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蒋経国

蒋 経国(しょう けいこく、蔣經國、1910年4月27日 - 1988年1月13日)は、中華民国の政治家である。中華民国第6任・第7任(第6期・第7期)総統を務め、中国国民党中央委員会主席、中華民国行政院長、国防部長等を歴任した。蒋経国は1910年4月27日(旧暦3月18日))、浙江省奉化県渓口鎮に、蒋介石、毛福梅夫婦の長男として生まれた。父蒋介石は、蒋経国が生まれた時には日本にいて、軍事について学んでいた。やがて蒋介石は辛亥革命以降の中国革命において、中心人物として活躍するようになる。革命に奔走するようになった父、蒋介石は家に戻ることが少なくなり、もともと母が持ってきた縁談に従って結婚した妻、毛福梅との関係は疎遠になっていく。蒋経国はもちろん母のことを慕い、家にあまり寄り付かなくなった父蒋介石も、蒋経国への教育は大変熱心であり、伝統的な中国の価値観に沿った教育を息子に施していく。そして1921年、蒋介石は妻、毛福梅と離婚した後、翌年には蒋経国を上海に連れ出す。これは離婚した毛福梅のもとに息子を置いておきたくなかったという事情とともに、閉鎖的な田舎にいては息子の見聞が広がらないと考えたことによる。しかし上海で蒋経国は革命思想に出会い、1925年、五・三〇事件で中学生のデモを4回指揮したことが原因で中学校を退学させられる。そして中学退学後、蒋介石の友人に預けられる形で向かった北京でも帝国主義に反対するデモに参加し、当局から拘束される。結局蒋経国は1925年10月、ソ連に留学することになった。留学したソ連で蒋経国は中国革命を担う人材を養成することを目的に創設されたモスクワ中山大学で学んだ。トロツキーに心酔した蒋経国はよき共産主義者たらんとして勉学に励むが、モスクワ中山大学在学中、父、蒋介石は上海クーデターを敢行し、共産党の弾圧に乗り出す。上海クーデターのニュースを聞きつけた蒋経国は、父、蒋介石に対する絶縁状を叩きつけた。その後、蒋経国は中国の最高実力者にのし上がった蒋介石の長男として、スターリンの人質同様の境遇となりソ連で苦難の生活をせねばならなくなる。蒋経国を苦しめたのはソ連当局ばかりではなく、中国共産党モスクワ駐在支部、特に責任者の王明が蒋経国の迫害に一役買った。蒋経国はモスクワ近郊の貧しい農村、アルタイ金鉱、そしてスヴェルドロフスクのウラル重機械工場で働かされた。そのような中で蒋経国はソ連社会の基層に触れ、後の政治家生活で大きく役立つことになる大衆政治家としての素養を身につけた。またソ連で学んだことにより、政治警察、軍の政治工作系統についての深い知識を身につける。ウラル重機械工場で、蒋経国は生涯の伴侶、ファイナと出会い、結婚する。結婚後も蒋経国はソ連当局、中国共産党モスクワ駐在支部の圧迫を受け続けるが、1936年10月の西安事件を期に境遇が一変し、翌1937年、蒋経国は12年ぶりに帰国する。帰国後の蒋経国は郷里渓口鎮での禊の時期を経て、江西省で中国政治にデビューする。1939年には江西省辺境の贛南に赴任し、軍閥が我が物顔に跋扈し、行政の指示は全く行われず、大量のアヘン吸引者、マカオに次ぐ規模の賭博場が存在した贛南で改革の辣腕を振るった。蒋経国の贛南統治は大きな成果を挙げ、中国政治デビューは順調であった。また贛南時代から蒋経国は自派の形成を開始した。蒋介石は1944年に蒋経国を臨時首都の重慶に呼び寄せ、三民主義青年団中央幹部学校教育長に任命する。蒋経国の活躍の場が地方から中央に上がったことになるが、この頃から蒋経国の政治経歴には挫折が続き、壁にぶつかることになる。結局皮肉なことに父、蒋介石が率いる国民党、国民政府の国共内戦敗北、台湾撤退が蒋経国にとっての大きな転機となった。国共内戦は国民政府軍の敗退が続き、結局台湾への撤退を余儀なくされる。この時期、蒋経国は父、蒋介石に常に近侍し、補佐をするようになった。生母との離婚、ソ連時代にはいったん絶縁状を叩きつけたこともあった父、蒋介石との距離は国共内戦時以前は必ずしも近くなかったが、危機は父子の関係を深め、蒋経国は蒋介石側近筆頭の地位を確保する。台湾に撤退後、父、蒋介石は息子の蒋経国に、特務の元締めと軍の政治工作部門の掌握といういわば体制のダーティな部分を任せた。ソ連で軍の政治工作部門について学び、蒋介石に最も信頼されている蒋経国にとって適役ではあったが、政治家として大成するには特務の元締めという負の遺産を清算せねばならないという課題を背負うことになった。蒋経国は特務の元締めとして台湾に根を張りつつあった共産党組織の壊滅に成功するが、実際の共産党関係者を遥かに上回る冤罪被害者を生み出した。また軍の政治工作部門を掌握した蒋経国は軍の人事権を確保し、特務、軍の政治工作部門を活用して政敵を追放ないし抑圧することにも成功し、主として政治の裏側で強大な権力を握る。台湾に撤退した国民党、国民政府は、あくまで自らが中国の正統政権であって中国共産党は反乱者であると見なしており、台湾はあくまで借住まいであり、中国大陸に戻ることを前提としていた。そのため、台湾に蒋介石とともにやってきた外省人が少数派であるのにも拘らず、多数派の本省人の上に立って支配する統治形態が確立された。この体制はアメリカからの支持、援助を受け1960年代までは大きな波乱もなく安定していた。しかし父、蒋介石の衰えが目立つようになった1960年代末以降、中国大陸復帰の非現実性が明らかになり、またアメリカなど諸外国の支持も減退し、国民党、国民政府は大きな正統性の危機に直面する。蒋経国はこのような危機が進行する中、不足していた政治の表舞台でのキャリアを積みあげ、衰えた父、蒋介石に代わり事実上の国の最高指導者となる。1972年に行政院長となった蒋経国は、対外的な正統性の危機と、それに伴う移民、資本移動といった形での海外逃避に傾きがちとなった状況を克服するため、経済建設のための大規模な投資、十大建設を断行する。十大建設は成功を収め、危機の中での経済建設の成功は台湾社会に団結と達成感をもたらし、更に政治的孤立とは対照的に、台湾は国際経済において確固たる地位を占めることに成功する。また蒋経国はいわばよそ者の政権であった中華民国を、徐々に台湾化させる方向へとシフトする。本省人の俊英の抜擢、度重なる地方視察が蒋経国が取った中華民国台湾化の手法であった。本省人の俊英の抜擢で出世頭となったのが、後に蒋経国の後継者の地位に座る李登輝であった。