アフガニスタン紛争(2001年 - )(アフガニスタンふんそう)では、アフガニスタンで断続的に発生している紛争のうち、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の首謀者として指定されたアルカーイダの引き渡しに応じなかったターリバーン政権に対し、アメリカ合衆国が主導する有志連合諸国および北部同盟(2001年以降はアフガニスタン暫定政府、2004年以降はアフガニスタン政府)が「不朽の自由作戦」に基づき、アフガニスタンにおいてターリバーン勢力、アルカーイダ、およびその他の武力集団との間で行っている武力衝突を扱う。2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件は、その損害の大きさでアメリカ合衆国を含む世界各国に衝撃を与えた。北大西洋条約機構 (NATO)はテロ攻撃に対して「集団的自衛権」(北大西洋条約第5条)を発動した。アメリカ政府によって、これまで数度に渡ってアメリカに対するテロを行ったウサーマ・ビン=ラーディンとアルカーイダに首謀者の嫌疑がかけられた。アフガニスタンの9割を実効支配していたタリバン政権は、数度に渡る国連安保理決議によってビン=ラーディンとアルカーイダの引渡しを要求されていたが、拒否し続けており、今回も拒否した。NATOは攻撃によってタリバン政権を転覆させる必要を認め、2001年10月にアフガニスタンの北部同盟と協調して攻撃を行い、タリバン政府を崩壊させた。以降、国連の主導によるアフガニスタン復興と治安維持が行われているが、南部を中心としてタリバン派の勢力が攻撃を行っており、アフガニスタンの治安は2016年現在も安定していない。この攻撃はアメリカ合衆国政府によって「対テロ戦争」の一環と位置づけられ、国際的なテロの危機を防ぐための防衛戦として行われた。イギリスを始め多くの国がこのアメリカ政府の攻撃に賛同した。対テロ戦争全体の作戦名は当初「無限の正義作戦 (OIJ: Operation Infinite Justice)」とされたが、"Infinite"はイスラム教ではアッラーフを意味することがあり、イスラム法学者から「究極の正義を意味するのなら、それはアッラーフのみが与えることができるので不適切」と批判を受けた。そのため、不朽の自由作戦 (OEF: Operation Enduring Freedom)」と改められた。英国では米国が云う「不朽の自由作戦」は「ヘリック作戦」 (Operation Herrick)と呼んでいる。アフガニスタンにおける軍事行動の正式名称はアフガニスタンにおける不朽の自由作戦(OEF-A:Operation Enduring Freedom - Afghanistan)である。またその後、アフガニスタンからパキスタン連邦直轄部族地域にかけてタリバン系の組織活動が活発となり(ワジリスタン紛争)、海上でテロ組織の補給ルートを断ち切る海上阻止活動(OEF-MIO:Maritime Interdiction Operation)も行われている。対テロ戦争の動きは更に、イラン、イラク、北朝鮮の3ヵ国を悪の枢軸であるとするブッシュ米大統領の発言に発展し、2003年3月にはイラク戦争が始まった。1978年の共産政権の成立にともない、全土でムジャーヒディーンと呼ばれる武装勢力が蜂起した。これをうけて1979年にはソビエト連邦が軍事介入を行ったが、東側社会以外の支援を受けたムジャーヒディーンを駆逐することはできず、1989年にソ連軍は撤退した。しかしソ連軍の撤退以降はムジャーヒディーン同士が内戦を起こし、軍閥を形成して戦闘が続いた。1994年頃からパキスタン軍の支援を受けたパシュトゥーン人の武装勢力であるターリバーンが勢力を拡張し、国土の大半を制圧した。