逸見 政孝 (いつみ まさたか、1945年2月16日 - 1993年12月25日) は、日本のフリーアナウンサー、タレント、俳優、司会者、ニュースキャスター。元フジテレビアナウンサー。大阪府大阪市阿倍野区出身。エッセイストの逸見晴恵は妻、俳優の逸見太郎は長男、タレント・キャスターの逸見愛は長女。大阪市阿倍野区阪南町生まれ。父親は広島県尾道市の出身で旧姓は毛利、逸見家に養子入り。父親は長く福徳相互銀行(現:近畿大阪銀行)に勤務した。母親は大阪の出身。子供の頃から映画鑑賞が趣味で、特にチャップリンと黒澤明の作品は全て観たという。「この2人に関しては映画評論家の方たちと話してもなんとかなる」と自信を持っていた。逸見が挙げた日本映画の最高傑作も黒澤の『生きる』だった。フジテレビに入社して間もない頃は、映画番組を担当している先輩アナウンサーのところに映画の試写会の案内が多く届くのを見て「自分もああなりたい」と思っていたという。後年、映画賞の審査員にも起用され、それがきっかけで逸見にも映画試写会の招待状が届くようになって希望は果たされた。大阪市立阪南小学校、大阪市立阪南中学校を経て、大阪府立阿倍野高等学校を卒業(同校の先輩に乾浩明がいる)後、一浪して、早稲田大学第一文学部演劇学科に入学。これを機に出身地の大阪を離れ、以後は帰省時を除き東京で過ごすことになる。大学ではアナウンス研究会に所属。大阪出身であったため大阪方言を話していたが、標準語のアクセントを徹底的に覚えた。ラジオとテープレコーダーを購入し、ラジオでアナウンサーの声を聞き、テープレコーダーで新聞記事を読む自分の声を録音。アクセント辞典を見ながら、録音した自分の声を聞き、間違ったアクセントで発音した語句は、ペンでマーク。また、その語句を黒板に書き、覚えるまで消さないようにした。さらに、日常でも標準語で話すようにした。高校卒業直後に関西学院大学の受験に失敗した際、当時付き合っていた女性にふられてしまい、「見返してやりたい」という気持ちと高校時代に放送部に在籍し、「自分にもできそうで高収入の仕事」という理由から、在京テレビ局のアナウンサーを志したという。早稲田大学に進んだのも、アナウンサーになるのに最も有利な大学という判断からだった。逸見の大学時代は学生運動の盛んな時期だったが、就職に向けた準備に追われて目もくれなかったという。大阪弁を完全に矯正して専ら標準語で話していたが、一方で、言葉以外では関西出身者としての誇りを持ち続けた。当時大阪から東京に進出したばかりで全国的には無名だったお笑いコンビのダウンタウンなどの若手タレントを可愛がり、プロ野球は当時低迷が続いていた阪神タイガースを生涯変わらず愛し続けた(関東での阪神の試合に家族で頻繁に応援に訪れていた。父親、逸見、そして息子の太郎と親子3代続く阪神ファンだと著書で公言している)。フジテレビのアナウンサー試験では試験官から出身地を確かめられたという程の実力で、フジテレビ入社後には毎年の新社員研修にて「当社にはアクセント辞典を食べた特異体質の男がいる」と語られるようになる。逸見は自著で「大学時代、フランス語辞典は真っ白だったが、アクセント辞典は真っ黒だった」と語っている。父親に「アナウンサーになりたい」と告げると「お前のやりたいようにやれ」と認められた。早稲田大学の同期で友人でもあった松倉悦郎とともに、フジテレビのアナウンサー試験を突破する(早稲田大学の同級生でアナウンサーとなったのはこの他にも板倉俊彦と原國雄がいたが、板倉は逸見の故郷の大阪にある毎日放送に、原は福島の福島テレビにそれぞれ入社した)。大学卒業後の1968年、フジテレビに入社(他の同期入社には山川建夫(女優・仲代奈緒の実父)と小林典子、短大卒の竹下典子、東京オリンピックの開会式聖火リレー最終ランナーの坂井義則がいる)。岩佐徹、露木茂、能村庸一、永島信道、浪久圭司、盛山毅、大林宏、野間脩平は先輩にあたる。最終面接の際、当時の鹿内信隆社長が「早稲田の文学部から2人受けているか。君、どちらか1人しか受からないとなったらどうするかね?」という質問をした。質問に困り果てた逸見はとっさに「そ、それは困ります」と答え、その場にいた重役たちは笑みを浮かべた。逸見は、「松倉にも同じ質問をして松倉も同じように答えたのだな」と思ったという。この言葉が最終的に2人そろっての採用の決め手になったと言われる。なお、1967年7月3日午後5時というフジテレビの入社試験の合格発表の日時を逸見は終生覚えていたという。また、並行して高校の先輩の乾のいた地元・大阪のABCの入社試験も受けてカメラテストまで通過していたが、フジテレビの内定を得たため辞退した。後年の印象からは考えられないが若手時代の逸見は「暗い。」「つまらない。」「売れないだろう。」という否定的な味方が大勢であったが、大橋巨泉は「わかんないぞ逸見が突然人気アナウンサーになるかもしれない。」と後年の活躍を予期していたという。当初はスポーツアナウンサーとして活躍し、三迫ボクシングジム所属:輪島功一の世界タイトルマッチの実況を中心にプロボクシング中継を担当。ボクサーより先に倒れるのではないかと思われる程の絶叫調の実況で頭角を現した。