1975年4月に父、蒋介石は死去し、蒋経国は国民党主席となり、1978年には中華民国第六期総統に就任する。総統就任前後から、蒋経国は経済成長などで自信を付けつつあった民衆運動に悩まされるようになった。1979年に発生した美麗島事件は弾圧するが、反体制派はすぐに復活して活動を活発化させていった。またこの頃からアメリカからの人権問題についての介入、そして鄧小平が実権を握り、文化大革命から決別して近代化路線を進み始めた中華人民共和国からの硬軟取り混ぜた攻勢に苦慮するようになる。結局、最晩年になって蒋経国は自らが依拠してきた権威主義的体制の限界を悟り、政党結成の容認、長年台湾を抑圧してきた戒厳令を解除するなど民主化、自由化への大きなな一歩を踏み出し、また権力の世襲を明確に否定した。そして対中国大陸関係では、中国大陸との間接貿易の許可、そして大陸親族訪問解禁、密使を通じた大陸との交渉と、閉じられた関係から開かれた関係へと移行する重要決断を相次いで下す。1980年代、重い糖尿病に冒されていた蒋経国にとってこれらの決断はまさに命を削るものであり、1988年1月13日、77歳で蒋経国は没する。蒋経国は1910年4月27日(旧暦3月18日)、浙江省奉化県渓口鎮に、蒋介石、毛福梅夫婦の長男として生まれた。父の蒋介石は22歳、母の毛福梅は27歳であった。蒋経国の一族は代々食料、塩、酒類を商う商人であったが、太平天国の乱に巻き込まれていったん家財を失ってしまう、しかし蒋経国の曽祖父にあたる蒋斯千は商才があり、家業を立て直した。蒋斯千の死後、家業は蒋経国の祖父である蒋肇聡が継いだ。蒋肇聡も有能な商人であり、公益事業にも熱心な人物であった。蒋肇聡は三度の婚姻暦があり、最初の妻、そして二人目の妻とも死別した後、王采玉を三度目の妻として迎えた。蒋肇聡と王采玉の間には二男一女が生まれた。第一子、長男が蒋介石である。しかし蒋肇聡は蒋介石が9歳の時に没する。蒋介石の異母兄に蒋錫候がいたが、父の後妻に当たる王采玉や蒋介石ら異母兄弟の面倒を見ようとはしなかった。一家の大黒柱を失った王采玉や蒋介石らは、清末の混乱の中、腐敗した官吏などにおびやかされる生活が続いた。蒋介石が数え15歳の時、縁談が舞い込んだ。格式が劣る家は早めに結婚をするのがよいとの周囲からの勧めに従い、1901年、蒋介石は雑貨商の娘であった毛福梅と婚姻する。毛福梅は当時の中国の田舎ではどこにでもいたような、夫に仕え、姑に孝行を尽くすタイプの女性であった。しかし若き夫、蒋介石は破天荒な人物であった。結婚当時10代半ばの腕白少年であった蒋介石は、やがて家を離れて保定陸軍軍官学校で軍事について学びだしたと思いきや、更に日本へと渡り軍事についての研鑽を深めていった。その結果、蒋介石は渓口鎮にあまり戻らないようになっていった。蒋介石は1908年、東京振武学校に入学した。振武学校在学中の1910年4月、蒋介石に息子が誕生した。父親が日本滞在中に生まれたこともあって、蒋経国の血筋について憶測が流れたこともあったが、蒋介石は日本留学中、身内の慶事などの際にはしばしば帰郷しており、取るに足らない噂であるとされている。生まれた男の子には建豊という幼名がつけられ、経国の大業、経国済世などという言葉から号を経国と名づけられた。そして蒋介石は振武学校卒業後、1910年12月からは新潟県上越市高田にある陸軍第十三師団野戦砲兵第十九連隊付に二等兵として入隊した。日本留学中の父、蒋介石が息子蒋経国と初めて対面したのは、誕生後一年あまりが経過した1911年の夏、休暇で帰郷した際のことであった。蒋介石は日本留学中に中国革命同盟会に入会し、リーダーである孫文の知遇も得ていた。蒋介石は陸軍第十三師団野戦砲兵第十九連隊で砲兵伍長まで昇進したが、故国中国で1911年10月10日に辛亥革命が勃発したことを聞きつけると連隊を抜け出して帰国した。こうして蒋介石は中国革命の渦中に飛び込んでいくことになる。蒋介石が国事に奔走していくようになる中、妻、毛福梅との関係は更に遠くなった。毛福梅は母、王采玉に勧められて結婚した女性であり、蒋介石は次第にこの田舎育ちの妻がうとましく感じられるようになっていった。また蒋介石の毛福梅に対する態度もひどいもので、殴る蹴るはもちろんのこと、二階から突き落としたことも何度かあったと伝えられている。息子である蒋経国はむろん母のことを慕っていたが、このような家庭環境は蒋経国に影響を与えたと考えられる。1912年、蒋介石は姚冶誠を妾とし、姚冶誠を連れて渓口鎮に帰郷する。蒋介石は相変わらず渓口鎮に戻ることは少なく、上海で買った西洋式の玩具をよく息子蒋経国のために送り届けてきた。1916年、蒋経国に弟、蒋緯国が出来た。蒋緯国は当時蒋介石と親友であった戴季陶と日本人看護師の重松金子との間の子であったが、戴季陶の家庭の事情で認知が出来ないのを見た蒋介石が、自分の息子として養育することにした。そして蒋緯国は姚冶誠が養母として養育するようになった。1916年、蒋経国は故郷、渓口鎮の武山学校に入学し、翌1917年からは父、蒋介石も教えた顧清廉から学問を学ぶようになった。顧清廉はまだ幼い蒋経国の朗読を評価した。そして蒋経国に書字、読解能力がある程度ついたと判断した蒋介石は、1920年から手紙で息子に対する訓示を行うようになる。当時、蒋介石は孫文を補佐しつつ中国各地を飛び回っていた。1920年、まだ10歳になったばかりの蒋経国に、父、蒋介石は注解付きの「説文解字」を送りつけ、「この本から毎日10文字ずつ覚えれば、3年後には読み終え、生涯お前の助けになるだろう。勉強はまず先生の話をよく聞き、新しい文字をひとつ習ったらその意味をよく知ることである…」と指示した。蒋介石は翌年には「説文提要」を読み終え、覚えたかどうかを確認しつつ、爾雅を読むように指示している。このような蒋介石の指示は、もちろん息子蒋経国の教育に力を注いだことを意味しているが、蒋介石自身が受けた中国の伝統的な教育方針に基づいて蒋経国を教育していこうとの意図の表れであった。蒋経国自身も「父は主に四書を読むよう指示し、とりわけ孟子、そして曽国藩が家族に宛てた手紙を重視していた」。と語っている。1921年、蒋経国の身辺に2つの大きな出来事が起こった。まず蒋経国の祖母で、蒋介石の母である王采玉が死去した。母の葬儀の後で蒋介石は「経児(蒋経国)は教えるべき、緯児(蒋緯国)は愛すべき」と訓示し、蒋経国を蒋家の後継者として育成していく方針を示した。そして蒋介石は母の存命中は、表面的には夫婦関係を維持してきた妻であり蒋経国の母である毛福梅と離婚し、同時に第二夫人の姚治誠とも別れ、上海で陳潔如と婚姻する。