戦闘艦なら艦橋もしくは船首から長さ1/3くらいの箇所であったが、これは艦船に甚大な損傷を与えられるだけでなく、攻撃を避けようと旋回しようとする艦船は、転心を軸にして回るため、その転心が一番動きが少ない安定した照準点とされた。超低高度(10m〜15m)で海面を這う様に敵艦隊に接近する。レーダー及び上空からの視認で発見が困難となるが、高度な操縦技術が必要であった。敵に近づくと敵艦の直前で高度400m〜500mに上昇し、高高度接敵法の時より深い角度で敵艦の致命部に体当たりを目指す。突入角度が深ければ効果も大きい為、技量や状況が許すならこちらの戦法が推奨された。複数の部隊で攻撃する場合は「高高度接敵法」と「低高度接敵法」を併用し、敵の迎撃の分散を図った。他にも特攻対策の中心的存在であった連合国軍のレーダーを欺瞞する為に、錫箔を貼った模造紙(電探紙、今で言うチャフ)をばら撒いたり、レーダー欺瞞隊と制空部隊ら支援隊と特攻機隊が、別方向から敵艦隊に突入する「時間差攻撃」を行ったりという戦法などで対抗している。海軍航空隊における特攻の教育日程は、発進訓練(発動、離陸、集合)2日、編隊訓練2日、接敵突撃訓練3日を基本に、時間に応じこの日程を反復していた。陸軍航空隊は、奇襲と強襲の場合に分けていた。高高度より敵艦に接近し、逐次降下しながら、突撃開始点までに1,200〜1,500mまでに下降する。その後角度を35°〜40°、初速を300km/hで急降下し、敵艦の致命部(海軍と同じ)を目指す。奇襲、夜間攻撃、雲底が低い場合は、超低空水平攻撃を実施する。高度は800m〜1,200mで初速は270〜300km/hで加速しながら艦船の中央部を目指す。水平で体当たりするか、降下するかは、敵艦に至った時点の高度で決まる。 陸軍航空隊の、特攻機搭乗員訓練カリキュラムは、重装備による薄暮の離着陸、空中集合、中隊の運動に10時間、前述の攻撃法の訓練に10時間、海上航法に6時間とされており、他に地上での訓練や講習を含めても約1ヶ月という短期間で育成されていた。 大戦末期には、本土決戦用に新型機や高性能機を温存させるために、本来戦闘には適さない低性能の機体、陸軍の九九高練、二式高練、海軍の機上作業練習機「白菊」、複葉練習機(九五式一型練習機・九三式中間練習機)などの練習機も特攻用に爆弾装備可能に改修、実戦で特攻作戦に使用された。練習機は、ガソリンを極力温存するためにアルコールを混入した「八〇丙」と言う劣悪な燃料でも飛行可能であったのも投入理由の一つである。実戦機に比べ非力な300馬力から800馬力程度のエンジンを積み、元々鈍足な上に重量のある爆弾を無理やり搭載していたため極端に速度が遅かった。日本軍側もその低速ぶりは問題視しており、1945年5月25日に夜間特攻攻撃に特攻出撃した練習機白菊を発見したレーダーピケット艦が、「85〜90マイル(時速140km/h前後)の日本機がアメリカ軍の駆逐艦を追っている」という打電を行ったが、その無電を傍受して聞いた第5航空艦隊の参謀が、「アメリカ軍の駆逐艦が日本機(白菊)を追いかけている」と聞き違いするぐらいであった。第5航空艦隊司令宇垣纏中将も「特攻機も機材次第に欠乏し練習機を充当せざるべからずに至る。夜間は兎も角昼間敵戦闘機に会して一たまりもなき情なき事なり(中略)数はあれども之に大なる期待はかけ難し」と、機材欠乏で練習機を特攻機にせざるを得ない状況となったが、戦力にはならないとの見解を示している。実際にこの25日の夜間には練習機白菊合計49機(未帰還19機)が出撃しているが、駆逐艦ゲストに軽微な損傷を与えたのみだった。練習機で出撃する搭乗員は年端もいかない少年兵が多く、その出撃時の指揮官と少年兵らのやり取りを聞いていた当時報道班員をしていた作家山岡荘八は、少年兵らの幼さにやりきれない思いになったという。