長門(ながと)は、旧長門国を名前の由来に持つ日本海軍の戦艦。長門型戦艦の1番艦である。第二次世界大戦前は日本海軍の象徴として親しまれた。敗戦後はアメリカ軍に接収され、原爆実験の標的艦となり沈没した。完成当時の1920年(大正9年)では世界最初であり、かつ最大口径の16.1インチ(当時日本はメートル法を採用していたため実口径は41cmちょうど)主砲と、当時の戦艦の中では非常に高速である26.5ノット(公試26.443ノット)の機動力を持つ高速戦艦で、世界の軍事史や軍艦史にも大きな影響を与えている。2番艦の陸奥と共に各国海軍から注目され、大艦巨砲主義が最盛期をむかえていた列強海軍の熾烈な建艦競争にワシントン海軍軍縮条約による一定の歯止めを与えるきっかけとなったのも本艦であった。完成後に連合艦隊旗艦となり、その任を陸奥と交代で務めた。第二次世界大戦後に有名になった大和型戦艦の大和、武蔵が戦中は存在そのものが極秘だったこともあり、戦前と戦中には長門、陸奥こそが日本海軍を代表する戦艦として国民から親しまれている。『陸奥と長門は日本の誇り』といういろはカルタが制作された程である。太平洋戦争開戦時の連合艦隊旗艦で、連合艦隊司令長官 山本五十六大将が座乗していた。1942年2月、連合艦隊旗艦は大和に移った。以後、大和、武蔵に次ぐ主力艦として温存され、太平洋戦争終盤まで最前線に出ることはなかった。終戦時、横須賀にて中破状態で残存。稼動可能な状態で生き残った唯一の日本戦艦である。アメリカ軍に接収された後、1946年7月にビキニ環礁で実施された原爆実験「クロスロード作戦」に標的艦として投入、二度の核爆発により浸水が進み沈没したのだった。長門は1916年(大正5年)度の帝国議会で建造が承認された。同年5月13日、建造予定の戦艦に長門、二等巡洋艦(軽巡洋艦)2隻にそれぞれ天龍と龍田、大型駆逐艦に谷風(江風型)」の艦名が与えられる。6月26日、長門、天龍、龍田、谷風は艦艇類別等級表に登録された。長門は1917年(大正6年)8月28日に八八艦隊計画の第一号艦として広島県の呉海軍工廠にて起工、1919年(大正8年)11月9日に進水する。1920年(大正9年)11月25日、竣工した。甲板の木材は台湾阿里山の檜が使用された。建造費は当時の価格で4,390万円に上った。東京の丸の内ビルディング(旧)が七つ建造できる金額であったという。艦の本当の全長216mや最大速力26ノットは隠され、対外的には660呎(201m)、23ノットと公表している。ワシントン海軍軍縮条約によって41cm(16in)主砲搭載・艦型35000トン以上の大型戦艦の建造が制限される海軍休日が始まると、長門と姉妹艦の陸奥、イギリスのネルソン級戦艦2隻、アメリカ合衆国のコロラド級戦艦3隻を指して世界のビッグ7(世界七大戦艦)と呼ばれた。建造当初は煙突の排煙処理が問題となり、平賀譲の提案で第一煙突にカバーを付けたがあまり効果はなく、藤本喜久雄造艦大佐によって1924年(大正13年)に陸奥と共に屈曲煙突を採用した。この姿が当時の国民に親しまれ、一番印象に残る姿となったといわれる。尚、この屈曲煙突の採用は、後の日本海軍の巡洋艦の機関建造に影響を与えたとされる。また藤本の提案を平賀譲が無断で借用したため、両者の対立の一因となった。世界で7隻しかいない40cm砲搭載戦艦である長門だったが、その巨砲を実戦で発射する機会は長らくなかった。陸奥が佐世保鎮守府所属だったことから、東京の海軍省や軍令部と往来が容易な横須賀鎮守府所属の長門が連合艦隊旗艦に選ばれたとされる。1923年(大正12年)9月の関東大震災では、演習を中止して救援物資を東京に運んだ。1924年(大正13年)には裕仁皇太子(後の昭和天皇)の樺太行啓に際し乗艦となった。1927年(昭和2年)8月24日、島根県美保関沖で行われた夜間演習で軽巡神通、那珂と駆逐艦蕨、葦の衝突事故が起きた(美保関事件)。