ボクシング以外にもバレーボールの実況中継も担当しており、全国高等学校バレーボール選抜優勝大会や日本バレーボールリーグの中継でもマイクロフォンサイドに立っている。スポーツ中継と並行してワイドショー『3時のあなた』のサブ司会者としても活躍した。また、フジテレビが制作に関わっていたテレビドラマ『金メダルへのターン!』や特撮テレビ映画『ミラーマン』にもアナウンサー役で出演している。その後、報道へ転出。1976年、『FNNテレビ土曜・日曜夕刊』で週末のニュースを担当したことを皮切りに、1978年平日放送の『』(関東ローカル番組)のキャスターとなった。当時のニュース番組のキャスターに逸見の年代(1978年当時33歳。当時の報道キャスターは、40代後半の男性アナが多かった)で起用されるのは珍しかった。それから2年余りが経過した頃、TBS『テレポート6』を見て感銘を受けたので、アナウンス研究会の先輩でもあり、当時同番組のキャスターであった山本文郎に直接電話をかけ、どのようにすれば質の高いニュース番組になるのかを尋ねた。山本からは「できるだけ現場へ行くように」と指導を受けた。その後、逸見は共演の田丸美寿々とともに様々な現場へ取材に出向く。取材範囲は原則的に関東地方に限られたが、それ以外の地域へ赴いたこともあり、山口組三代目田岡一雄組長狙撃犯の死体発見のニュースの際には、神戸の山口組本部に突撃取材を行ったこともある。1980年頃から、自宅新築のために結婚式の司会などのアルバイトを始めた。有名になるに連れてだんだんとアルバイトでの収入も増え、フジテレビを退社する頃には会社から貰う給料の倍以上の額を稼ぐ程になっていた。このため、20年返済で組んだ住宅ローンもわずか6年で完済。さらに、自らの小遣いもアルバイトで稼いでいたという。その一方、副収入が増えたことで追徴課税がなされるようになっていた。逸見がこのことを知人に相談したところ「必要経費が認められるから独立するのが一番良い」と返答された。それまで「フリーには絶対ならない」と公言していた逸見は前述の「管理職昇進でアナウンスの現場から離れたくない」という気持ちもあって、フリーになることを考え始めるきっかけになったという。1984年4月、『』のキャスターに抜擢される。そして同年10月に後番組としてスタートした『FNNスーパータイム』の初代メインキャスターも引き続き担当し、幸田シャーミンとのコンビで人気を博す。また、1985年4月から開始した、『FNNスーパータイム』の前時間帯夕方5時から生放送の若者向け情報バラエティ番組『夕やけニャンニャン』に設けられていた同番組の予告コーナーも担当し、放送曜日である月曜から金曜まで毎日に渡って出演。そのコーナーにおいて、司会者の片岡鶴太郎やレギュラー出演者のとんねるずとの当意即妙なやりとりが視聴者の注目を集めるようになり、これが逸見の転機となった。当時までのニュースキャスターといえば堅物で真面目一直線といった人間が就く職業というイメージしかなく、当時の逸見の外見も「七三分け」に「黒縁メガネ」と、その例に漏れなかったが、関西出身のひょうきんなキャラクター、そのギャグセンスの高さとのギャップが若年層の視聴者に意外性をもって受け入れられた。そして、番組開始からおよそ一ヶ月後、逸見のことを知りたいという十代の視聴者からの投書が番組に舞い込むようになり、それに応えるかたちで別コーナーにもゲスト出演する。逸見の番組内人気は加熱の様相を呈していて、片岡鶴太郎から「プロマイドは出さないんですか?」とアイドル的人気にひっかけたギャグを振られるなどして大いに盛り上がる。しかし、これがギャグで終わらず、さっそく翌日には発行元のマルベル堂から本当のオファーが来ることになり、フジテレビと逸見は驚きながらも受諾。アナウンサーのプロマイド製作は史上初の出来事であったが、何の変哲もない中年男性の外見であった逸見の心配をよそにプロマイドはバカ売れしていった。その後も『夕やけニャンニャン』と『FNNスーパータイム』の人気がうなぎのぼりになっていくに連れ、双方に出演していた逸見の人気もうなぎのぼりとなっていき、一年間で170社もの取材を受け、著書やレコードも立て続けに出していくようになる。逸見の人気が沸騰した矢先の1985年8月12日、夏休みを取って家族4人で大阪への帰省のため、当初は日本航空機の123便に搭乗する予定だった。しかし息子の太郎が「4人なら新幹線の方が安い」と提案、妻の晴恵が飛行機嫌いであったこともあって直前に東海道新幹線に変更したため、日本航空123便墜落事故の難を逃れた。日航ジャンボ機墜落事故のニュースを大阪の実家で知った逸見は「東京に戻るべきか」と思ったが、「今から戻ってもニュースの一番おいしい所を良いとこ取りするだけだ」と思い直し、実家で先輩の露木アナがキャスターを務める『FNN報道特別番組』を見守った。この時、10時間に亘って原稿なしでコメントを続けた露木アナのキャスターぶりを、後に著書で絶賛した。人気の高まりを受け、1986年には滝田洋二郎監督、内田裕也主演の映画『コミック雑誌なんかいらない!』にも出演。また、バラエティ番組への出演が増え、同年からそれまで21年連続で司会を務めてきた高橋圭三の勇退を受けて、『新春かくし芸大会』の司会を芳村真理とのコンビで担当、名実共にフジテレビを代表する看板アナウンサーとしての地位を確立する。