黄 文雄(こう ぶんゆう、1938年12月5日 - )は、日本の評論家で、文明史・経済史研究者にして哲学者。台湾(中華民国)出身。専攻は西洋経済史。拓殖大学日本文化研究所客員教授。主権回復を目指す会顧問、世界戦略総合研究所評議員。男性。1964年に留学のため訪日した。早稲田大学商学部卒。明治大学大学院文学研究科博士前期課程修了。台湾独立建国連盟日本本部委員長。維新政党・新風講師。評論家活動へ転身。以後、日本において活動を続けている。1994年には台湾ペングラフ賞を受賞した。日本統治を肯定的に叙述しており、また朝鮮併合や満州国建国に始まる中国大陸進出も侵略戦争とは規定せずむしろ中国国民党と中国共産党の内戦に引き込まれたという側に立ち、「台湾が中国領となったことは一度もない」と主張している。自身が台湾で誕生したという強い意識や、かつての中国国民党による台湾人(内省人)弾圧行為に対する憤りから、台湾正名運動に賛同しており、中華民国の国号を用いず、一過して『台湾』『台湾政府』と呼称している。台湾のみならず、韓国・朝鮮もまた日本による統治が近代化へのステップであったとしている。また満州は中国ではなく、独立国であるという説を唱えている。また、漢民族の衰退について、原因を「儒教の猛毒性」に求め、さらに、中国人の民族性は中華思想に基づく人種差別であり、自己中心的と批判している。一方、韓国人の民族性は「事大主義と従属国根性が染みついた」と批判している。中国が唯一日本に勝てる要素は常任理事国である事くらいであると主張。日・中・韓の三者で行なわれる歴史研究会には日本側として当初から参加しているが、中国、韓国から来る代表はほとんどが政府の息のかかった人物であり、自国の歴史観を認めさせるうえで議論を始めようとすることを激しく非難し、「問題解決のためには政治問題にしないことである」と主張し続けている。また、日本は女性が1人で旅行ができて、世界でも類を見ないほど凶悪犯罪が少なく、治安も良いと主張している。日本の警察の優秀さのほかに、日本人の法を守る精神や徳を守る精神などの文化的民度の高さによるものであると述べている。黄によれば、中国共産党政府が「差別用語だ」と主張する「支那」は、差別用語ではないという。中国の歴代王朝には、19世紀まで「国名」そのものがなかった。中国を中心とする「天下」という世界観はあっても「国家」概念も意識もなかったからだという。清朝末期に日本にやってきた中国人留学生は、国名そのものを答えられなかったが、中国の革命家や知識人は好んで、あるいは誇りを持って「支那」を使用したという。この「支那」という言葉は、もともとは唐時代の僧が仏典で翻訳した「文物国」の意で、いわば聖なる言葉であり、「日本人が中国人を差別するために作った差別用語ではない」と、黄は断じている。日本人は江戸時代の初期から、尊敬の意を込めて「唐」よりも「支那」のほうを多く使っていたという。明治時代になると、日本人は中国を貶すにも褒めるにもこの「支那」という言葉を使っており、侮蔑の意味など込めてはいなかったという。鄧小平の死後、テレビ朝日の番組『朝まで生テレビ』に出演した中国政府の役人が「そもそも中国という国名があるのに、日本人はわざわざ『支那』という差別用語を作って中国人を侮辱している」と言い放った。この発言を受けて、日本人専門家は誰1人として反論しなかったという。中国では役人に限らず、学者までもがあまり勉強をしておらず、中国共産党が「決定」した「作られた歴史」を鸚鵡返しに繰り返すことが、中国の学者の振る舞いであり、任務であり、「その知識と常識は日本人から見れば実に低レベル」と黄は述べている。また、黄は、「チャイナ」の呼称については中国政府は何も言わないが、この「支那」が許せないのは、かつて「日本軍が中国を侵略した」ことを思い出すからであり、それは愚かな誤解か悪質な言いがかりのどちらかであると断じている。黄は19世紀末の東アジアにおいて、清国からみた朝鮮半島観および朝鮮政策について、清国の属国であったベトナムがすでにフランスに横領されたこともあり、残る属国の朝鮮を死守しようとしていたとし、新疆や台湾のように朝鮮も中国の正式な領土にするため『朝鮮省』を設立し、郡県制とする断行案を検討していたという。また1882年の壬午事変の鎮圧に際して、呉長慶 は『遼東三省と左堤右挈し、実に東方の一大塀障』、つまり中国の遼東三省と朝鮮半島で守りを固めれば怖いものなし、と考えていたとしている。また、黄は、呉長慶の幕下にあり積極的な対外政策を論じてきた張謇の『朝鮮善後六策』について、京城帝国大学教授の田保橋潔のまとめを引用しながら、それまでの東三省から朝鮮省をも含めて『東四省』とし、清国が李朝国王を廃して監国にする、つまり、属藩扱いにするという政策は、清朝以前にもあったと指摘している。たとえば、明の朱元璋が、李氏朝鮮をつくった李成桂に対して監国の地位を下賜し、国王の地位を与えなかったのもそのためとされる。なお、この「朝鮮省」設置について、朝鮮人は『小中華』から『大中華』への昇格だと喜び、「これまで大中国人やら大中華人になりたくてもなれなかった支那人かぶれの両班にとっては、願ってもない恩寵」であったとしている。すなわち黄によれば、朝鮮は漢の時代から中国の一部であり、「封国」でなく「外藩」として帰属してきたし、朝鮮を建国したは中国の箕子だと、中国人は主張していると指摘している。