仁(じん)とは中国思想における徳の一つ。仁愛。とくに儒家によって強調されており、孔子がその中心にすえた倫理規定、人間関係の基本。主に「他人に対する親愛の情、優しさ」を意味しており、儒教における最重要な「五常の徳」のひとつ。また仁と義を合わせて、「仁義」と呼ぶ。古代から近代に至るまで中国人の倫理規定の最重要項目となってきた。中国の伝統的な社会秩序(礼)を支える精神、心のあり方である。なお、孔子は、『論語』のなかで「仁」について明確な定義をおこなっておらず、相手によって、また質問に応じてさまざまに答えている。言い換えれば、儒家の立場においては「仁」とは人間にとってもっとも普遍的で包括的、根源的な愛を意味するものとして考えられてきたのであり、「孝」や「悌」、「忠」なども仁のひとつのあらわれだと主張されているのである。老子は「大道廃れて仁義あり」といって、仁義をそしり、これとは別の道徳を説いたが、それは「私」の立場であり、これに対し、仁義は「公」的なものであるとされる。程明道の解釈では、仁を「万物(万民)一体」と解釈する。明道は天地万物一体を強調する儒者であり、「万物一体の仁」の説を次のような過程で展開していく。医書では手足の麻痺した症状を「不仁」と呼び、自己の心に対して何らの作用も及ぼしえなくなってしまっているためと解し、これを生の連帯の断絶とそれに対して無自覚であることを意味するとし、生意を回復せしめることが仁であるとした。つまり、「万物一体の仁」の一つの説は「知覚説」であり、痛痒の知覚をもつことを仁としているわけである。もう一つの説は、義・礼・智・信が、皆、仁であるとする立場であり、ここからは仁を「体」とし、五常を「用(作用)」と見なしていたことがわかる(明道にとって、仁は生である)。『論語』から抜粋すると、以下の説明がなされている(解釈は一部、史跡足利学校刊のものを参考)。学而で「巧言は仁者ではない」とし、子路で「訥(口下手)は仁に近い」としている点で、多弁を仁と認識していないことがわかる。『論語』では多弁を戒める一節がみられ、一例として、「古人が軽々しく言葉を出さなかったのは自分の言葉が行動に及ばないことを恥たため」(里仁)としている。日本においては清和天皇が歴代天皇として初めて名前にこの「仁」を用い、皇室の重要な徳目の一つとみなされてきた。後桃園天皇以降(女帝である明正天皇と後桜町天皇を除けば後小松天皇以降)の歴代天皇、桂宮家、有栖川宮家および閑院宮家では「仁」を「通字」とすることが慣例となっている。多くの場合、「○仁」を「○ひと」と読む。
出典:wikipedia
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