五條市(ごじょうし)は、奈良県南西部の市。南和地域の中心都市。吉野川(和歌山県では紀の川)流域に位置し、大和国と紀伊国を結ぶ交通の要衝として、また吉野山地への入口として古来より重視されてきた。吉野川が市の中央を分断するように西流している。金剛山と吉野連山に囲まれており、市街から少し離れると急坂が多くなる。市役所が「五條」を名乗る一方、JR和歌山線の駅名は五条駅と表記されている。こうした中で2002年7月1日、市内で局名に「ごじょう」の付く郵便局5局の表記が一斉に「五条→五條」と改訂された(五條郵便局も参照)。「五條」表記「五条」表記『じょう』の表記についての運動奈良県統計※2005年の人口は、五條市・西吉野村・大塔村 合算大阪都心部に直通する鉄道路線を持つ隣の橋本市、大淀町に比べて交通の便が悪い。両市町ではベッドタウンとして宅地開発が進み人口が急増したのに比べて、五條市の人口は横ばい傾向である。古代の宇智郡の地であり、宇智神社を始め、大和に移住させられた阿田隼人が祭った阿陀比売神社(旧・阿陀郷)などの延喜式内社が鎮座する。また栄山寺には奈良時代に藤原仲麻呂が創建した八角堂(国宝)も残る。南北朝時代の1348年に南朝の本拠地である吉野が陥落した際に、後村上天皇が賀名生(現在の五條市西吉野町)に入り、一時期南朝が置かれた。1600年に松倉重政が関ヶ原の戦いの論功で領土を与えられ、大和五条藩(現在の五條市二見)が成立、江戸時代に入り1616年に重政が島原藩に移封されるまで存続した。重政は五条藩では城下町である新町(現在の五條新町通り界隈)の振興に努めてその後の繁栄の基礎を作ったが、島原藩移封後は圧政を敷き島原の乱の原因を作った。その後、幕府の天領(幕領、公領)となり、1795年に五條代官所陣屋が設置され、河尻春之が赴任し、以下池田但季、辻守眉、竹内信氓、矢嶋藤蔵、青山秀堅、蓑正路、竹垣直道、小田又七郎、山上定保、内藤忠倫、松永祐貫、鈴木正信(源内)、中村一顎が赴任した。多数の街道や吉野川(紀の川)の水運など交通の便に恵まれ、南大和統治の中心地として栄えた。旧紀州街道に当たる新町通りが街の中心で、現在も往時をしのばせる家屋が多数残っている。1863年(文久3年)8月17日(旧暦)、天誅組が五條代官所を襲撃、代官鈴木正信(源内)を殺害し倒幕運動の烽火を上げたことでも知られる(天誅組の変)。天誅組の本陣は桜井寺(現在の五條市須恵、本陣交差点の近く)に置かれ、一時「五條仮政府」を名乗った。明治初年の一時期五條県が置かれた。1912年9月22日の暴風雨により宇智郡五條町域で2丈3尺(約7m)もの浸水被害があった。太田好紀(2011年4月24日就任 1期目)議員:15人、川村家廣議長なお、衆議院議員選挙の選挙区は「奈良県第4区」、奈良県議会議員選挙の選挙区は「五條市選挙区」(定数:1)となっている。市内北東部の住川町には工業団地テクノパーク・ならや五條木材工業団地や、新興住宅地であるエルベタウン五條・ルネッサンスコートなどが、京奈和自動車道五條北ICや、北宇智小学校にほど近い居伝町には、北宇智工業団地が立地する。市内北西部には、旧大和団地(現大和ハウス工業)が開発したニュータウンである「南大和ネオポリス」(町名は田園)、「なつみ台ヴェルデステージ」(町名はなつみ台)が広がっている。商業施設は、ファッションセンターしまむら五條店、イオン五條店、オークワ五條店など、多数の店舗があり、国道24号線沿いに集中して立地している。一方で、国道から外れた五条駅周辺や、市役所周辺の商店街は衰退が著しい。また、その国道も京奈和自動車道五條道路(国道24号バイパス)の開通によって交通量が減少している。2005年4月には、隣接する和歌山県橋本市に地域最大級のショッピングモール(オー・ストリート橋本彩の台)が開業した。(※2014年6月現在)▲印は集配局。五條市内の郵便番号は以下の通り。五條市は大阪府・和歌山県方面、吉野山地方面に向かう道路の結節点になっている。古代から近世に至るまでの史跡が市内に点在する。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。