また、中国が中華民国になった近現代でも、中国人の朝鮮版図観は変わっておらず、たとえば蒋介石は戦後対日処理を協議した1943年11月のカイロ会談に際して船上にてルーズベルト大統領に高麗の返還を要求している。さらに黄は、「宗主国をかさに、高麗や朝鮮国王にゆすりたかりを働き、一族の利益を図るのが、朝鮮半島の鉄則のようなものだ」とし、千余年来、「千年進入され、千回とも敵を撃退したのではなく、属国になると誓ってから宗主国が兵を引いたという歴史事実が繰り返されている」としている。また韓国は秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で焦土と化し、三百年もへても立ち直れなかったとして日本を糾弾するが、「倭乱のひどさを強調したいという気持ちはわからないでもない。しかし、考えてもみると、一回の大乱だけで三百年も立ち直れない民族は、世界中のどこにいるのか。もしあるとすれば、もっと恥を知るべきであろう。戦後、焦土化した日本は半世紀もたたずに再び経済大国になったではないか。千回も侵略され、すべての侵略者を撃退したという自慢話と、三百年も立ち直れないでいるという論理を矛盾することもなく主張することに自己撞着はないのであろうか」と批判している。また、「長城外の夷狄だけでなく、西南のチベット系民族吐蕃でさえ中華世界を一度は征服するか、都を占領し脅威を与えているのに、朝鮮だけは中華の脅威になったことすらありません。朝鮮は大中華に君臣の礼、君父に忠のみだった」としたうえで、「四夷八蛮が皆中原に入ったのにただただ朝鮮だけできずにいる。こんな情けない国に長生きしていてもどうにもならない」と嘆きつつ亡くなった林白湖という儒者がいるほどであると指摘している。黄は、「遼東や北満の地は、かつて高句麗人、渤海人などの(中略)ツングース系諸民族が活躍した地である」とし、著書の中で、「満州族の先祖が築いた高句麗と渤海」との見出しで、「高句麗の主要民族は満州族の一種(中略)高句麗人と共に渤海建国の民族である靺鞨はツングース系で、現在の中国の少数民族の一つ、満州族の祖先である」と高句麗と渤海を満州族の先祖としている。また、「ひるがえって、満州史の立場から見れば、3世紀から10世紀にかけて東満州から沿海州、朝鮮半島北部に建てられた独自の国家が高句麗(?~668年)と、その高句麗を再興した渤海(698~926年)である」とし、高句麗と渤海を満州史としている。黄は食人の記録から、中国人は「人食い人種」であり、「食人文化は、中国四千年の歴史を貫く伝統」であると主張している。また、孔子が人肉好きだったとして、次のように主張している。子路が衛国の大夫である孔悝の荘園の行政官になっていたころ、衛国に父子の王位争いが起こった。子路はこのお家騒動にまきこまれて、殺された。子路の屍は細かく切りきざまれ、無惨にも《醢》にされた。それは使者によって孔子の食卓にまで届けられてきたのだ。 以来、孔子は大好物の《醢》を食べるのをやめたそうだ。 これは『礼記』、『東周列国志』、『荘子』にも記されている。これに対し、『礼記』『荘子』の内容は以下の通りである。檀弓上:孔子哭子路於中庭。有人吊者,而夫子拜之。既哭,進使者而問故。使者曰:“醢之矣。”遂命覆醢。子以甘辭說子路而使從之,使子路去其危冠,解其長劍,而受教於子,天下皆曰‘孔丘能止暴禁非’。其卒之也,子路欲殺衛君而事不成,身菹於衛東門之上,是子教之不至也。いずれも、子路が「醢」「菹」にされたという記述があり、『礼記』では最後に家にあった「醢」を捨てさせたとある。黄は無条件で子路の遺体から作られた《醢》と、孔子の家に存在した《醢》を同一のものとみなしている。しかしながら「醢」は「人間の遺体を塩漬けにして長期間晒しものにする刑罰」という意味と、単なる肉の塩漬けの、両方の意味がある。孔子の家にあった「醢」は当然ながら「塩漬けの肉」を指し、これが何の肉から作られたかについて説明されていないが、人肉と解釈する根拠は全く存在しない。『東周列国志』には、衛国の使者が「夫子を敬慕して、大胆に珍味を捧げます」と人肉を食べさせようとする記述があるが、これは明末に馮夢竜が著した歴史小説であり、史実ではない。この他、『孔子家語』にも同じ逸話がある。子路與子羔仕於衞。衞有蒯聵之難。孔子在魯聞之、曰、柴也其來。由也死矣。既而衛使至。曰、子路死焉。夫子哭之於中庭。有人弔者、而夫子拜之。已哭。進使者而問故。使者曰、醢之矣。遂令左右皆覆醢。曰、吾何忍食此。ただし、明治書院版『孔子家語』の訳者宇野精一は「衛の人が子路の遺体を塩漬けにしたのは、単に刑罰として行ったのではなく、おそらくその肉を食ったのだろう。それは勇者の肉を食うことに意味があったのだと考えられる」と推測している。黄は、アメリカに住む友人からアメリカに住むよう誘われても、日本にいるのが一番いいとしている。日本を出ることが嫌で、海外に出ても一週間以内に戻ってしまうという。それは、日本人の「他人を思いやる」文化に依るところが大きく、日本人は他人のために個を滅することを厭わないという類稀なる気質に、自分を含めた世界の人々が惹かれるのだと述べている。
出典:wikipedia
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