また、この年にはベスト・ファーザー イエローリボン賞にも選出された。1987年に勤続20年を迎えた逸見は、管理職に昇格したことによって『FNNスーパータイム』以外の番組への出演機会が徐々に減少。「生涯、一アナウンサーでありたい」との思いが強くなり、同年11月に退職願を提出。翌1988年3月末を以って、アナウンス部副部長待遇を最後にフジテレビを円満退職した。三木プロダクションと業務提携を結んだ「オフィスいっつみい」を設立(社長は晴恵で、逸見は平社員。後に「株式会社オフィスいつみ」に社名変更)してフリーとなる。フリー転身後、『FNNスーパータイム』については、フジテレビと『FNNスーパータイム』でキャスターとしてコンビを組んでいた安藤優子が強く希望したことから、1年間キャスターを続けた。テレビでは『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』、『夜も一生けんめい。』(いずれも日本テレビ)、『たけし・逸見の平成教育委員会』(フジテレビ)など数多くの人気番組の司会を務め、「いっつみい」の愛称で、視聴者から高い好感度を得た。ラジオの『オールナイトニッポン』でパーソナリティを務めたこともある。バラエティ番組の司会を担当するようになってから、「いっつみい」というニックネームがついた。本人も「司会は“いっつみい”、逸見政孝です」と自己紹介をする番組も多かった。個性が全く異なる大物お笑い芸人、タモリ・ビートたけし・明石家さんまからなるBIG3を完璧に制御することのできた唯一の人物として、また日本を代表する「名(迷)司会者」として、知られている。特にビートたけしとは親交が深く、たけしと逸見家とは家族ぐるみの親交があり、たけしの弟子の集団であるたけし軍団も、息子の太郎とは、太郎のデビュー前から共に草野球を行うなど、親交が深い。なお、逸見は著書で「『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』と『たけし・逸見の平成教育委員会』が自分にとって一番思い入れのある仕事である」と述べている。また、BIG3との共演に関して、「あれ(=BIG3の仕切り役)だけは絶対誰にも譲らない」と語った(実際には、1990年の『テレビ夢列島』では、全コーナーをフジテレビ所属のアナウンサーが進行したために、先輩の露木アナが進行を担当したが、それ以外は全て逸見が進行を担当。なお露木アナは1996年にも進行を行った)。また、『夜も一生けんめい。』では、音痴でありながらも精一杯に熱唱していた。順調に仕事をこなす中、1992年11月には世田谷区奥沢の131坪の土地に12億円(当時)のイギリス風の大豪邸を築きあげた。同時に大阪に居住していた両親を呼び寄せ、旧宅に住まわせた。後述の通り、俳優業も時折行った。司会者としての地位を確立したこともあり、解答者として他のクイズ番組に出演することはほとんどなかったが、1993年春のTBS『オールスター感謝祭』に、自身が司会を務める『逸見のその時何が!』の解答者として出演、この時が最初で最後の出演となった。同年7月『マジカル頭脳パワー!!』にもゲスト解答者として出演している。1993年8月1日、目黒のカトリック碑文谷教会で催された、日テレ『夜も一生けんめい。』で共演した設楽りさ子と当時ヴェルディ川崎(現:東京ヴェルディ1969)の主将三浦知良の披露宴で司会を務めた(媒酌人は、当時のヴェルディや日テレを傘下に収める、読売グループのボス渡辺恒雄夫妻)。「アナウンサーの仕事の中で一番好きな仕事は何か?」と質問された逸見は「インタビュー」と答えている。実際に『夜も一生けんめい。』や『いつみても平平凡凡』などの仕事を経て「同じインタビューでもタレントの聞き方とアナウンサーの聞き方はまったく違う自負がある」と発言。また、「『夜も一生けんめい。』で下手な歌を歌っていられるのもその前のインタビューのパートではきちんと仕事をしているという自信があるからだ」とも発言している。ちなみに逸見は「自然体だが鋭く切り込んでいく」スタイルのインタビューを理想としていた。自らが取材やインタビューをする立場を経験していることもあり、逆に取材やインタビューを申し込まれた時には極力受けるようにしていたという。ただし、インタビューへの思い入れの強さもあってか、特に若手の記者・インタビュアーへの評価はかなり厳しかった。 一般的に「マジメ」と思われていた逸見だが、著書『新版 逸見政孝 魔法のまじめがね』では山城新伍とビートたけしの親友2人が揃って「マジメだとは思わない」と述べた。山城は「必要以上に人に気を遣う人。良しにつけ悪しにつけテレビ人間と思える節がある。もう少し無責任になった方がいい」と述べた。また、直接「もう少し悪人になってもいい」とアドバイスしたこともあるという(本人は笑って否定したという)。たけしは「逸見さんみたいな人は、今だからマジメと言われるだけで、昔なら不マジメ。昔は一つのものに集中する人がマジメだったが、逸見さんは色んなことに夢中になっているからね」と述べている。 