しかし、ターリバーン政権はイスラム原理主義的政権であり、同様に原理主義的思想を持つウサーマ・ビン=ラーディンとアル・カーイダを国内に保護し、テロリストの訓練キャンプを設置していた。このためターリバーン政権を承認したのはパキスタン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦の三国に留まり、アフガニスタンの国際連合における代表権はブルハーヌッディーン・ラッバーニーを大統領とするアフガニスタン・イスラム国が保持していた。ラッバーニーをはじめとする旧ムジャーヒディーン勢力はターリバーンに対して同盟を組み、通称「北部同盟」として北部で抵抗を続けたが、ターリバーンに押されつつあった。1998年、タンザニアとケニアのアメリカ大使館がアル・カーイダにより爆破される事件が発生し、アメリカは報復としてアフガニスタン国内の訓練キャンプをトマホークで攻撃した。このため12月8日には国際連合安全保障理事会で国際連合安全保障理事会決議1214が採択され、テロリストの国際司法機関への引き渡しが要求され、1999年には国際連合安全保障理事会決議1267で、アル・カーイダとビン=ラーディンらを名指ししての引き渡しが要求された。しかしターリバーン政権は従わず、決議に基づく経済制裁が行われた(アメリカ同時多発テロ事件後はこの狙い撃ち制裁が拡大され、カディ事件やサヤディ事件で人権侵害が問題化する)。アル・カーイダの攻撃は引き続き起こり、2000年10月には米艦コール襲撃事件が発生した。このため12月に国際連合安全保障理事会決議1333が採択され、再度アル・カーイダの引き渡しが求められたがターリバーン政権はこれにも従わなかった。ターリバーンとしては、アフガニスタンの客人歓待の伝統、ウサマ・ビン・ラーディンからの資金援助等の事情から、犯罪の証拠が示されることなく、ウサマ・ビン・ラーディンを引き渡すことはできなかった。2001年2月26日にターリバーン政権は偶像破壊を名目にバーミヤンの大仏を破壊した。しかしこの事件も非イスラム諸国だけでなく、イスラム諸国からの批判も受けターリバーン政権は孤立状態にあった。2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生した。12日、アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領はテロとの戦いを宣言した。またこの中で、ターリバーン政権の関与が示唆され、ドナルド・ラムズフェルド国防長官はウサマ・ビン=ラーディンが容疑者であり、また単独の容疑者ではないと発言した。また同日、第56回国連総会でも米国政府と市民に哀悼と連帯を表して国連も本部を置くニューヨークなどへのテロ攻撃に対して速やかに国際協力すべきとする決議56/1を当時の全加盟国189カ国が全会一致で採択し、国際連合安全保障理事会でも国際連合安全保障理事会決議1368が採択された。この決議1368は9月11日のテロ攻撃を「国際の平和及び安全に対する脅威」と認め、「テロリズムに対してあらゆる手段を用いて闘う」というものであった。また前段には「個別的又は集団的自衛の固有の権利を認識」という言葉があり、これは同日にNATOが創設以来初めての北大西洋条約第5条の集団防衛条項による集団的自衛権の発動を決定する根拠となった。(#開戦の正当性に対する論議)。この後アメリカはターリバーン政権にビン=ラーディンらの引き渡しを要求した。しかしターリバーンは引き渡しに応じなかった。9月14日、オーストラリアも太平洋安全保障条約第4条に当たるとして集団的自衛権の発動を表明した。9月15日、アメリカのコリン・パウエル国務長官はパキスタンがアフガニスタン攻撃に協力すると声明した。16日、湾岸協力会議を構成するアラブ諸国はテロ攻撃を批判し、アフガニスタン攻撃を支持する声明を出した。タリバンを承認してきたアラブ首長国連邦、パキスタン、サウジアラビアも国交を解消した。