加藤寛治連合艦隊司令長官は長門に座乗して甲軍(長門、陸奥、日向、伊勢)等を指揮しており、これを乙軍(加古、古鷹、神通、那珂、夕張《第二水雷戦隊》)が襲撃するという想定の演習だった。長門、陸奥は日本海軍の象徴として広く認識されていたが、時代の変化に合わせた小規模な改装も漸次実施された。先述した屈曲煙突への改造後も、水上偵察機の搭載や主砲塔の測距儀を換装するなどの改装を実施している。1932年(昭和7年)から1933年(昭和8年)にかけては8cm高角砲を12.7cm連装高角砲に換装のうえ高射装置と毘式四十粍機銃を設置、水偵発艦用のカタパルトが搭載されたほか、前檣は測的所や指揮所を増設したことから探照灯を煙突周辺に新設した探照灯台へ移した。1934年(昭和9年)から1936年(昭和11年)の間陸奥と共に大規模改装を行い、ボイラーの換装と装甲の追加、主砲塔の改造や魚雷発射管の撤去などが実施された。外見上は煙突がボイラーの換装に伴い太い一本の物に替わった他、前檣および後部指揮所の形状も大きく変化した。大西新蔵(長門艦長)は、大規模改装後の長門型戦艦は優男、大和型戦艦は獰猛と表現している。近江従兵長の回想では、艦橋にエレベーターがあったという。そして、両舷にバルジを設け、艦尾も延長し、全体的に重厚となり、防御能力が向上した。反面、タービンが換装されず出力が新造時と大差なかったため、速力は25ノットに低下した。大西艦長は、1941年5月29日の公試において82000馬力で24.1ノットを発揮したと述べている。ただし、レイテ沖海戦ではカタログスペックを上回るスピードで敵機から逃げているので、元々機関部の強度・耐熱性の余裕を大きく取っていたようである。その後も航空設備の改修や毘式四十粍機銃の撤去、25mm機銃の増設といった追加工事を経て1941年(昭和16年)4月3日連合艦隊旗艦任務を陸奥に移し、長門は横須賀で砲身換装や各部防御力の強化を行い、5月28日横須賀を出港した。8月10日の射撃訓練では、36500mで初弾命中に近い射撃成績を出した。右舷最後部には御真影安置室・天皇御座所があり、山本長官すら入室せず、24時間番兵が守衛していた。アメリカとの開戦に備えて戦備を整える長門であったが、既に大艦巨砲主義全盛の時代は去り、航空機と潜水艦が重要な役割を果たすようになっていた。1941年(昭和16年)7月21日の昼間連合艦隊第12回基本演習と夜間連合艦隊第21回応用教練では、急降下爆撃機や潜水艦に苦戦している。8月10日の第一類戦技作業終了後の航空隊襲撃では、空母加賀と龍驤の艦上攻撃機27機・艦上爆撃機54機・水上飛行艇15機に翻弄されている。また開戦二ヶ月前に土佐湾沖で行われた長門、陸奥の主砲射撃訓練で、長門の散布界は非常に狭く、陸奥は遠大距離で高い命中率を出した。その後長門艦上で行われた研究会にて、山本長官は「長門と陸奥の二艦をもってアメリカのウエストバージニア級戦艦(コロラド級戦艦)の三隻を倒せば、日本は勝てる」という主旨の発言をしたという。しかし、米国が16インチ砲搭載のノースカロライナ級戦艦やサウスダコタ級戦艦といった新世代戦艦を複数隻建造中である事は、一般にも報道されていた。大正時代に設計され艦齢を重ねた日本戦艦では欧米列強の新世代戦艦に対抗できなくなっており、仮に艦隊決戦が実現したとしても長門を含めた日本海軍の劣勢は明白であった。太平洋戦争開戦時、長門は連合艦隊旗艦として姉妹艦の陸奥と共に第一戦隊を形成していた。12月2日には山口県岩国湾で「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号無電を打電した。12月8日、真珠湾攻撃が成功し、機動部隊の退却支援の名目で陸奥、日向、伊勢、扶桑、山城、空母「瑞鳳」、「鳳翔」、他巡洋艦7隻、駆逐艦28隻を率いて日本を出撃する。