また同年、蒋経国は奉化県の龍津小学校に入学し、放課後も家庭教師の王欧声から教育を受けるようになったが、翌年、蒋経国は故郷を離れ、人生の転機の一つとなる上海行きが決まった。蒋経国の上海行きは、閉鎖的な田舎では息子の見聞が広まらないと考えた父、蒋介石の意向であった。もっとも先述のように蒋介石は経国の母、毛福梅と離婚したため、息子を離別した妻の下から離す目的もあったと考えられる。蒋経国自身もこれまで故郷、渓口鎮で旧態依然とした教育を受けてきたが、伯父たちの噂話で知った上海の新式の学校での教育を望むようになっていた。1922年3月、蒋経国は上海の万竹小学校の四年生に編入した。上海には家庭教師の王欧声と伯父が同道した。そして蒋介石は陳果夫に、上海にやってきた息子、蒋経国の後見人になるよう依頼した。万竹小学校での教育は、中国の古典籍中心の故郷、渓口鎮での教育とは異なり、英語、数学、地理、歴史、自然科学などを教えていた。つまり蒋経国は万竹小学校で初めて本格的な近代的な教育を受けることになった。一方、父の蒋介石は息子の上海到着後まもなく、新妻の陳潔如を連れて上海を去って広州で生活するようになった。蒋介石は広州から息子に対し、英語、数学、とりわけ英語を身を入れて学ぶよう手紙で訓示した。中国の伝統的教育観にどっぷり浸かっていた蒋介石であるが、近代的な教育の意義を全く無視していたわけではない。しかし蒋介石の英数重視の訓示はあくまで実利面でのことを考えてのことであって、息子に欧米の文化を学ばせ、新しい思想や文化に触れさせることが目的ではなかった。蒋経国の上海行きの後も、蒋介石は手紙で四書とりわけ孟子、そして春秋左氏伝、荘子などの古典、曽国藩の家訓を学ぶよう指示し続けた。。父蒋介石が曽国藩にこだわった理由の一つに、当時、この100年間の中国の政治家の中で、後継者の育成に成功したといえるのは曽国藩だけと見なされていたことが挙げられる。蒋介石は息子を理想とした枠にはめて育成しようと試み、自らの意志で道を切り開いていくことは望んでいなかった。しかし蒋経国は万竹小学校を卒業後、浦東中学に進学し、多感な青年期に入りつつあった蒋経国は、父から与えられた中国の伝統的な教育の枠に飽き足らなくなっていった。蒋経国が故郷、渓口鎮で教育を受けていた1919年、第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約に対する不満に端を発した五四運動が起こった。五四運動を通じて、当時軍閥によって四分五裂状態の中国で、軍閥のひとつに支持されているに過ぎない弱体な中央政府(北京政府)では、とうてい帝国主義列強に対抗していくことは不可能であるということが明らかとなった。そこで国内では反軍閥、国家統一を目指す国民革命、国外に対しては反帝国主義運動を遂行することが中国の喫緊の課題であると認識されるようになってきた。こうした中国の政情に新生ソ連が積極的に介入していくことになる。若き蒋経国はこのような時代の流れに深く影響されていく。1924年の冬に万竹小学校を卒業した蒋経国は、浦東中学に進学する。しかしせっかく進学した中学校で蒋経国が学んだ期間は短かった。上海で勉強を始めて3年が経過し、蒋経国は当時の中国における文化の最先端の地で新しい思想の洗礼を受け、父が与えてきた孟子や曽国藩はすっかり片隅へと追いやられてしまった。このような中、1925年5月、上海のイギリス租界内にある日本資本の紡績工場で、労働争議に絡んで労働者が射殺されたことがきっかけとなり、五・三〇事件が勃発する。事件に抗議して中国各地で租界回収、帝国主義打倒が叫ばれ、上海では商店が一斉に休業し、労働者たちはゼネストを敢行し、学生たちは授業をボイコットしてデモに参加した。15歳の蒋経国は浦東中学のデモ隊に4回参加し、いずれも隊長としてデモを指揮した。授業ボイコットとデモは一ヶ月あまり続いたが、保守派である学校当局は蒋経国の言動を造反的であるとして問題視し、「行動が常軌を逸している」ことを理由として浦東中学を退学させられる。父、蒋介石はこれまで息子を理想とした枠にはめて教育しようとして来たが、蒋経国は自らの意志に基づき行動し、その結果中学から退学処分を受けた。このようにして蒋経国は自我に目覚め、父、蒋介石から思想的に自立をしていった。蒋介石は、息子が五・三〇事件におけるデモのリーダーを務めたことにより、浦東中学から退学処分となったとの報告を受け、このまま中国先端の思想が流行している上海に息子を置いておくと良くない影響を受けるとして、友人の呉稚暉が北京に創立していた海外補修学校に転学させた。これは蒋介石が友人の呉稚暉に息子の教育係を依頼する意味があった。しかし蒋経国は北京でロシア人や中国共産党の李大釗らと知り合い、共産主義への傾倒を深めていった。その結果、北京5万人反帝示威運動に参加したため、当時北京を支配していた軍閥政府によって逮捕され、二週間拘束された。北京でロシア人、中国共産党員と知り合うことにより、蒋経国はソ連留学を熱望するようになっていった。蒋経国は先生であった呉稚暉に対し、革命をするためにソ連に留学したいとの希望を打ち明けた。呉稚暉は若い頃フランス、イギリスで学び、アナーキズムに傾倒していた時期があった。まだ15歳の蒋経国が革命をしたいからソ連に留学したいとの希望を語るのを見て、呉稚暉はいったんはよく考えるようにと諭したが、結局「若者がなんでも試してみるのはよいことだ」と、蒋経国の希望を受け入れることにした。呉稚暉の了解を取り付けた蒋経国は、北京を出発して上海経由で父のいる広州へ向かった。上海では蒋経国の後見人であった陳果夫からモスクワの冬用の衣類をたくさん貰った。そして広州に着き、蒋経国はまず当時父、蒋介石の妻であった陳潔如に会い、ソ連行きの希望について相談した。陳潔如から息子のソ連行きの希望を聞いた蒋介石はいったんは怒ってみたものの、結局息子のソ連行きを了承する。当時、蒋介石が校長を務めていた黄埔軍官学校は、その運営資金や装備の多くをソ連から支援を受けていた。また当時の中国国民党は「連ソ、容共、扶助工農」のスローガンのもと、中国共産党との第一次国共合作が成立していた。その上、この年の3月に亡くなった孫文を記念して、モスクワに革命を担う人材を養成することを目的としてモスクワ中山大学が設立された。このようにソ連留学を決意した当時の情勢も、中国国民党最高幹部の蒋介石の息子である蒋経国のソ連留学を後押しした。蒋経国のソ連留学先は、設立されたばかりのモスクワ中山大学となった。蒋経国を始めとするモスクワ中山大学一期生は総勢約340名であり、学生たちは大きく分けて3つのグループに分かれた。