しかし16日にターリバーンの情報相は重要拠点を要塞化したと声明し、徹底抗戦の姿勢を示した。17日、イランのモハンマド・ハータミー大統領はテロを非難したが、アラブ連盟やイスラム諸国会議機構と同じようにアフガニスタン攻撃の際は民間人の被害を最小限にするよう要請した。9月18日、アメリカ合衆国議会でとする合同決議が上院98対0、下院420対1で通る。9月21日、ラムズフェルド国防長官は北部同盟と共同して作戦に当たることを発表した。また欧州連合外相会議も全会一致で攻撃を支持した。9月28日、国際組織法で初の「立法行為」とされる国際連合安全保障理事会決議1373が採択され、「全ての国」に国連憲章第7章に基づく強制措置として厳罰化や情報交換および資金援助禁止などのテロ対策とその報告が義務化され、11月12日には国際連合安全保障理事会決議1377ではテロは「全国家と全人類への挑戦」とまで非難された。アメリカはこの間に協力する国々と連合を組み、攻撃の準備に入った。これらの国は有志連合諸国と呼ばれ、ラムズフェルド国防長官は「人類史上最大の連合」であるとした。有志連合諸国は不朽の自由作戦という統一作戦名で、アフガニスタンを含むテロ組織勢力地域への作戦を実行した。アメリカはイギリス・フランス・カナダ・ドイツ等と共同でアフガニスタンに攻撃を行った。これは国際連合憲章に定められた国連軍ではなく、国連憲章第51条によって定められ、事前に国連決議を必要としない集団的自衛権の発動によるという論理であった。この論理は米州機構、EU、そして日本を含む同盟国と法学者に広く認められた。しかし、テロ攻撃に対して自衛権は発動出来ないという法学者も少なからずおり、議論が発生している。また、これらは後のテロ対策特別措置法や自衛隊インド洋派遣をめぐる国会論議でも取り上げられている。以下、『テロ特措法の期限延長をめぐる論点』に沿った争点の整理を行う。「テロ攻撃」は自衛権の対象となる「武力攻撃」にあたるかという問題である。また、自衛権は急迫不正の侵害に対して自国を防衛するための権利であり、テロ攻撃が今後も続く「除去しなければならない脅威」にあたるかという議論があった。テロ攻撃を行ったのは、ターリバーン政権自体ではなく、その庇護下にあるアル・カーイダである。この場合、ターリバーンに攻撃を行うのは正当かという問題がある。同時多発テロ当時、アルカーイダによる犯行声明などは行われておらず、アルカーイダを犯人と推定したのはアメリカ当局によるものであった。明確な関与が判明していない以上、攻撃を行うのは正当かという点も問題となった。10月2日、NATOは集団自衛権を発動し、アメリカ合衆国とイギリスを始めとした有志連合諸国は10月7日から空爆を開始した。11月13日には北部同盟軍が首都カーブルを制圧した。米国を中心とする圧倒的な軍事力によって敵対勢力は粉砕され、主たる戦闘は約2ヵ月ほどの比較的短期間で終結し、タリバン政権は消滅した。対テロ作戦の継続の為、なおも米国の陸軍と空軍の計2万人が駐留を続けた。米国本土からの爆撃機のほか、空母から発着する戦闘機や攻撃機、ミサイル巡洋艦からの巡航ミサイルが使用され、また無人攻撃機が実戦で初めて活躍した。バーレーン司令部も活用され、クウェートやインド洋のディエゴガルシア島の米軍基地からも航空機を飛ばして攻撃した。またインド洋にはフランスの空母シャルル・ド・ゴールが展開し、空爆の支援にあたった。しかし、アメリカが望んでいたオマーンからの攻撃は実現しなかった。一方で、イランは水面下でNATOに協力し、軍用機の領空通過を認めた上で、拠点情報などを提供し、負傷兵をイラン国内で治療するなどした。。米国は当初、攻撃目標は軍事目標に限定していると発表していたが、誤爆などにより住宅や民間施設も破壊され、多数の民間人の命が失われている。戦争を原因とする犠牲者は、公式には明らかになっていない。