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ビスマルク海海戦

ビスマルク海海戦(ビスマルクかいかいせん、Battle of Bismarck Sea)は、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)3月2日から3月3日に、ビスマルク海からダンピール海峡にかけての海域で、連合国軍が日本軍の輸送船団に対し航空攻撃を行ったことで発生した戦闘。1943年(昭和18年)初頭、連合軍はパプアニューギニア(ニューギニア島東部)で攻勢に出ており、日本軍はニューギニア方面の戦力増強を企図して陸軍・海軍協同の輸送作戦を立案する。日本側の輸送作戦の名称は「第八十一号作戦」である。南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将は日本陸軍と協同。第三水雷戦隊司令官木村昌福少将が指揮する駆逐艦8隻に護衛された日本軍輸送船団(輸送船8隻)はニューブリテン島からラエ・サラマウア(東部ニューギニアフォン湾)へ航行中の3月3日にビスマルク海からダンピール海峡において連合軍航空部隊の大規模攻撃を受け、反跳爆撃により大損害を受ける。日本軍の輸送船団は壊滅(輸送船8隻《陸軍輸送船7、海軍運送艦1》沈没、駆逐艦4隻沈没)、将兵約3000名が戦死。ダンピール海峡の悲劇と呼称された。1943年(昭和18年)2月1日から2月7日にかけて日本軍はガダルカナル島から撤退した(ケ号作戦)。同時期、連合軍はニューギニア島方面でも攻勢に出ており、日本軍はパプアニューギニア方面の戦いでも窮地に追い込まれる。1月2日には東部のブナ守備隊が玉砕した(ポートモレスビー作戦)。そこで日本軍は大本営指導のもと、連合軍の次の攻撃目標と予測されるパプアニューギニア(ニューギニア島東部)各拠点に陸軍部隊を送り、侵攻に備えることにした。1943年(昭和18年)1月5日のラエへの最初の輸送作戦「第十八号作戦」は成功し、歩兵第102連隊からなる岡部支隊が現地に到着した。第18号作戦の次に行われた輸送作戦を第八十一号作戦という。第八十一号作戦は三段階の作戦で構成されていた。陸軍第四十一師団をニューギニア中部北岸ウェワクへ輸送する『丙三号作戦』(2月下旬)と、前述の陸軍第51師団をラエに輸送船団をもって輸送する『八十一号作戦ラエ輸送』(本項目)。陸軍第二十師団をニューギニア島北岸マダンへ輸送する作戦である。南東方面部隊と第八方面軍間の協定に基づき、2月21日に現地協定が結ばれる。八十一号作戦の最大の課題は、船団の航空護衛であった。日本軍航空戦力の確保と並行して、日本海軍航空隊(一式陸上攻撃機主力)は連合軍の航空戦力を弱体化させるため、ポートモレスビーおよびラビ方面の連合軍飛行場を敢行する。日本陸軍航空隊(九九式双発軽爆撃機主力)はワウとブナ方面の攻撃を行う。だが日本海軍が同方面の航空兵力を半分集結させても、戦闘機約60、艦爆10、陸攻20、水上機10程度だったという。輸送船団8隻を護衛するには戦闘機約200が必要とされたが同方面の日本陸軍戦闘機(一式戦闘機)は約90機しかなく、陸軍側は連合艦隊に零式艦上戦闘機の派遣を依頼。トラック在泊の第一航空戦隊(瑞鶴、瑞鳳)よりカビエンに進出していた瑞鳳零戦隊が、引き続き作戦に協力することになった。現地では1月27日に岡部支隊がワウに侵攻していたが、2月24日までに撤退していた。ウェワク輸送に関しては、2月20日から26日にかけて約1万3600名の陸兵と輸送物件の揚陸に成功した。