NHK連続テレビ小説『青春家族』に出演した際、逸見の演ずる岩井一之はアメリカに永住してビデオレターを送ったりもしたが、アルコール依存症で途中帰国するという役設定だった。また、この役柄設定は業務提携していた三木プロダクションの三木豊(生粋の酒飲み)常務をモチーフにしたものである(三木治著書『天国へのメッセージ―逸見政孝 その出会いから別れまで』(1994年7月刊)で述べている)。ちなみに、逸見自身は消毒用のアルコールに触れただけでも皮膚がかぶれてしまうほどのアルコールアレルギー体質であり、酒は全く飲めなかった。番組出演時とは対照的に、家庭内では「頑固オヤジ」や「亭主関白」とも言われ、追悼特番でも逸見の頑固ぶりが紹介された。しばしば妻の晴恵に手を上げることもあったと著書などで告白している。「夫は外を攻め、妻は家を守る」が逸見の理想とする夫婦像だった。このため、休みなどで家にいる時でも家の手伝いは一切せず、晴恵には「仕事のことには口を出すな」と言い渡していた。ただし、『夕やけニャンニャン』で人気が出て執筆、講演、レコード収録などそれまでのアナウンサー業務と異質な仕事が舞い込んでくる度に晴恵に相談していたという。晴恵は「やっちゃえ、やっちゃえ」とその都度前向きな姿勢を見せて、逸見を励ましていた。 なお、晴恵との間に太郎、愛と2子がいるがどちらの出産時にも晴恵には「一人で病院に行くように」と言って、出産には立ち会わなかった。子育てについても完全に晴恵に任せっきりであった。「子供たちが自分の背中を見て何かを感じてくれれば良い」と考えていた。長男・太郎の妊娠中、性別がまだわからない段階で、逸見は晴恵のお腹にいる子供に「お前は太郎だ」と呼びかけていた。一方、長女「愛」の名は兄の「太郎」と対になる名前で、日本的な名前にしたいということで、熟慮の結果選んだという。 時間にはかなり厳しく、『素敵にドキュメント』のロケ時には予定時刻の30分前には必ず現場に到着するようにしていた。気を遣った番組スタッフがそれより早くロケ現場に来るとそれを「申し訳ない」と思った逸見がさらに早く来るということが繰り返され、ついには予定時刻の2時間前に逸見や番組スタッフ全員が集合するようになった。車でロケ現場に向かっていても渋滞などで「間に合わない」と判断すると車を降りて電車で現場へ向かうことも多かったという。プライベートも同様で帰宅する前には必ず家に電話を入れて「○時○分には着く」と告げて、その通りの時間に家に帰ってきていた。一方、自身がそういう人物であったため、時間にルーズな人物を嫌っており、あるプライベートのゴルフで一緒にラウンドする予定だった人物が遅刻してきた時には逸見はその人物とプレー中一切口を利かなかっただけでなく、以降他界するまでその人物を二度とゴルフに誘わなかったという。晩年では、NHK『NHK紅白歌合戦』の司会を目指していた。なお実際、1991年前後には紅白の白組司会の候補に挙がっていたとされる。2歳年下の実弟である憲治(同志社大学在学中は学生相撲でならした)は、1980年に胃癌の中で最も予後の悪いものであるスキルス胃癌で半年間の闘病の末に、32歳の若さで兄の政孝より先に死去した。このことから逸見は、人一倍癌に対して気をつけ、年一回の検診も欠かさず受けていたが、皮肉にも逸見も弟の死から13年後、同じ病で亡くなった。憲治は、婚約が決まった直後に受診した精密検査で末期の胃ガンを発見されたが、結局最後までガンの告知はしなかった。逸見はこの件について「幸せの絶頂にある弟に末期の胃癌であると告げることはとても私にはできなかった」「癌の告知をすべきか否か、私自身このことについてはまだ結論を出せずにいる」と著書で告白している。また、憲治の婚約者にも逸見からは知らせることができず、結局は仲人から事実を伝えることとなった。ちなみに、後に逸見自身が癌だと告知された時には「助かる望みがあるからこそ告知されたんだ」と言い聞かせながら闘病生活を送っていたという。『FNNスーパータイム』のキャスターを務めていた1988年、当時運輸大臣だった石原慎太郎にインタビューした際、慎太郎の実弟である石原裕次郎が前年肝細胞ガンで亡くなったことを踏まえて、自らの弟も癌で亡くなったという話を切り出した。慎太郎は一瞬表情を変え、「やっぱり兄弟は生まれた順に死んでいく方が良いよね」としんみりとした口調で話した。また、患者本人に癌を告知しなかった点についても逸見は触れたが、慎太郎は「僕は告知した方が良かったと思う」と語っている。なお、逸見が癌を公表して入院した際には慎太郎からも激励の手紙が送られている。1991年、古舘伊知郎(元テレビ朝日アナウンサー)の姉が癌で他界した時には、同じフリーアナウンサーであり、比較的若い年齢で兄弟を癌で亡くした同じ悲しみを知る者として、古舘にお悔やみの手紙を送った。また、四十九日法要の際には古舘のもとを訪れて霊前に手を合わせ、思い出話をしていったという。これをきっかけに親交を持つようになり、癌で入院した際には『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』の店長代理として古舘が2度出演していた。1970年代後半頃から糖尿病を発症していた。