ある少年兵が「沖縄に到達したらどのような艦船を目指せばいいんですか?」と質問したのに対し、指揮官が目を涙で真っ赤にしながら「艦種なんてなんでもいい、沖縄には敵はゴマンといるんだから目をつむってブンブン回せ、そしたら敵の方から当たってくれる。まごまごしてると撃ち落されるぞ」と答え、少年兵らが「はーい」と無邪気に返事をしているのを見て、居た堪れなくなってその場を立ち去り、葉桜の陰で慟哭したという。しかし、司令部の期待度の低さに反して、白菊特攻は戦果を挙げるようになり、1945年5月28日に駆逐艦ドレクスラー、1945年6月21日に輸送駆逐艦バリー と中型揚陸艦 LSM-59の合計3隻を撃沈する戦果を挙げている。撃沈された駆逐艦ドレクスラーの乗組員は、白菊が通常の日本機よりも速度が速いと感じ、操縦も対空砲火を交わしながらほぼ艦中央に突入する巧みさであった為、実際は訓練も十分でなかったはずの白菊搭乗員であるが、非常に経験を積んだパイロットに見えたという。また終戦直前には、複葉機の九三式中間練習機も特攻に投入されたが、1945年7月29日出撃の「第3龍虎隊」が駆逐艦キャラハンを撃沈し、30日にはカッシン・ヤングを大破させプリチェットに損傷を与えた。九三式中間練習機は7機の損失(出撃11機)で3隻(命中4機)の駆逐艦を撃沈破する戦果を挙げており、有効率が非常に高かった為、アメリカ軍は練習機での特攻を脅威と認識、効果が大きかった要因を以下の様に分析し、高速の新鋭機による特攻と同等以上の警戒を呼び掛けている。アメリカ側はこういった練習機や、九九式艦上爆撃機の様に通常攻撃では連合国軍艦隊に通用しなくなっていた固定脚等の旧式機が、特攻では戦果を挙げていることを見て「こうした戦術(特攻)は、複葉機やヴァル(九九式艦上爆撃機)の様な固定脚の時代遅れの航空機でも作戦に使用できるという付随的な利点があった」と、特攻では、旧式機でも戦力になると前向きな評価をしていた。「特攻では片道の燃料しか積んでいなかった」と言われることもあるが、実際はレーダーを避けるための低空飛行と爆弾の積載のために、満タンの燃料でも足りなかったこともあるくらいで、出来る限り多くの燃料が積み込まれた。零戦の主任設計者である堀越二郎技師は、戦後に自著で「零戦を爆戦(戦闘爆撃型、52型以降)として運用するために胴体下に爆弾、両翼下に増加燃料タンクを振り分けたが、翼下燃料タンクの投下装置の不具合によって特攻作戦において中止帰投や未帰還となる例があった」としている。しかし、日本本土から沖縄周辺海域までの距離は、鹿屋からでも約650km。レーダーピケット駆逐艦や戦闘機による戦闘空中哨戒(CAP)を避ける意味からも、迂回出来るならば迂回して侵入方向を変更するのが成功率を上げるためにも望ましく、また先行して敵情偵察や目標の位置通報を行うはずの大艇や陸攻もしばしば迎撃・撃墜され、特攻機自らが目標を索敵して攻撃を行わざるを得ない状況もあり、燃料は「まず敵にまみえるために」必要とされた。陸軍第六航空軍の青木喬参謀副長が「特攻隊に帰りの燃料は必要ない」と命令していた姿も目撃されているがその様な動きはむしろ例外で、日本側がわざわざ焼夷効果を狙って燃料を増載していていたという証言もあり、「特攻だから片道燃料としていた」という話には疑問が出ている。米戦略爆撃調査団による戦後の調査においても「命中時の効果を高める為、ガソリンが余分に積まれていた」という事が判明しており、陸軍第六航空軍も戦後の米戦略爆撃調査団からの尋問で「特攻は通常攻撃より効果が大きい、その理由は爆弾の衝撃が飛行機の衝突によって増加され、また航空燃料による爆発で火災が起こる」と燃料による火災を特攻の大きな効果として認識していた。