まずは中国国民党が派遣した人たちである。国民党から派遣された人物の多くは蒋経国に代表される国民党要人の子弟であり、廖承志、于秀芝などがいた。第二のグループは中国共産党が派遣した人たちで、楊尚昆、王明らがいた。そして第三のグループは当時ヨーロッパに滞在していた人たちの中から選抜されたグループであり、その多くがフランスで勤労をしながら修学をする勤工倹学運動を行ってきていた。第三のグループは政治的には国民党系統、共産党系統が交ざっており、代表的な人物としては鄧小平が挙げられる。またモスクワ中山大学の学生は建前上中国国民党の党員であることが条件になっていたため、1925年10月初旬、蒋経国は中国国民党に入党する。モスクワ中山大学の第一期生に選ばれた蒋経国は、約90名の留学生とともに1925年10月、ロシアの貨物船で上海を出航し、ウラジオストックへ向かった。ところが蒋経国の乗った貨物船は以前家畜の輸送船だったらしく、すさまじい悪臭がした。あまりの悪臭に蒋経国はいっそ下船をしようかとも考えたが、黄埔軍官学校校長の蒋介石の息子が逃げ出したらどんな騒ぎになるかと考え、思いとどまった。ウラジオストックへの船旅で、蒋経国は孫文の「三民主義」、そしてニコライ・ブハーリンの「共産主義のABC」などを読み、初めてインターナショナルを聴いた。ウラジオストックで貨物船を下船後、シベリア鉄道の普通列車に乗り、25日かけて11月下旬、ようやくモスクワに到着した。蒋経国が第一期生として入学したモスクワ中山大学学長には、トロツキー派の主要メンバーであったカール・ラデックが選ばれ、スターリン派のパーベル・ミフが副学長となった。ところで大学が創設された1925年は、スターリンがトロツキーら政敵を排除し始めた年であった。スターリン派とトロツキー派との抗争は、やがて蒋経国のソ連生活に深刻な影響を与えることになる。モスクワ中山大学では講師のほとんどが中国語が出来なかったため、中国語通訳付きでロシア語、ないしは英語で授業が進められた。科目はロシア語の他、史的唯物論、資本論、レーニン主義などのマルクス主義社会科学、党の組織論、そして革命運動論が討論重視の授業形式の中で講義され、孫文を記念し、国共合作を象徴する大学であったのにも関わらず、三民主義の講義などはなかった。またモスクワ中山大学では留学直後に各学生にロシア名が与えられた。蒋経国はニコライ・ウラジーミロヴィチ・エリザロフ()という名が与えられ、同志ニコラと呼ばれるようになった。大学開校直後、国民党系の学生と共産党系の学生との間で衝突が起こった。学内で一部の国民党系の学生の素行が悪いと反感を買ったのである。蒋経国は共産党系の学生たちの方が品性に優れていると感じ、入学直後の12月には中国共産主義青年団に加入して共青団ではモスクワ中山大学クラブの書記や副主席などを歴任する。国民党幹部の子弟たちの多くが裕福な家庭の出身であり、どうしても自由奔放に振る舞い勝ちであったが、その中で蒋経国はマルクス主義の学習に真摯に取り組んでいた。しかし、モスクワで勉学に励む蒋経国にまもなく恋が芽生えることになる。1926年3月末、中国国内の政争を避け、馮玉祥がモスクワにやってきた。そして馮玉祥の長男、馮洪国と長女、馮弗能はモスクワ中山大学に入学することになった。蒋経国と馮洪国は北京の海外補修学校で同級生であり、旧知の間柄であった。馮洪国は妹の馮弗能を蒋経国に紹介し、やがて二人の間には恋が芽生え、事実上の同棲生活を営むようになったと考えられる。ソ連当局がモスクワ中山大学を設立した思惑としては、ロシア革命によってソ連が成立したものの、アメリカ、イギリス、フランス、日本などといった帝国主義列強に囲まれて孤立状態にあったため、世界各地、とりわけ列強の植民地や従属させられていた地域で民族革命を起こし、帝国主義支配体制に風穴をあけることを目指していた。これは列強の植民地や従属を強いられていた地域からソ連に学ぶことになった人々の要求にも合致していた。しかしそのような中でソ連ではスターリン派とトロツキー派との対立が激化していた。両派は政治経済路線、そして国際共産主義運動を巡る対応について厳しく対立した。モスクワ中山大学で蒋経国は、学長のラデックらからトロツキーの革命理論の洗礼を受けた。国際共産主義運動についてスターリンは一国社会主義論を唱え、ソ連のみでも社会主義建設が可能であると主張したが、トロツキーは帝国主義列強に包囲された現況を永続革命論で打破することを訴えた。列強から圧力を受けていた中国の現況を変革することを求め、モスクワ中山大学で学ぶようになった学生たちにとってみれば、どうしても一国社会主義論よりもトロツキーの永続革命論の方が受け入れやすかった。蒋経国もまたトロツキー派に組するようになっていった。しかしソ連国内での権力闘争はスターリン派の優勢は動かなかった。中国人留学生の多くはソ連国内の情勢を警戒してトロツキー派への傾倒を隠そうとしたが、蒋経国はモスクワ中山大学在学中、そのような中国人留学生の「隠れトロツキスト」といった状態を批判し、パンフレットの印刷や学習会への参加を続けていた。政治問題は蒋経国と馮弗能との関係にも亀裂を生み出していた。馮弗能はモスクワ中山大学内で評判の美女であったが、政治的なことへの関心は薄く、「お嬢様」であると見なされていた。中国を変えようとの理想に燃え、モスクワで学ぶようになった学生たちの中からは、馮弗能を中国へ送還しようとの声も出ていた。実際、共産主義青年団を始めとする中国共産党の組織では、組織外の人物との男女関係は望ましくないとされており、蒋経国も馮弗能に対してしばしば共産主義青年団への加入を働きかけていたが、彼女は首を縦に振ろうとはしなかった。モスクワで蒋経国が共産主義について学びトロツキーに心酔して、共産主義者青年同盟に加入して共産主義者としての歩み始めた頃、故国の情勢は急速に変わりだしていた。蒋経国がソ連に留学する頃、蒋介石は自らが校長を務めていた黄埔軍官学校がソ連の強力な支援で成り立っていたこともあり、ソ連を礼賛する発言を繰り返しており、「赤い将軍」とか、「中国のトロツキー」などと呼ばれていたほどであった。しかし蒋介石は息子蒋経国とは異なり、ソ連に対して心底共鳴していたわけではなく、中国国内での国共合作間も共産党に対する警戒を怠らなかった。とりわけ1926年3月に起きた中山艦事件以降は、共産党に対する警戒感を強めていた。また国共合作中、国民党と共産党はともに主導権を握ろうと暗闘を繰り返していた。