酒類が全く飲めない反面、ヘビースモーカーでかつ、学生時代から下宿の窓にコーラの空き瓶がズラリと並ぶほどのコーラ好きであり、また全般に甘いものが大好きだったため、それが原因であると推測される。医師の勧めで運動不足解消のためゴルフを始め、食事制限をするなどして血糖値を正常に戻した。また、弟の憲治の癌発症もあってそれまで1日3箱吸っていたタバコもきっぱりとやめた。それでも、コーラは量こそ減らしたものの、糖尿病は亡くなるまで逸見について回った。また、仕事優先のあまり糖尿病の治療がおろそかになりがちだったともいわれる。1981年には胆石で入院。自宅の新築を控えて、既に当時から休日返上で結婚式の司会などのアルバイトをこなしていたこともあり、見舞いに訪れた上司から「これからはアルバイトは一切禁止だ」と言われ、「分かりました」と殊勝に頷いていたが、実際にはこの後もアルバイトを続けた(休みは年間で10日程しか取らなかったという)。1988年秋、本番前の控え室で突然倒れて1週間近く入院。当時担当していた『FNNスーパータイム』を3日間休んだ。フリーになった直後で、精神的なストレスが増大した結果の発症であった。1989年は年末に腰痛が悪化。ついには歩けないほどになったため、1990年の1月1日から10日間入院した。この時、内臓疾患が腰痛の原因となることもあるということで内臓の検査も受け、慢性胃炎、十二指腸憩室症、大腸ポリープなどいくつかの症状が認められたため担当医師は仕事を休んで精密検査を受けるよう勧めたが、腰痛が回復するとすぐに仕事に復帰した。結局、「過労による腰痛」という診断になったが、はっきりとした原因は最後まで分からないままだった。1993年1月18日、胸のみぞおちの辺りに痛みを訴え、江川卓に紹介された港区元赤坂の前田外科病院(現:赤坂見附前田病院)を年に1度の定期健診も兼ねて受診することにした。その際に担当医から、いきなり「胃に初期の癌細胞を発見しました」と診断が下された。その瞬間、付き添っていた晴恵は恐怖のあまり震えが止まらず、また逸見自身もみるみるうちに顔が青ざめたという。それでもその担当医は逸見夫妻に対して「あくまで初期の癌ですから、手術すればすぐに完治しますよ」と告知していた。1週間後の1月25日に入院、前田昭二院長はじめ医師の執刀により、同年2月4日に胃の4分の3と周囲のリンパ節、腹膜の転移病巣を切除する3時間程度の最初の手術を受けた。本人には胃の3分の2を取り除いたと伝えられたが、晴恵だけには前田院長が「ご主人の病状は、実際は初期の癌ではなかった。ギリギリの所ですべての癌細胞を取り除いたんですが、残念ながら5年先の生存率はゼロに近いでしょう」と宣告していた。実際、逸見の死後に前田外科病院は、手術の時点で既に癌が胃に近接する腹膜にまで転移していたことを公表している。手術から1ヶ月後の同年2月25日に退院。翌日には『夜も一生けんめい。』の収録で仕事復帰。当初逸見は、病名を穿孔性十二指腸潰瘍と偽って公表していた。退院後も、抗ガン剤投薬や前田外科病院への検査通院を続け、同年春から新番組も始まったことで、逸見は再び軌道に乗り始めたかに思えた。しかし、同年5月下旬頃になるとメスを入れた手術跡の線上がケロイド状に膨れ始めた。担当医からは「通常、手術後に起こる症状であるから心配ない」と言われたが、その突起物が次第に大きくなり、やがて服を着るにも邪魔なほどになってしまった。逸見のスケジュールの都合で、夏休み中の同年8月12日にその「突起物を除去する」という名目で2度目の手術を受けたが、癌はすでに腹腔全体に広がるまでに進行しており、もはや手のつけようがない状態だった。だが、そのような状態であったにもかかわらず、執刀医は逸見本人に癌の再発を一切告知しなかった(晴恵はガン再発を告知するよう依頼するも、執刀医は「逸見との信頼関係を崩すから告知しない」と断固拒否されたという)。その一方で、同時期に米国で医師のゴンザレスによるビタミン治療も検討されていたが、渡米前夜になって突然先方の医師から一方的に治療をキャンセルされてしまう。当時の逸見は、前田外科病院には全幅の信頼を置いており、晴恵や所属事務所の三木治社長など、何度も周囲から別の病院での診察を勧められても全く聞き入れず(晴恵には「自分が決めたことに対して一切口出しするな!」と激怒することもあったという 。また、当時はセカンド・オピニオンという概念がまだ一般化していなかった) 、加えてこの時期にはレギュラー番組を週5本も抱えていたこともあり、極めて多忙な日々を送っていた。前田外科病院での再手術にあたり、逸見が前田院長に直接「執刀をしてくれますね?」と尋ねた処、前田院長は笑みを浮かべながら「丁度その頃、僕は夏休みに入っているんだよなあ」と、思わぬ返答をされている(代わりに副院長が手術する方針であることも告げられた)。さらにアメリカでの治療が直前で取り止めになったことから、逸見は次第に前田外科への不信感を抱き始めた。その後も晴恵や三木社長らの勧告もあって(後に晴恵は、逸見に「お願いですから他の病院で診て貰って下さい!」と土下座してまで頼み込んだというエピソードを明かしている)、同年9月3日にようやく新宿区河田町の東京女子医科大学病院へ番組収録前の午前中に訪れ、この時に初めて癌の再発を宣告される。