岐阜城(ぎふじょう)は、岐阜県岐阜市(旧・美濃国井之口)の金華山(稲葉山)にあった日本の城(山城跡)。織田信長が、斎藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、新たに造営したものが岐阜城である。城跡は岐阜城跡(ぎふじょうあと)として金華山と、その山塊の2,091,602.74平方メートルが国の史跡に指定されている。その範囲は、現在の国有林の範囲に符合する。『信長公記』に、「尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ」と記載されている。稲葉山(井口山)からの続きが瑞龍寺山という。二階堂氏及び伊賀氏美濃斎藤氏及びその家臣織田氏及び豊臣氏家臣山城。京都に対して東の要所に位置し、急峻な山容の金華山からして難攻不落の名城として知られているが、実際には歴史上5回の落城にあっている。山頂部は痩せ尾根を切り開いたり石垣で郭を造成してはあるが、基本的に平坦面は少なく、井戸も雨水を蓄えるもので、戦国時代末期の大人数による長期籠城戦には本質的に不向きであった。但し、兵糧攻めにより落城した記録は無く、味方の寝返りや兵士の離反により降伏するといった例が多い。織田信長時代には、山頂部には信長の家族や人質が暮らしていたことが、1569年(永禄12年)来岐した宣教師ルイス・フロイスの書簡から伺える。その構造は斎藤道三時代に遡るだろう。岐阜城は小牧城、安土城と同じく、城下町を見下ろす景観に優れる。つまり合戦のための城でなく、基本的に城主の居住空間であり、見せる城であった。なお瑞龍寺山砦の様に、金華山から連なる外山にも数多くの砦が存在していた事も分かっているが、調査がまだ不十分で確認されていない砦も多くある物と思われる。現在金華山ドライブウェイがあるが、所々に途切れた登山道があり、ドライブウェイ開発時に拡張され消滅した部分もあると思われる。砦の跡が多く見られ、大堀切や、岩場を削った跡や道の端に積み石も残っている。また、現在石段がある直線的な現登山道から外れ、旧登山道も所々つづら折れに残っていて、当時の登山道の雰囲気を感じる事が出来る。また、道三が造った大堀切からドライブコースへ出ると小さな広場があるが、そこから岩戸公園へ出られる登山道がある。妙見峠では、当時の石垣遺構の物と思われる石が多数散布する。
出典:wikipedia
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