その際、司令部付だった近江兵次郎は藤井茂参謀に「野村大使の書類は間に合ったか?」と尋ねる山本連合艦隊司令長官を目撃している。なお同日、瀬戸内海では大和型戦艦大和が試験航海を終えて呉へ帰港中であり、豊後水道で長門らとすれ違っている。11日に機動部隊の安全が確認されて部隊は反転、空母鳳翔が行方不明になる騒ぎがあったものの、各艦は13日に桂島泊地へ帰投している。1942年(昭和17年)2月12日に山本五十六長官は大将旗を大和に移し、連合艦隊旗艦は大和となった。同年6月上旬のミッドウェー海戦では主力部隊(大和、長門、陸奥、伊勢、日向、扶桑、山城、北上、大井、川内、千代田、日進、駆逐艦21隻、油槽船4隻)として出撃したが、戦闘は行わなかった。6月5日、濃霧の中で長門は一時、艦隊から落伍した。同日、南雲機動部隊の空母4隻は全滅。長門は第4駆逐隊(萩風、舞風)より空母「加賀」の生存者を収容、帰国させた。その後7月14日にはミッドウェー海戦後の艦隊再編により長門、陸奥は第一戦隊から第二戦隊へと編入 、8月に大和と陸奥はカロリン諸島のトラック島に進出したが、長門は日本本土で待機する日々が続いた。1943年(昭和18年)6月8日、姉妹艦陸奥は長門、扶桑、大淀等の目前で爆沈した。8月、長門は大和、扶桑とともにトラック泊地に進出して待機。10月17日にはウェーク島南方海面で米艦隊を迎撃するため長門も大和、扶桑、金剛、榛名等とともに連合艦隊旗艦武蔵に率いられトラック島を出撃したが、作戦は不発に終わり10月26日にトラック島へ帰着した。1944年(昭和19年)2月25日、所属していた第一艦隊と第二戦隊が解隊され、長門は第二艦隊・第一戦隊に編入された。同月にはトラック島からも撤退、以後はスマトラ島北部のリンガ泊地を基地とする。3月6日には宇垣纏中将(開戦時連合艦隊参謀長として長門に乗艦)が長門に着任した。5月4日、第一戦隊旗艦は長門から大和に変更された。6月の「あ号作戦」では、第二航空戦隊(司令官城島高次少将:空母隼鷹、飛鷹、龍鳳)を主力とする乙部隊(二航戦《隼鷹、飛鷹、龍鳳》、重巡最上、第2駆逐隊《秋霜、早霜》、第4駆逐隊《満潮、野分、山雲》、第27駆逐隊《時雨、五月雨》、浜風)に所属して参加した。18日夜、長門は飛鷹と衝突しかけたという。6月19-20日のマリアナ沖海戦において、長門はアメリカ軍機動部隊艦載機の空襲を受けるが損害は軽微であった。20日夕刻、空襲により被弾・被雷して航行不能となった飛鷹を長門が曳航することになった。長門が曳航を開始したところ、長門四番砲塔と飛鷹艦首を結んでいたワイヤーロープが切断されてしまう。結局、飛鷹は沈没、他に空母大鳳、翔鶴が沈没、瑞鶴、隼鷹、千代田、千歳、龍鳳等も大小の損害を受け、マリアナ沖海戦は日本海軍の惨敗で終わった。6月24日、瑞鶴以下残存空母や第一戦隊は内地へ帰投した。7月中旬以降、主力艦艇は再びリンガ泊地へ進出した。1944年6月27日、小沢治三郎第三艦隊司令長官は、次期作戦において『長門ハ速力、戦力ノ関係上 大和、武蔵ト別個ノ行動ヲトラシメ、山城、扶桑ト共ニ第二戦隊ヲ編成 遊撃部隊ニ編入スルヲ可ト認ム 戦隊編成困難ナルトキハ機動部隊附属ニテ可ナリ』と意見具申した。水上戦闘、タンカーの代用、第四航空戦隊(隼鷹、日向、伊勢)の護衛等に投入可能としている。これに対し軍令部は、第二戦隊(長門、扶桑、山城)を第二遊撃部隊(第五艦隊基幹)(指揮官 第五艦隊司令長官志摩清英中将:旗艦那智)の直率にする意向を示した。協議の結果、軍令部は小沢中将の主張を容れ、9月10日附で第二戦隊(司令官西村祥治少将:扶桑型戦艦《山城、扶桑》)を編制、第二艦隊(第一遊撃部隊)に編入した。長門は第二戦隊(山城、扶桑)のリンガ進出(10月4日同地着)をもって第一戦隊(大和、武蔵、長門)から外されて第二戦隊に編入、第一遊撃部隊第三部隊(通称西村艦隊)旗艦の予定となる。