そして黄埔軍官学校校長とともに国民革命軍総監に就任した蒋介石は、1926年7月、軍事力で北京政府を打倒して中国統一を最終目的としたいわゆる北伐を開始する。国民党の軍権を掌握し、北伐を指揮した蒋介石は国民党のリーダーにのし上がっていく。北伐は当初の予想を上回る破竹の進撃を続け、蒋介石率いる国民革命軍は武漢に到達し、国民政府は武漢に遷都する。1927年3月10日、蒋介石ら国民党の首脳が不在の中で、武漢で国民党左派、共産党系の国民党員が主導して国民党の三中全会が開催され、会議の結果、蒋介石は主要ポストから失脚する。また同月、共産党に指導された上海の労働者たちがゼネストを組織して軍閥を追い出し、上海を支配下におくという事態が発生する。ここに至って蒋介石は上海財界の支援を受け、自らが指揮する部隊に加えて李宗仁の部隊を動員し、更に上海の暗黒街組織の青幇などの助力も得て、4月12日に上海クーデターを断行し、武力による共産党弾圧を開始した。蒋介石は4月18日には武漢の国民政府に対抗して、反共を全面に掲げた南京国民政府を樹立し、その後共産党弾圧は中国全土に広まった。経済の中心地である上海など長江下流域との連絡を絶たれた武漢国民政府は長い間持ちこたえることは出来ず、またスターリンからの国民党の共産化を指示する密命が明らかとなったことも重なって、結局武漢国民政府を指揮していた汪精衛ら国民党左派も7月には反共に転向し、第一次国共合作は崩壊し、武漢国民政府も南京国民政府に合流する。中国国内の国共合作を前提に創設されたモスクワ中山大学では、蒋介石の上海クーデター断行によって激震が走った。とりわけ蒋介石の息子である蒋経国が受けた衝撃は大きく、極めて困難な立場に立たされることになる。上海クーデターのニュースが報じられたモスクワ中山大学ではさっそく学生集会が開催され、学生たちはクーデター当初は国共合作を堅持していた武漢国民政府に対して、「帝国主義の走狗、反革命の蒋介石とその一味に対する」闘争を堅持するよう呼びかける電報を送った。学生集会では真っ先に蒋経国が演壇に立ち。ロシア語で自分は蒋介石の息子としてではなく、共産主義青年団の息子として話すと前置きをした上で、と、父、蒋介石に対する絶縁状をたたきつけた。この蔣経国の声明文はタス通信を通じて全世界に配信された。上海クーデターの後、モスクワ中山大学の国民党系の学生たちは帰国ないし送還、共産党や共産主義青年団に加入してソ連に残る、はたまたシベリア追放という形に分かれた。蒋経国と交際していた馮弗能は、この段階になって初めて共産主義青年団への加入を申請するが、申請は却下された。国民党の幹部子弟である上に、これまで政治的なことに関心を持とうとしなかった馮弗能に対する不信感が却下の原因と考えられる。そしてまもなく蒋経国は馮弗能との関係を清算することになる。これは反共クーデターを起こした蒋介石の息子である蒋経国としては、国民党幹部の子弟である上に政治に無関心の馮弗能との関係を清算することによって、真の共産主義者であることを示す必要があったものと考えられる。上海クーデターによる混乱の中、1927年4月に蒋経国はモスクワ中山大学の課程を修了した。卒業後、蒋経国は中国帰国を申請したと言われているが、父、蒋介石に対する絶縁状をたたきつけた直後に帰国を申請したとは考えにくいとの説もある。武漢国民政府も反共に転じた1927年夏、国民党系の学生の多くは帰国していったが、蒋経国は帰国することが出来なかった。中国の最高実力者となった蒋介石の息子である蒋経国は、いわばスターリンの人質としてソ連生活を継続することになり、検閲は受けたもののこれまでは行うことができた中国との国際郵便での連絡も出来なくなった。帰国できなかった蒋経国は赤軍入隊を志願するが、研修生身分での訓練のみ認められ、モスクワ郊外の部隊で訓練を受けた。訓練の成績は優秀であり、レニングラードのトルマトコフ中央軍政学院に推薦され、進学することになる。ところでモスクワ中山大学学長のラデックはトロツキー派の代表的な人物であり、必然的にモスクワ中山大学はトロツキー派の一大拠点となっていた。しかも上海クーデター後の対応をめぐり、学内でのスターリン派とトロツキー派との抗争は激化していた。激化する抗争を見て、スターリン自身がモスクワ中山大学を訪れ、学生たちにトロツキー派の「誤謬」を正す一幕もあった。このような中、中国共産党モスクワ支部はトロツキー派を反動と決め付けた。1927年12月にはラデックがソ連共産党第15回大会で除名され、シベリア送りとなった。この直後蒋経国はこれまでのトロツキー派から離脱している。この蒋経国の転向は不利となってきたトロツキー派から逃げ出したものと周囲から批判されたが、蒋経国自身は「自分はまだ自覚が高くなかった」と説明していた。またトロツキー派の多くの中国人学生が除名や処刑の対象になったのにも拘らず、蒋経国が過酷な処分を免れたのは、やはり蒋介石の息子は利用価値があるとソ連当局、そして中国共産党モスクワ支部から判断されていたからであると考えられる。しかしかつてトロツキー派であった上に、中国本土で共産党を執拗に攻撃し続ける蒋介石の息子である蒋経国に対し、中国共産党モスクワ支部、そして支部長の王明は執拗な攻撃を続けることになる。トルマトコフ軍政学院で蒋経国は、軍事専門分野とともに赤軍の政治統制組織、方法論について学んだ蒋経国は軍政学院に在学中の1928年、江浙同郷会事件という事件に巻き込まれる。これは蒋経国のもとにモスクワ在住の中国人の友人から一通の手紙が届き、その中で「このたび江浙同郷会を立ち上げることになり、君(蒋経国)が会長に推挙された。ついては会員への経済的援助を惜しまないように」。と書かれていた。これは蒋介石の息子として経済的に恵まれていた蒋経国に対する羨望交じりの冗談であった。ところがこの手紙を蒋経国と同室であったゲーペーウーの秘密要員が見つけてしまったことから騒動が勃発した。この話を聞きつけた中国共産党モスクワ支部長の王明は、蒋介石の指示と資金援助により蒋経国が江浙同郷会なる反革命組織を立ち上げようとしているとして、蒋経国や王明の反対派を一網打尽にしようとした。モスクワ中山大学内では、王明の指示によって多くの学生が逮捕、除名されたが、事件が大きくなるにつれて王明の独断専行に対する反発が高まり、結局ソ連共産党が乗り出して調査したところ、江浙同郷会は存在しないことが明らかとなり、またちょうど訪ソ中の周恩来も江浙同郷会事件の調査に参加し、やはり江浙同郷会なるものは存在する事実がないことが明らかとなり、事件は収束した。軍政学院時代、蒋経国はしばしばソ連共産党への入党申請を出した。