戦争から逃れるために多くの難民が発生して、その多くが周辺国へと向かい、とりわけパキスタンに流入して問題になった。パキスタン政府は戦争で米国支持の方針を出し、米英軍機の領空通過を認めたため、自国民や反米感情の強いアラブ諸国民衆の反感を買った。北方のタジキスタン・ウズベキスタンも戦争を支持し、国内への米軍駐留と施設使用を認めたため、CIS諸国に影響力を持つロシア等はNATOの影響力が増大することを警戒した(色の革命)。2001年11月、ドイツのボン近郊のケーニヒスヴィンターにおいて北部同盟を含むアフガニスタンの4つのグループの代表を国際連合が招集して会議が開かれた。ボン会合当時、ターリバーンとの戦闘は継続していたが、すでに北部同盟軍がカーブルを占領しており、早急に暫定政府の設立、国際的な部隊による治安維持を決める必要が生じたので、急遽、ボン会合が招集されることとなった。これにより暫定政府の成立、ロヤ・ジルガの招集、国際治安支援部隊 (ISAF)の成立と国連アフガニスタン支援ミッション (UNAMA)の設立が合意され、翌日国連安全保障理事会において承認された(国際連合安全保障理事会決議1383)。これをボン合意といい、以降のアフガニスタン復興計画のスタートとなった。12月、ISAFは国際連合安全保障理事会決議1386、UNAMAは国際連合安全保障理事会決議1401によって正式に承認され、以降のカーブル周辺の治安維持活動はISAFが担うこととなった。しかし、ターリバーンはボン合意に参加しておらず、また、ボン合意に基づき成立した暫定政府が少数民族主体であったため、パシュトゥン人の不満が高まり、ターリバーンが復活する一因となった 。2001年12月22日にはハーミド・カルザイを議長とする暫定政府、アフガニスタン暫定行政機構が成立し、正式な政府成立までの行政を行った。2002年6月11日から19日にかけて、カーブルにおいて緊急ロヤ・ジルガが開催された。会議の結果、暫定行政機構に代わり、カルザーイを大統領とするアフガニスタン・イスラム移行政府が成立した。2002年7月6日、ハジ・アブドゥル・カディール副大統領が暗殺された。カディール副大統領はパシュトゥン人であり、同人の暗殺により、最大民族パシュトゥン人の不満が増し、アフガニスタン情勢悪化に拍車をかけることになったという。2003年12月14日から2004年1月4日にかけて、カーブルにおいて憲法制定ロヤ・ジルガが開催された。これによりアフガニスタン憲法が成立し、2004年1月26日から施行された。2004年3月、パキスタンの連邦直轄部族地域においてターリバーン、アル・カーイダとパキスタン軍の間で戦闘が起きる。2004年4月及び2005年2月に和平合意が結ばれ、パキスタン軍が撤退するのと引き換えに南ワジリスタンの地元部族側は外国武装勢力を立ち退かせる約束をした。しかし、アフガニスタンへの越境攻撃は止まらず、和平合意は形骸化した。以降、パキスタン・アフガニスタン国境地帯のワジリスタンなどにおいて断続的な戦闘が続いている(ワジリスタン紛争)。2004年10月9日にはアフガニスタン全土およびイラン・パキスタンを投票地域とする大統領選挙が行われ、カルザイが55.4%の票を獲得。アフガニスタン・イスラム共和国初代大統領に選出された。カルザイは12月に大統領に就任し、アフガニスタン・イスラム共和国が正式に成立した。2005年後半からタリバンを中心とした武装勢力が南部各地で蜂起し、米英軍などと交戦している。このタリバンの蜂起は国際治安支援部隊(ISAF)が南部や東部に展開し始めた時期と重なっている。当時、ISAF側はタリバンの攻撃増加はタリバンがISAFに追い込まれた結果として抵抗するためのものである、という強気の見方を示していた 。しかし、ISAFの説明とは異なりアフガニスタンの治安は急速に悪化していった。