ところが9月16日、第一戦隊司令官(宇垣中将)は長門の第二戦隊編入に対し『此の切迫せる時機は全く不適當にして長門の戦力を發揮せしむる所以に非ず』と反発、長門が西村艦隊としてスリガオ海峡に突入する事はなかった。10月、連合艦隊は捷一号作戦を発動、長門は引続き栗田艦隊(司令長官栗田健男中将)第一部隊・第一戦隊(大和、武蔵、長門)に所属して同作戦に参加した。10月1日、リンガ泊地に停泊する大和、武蔵の乗組員がシンガポールで休養するにあたり、三回にわたり長門が人員輸送艦として使用され、一度に2100名の大和・武蔵乗組員を輸送した。10月下旬、長門はレイテ沖海戦に参戦する。10月24日のシブヤン海空襲では、第一戦隊より武蔵が沈没した。長門は14:16に米空母フランクリン("USS Franklin, CV-13")とカボット("USS Cabot, CVL-28")からの攻撃機により二発の爆弾を受ける。一発は長門の多くの機銃と第一缶室の換気口を破壊、25分間の軸停止となり、もう一発は無線室と酒保付近を破壊し52名が死亡、106名が負傷した。10月25日のサマール島沖海戦では06:01に護衛空母セント・ロー("USS St. Lo, CVE-63")に砲撃を行うが失敗する。06:54に駆逐艦のヒーアマン ("USS Heermann, DD-532")が榛名に魚雷を発射、魚雷は榛名を外れ射線上の大和と長門に向かい、大和が回避運動の末両脇を魚雷に挟まれ、両艦は北方へ約16km回避行動を強いられた。長門は主砲と副砲の砲撃を米護衛空母群に続けて行った。09:10に栗田健男中将は砲撃の中止と北方への移動を命じた。10:20に栗田中将は再び南進を命じたが、艦隊への攻撃は激しさを増したため12:36に退却を再び命じる。長門は12:43に二発の爆弾を受けるが損害は大きくなかった。10月26日の退却後、連合艦隊はアメリカ軍の激しい空襲を受けることとなる。長門はホーネット("USS Hornet, CV-12")艦載機から4発の爆弾を受け、38名の死者と105名の負傷者を出した。長門は一日で99発の主砲弾と653発の副砲弾を発射した。栗田艦隊は損傷艦の救援に駆逐艦を次々に派遣したため、最終的に大和、長門、金剛、榛名を護る駆逐艦は雪風、磯風のみとなった。長門は雪風に、榛名は磯風にそれぞれ燃料を補給した。1944年11月5日 - 13日のマニラ空襲の後、11月15日附で第一戦隊は解隊、大和は第二艦隊旗艦、長門は第三戦隊に編入される事になった。11月16日に戦艦3隻(大和、長門、金剛)、第二水雷戦隊の軽巡洋艦矢矧と同戦隊所属第17駆逐隊(浦風、浜風、雪風、磯風)、駆逐艦桐、梅(20日分離、馬公回航)はブルネイより日本への帰路に付いた。これが長門の日本海軍時での最後の外洋航海となった。しかし11月22日、台湾海峡沖で艦隊は米潜水艦シーライオンから襲撃され、同行していた金剛(第三戦隊司令官鈴木義尾少将)と金剛の右側にいた陽炎型駆逐艦浦風(17駆司令艦)が撃沈された。浜風、磯風は金剛の生存者を収容した。11月25日、長門は第17駆逐隊(浜風、雪風、磯風)に護衛されて神奈川県横須賀港に到着。28日、浜風、雪風、磯風は空母信濃(大和型戦艦改造空母)を護衛して横須賀を出港、信濃最初の遠洋航海を長門乗組員は全員総出で見送った。その後長門では損傷箇所の修理や整備を実施したが、燃料・物資の不足により外洋に出ることはなかった。1945年(昭和20年)2月20日、長門、榛名は警備艦に指定される。大和が坊ノ岬沖海戦で沈没すると、日本海軍は損傷や燃料不足のため運用できなくなった残存大型艦を一斉に予備艦へ指定する。4月20日、長門、伊勢、日向、榛名、天城、鳳翔、隼鷹、龍鳳、青葉は第四予備艦となった。