そして、羽生冨士夫教授をはじめとする医師団からは、触診の際に「何故ここまで放っておいたのですか!?」と怒られ、厳しい現状を告げられた。そのことを受け止めた逸見は、再々手術を決意することとなった。同年9月6日午後3時、日本テレビ本社(現:日本テレビ放送網麹町分室)内2階の大型ホールで緊急記者会見を行い、各局のワイドショーで生中継された。冒頭のコメントでこう述べた。この会見で、自ら進行胃癌(スキルス胃癌)であることを、初めて公の場で告白した。そして、これから癌闘病生活を送ることを述べた逸見は、記者から闘病に挑む心境を尋ねられ「やはり自分にとって一番難しいことですが、仕事のことを忘れることでしょうかね。なるべくそうして闘いに行ってきます」と述べた。会見の最後の方では、「もう一回、いいかたちで生還しましたというふうに言えればいいなと思っています……どうもありがとうございました」と復帰に懸ける闘病への意気込みを語ると、記者からは「生還してください!」という声が飛び、記者会見終了後、「頑張ってください!!」と満場の拍手で逸見を激励した。癌と闘う決意表明に、多くの芸能関係者は感動していたが、親しかった一部の芸能関係者には、「逸見さんにとってこの記者会見が生涯最後の仕事になるだろう」と悲観視する者も少なくなかった。また、当時は「癌発症を記者会見で発表する」こと自体が異例中の異例だったため、一部のマスコミ・週刊誌では「病気をネタにした売名行為」「とても良い営業をしている」などと中傷記事が書かれたこともあった。それは入院後に逸見の耳目にも入っていたが、ニュースキャスターという様々な批評を受ける立場を経験していたせいか「こんな見方もあるのか」と冷静に受け止めていたという。その記者会見の翌日から全ての仕事を休止。東京女子医科大学病院に入院し、本格的な闘病生活に入った。そして、羽生冨士夫消化器病センター所長ら数名の権威の執刀により、同年9月16日に13時間(臓器摘出手術に5時間、大腿部から腹部への皮膚移植手術に8時間)にも及ぶ大手術を受けた。手術後は歩行訓練を行ったり、お粥などの流動食から好物のたこ焼き等の普通食を摂るなど、順調に回復している様子も見せた。ところが、大手術から1ヶ月が経過していた同年10月23日、突然激しい腹痛を起こして食べ物を嘔吐した。この日は一時帰宅日であったが、その後の検査結果が腸閉塞と判明したために中止となった。これにより、普通食禁止の絶対安静となり、絶食状態を余儀なくされたため高栄養の点滴をつけられたが、逸見は徐々に衰弱していった。その状態にも関わらず、同年11月上旬から抗癌剤の投与が開始され、副作用の影響から日頃の表情豊かであった逸見とは程遠い状態に陥った。激しい吐き気を催して意識が朦朧となり、うわ言を発するなど益々病状は悪化していった。同年10月に、マスコミに公表された病室での容姿よりもさらに痩せ細り、体重が50kgを下回っていた同年12月16日には、再検査で腸にも転移した癌が見つかった。主治医は、12月1日に「ご主人の体に再びメスを入れる事はこれ以上不可能。残念な話ですが、年を越せるかは厳しい状況です」と家族に宣告していた。12月24日は、長男である太郎の21回目の誕生日だったが、この日遂に意識不明の危篤状態に陥った。そして早期復帰の願いも空しく、最初のガン発見から341日後、そして「私は1年後に亡くなるのは本意ではありません」と述べた記者会見からわずか3ヶ月半後である翌12月25日午後0時47分、末期のスキルス胃癌・再発転移による癌性悪液質のため、東京女子医科大学病院でこの世を去った。まだ48歳の若さであった。戒名は、誠實院温譽和顔政孝居士(せいじついんおんよわがんしょうこうこじ)。クイズ関係の仕事が晩年に続いたためか、最期の言葉は朦朧とする意識で言った「三番が正解です」だったといわれる。テレビ番組での交流を通じて逸見と親しかったジャイアント馬場は、逸見が回復するよう願掛けを込めてそれまで愛好していた葉巻を止めていたが、願いが叶うことはなかった。馬場は1999年に亡くなるまで、葉巻を口にすることはなかった。結果的に癌の再発を根治することはできず、胃壁の中に広がる特殊な進行癌という特質上、死後「末期の状態であったにもかかわらず、なぜ大手術を受けた(受けさせた)のか」「クオリティ・オブ・ライフを無視した手術だった」といった疑問・批判の意見が多数あがった。当時の医学水準での意見として、手術も抗癌剤投与も行わず処置した方が、苦しむこともなく1年程度は長く生きることができたとの見方もあった(一般的にはS-1とシスプラチンによる術前補助療法と術後抗癌剤逐次投与を組み合わせた治療が有用であるとされる。ただし、遠隔腹膜転移がある場合は、手術適応外ー胃癌取扱い規約第12版P2/P3ーとされる)。 一方では腸閉塞を防ぐため、中・長期的な生存のためには、このような大手術が必要であったという見方もあり、賛否両論がある。人気絶頂期にいた逸見の死は、芸能界に止まらず日本国民に大きな衝撃を与えた。