これに対して「反革命の頭目」蒋介石の息子であり、しかもかつてトロツキー派であったことを危惧する声が上がり、学院の全学党員大会で審議の結果、1930年3月にソ連共産党の候補党員となることが認められた。ソ連共産党候補党員となった直後の1930年5月、蒋経国はトルマトコフ中央軍政学院を優秀な成績で卒業する。トルマトコフ中央軍政学院卒業後、蒋経国は中国帰国の申請を出すが却下され、それならばと正規に赤軍に入隊を希望するも、中国共産党モスクワ支部長の王明らの妨害によりそれも叶わなかった。結局国際レーニン学校の中国学生視察団の副指導員となり、中国人学生をコーカサスやウクライナに案内し、いわゆる社会主義建設の成果を見学した。この視察旅行の最中、蒋経国はグルジアでスターリンの母と会った。スターリンの母は蒋経国に対して「父親というものは必ず子どもを愛しているものです。子どももまた父親を愛すべきなのです」。と語った。ところが案内を終えてモスクワに戻ったところ、蒋経国は高熱を発し、入院を余儀なくされる。入院中、蒋経国のもとにはロシア人の友人は3名、見舞いに駆けつけてくれたが、中国人は誰一人としてやって来なかった。蒋経国は以前はトロツキー派であり、先日の江浙同郷会事件の経過から見てわかるように中国共産党モスクワ支部に睨まれていることは明らかであり、中国人たちは身の安全を考えて蒋経国を敬遠していたと考えられる。この事件は人間不信、心を許せる友人の欠如という、蒋経国の人格形成に無視できない影響を与えたと考えられる。大病から回復した蒋経国を待っていたのは、中国共産党モスクワ支部からの「階級敵の息子を通訳として働かせるのは望ましくない。これまで工作経験がないので工場で党の仕事をさせるべき」との横槍であった。1930年10月、蒋経国はモスクワ郊外の電気工場で一般労働者として働くこととなり、毎朝、満員電車に乗って工場に出勤するようになる。これが蒋経国にとって初めてソ連一般社会の中での生活体験となった。蒋経国は電気工場で働きながら夜間の技術学校に通い、昇任と昇給を目指した。やがて努力が認められ、工場の生産管理部門の副主任に推薦されたが、中国共産党モスクワ支部の反対で副主任にはなれなかった。それどころか中国共産党モスクワ支部は蒋経国をシベリアのアルタイ金鉱に追放するように執拗に要求した。この要求に対し、蒋経国は健康上の理由で拒否し、コミンテルン本部も蒋経国の訴えを聞き入れた。しかし中国共産党モスクワ支部はあくまで蒋経国をモスクワから追放することにこだわり続け、結局1931年11月、モスクワ郊外の貧しいシコフ村に送られることになる。シコフ村はモスクワ中心部から遠くはなかったが、モスクワ近郊の中でも最も貧しい村と言われていた。そんなところに放り出された蒋経国は、到着早々村人たちの冷たい視線を浴び、初日の晩は泊めてくれる場所すらなく、やむを得ず教会の車庫で一夜を過ごすことになった。村人たちにとってみれば、事情がよくわからない中でこれまで見たこともない小柄な東洋人の男が突然村にやってきたわけで、蒋経国を歓迎することは出来なかった。忍耐強いところのある蒋経国は、怒りを腹の中に納めて村人たちに「こんにちはみなさん」。と挨拶した。すると一人の老人が「お前も俺たちと一緒に畑を耕すんだ」と、農具一式を蒋経国に渡した。これまでやったことがない農作業であったため、村人たちから「こいつはパンの食い方は知っているのに畑を耕すことは知らない」などとからかわれながら一日の作業を終え、疲れ果てた蒋経国は再び教会の車庫で横になると、夜中に戸を叩く音がする。戸を開けてみると一人の老婆が立っていて、「ここは寝る場所じゃないよ、私の小屋でお休み」と、蒋経国に声をかける。最初は遠慮したが、老婆が「こんなところで寝ていると病気になってしまう」と、蒋経国を説き伏せ、この日からこの老婆、ソフィア婆さんの家にやっかいになることになった。一生懸命に働く蒋経国の姿を見て、ソフィア婆さん以外の村人も5日目くらいから心を許すようになってきた。村人たちの信頼をかち得た蒋経国は、頑固な村の長老たち相手に宣伝工作を開始した。その後、知識のない村人たちのために土地の賃貸借交渉、農機具の購入、税務などを代行するようになり、農村ソビエトの副主席に選ばれるまでになった。シコフ村での体験で蒋経国は「偉そうに主義主張を訴えるよりも、行動実践するのが一番だ」、「大衆の信頼を得るには、まずその領袖を味方とし、大衆に影響を及ぼす」という大衆運動の真髄を身につけることになった。一年間の「労働改造」を終え、シコフ村を挙げての見送りを受け、蒋経国はモスクワに戻った。しかしモスクワで生活することは許されず、スヴェルドロフスクに行かされて駅の荷物運搬の仕事をさせられた。スヴェルドロフスクで蒋経国は重病にかかってしまう。荷物運びの仕事の同僚たちによる必死の看病にも関わらず、蒋経国は生死の境を幾日かさまよった。幸い25日かけて回復することが出来たが、病癒えた蒋経国を待っていたのはシベリアのアルタイ金鉱行きであった。これは中国共産党モスクワ支部、中でも支部長の王明による迫害であった。アルタイ金鉱で蒋経国は政治的な理由で送られてきた学者、学生、技術者たちとともに砂金取りを行う。幸いにしてアルタイ金鉱での蒋経国に対する評価が高かったため、1933年10月、9ヶ月でアルタイ金鉱から再びスヴェルドロフスクに戻り、ウラル重機械工場で働くようになった。蒋経国がウラル重機械工場で働くようになった1933年は、ソ連国内では「社会主義経済の創造」を目指す第二次五カ年計画の実施中であった。ウラル重機械工場もまた第二次五カ年計画達成を目指し、三交代制で稼動していた。このような情勢下で工場に技師として入った蒋経国は懸命に働き、五カ年計画の推進に全力投球した。その結果、一年後には副工場長に抜擢され、工場内の広報誌「重工業日報」の編集長を兼務するまでになった。ウラル重機械工場での充実した日々の中、蒋経国は生涯の伴侶と出会うことになる。蒋経国より6つ年下の1916年生まれのファイナ()という女工である。ファイナは幼い頃両親と死別したために姉に育てられ、13歳にしてウラル重機械工場付属の技術学校に入学し、卒業後の16歳からウラル重機械工場で旋盤工として働いていた。ウラル重機械工場に入った翌年である17歳の時、蒋経国に出会ったファイナは、面倒見の良い蒋経国に感激し、蒋経国が病気で寝込むと献身的に看病した。そのような中で蒋経国とファイナは恋仲となり、ソ連共産党の組織も、コムソモールに所属していたファイナと、共産党の候補党員であった蒋経国との仲を祝福し、1935年3月、二人は結婚した。