対ソ連戦争や軍閥内戦時代にもなかった自爆攻撃(2005年27件、2006年139件)が行なわれるようになったことから、イラク戦争で伸張し数多くの自爆テロを行なってきたアル・カーイダの影響を指摘する声もある。2005年9月18日に下院議員選挙と県会議員選挙が行われた。これによりボン合意によって定められた政治プロセスは終了した。2006年5月15日からはISAFによる「マウント・スラスト作戦」 (Operation Mount Thrust)が実施され、南部地域指令部 (Regional Command South)の下で第76連合・統合任務部隊 (Combined/Joint Task Force-76, CJTF-76)がアフガニスタン南部で実行した。この作戦は、2001年の本戦争が始まって以来、最大の遠距離掃討作戦となった。2006年6月にはイギリスのシンクタンクが、南部のヘルマンド州ではターリバーンが支配力を強め、「再び戦争状態にある」と報告した。2007年1月に米国は、NATO会議において削減方針を一転して2,500人規模の増派を決定した。2007年2月にムラー・オバイドゥラー・アクンドが拘束され、2007年5月にはムラー・ダードゥラーが殺害された。両者はターリバーンの最高指導評議会のメンバーであり、2006年12月に殺害されたムラー・アフタル・ウスマーニとあわせ、ターリバーンは3人の最高幹部を失ったが、その勢いは衰えなかった。ターリバーンは自爆テロ、簡易爆発装置(IED)、誘拐などを多用し、米軍や国際治安支援部隊(ISAF)を悩ませた。2007年6月、首都カブールの警察署前でターリバーンによる自爆テロが発生し、警察官ら35人が死亡、日本人2人を含む約40人が負傷した。この事件以降、カブールでの自爆テロが頻発するようになった。2008年2月、米国のマコネル国家情報長官は「ターリバーンはアフガニスタンの約10~11%を支配している」と述べ、ターリバーンの支配地域が拡大していることを認めた。2008年12月、カイバル峠におけるターリバーンの攻撃が活発化。パキスタンからアフガニスタンへ運ばれる、NATOや国際連合世界食糧計画の輸送隊が相次いで攻撃を受ける。1月に就任したアメリカのバラク・オバマ大統領はアフガニスタン重視の姿勢を示しており、同年2月17日、同国への17000人規模の米軍増派を発表した。具体的な内訳としては海兵隊遠征旅団が8000人、陸軍・装甲車部隊が4000人、人道支援部隊が5000人規模となっている。同年2月の段階で米軍の駐留規模は38000人余で、これに増援部隊を加え最終的な規模は6万人規模になると見られている。同年9月現在、同国には67000人規模の(ISAF参加含む)米軍が駐留している。2月、NATOはカイバル峠の輸送ルートを封鎖した。同年5月、オバマ大統領は同戦争に対する成果が乏しいことから、ISAFのデービッド・マキャナン司令官を事実上更迭。後任として、統合参謀本部中将(現・大将)のスタンリー・マクリスタルを三顧の礼で迎える。翌月15日、マクリスタルはISAF司令官に正式に就任する。9月4日、ドイツ部隊(アフガン・クンドゥーズ洲駐留)がタリバンに燃料輸送車を奪われたことに対して空爆した。その結果、69人のタリバン兵と30人の民間人が死亡した。メルケル首相は12月1日空爆について謝罪し、同3日グッテンベルク国防相は民間人を殺傷した空爆は不適切だったことを認めた。しかしながら、09年の同戦争は例年にも増して、ターリバーンの攻勢が過酷を極め、9月末日までの米兵の死者は220人を超え(08年の米兵死者は150人)、米兵の犠牲は過去最悪のペースで戦況の悪化が進んでいる。こうした状況を受け、マックリスタル司令官は最低で4万人の兵力増強をオバマ大統領に直訴。仮に兵力増強を逡巡すれば、同戦争に対する敗北は必定との旨を記した書簡を同年10月1日、ホワイトハウスに送付した。