甲信地方(こうしんちほう)とは、日本の地方区分の一つで、本州中部の内陸側にある、山梨県と長野県の総称である。「甲信」の名称は、東山道の甲斐国と信濃国の頭文字を取ったものである。気象関係の分野でよく使われ、関東地方と併せて関東甲信地方、または東海地方と併せて東海甲信地方と呼称することも多い。糸魚川静岡構造線(糸静線)が縦断し、諏訪湖から南に中央構造線が走る。糸静線沿いに上高地や安曇野、赤石山脈(南アルプス)が位置する。気候は典型的な内陸性気候を呈しており、夏でも涼しい。霧ヶ峰、諏訪湖畔、軽井沢などの避暑地が多く集まる。"(※ 国道18号沿線は斜体で示す。)"古代の律令時代においては五畿七道が整備され、畿内から東の内陸側は、東山道として区分された。当時の東山道は現在の滋賀県(近江国)、岐阜県(美濃国・飛騨国)、長野県(信濃国。一時期は諏方国も並立した)、山梨県(甲斐国)、群馬県(上野国)、栃木県(下野国)であった。甲斐国は東海道と東山道を結ぶ結節点に位置し、東海道から分岐する官道・甲斐路(御坂路、中世の鎌倉街道)が河口湖畔から御坂峠を越えて甲府盆地の甲斐国府へ至り、東山道に接続される。中世には甲斐・信濃にも武士が定着し、甲斐国では甲斐源氏の一族が甲府盆地の各地に定着し、治承・寿永の乱においては活躍する。室町・戦国時代期には甲斐・信濃でも国衆や戦国大名らの諸勢力が台頭する。甲斐国では守護武田氏が戦国大名化し、武田信玄の頃には信濃侵攻が行われ、信濃豪族は武田氏に征服され武田領国化される。また、村上義清ら北信豪族は越後上杉氏を頼り、武田・上杉間で北信地域を巡る川中島の戦いが展開された。武田氏の滅亡後は武田遺領である甲斐・信濃は徳川家康により征服される。家康の関東遺封により甲斐・信濃は豊臣政権により支配されるが、関ヶ原の戦いの後には幕藩体制の確立に伴い諸藩が成立し、幕府直轄領・御三家・御三卿領も存在した。江戸幕府は江戸と京都を結ぶ内陸側の幹線道路として、中山道と甲州街道を整備した。尾張藩は林業を基盤産業として奨励したため、木曽谷は木材の産地となった。尾張藩の領地以外でも、伊那盆地も木材の産地となった。明治時代に入ると鉄道が整備され、中央本線・信越本線などが敷設された。特に、養蚕業が国家の主力産業として位置付けられたため、養蚕業の盛んな地方となり、甲信地方同士の地域間交流も親密になった。現在の信州大学繊維学部は、旧制上田蚕糸専門学校(国立)が母体になっている。高度経済成長期から高速道路の建設が始まると、中央自動車道も建設された。涼しい気候を利用して、明治時代には養蚕業が多く立地し、伊那盆地の山村から女性工員が、諏訪湖界隈に多く集まった。そして、第二次大戦後は時計などの精密機器工業が多く立地している。この経緯から、特に上諏訪・諏訪大社周辺は、「日本のスイス」とも呼ばれていた。代表的な農産物としては、甲府盆地のブドウ、野辺山高原の高原野菜が有名である。甲府の宝石研磨業や、上諏訪の精密機器工業など、精密な部品を製造する工業が多く立地している。
出典:wikipedia
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