そして二人の間には1935年12月に長男の蒋孝文が生まれる。しかし中国共産党モスクワ支部、支部長の王明による蒋経国への執拗な追及は続いていた。1934年8月から11月にかけてはソ連政府の内務人民委員部による尾行がつけられた。そして1935年1月にはモスクワに呼び出され、王明から「中国国内では蒋経国逮捕の噂が流れているのでそれを否定し、仕事は順調で自由な生活をしていると母に伝える手紙を書け」と強要した。その上で王明は手紙の下書きなるものを見せたが、その内容は蒋介石を徹底的に批判し、共産党を擁護しソ連の優位性を宣伝する内容であった。このような手紙を出すわけにはいかないと蒋経国は抵抗し、蒋経国から相談を受けたソ連当局も王明の「下書き」は好ましくないものであるとの見解を示した。そこで蒋経国は改めて自ら手紙を書いたが、王明は自らの下書きを勝手に送ってしまっていた。しかも手紙の内容はプラウダ紙上に紹介され、3ヵ月後には要旨がニューヨーク・タイムズに掲載される。ソ連共産党の候補党員は、基本的に2年をめどに党員に昇格する。しかし1930年3月に候補党員となった蒋経国は6年経っても党員に昇格できなかった。これはトロツキー派であった過去などを中国共産党モスクワ支部、支部長の王明が問題としたことが大きく影響していた。当時のソ連では大粛清の真っ只中で、1936年に入ると蒋経国に対する監視も強化されていった。1936年9月、ソ連共産党ウラル党委員会は蒋経国の候補党員資格を剥奪し、同時にウラル重機械工場副工場長と重工業日報編集長から解任された。幼子を抱え、職を失った蒋経国一家の生活は妻のファイナの収入で支えざるを得なくなってしまった。しかしどん底状態に陥った蒋経国一家の運命は、まもなく大転換することになる。中国共産党モスクワ支部、支部長の王明による執拗な蒋経国いじめの背景には、父、蒋介石が中国で進めていた共産党掃討作戦があった。共産党の掃討は徹底して進められ、その結果、中国共産党は江西省瑞金にあった本拠地を放棄し、陝西省延安まで大移動を行ういわゆる長征を余儀なくされた。窮地に追いやられていた共産党勢力を救ったのが当時中国全土で高まりつつあった抗日の機運であった。当初、中国への進出を押し進める日本に対し、蒋介石を中心とする南京政府の対応は逃げ腰であった。南京政府の対応に中国国内では批判が高まりつつあり、その一方で中国共産党は1935年8月1日、一致抗日を訴える抗日八・一宣言を出した。1935年1月、蒋経国に対して母への手紙を書くことを強要した背景には、中国共産党モスクワ支部としては、抗日機運の高まりと南京政府への批判が集まる中、蒋介石の息子である蒋経国の手紙を通じて中国共産党の正当性を主張し、中国世論をより反蒋介石の方向へと誘導しようとのもくろみがあった。ところでソ連当局が王明の「下書き」を望ましくないものとしたことからもわかるように、蒋介石に対するソ連当局と中国共産党モスクワ支部の評価には温度差があった。上海クーデター、その後の中国共産党掃討作戦にも関わらず、ソ連当局は蒋介石の利用価値を認め、味方に引き入れようと考えていた。これは中国に進出を強める日本に対抗するためには、蒋介石を含む中国内の諸勢力が一致協力して抗日に向かうようにしなければならないとの判断であった。そのためには中国共産党の強硬な反蒋介石の姿勢を和らげる必要があると見ていた。一方、中国国民党の中でも共産党掃討に力を注ぎ、抗日に熱意を見せようとしない蒋介石に対する不満が現れ始めていた。このような中で中国共産党は張学良らに接近していった。共産党と張学良らとの接近は蒋介石の耳にも届き、1936年10月そして12月に、蒋介石は張学良らを説得するために西安に赴いた。蒋介石は張学良に対して共産党掃討の継続、一方、張学良らは蒋介石に一致抗日を主張し、話し合いは物別れに終わった。そして12月12日、張学良は蒋介石の身柄を拘束する。いわゆる西安事件である。蒋介石の身柄拘束を聞いた毛沢東、朱徳らは、蒋介石を殺害してから国民党側との対話に臨もうと考えた。しかしコミンテルンから蒋介石を殺さぬよう強力な指導がなされ、結局蒋介石側と中国共産党側との間に交渉が持たれることになった。身柄を拘束されて3日後の12月15日、蒋介石は妻の宋美齢宛ての遺書を書いた。その中で蒋介石は「家のことに関しては、ただあなたに二人の遺子、経国と緯国をあなた自身の息子として見てもらいたいということだけである」。と書いた。やがて中国共産党側からは交渉役として、黄埔軍官学校時代、校長と教官という関係で旧知の周恩来がやってきた。交渉の席で周恩来はまずは交渉条件についてはおくびにも出さず、よもやま話で場の雰囲気が打ち解けた後に蒋経国のことを話題にした。そして蒋介石が息子を思う親心を覗かせると、すかさず父子の再会に尽力する旨を請合った。結局、交渉は成立して蒋介石は釈放され、年末には南京に戻った。西安事件の後、蒋経国はスターリンとコミンテルン宛に帰国を願う手紙を送っていた。第二次国共合作への動きが進む中、1937年3月、蒋経国は突然モスクワの外交部に呼び出され、外務次官から中国帰国の許可を知らされた。中国帰国が決まると、これまでとは打って変わってソ連当局は蒋経国に対し厚遇振りを見せる。蒋経国と再度会見した外務次官からは中ソ関係の進展に期待するメッセージを貰い、コミンテルンのゲオルギ・ディミトロフ書記長からは国共合作と蒋介石の活躍に期待する旨のメッセージを伝えるように依頼された。しまいにはこれまで蒋経国のことを執拗に迫害し続けた王明までも慇懃な態度で現れた。モスクワの中国大使館では蒋経国一家のために盛大な帰国パーティを催し、1937年3月25日、蒋経国は妻子とともにモスクワを後にした。12年間に及ぶソ連生活の中で、蒋経国は2つの重要な能力を身につけることができた。まずはトルマトコフ中央軍政学院で赤軍の政治統制組織、方法論について学んだ上に、江浙同郷会事件以降、ことあるごとに中国共産党モスクワ支部、とりわけ支部長の王明からの圧迫、そしてゲーペーウーなどソ連の秘密警察機構の脅威に晒されていた。このような中で蒋経国は秘密警察組織、政治委員による軍の統制方法についての知識、経験を深め、更には政治的敵対勢力、敵対者に対する攻撃方法などを身につけた。このような能力について国民党、国民政府内で蒋経国を上回る者は存在せず、やがて国共内戦敗北後、台湾で特務機関の長として辣腕を振るうことになる蒋経国にとって大きな財産となる。