玉村町(たまむらまち)は、群馬県の南部にある町である。古くは日光例幣使街道の宿場町で知られた。群馬県南部の諸地域と同様に、冬は「空っ風」と呼ばれる強い北風の影響により寒く、夏は暑い。群馬県南部に位置し、南を烏川で画され、町の北部を利根川が、町の中央を滝川が流れる。全域が平野部であるが、南部の烏川流域が沖積低地であるのに対し、北部の利根川流域は洪積台地である。町の中心地はかつて例幣使街道の宿場町であった下新田地区である。人口は県内の町村としては大泉町に次ぐ。玉村町域において「ムラ」造りが始まったのは4世紀初頭のことである。玉村町では143基の古墳が確認されており、形態や副葬品から大和政権との繋がりが指摘されている。律令制のもとでは那波郡佐味郷と鞘田郷が置かれており、12世紀に入ると寄進地系荘園・玉村御厨が成立、伊勢神宮に寄進されている。鎌倉時代に入ると玉村御厨の荘官玉村氏が上野国の守護安達氏のもとで活躍した。室町幕府のもとで関東管領に就任した上杉氏が上野国の守護となったがその勢力が衰えると、北条氏康・上杉謙信・武田信玄の間で上野の領有が争われるようになり、それら勢力の境にあった玉村も戦乱に揺れることとなった。100年にも及んだ戦乱によって江戸開幕の頃には大いに荒廃した。代官伊奈忠次によって「代官掘」の呼ばれる用水路が引かれ、「新田」と呼ばれる集落が中心部に作られた。その後、玉村八幡宮を境にして「上新田村」・「下新田村」の二つの村ができた。江戸時代を通して、玉村宿・五料宿という2つの宿場町が栄えた。沼之上村(現玉村町五料)では天明期に、「卯の泥押」(1783年)、「午の満水」(1786年)と呼ばれる洪水により、壊滅的な被害を受けたこともあった。町名の由来は、「龍の玉伝説」が満福寺に伝わるが、語源としては利根川や烏川などの「水が溜まり易い場所」であったことに由来すると思われる。以前は養蚕が盛んであった。文化施設運動施設町内に鉄道は敷かれておらず、最寄りの駅は、烏川を挟んで南に隣接する高崎市新町地区のJR東日本高崎線新町駅である。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。