6月1日、長門以下榛名、伊勢、日向、天城、鳳翔、龍鳳は特殊警備艦となる。それに伴い長門では副砲や対空兵装を陸上げし、マストや煙突も撤去され、空襲擬装用に緑系の迷彩塗装を施すなどの処置がとられた。同時期、米内光政海軍大臣と軍務局は、戦艦長門、空母鳳翔、重巡洋艦利根、駆逐艦数隻をウラジオストクに回航してソビエト連邦(ソ連)に譲渡し、航空機・物資・燃料と交換する計画を立てていたが、実行されずに終わっている。7月18日、長門は横須賀空襲において空母エセックス ("USS Essex, CV-9")、ランドルフ ("USS Randolph, CV-15") 、シャングリラ ("USS Shangri-la, CV-38") およびベロー・ウッド ("USS Beleau Wood, CVL-24") 搭載機からの攻撃を受け3発の爆弾が命中して艦橋が破壊され、艦長の大塚幹少将以下ほとんどの艦橋要員が戦死した。後任艦長は杉野修一大佐(日露戦争の旅順港閉塞作戦で戦死した杉野孫七兵曹長の長男)が発令され、長門はそのまま修復されることなく終戦を迎えた。終戦後、1945年8月30日に、連合国軍の1国であるアメリカ軍に接収される。長門は空襲によって中破したまま修復されておらず、煙突とマストは撤去されていた。9月15日附で除籍。アメリカ海軍による詳細な調査の後武装解除され、1946年3月18日にクロスロード作戦(アメリカ軍の核実験)に標的艦として参加するためマーシャル諸島のビキニ環礁へ出発した。艦長はW・J・ホイップル大佐で、180名のアメリカ海軍兵が乗り込んだ。しかし破損のために使用できるボイラーの数が限られ長門は数ノットという低速しか出せず、途中、応急修理のためエニウェトク環礁に立ち寄っている。1946年(昭和21年)7月1日の第一実験(ABLE、空中爆発/予定爆心地を大きくはずしてしまう)では戦艦ネバダが中心に配置され、長門は爆心予定地から400mのところに置かれた。爆弾は西方600mにずれてしまい、結果爆心地から約1.5 km(1,640ヤード)の位置となった。この時長門は殆ど無傷(爆心地方向の装甲表面が融解したのみで航行に問題なし)であった。長門と同時に実験標的にされた阿賀野型軽巡洋艦酒匂はほぼ真上が爆心地となったために大破炎上、翌日に沈没した。7月25日の第二実験(BAKER、水中爆発)では爆心地から900-1000mの位置にあり、右舷側に約5度の傾斜を生じた。それでも長門は海上に浮かんでいた。しかし、4日後の7月29日の朝、実験関係者が長門のいた海面を見てみると、既に同艦の姿は海上にはなかった。7月28日深夜から29日未明にかけて、浸水の拡大によって沈没したものと見られる。長門が二度被爆してなお4日後まで沈まなかったことは、当時の日本では「米艦が次々沈む中、最後まで持ちこたえた」「長門が名艦だった証拠」「日本の造艦技術の優秀性の証明」と喧伝された。もっとも、被爆を耐えた艦は長門以外にもおり、沈没を免れた米戦艦ネバダ、アメリカの軽空母インディペンデンス、ドイツの重巡洋艦プリンツ・オイゲン(後日座礁放棄)等、多数存在する。さらに長門とほぼ同じ距離にいた米駆逐艦ヒューズ(DD-410)ですら二度の被爆を沈まずに耐え抜いている。しかしながら第二実験(BAKER)の実施前に長門の艦体に機雷が装着されていたとされるなど大型艦の中では不利な条件であったとも言える。現在、長門の船体はダイビングスポットとしてこの地の貴重な観光拠点となっている。核実験の放射線の影響のため艦体に直接ダイバーが触れる事は許可されていない。沈没状態とはいえ、ビッグ7の中で現存しているのは長門だけである。現状は上下逆さまで沈んでおり艦橋部分は折れている。
出典:wikipedia
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