特攻隊員たちが憂いなく出発できるように、出撃機には可能な限りの整備がなされたとも言われるが、現実問題として日本の工業生産力はすでに限界に達しており、航空機の品質管理が十分ではなかったことや、代替部品の欠乏による不完全な整備から、特攻機の機体不調による帰投は珍しいことではなかった。アメリカが入手した文書によれば日本軍は1939年12月から1942年7月にかけて戦闘機と志願パイロットによって空中衝突実験を行っている。その結果、敵に衝突することが最も効果的な方法という結論を得ている。アドルフ・ガーランドドイツ空軍中将は「肉薄攻撃はいいが、体当たりすることはない。体当たりしなければならないのは、技術不足、相討ちの時だけである。戦闘機パイロットは一朝一夕で養成できるものではないため体当たりは避けるべき」と語っている。大型攻撃機の編隊の中に突入して爆弾で自爆する特攻戦法も考案された。天雷特別攻撃隊においては零戦52型に3号爆弾を装備しB29の編隊に前から50 - 60度の角度で侵入し敵一番機をかわした時に自爆ボタンを押し爆弾を爆発させる。直径250 - 300メートルの範囲でダメージを与えられると想定していた。戦闘機にやられず、味方にも被害がないように誘導機1機と特攻機1機の単機攻撃が原則であった。312空でも秋水によって同様の自爆特攻が予定されていた。空中特攻として震天隊・回天隊のように敵爆撃機への体当たり攻撃を行なった事例もある。陸軍は本土上空を護るための十分な能力を持つ高高度迎撃機が日本に当時存在しなかったため、体当たりをしてでも防ごうと、武装、防弾装備や通信アンテナすらも一切取り払った「無抵抗機」と称した機体を仕立て、これによってB-29に体当たりする迎撃部隊を発案した。最初に組織化されたのは昭和19年11月7日、首都防空部隊であった第10飛行師団の隷下部隊に対し師団長心得吉田喜八郎少将から、1部隊につき各4機ずつ体当たり機の編成命令(震天制空隊)が発令された時である。この後、大都市圏の防空任務部隊を中心に空対空特攻部隊が組織されていくこととなる。初出撃は同年11月24日、サイパン島より東京に初来襲したB-29に対するものであった。この戦闘で飛行第47戦隊所属の見田義雄伍長が二式複戦「屠龍」で体当たりを敢行し1機を撃墜して戦死。同じく飛行第53戦隊入山稔伍長は突入間際に機体が空中分解、戦死した。こう言った戦死が相次ぐ一方で、2回体当たりして2回とも生き残り、遂には沖縄艦船特攻で戦死した飛行第244戦隊の四之宮徹中尉や、同じくB-29に2回体当たりを敢行して生還した中野松美伍長のような例もあり、搭乗員は落下傘降下やもしくは損傷した機体で生還出来る可能性があったため、対艦船特攻のように100%死を覚悟しなければならないものではなかったが、死亡率は極めて高く、やはり特攻であることに変わりは無かった。なお、これらの特攻は衆人環視の中で行なわれたものであったため、戦果の翌日は写真付で新聞紙面を飾ることが少なくなかった。海軍では、組織的な空対空特攻は、第二二一海軍航空隊が1944年12月にルソン島でB-24爆撃機迎撃のために編成した「金鵄隊」と、訓練のみで終わった「天雷特別攻撃隊」にとどまった。金鵄隊は250kg爆弾で爆装した零戦6機で編成されたが、3度の出撃で体当りに成功しないまま3機未帰還となり、残機は対艦特攻任務へと切り替えられた。海軍でも自発的な空対空特攻は相次いだ。陸軍空対空特攻隊の初出撃に先駆けること3日前の昭和19年11月21日、第三五二海軍空所属の坂本幹彦中尉が零戦で迎撃戦闘中、北九州上空でB-29に体当たりして撃墜、戦死している。だが、一部では1機で2機を体当たり撃墜したような戦果もあったものの、全体的に見ると重防御を誇るB-29は2機の体当たりを受けても生還出来た機体があったように、総合的な戦果はあまり芳しくなかった。