これは、死の直後にNHKも含めた各テレビ局がニュース速報で「闘病中の逸見さん、力尽きる」と(ラジオ番組ではアナウンサーや番組パーソナリティから直接)伝えたこと、また古巣のフジテレビのみならず、他系列の民放各局でも追悼特番が組まれるなど、局アナ出身の芸能人としては異例の扱いを受けたことからも分かる(なお、1993年9月時点でのNHK調べによる好感度調査では男性部門・第3位、また日本テレビネットワーク協議会調査委員会調べ「93年度人気のタレント調査」では男性部門・第1位であった)。その後、新宿区信濃町にある千日谷会堂で12月26日に通夜が、12月27日に葬儀・告別式が行われ、逸見の息子の太郎が喪主を勤めた。参列者には家族である晴恵、太郎、愛のほか、逸見の両親、松倉悦郎、山城新伍、ビートたけしといった逸見と親交の深かった人物をはじめとして、多くの芸能関係者が参列した。通夜が終わった後には、TBS本社→テレビ朝日本社→テレビ東京本社→NHK放送センターを周り、告別式の後は、フリー転身後、最初の他局レギュラー番組(『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』)を持った日本テレビ本社(当時の麹町本社)、そして古巣のフジテレビ本社(当時の河田町本社)を経由し、午後5時20分落合斎場で荼毘に付された。棺には、遺体と共に『たけし・逸見の平成教育委員会』で着た学級委員長の制服も一緒に納められ、死化粧は、生前逸見のヘアメイクを担当していたIKKOが施した。遺影は、自身が司会を務める予定であった『平成初恋談義』(1993年10月よりスペシャル番組からレギュラー番組に昇格)のPRや番宣ポスターなどに使用するために撮影されたものである。この写真は没後に、逸見が関連する番組で使用されることがある(テレビ東京「暴露ナイト」などで、当該する回は息子の太郎が出演)。初代キャスターを務めた『FNNスーパータイム』では、逸見の訃報をトップ項目として扱い、その死を悼んだ。この時訃報を伝えたのは、逸見の13期後輩である山中秀樹アナウンサーであり、『FNN NEWSCOM』の土曜版でも訃報をトップ項目として扱い、逸見の15期後輩である牧原俊幸が訃報を伝え、14期後輩である向坂樹興が生い立ち等のVTRナレーションを務めた。告別式の行われた12月27日には、5期先輩である露木茂アナウンサーも『FNNスーパータイム』でニュースを読み上げ(前述のガンを公表した記者会見の後、本番前の露木の元へ挨拶に来た逸見に「掛ける言葉が見つからなかった」というエピソードも明かしている)、またかつて同番組でコンビを組んだ安藤優子が葬儀の模様をレポートし、生放送中のVTR終了後に号泣した。また、亡くなる前夜、危篤の一報を『FNN NEWSCOM』内で伝えた木村太郎は最後のエールを送った。また、亡くなった直後に日本テレビで放送された緊急追悼番組(『夜も一生けんめい。』)のCM中に徳光和夫がスタジオの隅で号泣していた。最初は、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』で共に司会をした渡辺正行と電話を繋いだが、既に渡辺はショックのあまり嗚咽を漏らし続けながら号泣し、終始声にならない声で心境を語った。さらに、逸見のレギュラー番組だった『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』、『たけし・逸見の平成教育委員会』(亡くなった当日に放送があったが、急遽追悼番組に切り替わった。なお、この追悼番組に出演した天本英世は番組内で「日本人はいかんですね。国から会社から社会から全てが狂ってますね。忙しいことがいいことなんて、とんでもない間違いですよ。俳優も忙しい人がいい俳優だなんて、とんでもないですよ。自分のことを考えなきゃね。会社のためとか国のためとかそんなものダメですよ。『平成教育委員会』なんか春に越真一プロデューサーが32歳で自殺したんですからね。これで2人目(の犠牲者)ですよ。僕はあんなもの(『平成教育委員会』)にケラケラ笑って出たくないです」、「仕事が趣味だって言うのはおかしい。断らなきゃダメなんですよ」と発言。天本は言葉通り、以降『平成教育委員会』には一切出演しないままこの世を去った。)、『いつみても波瀾万丈』、『夜も一生けんめい。』(亡くなった当日に生放送。このため、同日放送予定だった回は翌年1回目の放送となった)では追悼特番を放送した。逸見が解答者として出演した1993年春の『オールスター感謝祭』にて、当時総合司会を務めていた島田紳助は、春先に手術を受けていた逸見の本当の病名を知らずに、番組本番中に解答者席に座っていた逸見に向かって「実は癌なんです」「もうすぐ死にますよ」など冗談を言い放った。その後、紳助は自らの冗談が本当だったことに驚きながらも「やっぱりな」と感じたという。亡くなった日の夜に紳助はインタビューで「癌という重病を抱えているのに何で仕事してたんですか。ドアホですよ、逸見さんは」と泣きながらコメントを述べていた。また、紳助と同じ吉本興業の所属で、同期の明石家さんまは「逸見さんがテレビで癌を告白したとき、『この人はもう2度と帰ってこれないだろうな』と正直思いました。正直ね…」と、すでに逸見の死を覚悟していたと言う。