ベトナム共和国(ベトナムきょうわこく、)は、1955年から1975年までベトナム南部に存在した国家である。ベトナム国に続き、北緯17度線以南の地域を領土としていたことから、南ベトナムと略称される。分断国家の一つであり、ベトナム民主共和国(北ベトナム)と対峙して反共産主義的な立場をとっていた。その為、西側諸国から援助・国交があった。国家としての実体は1975年北ベトナムとの戦争に敗戦し消滅したが、現在では亡命政府である自由ベトナム臨時政府がアメリカ合衆国で組織されている。第二次世界大戦後、日本軍の撤退とフランス植民地主義者のいない権力の空白期にインドシナ共産党の統一戦線組織であったベトミンが山岳地帯から都市部に進撃しハノイ・クーデターによってチャン・チョン・キム政権を突如・崩壊に追い込み強引に独立宣言を発して政権樹立をした。この動きに反対した宗主国フランスは、「コーチシナ共和国」(1946年-1948年)を建国したり、ベトナム臨時中央政府(1948年-1949年)を経て、バオ・ダイを国長に担いで「ベトナム国」(1949年-1955年)を建国したり、親仏政権を樹立したが、いずれも民衆からの支持が得られないまま失敗し、やがてベトミン政権は実質的に中ソの支援を受ける共産主義政権となり、フランス駐留軍とのあいだで軍事衝突が起き第一次インドシナ戦争(1946年-1954年)に突入した。北ベトナムは、ソ連や成立間もない中華人民共和国からの軍事援助を背景にフランス軍を追い込む事に成功した。この戦争に敗退したフランスの実情を憂いたアメリカは、ドミノ理論(ある一国が共産化すれば、ドミノ倒しのように近隣諸国も共産化する=東欧諸国、国共内戦後の毛沢東による中国、またのちの王制廃止後のラオス、ポル・ポト政権下のカンボジアなどのように)を提唱して、アジアにおいて共産主義の拡大を防ぐため、フランス撤退後のベトナムにおいて共産主義を嫌悪する旧・阮朝の宮廷官史や民族主義者・自由主義者と計らい、1955年10月26日、アメリカの支援により、ゴ・ディン・ジェムが南部で反対勢力(バオ・ダイ派)を一掃し、国名を「ベトナム共和国」(1955年-1975年)として政権を発足させた。国土面積は173,809km²であった。最高峰はフエやダナンに近いアンナン山脈のアトゥアト山(2,500m)である。熱帯モンスーン気候によって常に暑い。雨季は5月から10月。サイゴンの月平均気温は25~29℃で、年間降水量は約1,800mm。議会制民主主義を標榜していたが、その短い歴史の中で軍隊がクーデターを起こすことにより対立する政権を転覆させ、国政を掌握させる事例が相次いだ。これは長らくにわたる植民地圧政下で宗主国による愚民化政策が、有能な政治勢力の形成を阻んだり、民族運動・独立運動を弾圧したことにも起因している。大統領の任期は4年。1966年に制憲議会で憲法を起草し、1967年に新憲法が公布されている。この憲法には、大統領は選挙によって選出すること、副大統領制と上下両院を定めてある。この憲法公布に基づき、さっそく同年9月に選挙を行い、新憲法公布者であるグエン・バン・チューとグエン・カオ・キがそれぞれ大統領と副大統領に就任している。しかし、1971年の大統領選挙では、チュー大統領が有力対立候補のキ副大統領やズオン・バン・ミン将軍を選挙から締め出し、圧倒的多数で信任されるなど、不正選挙も起こっている。通貨はピアストルであった。重工業はほとんど存在しておらず、軽工業及び農業が中心であったが経済活動は活発であった。また、ベトナム戦争の影響で農業・工業生産が低下、インフレを招き、そこにアメリカやフランス、日本などからの各種支援に大きく依存したというものが合わさった結果、貿易赤字が年々拡大していくものとなった。-一人当たりの国民所得:181ドル1970年での総兵力が50.3万人。(内訳:陸軍41万人、海軍3.9万人、空軍4.1万人、海兵隊1.3万人、補助兵力55.5万人。なお、補助兵力は総兵力に含まない。)北ベトナムとの分断・戦時であったので、国防に5.64億ドル(1971年)も使用している。(国防支出ではハンガリー人民共和国(5.11億ドル)よりも多いが、当時の日本(18.64億ドル)の1/3にあたる程度である。だが、総兵力は日本(25.9万人)、イスラエル(30万人)、イタリア(46.4万人)、イギリス(38万人)、西ドイツ(46.7万人)と南ベトナムよりも国防支出の多い諸国を抜き、フランス(50.1万人)に相当する。)基本的に西側寄りであり、アメリカと共に北ベトナムとの戦闘、カンボジア侵攻を行っている。また、南ベトナム軍単独でラオスにも侵攻している(アメリカ空軍が支援)。なお、カンボジアやラオスに侵攻したのは、ホーチミン・ルートを分断するためであり、あくまでも乗っ取りなどを目的にした訳ではない。都市部における公共交通機関はバスやタクシー、シクロなどが中心で、鉄道網は充実しておらず、地下鉄は存在していなかった。また、諸外国との交通手段は、近隣諸国との間は長距離バスが中心であった。なお、エア・ベトナムが、東南アジア各国の都市に乗り入れを行っていた他、日本にも羽田空港と伊丹空港(サイゴン発大阪経由東京便)へ乗り入れていた。首都サイゴン周辺やメコンデルタ地方では、サイゴン川・メコン川などの河川の本支流や運河などの水路が発達しており、伝統的なサンパンやジャンクを使用した水運が盛んに利用された。ここ南ベトナムも、日本との国交を持つ国だったため、旅行は可能であった。とは言え、ベトナム戦争や準戦時下期間が長かったので、一般観光は難しいとされていた。ビザは不要で、種痘、チフスの予防接種が必要。上述した経路だと、7時間程度で着く。1973年の人口は19,370,000人であった。人口増加率が2.6%。民族構成はベト人(越人、京人)やホア族(華人)3%、タイ人(ターイ族、タイー族)、クメール人(クメール族)などの他、多くの少数民族がいた。割合(1970年)では、ベト人が約90%、山岳緒民族(主にメオ族、ラデ族、ロロ族など)5%、ヨーロッパ人が3%、それ以外が残りの2%。言語はベトナム語が公用語であった。その他、中国語やクメール語なども使われており、フランス領インドシナ時代の影響から、少数のエリート層の間では、フランス語も話されていた。宗教は仏教(主に大乗仏教)が約70%と大半を占め、その他、道教、ローマ・カトリックなどがあった。またホアハオ教や、混淆宗教としてのカオダイ教が教勢を保っていた。
出典:wikipedia
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