生稲 晃子(いくいな あきこ、1968年4月28日 - )は、日本の歌手、女優。本名・佐山 晃子(さやま あきこ)。旧姓・生稲(いくいな)。プロダクション尾木所属。女性アイドルグループおニャン子クラブの元メンバーで、会員番号は40番。東京都出身。小金井フットボールクラブに所属し、全国大会優勝した時のメンバーである。小金井市立緑中学校→私立吉祥女子高等学校 → 恵泉女学園短期大学英文学科卒業。高校は芸能活動禁止であったが、生稲の成績が非常に優秀であったため、「トップの成績を維持すること」と「大学を受験する事」の2つを条件に芸能活動が特別に許可された。1985年、『第10回ホリプロタレントスカウトキャラバン』の賞金(優勝者本人に100万円、推薦者に50万円)に惹かれ、兄を推薦者にして「もし優勝したら150万円山分けしようという事で」応募したことが発端。途中落選となったものの、ホリプロの系列モデル事務所からスカウトされて所属することになり、以後複数のオーディションを受けた。(それ以前にも、アイドル雑誌ザ・シュガーの「今月のセーラー服美人」というコーナーで紹介記事が計3ページにわたって掲載されている)。1986年3月、「これでダメなら大学受験に向けた勉強に専念しよう」と決めて『タッチ』ヒロイン・浅倉南のイメージガールを選ぶ「ミス南ちゃんコンテスト」に出場。原作者のあだち充が生稲を推したこともあり大会関係者から「たぶん優勝は君になる」と優勝内定を知らされていたが、発表当日になってこの話は流れてしまった。このとき居合わせたレコード会社の関係者から「おニャン子クラブのオーディションを受けてみますか?」と声を掛けられる。優勝内定から一転、落選したショックから直ぐに次に繋がる話に飛びつく思考に切り替えることが出来ず、即答は避けて一旦保留とする返答のみをして帰宅した。おニャン子クラブのファンだった兄はオーディションの話に乗り気だったが、当の本人である生稲は、通常夕方は部活動をしていたので、夕方からの生放送番組の出演となれば退部を余儀なくされるために乗り気ではなかった。また、フジテレビ系放映『夕やけニャンニャン』の放送を殆ど見たことが無く、雑誌や音楽番組などで見聞きしていた程度の認識であった。生稲が憧れていたアイドル歌手やおニャン子クラブのように大勢のアイドルが所属していたモモコクラブのメンバーと比較し、「おニャン子はブスが多いから、入るのは嫌だ」と兄に漏らした。二の足を踏んでいた生稲であったが、当時生稲がファンだった「トシちゃんのレコードをあげるから」とレコード会社の人から言われたため、ためしに受けてみる事になった。また「(夕やけニャンニャンに出演時は)時給5千円」の一言にも魅力を感じたという。1986年6月、『夕やけニャンニャン』内オーディションコーナーを経て、1986年6月13日に、おニャン子クラブの会員番号40番としてデビュー。10月、渡辺満里奈のデビュー曲「深呼吸して」で工藤静香と共に「with おニャン子クラブ」としてバックコーラスで参加。11月1日、おニャン子クラブの6枚目のシングル「恋はくえすちょん」で、フロント4人の中に入る。12月、ローソンのからあげクンのCMに単独で出演。おニャン子クラブ4枚目のアルバム『SIDE LINE』に収録されている「ハートに募金を」がBGMとして使用される(CM用に生稲のみのボーカルアレンジ)。高校での成績は優秀だったものの、芸能活動をしているという理由で大学入試の際に学校からの推薦が得られなかった。1987年になると、芸能活動を控え、『夕やけニャンニャン』にも約1ヶ月ほど出演せず受験勉強に専念した。1987年4月に恵泉女学園短期大学(英文学科)に入学。受験を終えて芸能活動を再開。復帰初日、(自身が)休んでいる間に新ユニットうしろ髪ひかれ隊のメンバーに工藤静香・斉藤満喜子と共に抜擢され、既に決定事項としてプロジェクトが進んでいることを知らされ面食らう。