加えて『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』などで親交のあった高田純次は、癌告白の会見から死去するまでの3か月間が「あっという間だった…」と無念の胸中を語っている。また、辛口コラムニストとしても知られるナンシー関も「他の芸能人の時とは違い、まるで自分の親戚が死んでしまったかのような気持ちになった」と逸見の死を悼んだ。他にも、当時若手芸人だったダウンタウンの2人も、「逸見さんには本当によくして頂き、感謝しています」と、涙ながらに語った。さらに、1993年10月から『平成初恋談義』で逸見と司会をするはずだった森口博子は逸見の訃報に涙で言葉が詰まり、『夜も一生けんめい。』などで共演した美川憲一も「クリスマスの日に逸見さんが亡くなるなんて…だから一生、忘れられないわね」と沈痛な表情を浮かべていた。特に、親交が一番深かったといわれるビートたけしが告別式の間中、参列者席で号泣し続けていたことは語り草になっている。また、隣にいた山城新伍に対し、「こんなにこたえることはないね…」と語ったといわれている。ちなみにたけし(『たけしのニッポンのミカタ』#1にて)と山城は、1993年初頭の手術の際、ガンであったことを本人からそれぞれ告げられていたと述べていた。癌告白の記者会見を行う9月6日の前日、癌の再発で再入院する事実を告げられたたけしは、その日から告別式の日まで酒を断ったという。告別式の折には、「いい人ばかり先に死んじゃうんだ。俺がもっと悪いことを教えてあげれば良かった」と涙ながらに語ったという。それから4年経った、1997年9月の『平成教育委員会』の最終回後の記者会見でも、たけしは「逸見さんと最後までやりたかった。それが心残り」と述べている。逸見の弔辞は松倉悦郎と山城新伍が担当している。1998年1月25日に放送された『知ってるつもり?!』でも取り上げられている。追悼特番では、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』で共演した渡辺正行が再び涙を流し、追悼特番の司会を務めた山城や共演者である高田も言葉を詰まらせた。2016年5月9日に放送されたお坊さんバラエティ ぶっちゃけ寺では逸見が生前残した遺品の整理、供養が行われ、逸見がプライベートで着用していたシャツやトロフィー、メガネなどが供養された。1993年9月6日15時から行われた「癌告白会見」は日本テレビ系『ザ・ワイド』、TBS系『スーパーワイド』、フジテレビ系『タイム3』で生中継され、大きな反響を呼んだ。3番組の合計視聴率は30%を超え、3番組の前4週間の合計平均20%台前半を大幅に上回った。この3番組のうち、『ザ・ワイド」と『スーパーワイド」は約30分の会見の全編を途中CM挿入なしで完全中継した。特に『スーパーワイド』は当初全編放映の予定ではなかったにもかかわらず、会見の開始後に急遽全編放映に切り替えたという。逸見が死去した12月25日の午後(12時47分の死去の直後)には、日本テレビとフジテレビで緊急追悼番組が放送された。高視聴率を記録し、視聴者からの強い関心を集めた。まず日本テレビが13時42分から13時55分に『緊急!逸見政孝さん壮絶ガン死!』を放送。視聴率は2桁に達した。引き続き日本テレビは15時30分から16時25分にも同タイトルの番組を放送。こちらは20%近い視聴率を記録した。さらにフジテレビでも18時30分から19時54分に『追悼・衝撃のガン告白から110日…逸見政孝さんついに逝く』を放送し、30%に迫る視聴率を記録。そして日本テレビも19時から19時54分に『逸見政孝さん追悼・逸見さん安らかに…あなたの笑顔をいつまでも忘れません』を放送し13時台の放送を上回る視聴率を記録した。とりわけ19時台には上記2局で逸見の緊急追悼番組が放送される運びとなり、より多くの視聴者からの関心を集めることとなった(視聴率はいずれもビデオリサーチ社・関東地区調べ)。一周忌に合わせて日本テレビでは1994年12月20日に『逸見政孝・メモリアル 特別番組』を21時03分から22時54分に放送。20%を超える視聴率を記録した(ビデオリサーチ社関東地区調べ)。司会は福留功男が務めた。徳光、山城、渡辺らが出演し、過去映像やドキュメンタリー映像が流れた。また、逸見が結婚披露宴の司会を務めたサッカー選手の三浦知良も国際電話で出演した。三浦は逸見からは「披露宴の司会はこれが最後になる」と聞かされていたと語った。「癌告白会見」の直前の1993年7月23日に『金曜エンタテイメント』で放送された『人間ドキュメント 石原裕次郎物語』では、逸見がナビゲーターを務めたが、奇しくも一周忌が迫った1994年12月23日に、同じ『金曜エンタテイメント』にて、逸見自身の生涯、及び闘病生活を描いたドラマ『人間ドキュメント 逸見政孝物語』が放送され、三田村邦彦が逸見を演じた。なお、ビートたけしも本人役で出演予定だったが、収録に先立つ同年8月のバイク事故で出演はならなかった(入院中の逸見にたけしが面会するシーンは、イメージ映像で処理)。
出典:wikipedia
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