アフガンへの兵力増強を巡っては、軍部や共和党内の大勢が賛意を示す一方、ジョー・バイデン副大統領ら民主党内の左派は激しくこの案に反発している。一方、既に9000人の兵力を投入している英国のゴードン・ブラウン首相は、10月14日の下院での審議で、500人の兵力増強を発表した。12月1日、オバマ米大統領は、米ニューヨーク州の陸軍士官学校で演説をした。その演説で、大統領は3万人規模の米軍を来夏までに追加派兵し、再来年(2011年7月)にはアフガン駐留米軍の削減を開始するなどのアフガニスタン新戦略を明らかにした。この増派でアフガン駐留米軍は10万人規模に達し、それに伴う追加戦費は300億ドルといわれている。この戦略発表の裏には、米兵の死者の増加、金融・経済危機による巨額の財政赤字の下での戦費負担も深刻さを増しており、兵士の精神的ストレスも大きな問題となり、大統領の支持率が50%を割り込んでいることなどが考えられる。他方、NATO(北大西洋条約機構)は2日オバマ新戦略を歓迎し、NATO加盟国も少なくとも5000人の新規派遣を行う見通しを示した。1月26日、ドイツのヴェスターヴェレ外相は、アフガニスタンに派遣しているドイツ部隊を2011年から撤退させたい意向を表明した。これはメルケル首相・同外相・グッテンベルク国防相らの関係閣僚が決めたアフガン総合政策による。ドイツ軍500人が一旦派遣され、さらに350人を選挙監視などに充てる。総計では、現在の4500人から5350人に増員される。このうち、治安部隊・警察の教育訓練に充てる兵員数は280人から1400人に大幅に増員される、戦闘部隊は減員される。同外相によると今年中にも一部地域で治安権限委譲をはじめ、2014年末までに完全な委譲を終わらせる考えである。また、アフガンの再建・開発支援のため、総額4億3000万ユーロ(約543億円)、武装勢力の社会復帰を支援する基金に5年間で5000万ユーロ(約63億円)を拠出する方針である。2月13日未明から、米海兵隊員中心の国際治安支援部隊 (ISAF)とアフガン治安部隊等延べ15000人による、イスラム武装勢力タリバンに対する大規模な掃討作戦(モシュタラク作戦)が、ヘルマンド州マルジャ地区にて開始。同月14日、同作戦開始2日目に、標的を外れたロケット弾に巻き込まれ民間人12人が死亡し、米軍司令官がカルザイ大統領に謝罪した。同月21日、同作戦開始9日目までに、推計でNATO軍13人タリバン120人が戦死。8月30日、2回の爆破攻撃で米兵7人が死亡している。8月31日、アフガニスタンに駐留する米軍主導の国際治安支援部隊 (ISAF) は、駐留軍兵士5人が爆破攻撃で戦死したことを明らかにした。5月2日(米国現地時間5月1日)、CNNが「アメリカ軍の特殊部隊がイスラマバード郊外のアボタバードにある邸宅でビン=ラーディンを殺害した」と報道した。CNNの報道直後にアメリカ合衆国大統領バラク・オバマは、アメリカ当局がビン=ラーディンとされる遺体を回収し、DNA鑑定の結果遺体がビン=ラーディンであることが確認されたとの声明を発表した。ターリバーン政権崩壊後は、ボン合意によって定められた国連アフガニスタン支援ミッションによって政治と経済の立て直しが行われ、アフガニスタン・イスラム国の再建後はハーミド・カルザイ大統領率いる政府も協力して復興が進められている。当初はターリバーン残党を含む武装勢力の攻勢も弱く、社会基盤の整備が進んでいた。カルザイの大統領就任以前は、ターリバーンから離脱した地方軍閥が勢力を伸ばしていたが、カルザイは民意を盾にして軍閥の力を弱めて来たため、軍閥はほぼ大統領の勢力下に置かれているといわれていた。しかし2005年以降は南部でターリバーン等の武装勢力の攻撃が増え、治安が悪化している。また、国連以外にも国境無き医師団などのNGOやNPOが現地に入り、復興の手助けをしている。