しかし、自分の立場では異議を申し立てることも断ることも出来ず、成り行きに任せざるを得なかったという。1987年5月、「うしろ髪ひかれ隊」は「時の河を越えて」でレコードデビュー。同曲及びc/wは、アニメ『ハイスクール!奇面組』の主題歌とエンディング曲に起用された。1987年5月18日付のオリコンシングルヒットチャートで初登場第1位を獲得。音楽番組にも多く出演し、順風満帆なスタートを切った。これを期に、メンバー3人揃って芸能プロダクション「プロダクション尾木」に移籍。もともと生稲は長く芸能活動を続ける意向は強くなく、将来的に堅実な学校教諭になる道を考えていた。そのため学業を疎かにせず、大学進学後も意欲的に講義を受けていた。「うしろ髪ひかれ隊」としての活動はおニャン子クラブの活動終了とともに終える青写真であり、生稲もその心積もりでいた。しかし、スタッフの「やめようと思っていたけど、売れたことだしこのまま続けるから」の一言で、1987年9月20日のおニャン子クラブ解散後も「うしろ髪」としての活動はしばし続行された。それだけにおニャン子解散時の精神状態は不安定であった。解散特番のラジオの終盤では夕ニャンのスタッフに「もう「深呼吸して」は3人じゃ歌えないんだな…」としみじみ言われたことを涙ながらに語っていたが、聞き役の渡辺満里奈に「何泣いてんのよ!」と叱責され我に返っていた。1988年4月をもってうしろ髪ひかれ隊の活動が休止。5月21日に「麦わらでダンス」(フジテレビ系放映アニメ『ついでにとんちんかん』主題歌)でソロデビュー。7月にはフジテレビ系ドラマ『あそびにおいでョ!』で連続ドラマに初出演。以後ドラマやバラエティ番組など多数出演。2001年4月、永らく所属していたプロダクション尾木より独立。女優としてCBC制作のドラマ『キッズ・ウォー』シリーズに長く主演したほか、テレビ朝日の人気時代劇『暴れん坊将軍』にはVIIシリーズからVIIIシリーズ第1話は魚屋兼岡引・おぶん、VIIIシリーズ第2話から800回スペシャルは江戸町火消しめ組の頭長次郎(山本譲二)の妻・おぶんとして出演していた。古典芸能に造詣を持ち、NHKの『日本の古典芸能』『芸能花舞台』の司会も務めた(毎回和服姿で番組を進行。下記の理由により降板した)。2003年にCM制作会社プロデューサー・佐山智洋と結婚(現在、鉄板焼き店経営)。2005年10月、妊娠していることが判明、「思っていたよりつわりがひどかった」とのこと。2006年3月に第1子(長女)を出産。2006年からは芸能事務所・株式会社ポートレーブに所属。家事の都合や子育てに支障が出ないスケジュールを組んでもらい、主に女優やレポーターなどの仕事を中心にしている。近年は、夫婦で鉄板焼き屋を経営し、生稲も時間がある時には女将として店に出ている。テレビ朝日系『ちい散歩』や『三波豊和の日本が元気です』等司会やレポーターの仕事を中心に活動。2009年よりプロダクション尾木に復帰。2010年7月、ハートフルライフカウンセラー学院にて認知行動療法を学び、心理カウンセラーとして活動を始める。2010年9月、AKB48Team Ogiが開催した音楽イベント「Team Ogi祭り」に城之内早苗らとゲスト出演。『麦わらでダンス』を当時の衣装、ダンスとともに披露した。2011年4月28日、43歳の誕生日に乳がんが発見される。5月6日に腫瘍のある部分を切除する乳房温存手術を受け、放射線照射と薬による治療を続けた。2012年の夏、再発が判明。がんのできた部分を切除する再手術を受ける。2013年10月に3度目の切除手術、同年12月27日に右胸の全摘手術を受けた。2015年10月27日、右乳房の再建手術を受ける。同年11月、自らのがんを公表。2016年9月16日、9月末に安倍晋三が主宰する「働き方改革実現会議」の民間議員に善く生稲を選出したことを発表。
出典:wikipedia
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