一方、モスクワ郊外のシコフ村を皮切りに、ソ連の農村、工場などで農民や工場労働者とともに働いたことによって、父、蒋介石には無い、民とともに歩む大衆政治家として振る舞う能力を身につけることができた。この能力はとりわけ1970年代以降、国際的孤立を深める中で中華民国の最高指導者となった蒋経国にとって大きな役割を果たすことになる。中国帰国前、蒋経国はモスクワの中国大使館で中国大使と面会した際、いくつかの不安を口にしていた。蒋経国が口にした不安は、パスポートも金もないことや、ロシア人と結婚していることもあったが、最大の懸念は果たして父、蒋介石が自分を受け入れてくれるかどうかであった。かつて上海クーデター直後には父に対する絶縁状を叩きつけ、その後も王明の強要によって蒋介石を徹底的に罵倒した母への手紙を送られ、その内容をマスコミに報じられてしまった経緯もあり、果たして自分のことを父が受け入れてくれるかどうか、正直不安であった。中国大使は蒋経国に対し、パスポートやお金の件、そしてロシア人女性を妻としていることは全く問題にならないと説明し、蒋介石は蒋経国との再会を心待ちにしていることを請け合った。蒋経国一家がシベリア鉄道で終着駅のウラジオストクに着くと、中国総領事らが盛大な歓送会を催した。その後、船に乗り込み上海へ向かった。妻のファイナにとって中国行きは故郷との別れを意味しているが、彼女は故郷を離れることに抵抗は無く、むしろ新しい世界への憧れに胸をふくらませていた。蒋経国一家は4月19日に上海に到着した。港には弟の緯国が出迎えていた。ところで父、蒋介石は12年前に別れたきりとなっていた息子の帰国を父として喜んだものの。つい数ヶ月前まで共産党掃討に傾注していた国民党、中華民国の最高指導者の立場に立ってみると、ソ連に12年間も生活し、ソ連共産党の候補党員となり、かつて自分に対する絶縁状をたたきつけ、その上、ロシア人女性を妻として連れてきた息子に対する戸惑いを隠せなかった。蒋介石は帰国したその日のうちに杭州で息子一家と対面をしたとの説と、帰国後2週間後にようやく面会を行ったとの説がある。いずれにしても中国国内にソ連生活が長い蒋経国に対する疑念があることを考慮した蒋介石は、息子の帰国後、世間にすぐに会う姿を見せなかった。蒋介石は息子に対しまずは故郷、渓口鎮で過ごすよう指示した。生母、毛福梅のもとに戻った蒋経国はまず、伝統的な中国式のやり方で結婚式を再度執り行った。妻のファイナは家庭教師から中国語を学び、やがて浙江訛りの中国語を話せるようになっていった。そして妻のファイナは中国名を蒋方良と名乗ることになった。また帰国当初、蒋経国は中国語を忘れてしまっていた。蒋介石からソ連生活についてのレポート提出を求められた蒋経国は、ロシア語でレポートを書き上げて「中国語への翻訳」を依頼し、蒋介石を唖然とさせた。もちろん蒋介石は蒋経国を叱責し、中国語をしっかりと学び直した上で改めて中国語でレポートを書くよう指示した。蒋介石がソ連生活についてのレポート提出を求めた背景には、息子の思想検査の意味合いがあった。父の意図を察した蒋経国のソ連生活レポートは、全体としてソ連に批判的なトーンで記述されている。中国語の再学習とともに蒋介石が学ぶように指示したのは「国父孫文の教えと遺言」、少年時代に学習するよう指示された曽国藩の家訓、そして王陽明の全集であった。蒋経国の再学習期間中、蒋介石は家庭教師、そして学友までつけた。長いソ連生活を終えて帰国した蒋経国にとって、伝統的中国思想の再学習と共産主義からの決別という思想改造は父、蒋介石のもとで中国社会で生きていく以上、必須の過程であった。故郷渓口鎮で勉学に励む蒋経国に対し、父、蒋介石は「今後お前は何をやりたいのか?」と尋ねた。すると蒋経国は「政治か工業のいずれか」と答えた。蒋経国が工業を持ち出した理由としては、ソ連経験が長く、ソ連共産党の候補党員にまでなっていた蒋経国が政治に携わることで父の足を引っ張りたくないとの思いと、ウラル重機械工場で副工場長まで務めた経験を生かし、中国の工業化に尽くしたいとの考えがあったと考えられる。しかし父、蒋介石は息子に政治の道を選び、今後政治を行っていくためにも、故郷渓口鎮で農村事情の研究をするように命じた。江西省を支配していた蒋介石の腹心の一人である熊式輝は、蒋介石に対して蒋経国を江西に派遣してはどうかと提案し、了承を得た。1937年10月、故郷渓口鎮でのいわば蟄居生活から蒋経国は開放され、江西省の南昌市へと向かった。江西省は長征前までは中国共産党の本拠地があり、国民党と共産党は約5年間江西省で戦った。蒋経国自身も最近まで共産党の勢力が浸透していた困難な地への派遣を望んだ。1938年1月、蒋経国は江西省保安処少将副処省に任命され、その後しばらく省の保安関連の職務に従事する。熊式輝は自らが招いた蒋経国の思想、そして仕事ぶりをじっくりと見ていた。蒋経国の評判は上々であった。まず威張ることなく庶民的な感覚に優れ、兵士たちとともに寝起きして食事内容も一緒であり、部下たちから強い信頼を得ることに成功していた。1939年4月、蒋経国は発足したばかりの国民党の幹部養成機関である中央訓練団で研修を受けるべく、重慶へ向かった。中央訓練団で約一ヶ月間、研修を行った後の6月、江西省第四行政区行政督察委員に任命され、保安指令、贛県県長なども兼務し、贛南に赴任した。これが蒋経国にとって本格的な中国政治へのデビューとなった。蒋経国の贛南赴任中の1939年11月、故郷渓口鎮が日本軍による爆撃を受け、生母、毛福梅が死亡するという悲劇に見舞われるが、若き蒋経国は贛南で情熱的に政治に取り組んでいく。贛南は江西省の南部にあって、福建省、広東省、湖南省と境界を接している。江西省は先述したように共産党の本拠地があり、国民党は度重なる掃討作戦を行っていた。蒋介石は共産党勢力を駆逐中の1934年2月に、江西省の南昌から「食、衣、住、行」を「礼、義、廉、恥」に合致させ、「大衆の知識と道徳水準を高め、国家と国民を復興させる」ことを目的とした新生活運動を提唱していた。蒋介石が江西省から新生活運動を提唱した理由は、この運動を通じて江西省を中心として広まっていた共産思想の影響力を消し去ることをもくろんだと考えられる。しかし蒋介石の号令にも関わらず、共産党勢力を一掃した後の江西省は、民衆は困窮して財政は逼迫し、土豪劣紳がのさばり、文化は振るわないといった状態となってしまっていた。省の辺境である贛南の状況は更に劣悪であ

出典:wikipedia

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