しかし、ターリバーン等はこうした外国人を狙った誘拐・殺人事件をしばしば起こしている。2004年には「国境なき医師団」のスタッフ5人が殺害され、「国境なき医師団」はアフガニスタンから撤退した。2007年には韓国人23人が拉致され、うち2人が殺害される事件(2007年ターリバーン韓国人拉致事件)が起こり、2008年にはNPOペシャワール会の日本人スタッフがターリバーンに誘拐・殺害される事件が起きた(アフガニスタン日本人拉致事件)。アフガニスタンにおける治安は、再建されたアフガニスタン国軍とともに、国際治安支援部隊 (ISAF)が担当している。ターリバーン攻撃の作戦である『アフガニスタンにおける不朽の自由作戦』 (OEF-A)における指揮権は、空爆においてはアメリカ軍、地上戦においては北部同盟軍が指揮権を担っていた。発足当初のISAFはカーブル周辺の治安担当を行う組織であった。ISAF自体の指揮権はイギリス、トルコ、ドイツによる持ち回りで行われていた。しかし国連とアフガニスタン政府の要請により、ISAFの指揮権はNATOに委譲されることとなった。2003年8月11日には委譲手続きが終了し、以降はNATO加盟諸国の司令官が持ち回りで指揮を執っている。その後、2003年10月13日の国際連合安全保障理事会決議1510において、ISAFの活動範囲がアフガニスタン全土に拡大されると、OEF-A参加部隊の指揮権はISAFに移譲されることとなった。2006年7月にはアフガニスタン東部の治安部隊の指揮権、10月には東部の指揮権を獲得した。ISAFの指揮下部隊は、2009年10月現在、NATO非加盟国も含めた42ヶ国より派遣された67,700名の規模である。正式政府の成立以降、アフガニスタン国軍の再建も行われている。2007年11月にはターリバーンに占拠されていたヘルマンド州ムサカラを奪回するなど、軍事的成果をあげつつある。アフガニスタンで長年タリバンに抵抗していた北部同盟を武装解除させたことによりタリバンが活動を強め一時は回復したかに見えた治安が悪化する結果となった。イギリスの植民地政策で平野部を切り離されたアフガニスタンは貧しい山国であり、さらに諸外国をも巻き込んだ30年近い内戦の結果インフラが破壊されたため、経済復興は捗々しく進んでいない。そのため後述するアヘン栽培が復活しているという見方も存在する。2002年、アフガニスタン政府はカスピ海とインド洋を結ぶ天然ガスパイプラインの建設計画を、隣国のトルクメニスタンとパキスタンの首脳と合意した。しかし南部地域の治安が安定しないため、計画着工の見通しは立たない()。欧米での一般的な見方では、タリバン政権下のアフガニスタンでは政治的自由はほとんど認められず、国民は厳格なイスラム法に基づいた生活を送っていたとされ、女性には参政権や教育を受ける権利も与えられなかったとされていたが、戦後は女性の社会的権利も認められ、社会進出が進んでいる。しかしながら、アフガニスタンの特に田舎では女性に関する保守的な考え方が依然として根強く女性の扱いに関する急進的な変化、欧米の価値観の押し付けには反発が見られるという。アフガニスタンはアヘン栽培大国であり、世界のアヘン生産の大半はアフガニスタンで行なわれていた。2000年以前はターリバーンによる麻薬の輸出が懸念されており、ターリバーンは表向きケシ栽培を禁止していたが、2000年には3,300トンのアヘンが収穫されているなど、禁令は実質的なものではなかった。国連安全保障理事会決議1333などで繰り返し非難されていた。開戦直前の2001年の収穫量は前年の185トンへと94%を超える大幅な減少に転じていた。しかしこれはターリバーンが価格下落を抑制するために行った一時的な減産措置ではないかと指摘する声もある。開戦後、ターリバーンが勢力を維持している南部を中心に再びケシ栽培が増加し、国連薬物犯罪事務所 (UNODC) は2006年のアフガニスタンにおけるアヘンの収穫量が前年より49%増の6,100トンになるとして、この状態に警告を発した。