B-29の日本本土爆撃において1回の攻撃あたりの最大の損失率は15.9%、平均1.38%であったと言われる。機数での数字としては延べ約33,000機の出撃に対し戦闘での喪失機数は450機であった。勿論この数字は特攻だけでなく、昼間戦闘機、夜間戦闘機、高射砲の戦果も含んだ数であり、対敵飛行機特攻のみの戦果はかなり低くなる。そして昭和19年6月15日の北九州初空襲以来、終戦までにB-29によって本土に落とされた爆弾は14万7,000トンにのぼると言われている。)結局こうした苦心の策も、硫黄島を占領されB-29がP-51を初めとする優秀な最新鋭戦闘機を護衛に引き連れてくるようになると、組織的な空対空特攻隊の編成は下火となっていった。また空母艦載機群が本土空襲を始め、日本本土の各航空基地に来襲するようになると、地上撃破されていった。しかし、そのような状況の中でもわずかながら戦果を挙げている。生還が極めて困難なエアボーン方式のコマンド作戦が行われた例があり、特別攻撃隊として評価されることがある。いずれも敵飛行場に航空機を用いて強行着陸し、地上部隊を突入させるものであった。最初の実行例は、レイテ島の戦いで高砂義勇兵によって編成された「薫空挺隊」を輸送機で強行着陸させようとした「義号作戦」である。同じレイテ戦では、正規空挺部隊である挺進部隊の大規模空挺作戦の「テ号作戦」でも、一部が海岸地帯の生還困難な飛行場へ強行着陸を試みている。沖縄戦でも一時的に飛行場を制圧して対艦特攻を間接支援する目的で、挺進連隊の一部が「義烈空挺隊」として強行着陸を行っており、これも「義号作戦」と呼称している。沖縄戦中の1945年5月24日に12機の九七式重爆撃機に分乗した136名の義烈空挺隊が沖縄の読谷と嘉手納の飛行場に攻撃を謀ったが、激しい対空射撃で強行着陸できたのは読谷飛行場の1機のみであった。しかし搭乗していたわずか12名の空挺隊員は戦闘機3機・爆撃機2機・輸送機3機を完全撃破、他22機にも損害を与え、約70,000ガロンの航空燃料を焼き払い、海兵隊に22名の死傷者を出させた後に全滅した。同飛行場は丸一日使用不能に陥っているこのほか、マリアナ諸島の飛行場および原爆貯蔵施設を標的とした剣号作戦が計画されたが、終戦で実行に至らなかった。水中特攻、水上特攻は、回天、震洋などの特攻兵器を使用した敵艦船を目標とする体当たり、自爆攻撃である。戦艦の巨砲で敵地へ突入し玉砕する戦法は海上特攻と呼ばれた。海上特攻隊はマリアナ沖海戦の敗北後から神重徳大佐によって主張されていた。坊ノ岬沖海戦で行われた戦艦大和以下によって行われたものについて、豊田副武連合艦隊長官は「大和を有効に使う方法として計画。成功率は50%もない。うまくいったら奇跡。しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと思い決定した」という。草鹿龍之介少将は大和の第二艦隊司令長官伊藤整一中将に「一億総特攻のさきがけになってもらいたい」と説得した。戦艦の突入による玉砕攻撃は、豊田副武によって「海上特攻隊」と命名された。海上特攻は、片道燃料での出撃を命じられていた。具体的には軍令部より2,000トンの重油が割り当てられ、連合艦隊もこれを了承、軍令部第一部長の富岡少将は連合艦隊参謀副長の高田少将にこれを厳守するよう命じていた。しかし連合艦隊の現場側は「はらぺこ特攻」を容認せず(参加駆逐艦長は「死にに行くのに腹いっぱい食わさないという法があるか!」と叫んだという)、呉鎮守府補給担当、徳山燃料廠まで巻き込み、責任追及を受けた場合には「命令伝達の不徹底であり過積載分は後日回収予定であったが果たせなかった」との口裏合わせまで行って燃料

出典:wikipedia

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