これは、空爆により農地が破壊されたり不発弾等が散乱していたりしていることで、使用可能な農地面積が減少し、農民は対価の高いアヘン等を生産しなければ生活できないためである。また、同じUNODCの2007年のレポートによると、アフガニスタンにおけるアヘンを含む薬物の流通にターリバーンが関わっている証拠が存在する。政府はケシからの転作を進めており、2008年には前年に比べてケシ畑の耕作面積を19%減少させた。しかしアフガニスタンのケシ畑はターリバーンの勢力が強いヘルマンド州に全体の3分の2が集中しており、ターリバーンの資金源となっていると見られている。またアヘン生産者が国内の混乱を継続させるためにターリバーンに献金を行っているという指摘もある。2001年11月14日に採択された国際連合安全保障理事会決議1378において「オサマ・ビンラーディン、アルカーイダ及び彼らの協力者に安全な避難場所を与えているタリバンを非難し、また、この文脈において、タリバン政権を交代させようとするアフガニスタン国民の努力を支援し」とあるように、有志連合諸国と北部同盟によるターリバーン政権の打倒は国際連合安全保障理事会によって支持された。また、その後の国内外の軍事行動は1510、1386、1746等複数の決議によって承認されており、国連アフガニスタン支援ミッション等と連携して行われている。これらのアフガニスタン関連の決議はすべて全会一致で採択されていたが、2007年9月19日、ISAFの活動期限延長を主題とし、不朽の自由作戦 (OEF)に対する謝意が前文に盛り込まれた国際連合安全保障理事会決議1776では、ロシアが棄権にまわり、ISAF関連の国連安保理決議では唯一全会一致とならなかった。棄権票を投じた常任理事国のロシアについては、OEFが国連の枠外活動であることを主な理由として棄権したと国内では報道された。しかし、国連本部広報センター (UN News Center)の記事によれば、ロシアのチュルキン国連大使は決議不支持の理由として、決議の採択前に、海上阻止部門に言及する文言について以下の3点を挙げていた。また、OEFやテロとの戦いが国連活動の枠外であるという発言はロシア側から行われたことはなく、棄権が報道されたような意図であったとする根拠はない。一年後の2008年9月20日、同様にOEF参加諸国、海上阻止行動への謝意を前文に盛り込んだ国際連合安全保障理事会決議1833が採択された際には、「海上阻止行動がアフガンでの対テロ作戦に限定されることが明確になった」としてロシアも賛成に回り、全会一致での採択となった。本項目で扱っている2001年からの戦いは、アメリカなどでアフガニスタン戦争と呼ばれることもあるが、この名称では1838年からイギリスとアフガニスタンが3度に渡って戦ったアフガン戦争と区別できなくなる。また、国際承認されたアフガニスタン国家は攻撃開始前から北部同盟の政権であり、ターリバーン政府がアフガニスタンを代表する政府とみなされたことはない。そのためアフガニスタン政府である北部同盟とアメリカと有志連合諸国の連合によるターリバーン攻撃を「アフガニスタン戦争」と見なすことは正確ではない。またこの紛争の一面として、1978年春からアフガニスタンで国内継続している内戦の要素もあり、2001年以降をそれ以前の状態と分離することも正確ではない。このため、日本国内において2001年からの戦闘に対して明確な名称は存在していない。日本は2001年12月からOEF-MIOのインド洋における給油活動に参加。海上自衛隊の艦艇が派遣されている(→自衛隊インド洋派遣)が、2010年には全部隊を撤収させる意向を米国へ伝達している。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。