第八十一号作戦ラエ輸送は、南東方面艦隊(第十一航空艦隊)司令長官草鹿任一中将が指揮する。南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将は、基地航空部隊(第十一航空艦隊基幹)と外南洋部隊(第八艦隊および連合艦隊他からの増援部隊)を指揮する、南東方面の日本海軍最高責任者であった。当時のラバウル周辺には外南洋部隊指揮官三川軍一中将・第八艦隊司令長官)の指揮の下、木村昌福第三水雷戦隊司令官指揮下の外南洋部隊増援部隊(川内、朝潮、荒潮、白雪、初雪、皐月、水無月、文月、長月、雪風、時津風、朝雲、峯雲、浦波、敷波、村雨、五月雨)がいた。第三水雷戦隊司令官木村昌福少将を護衛部隊指揮官とする駆逐艦8隻(第11駆逐隊《白雪》、第19駆逐隊《浦波、敷波》、第8駆逐隊《朝潮、荒潮》、第9駆逐隊《朝雲》、第16駆逐隊《時津風、雪風》)、輸送船8隻(陸軍輸送船7隻《大井川丸、太明丸、建武丸、帝洋丸、愛洋丸、神愛丸、旭盛丸》、海軍運送艦1隻《野島》)の船団が編制され、同船団上空警戒は、ラバウル(ニューブリテン島)とカビエン(ニューアイルランド島)の第204空や第253空および空母瑞鳳航空隊(カビエン配備)の零戦合計60機以上、陸軍戦闘機60機以上が担当する。作戦実施にあたり、木村昌福少将(三水戦司令官。2月14日発令)は本来の第三水雷戦隊旗艦(川内型軽巡洋艦1番艦「川内」)から白雪型駆逐艦「白雪」(第11駆逐隊)に座乗した。(秋月型駆逐艦以前に開発された日本海軍の駆逐艦全てに言えることであるが)護衛の駆逐艦はどれも対空装備は機銃程度しか積んでおらず、高角砲も対空用の射撃指揮装置も無かった。各駆逐艦にも陸軍兵と補給物資搭載の指示がなされた。船団の直掩の戦闘機隊は時間帯によって陸軍と海軍が交互に交代する予定であった。日本軍の作戦では、2月28日(3月1日午前0時0分)にラバウルを出航し、3月3日夕刻にラエ到着・揚陸予定であった。事前に敵航空戦力を空爆により弱体化させる計画であり、夜間爆撃がラビ及びポートモレスビーに対して行われたが、前述のように航空戦力の過少と天候不良により不十分であった。またラバウルに本拠地を置く日本軍基地航空隊(第十一航空艦隊、司令長官草鹿任一中将《南東方面艦隊司令長官兼務》)は、3月3日当日に青葉型重巡洋艦1番艦「青葉」と雷撃訓練を行うような状態だった。上級司令部(大本営、軍令部、連合艦隊、南東方面艦隊《第十一航空艦隊、第八艦隊》)主導の作戦に対し、護衛部隊の第三水雷戦隊参謀であった半田仁貴知少佐は、八十一号作戦計画担当であった第八艦隊作戦参謀神重徳大佐(海軍兵学校48期)に「この作戦は敵航空戦力によって全滅されるであろうから、中止してはどうか」と申し入れたが、神大佐から「命令だから全滅覚悟でやってもらいたい」と回答されたという。その作戦を立案した南東方面艦隊(第十一航空艦隊、第八艦隊)の当事者は、成功率は四分六分、あるいは五分五分程度とみていた。とくに第八艦隊(長官三川軍一中将、参謀長大西新蔵少将、参謀神重徳大佐)では「直衛機を信頼して無理な輸送作戦を計画するのは根本的に誤りである」と判断していた。軍令部は「輸送船の半分に損害はあるかもしれぬ」と判断している。日本陸軍(第八方面軍)は、ラエ輸送の成功率は40パーセントから50パーセントとみていた。このように、本作戦はラエ輸送作戦を主張する日本陸軍と、マダンもしくはウェワク輸送を主張した日本海軍(連合艦隊)の、妥協の産物であった。出撃の前、「野島」艦長の松本亀太郎大佐は第8駆逐隊司令の佐藤康夫大佐に「生還は望めない作戦なので骨だけは拾ってほしい」と頼むと、佐藤大佐は「自分の座乗する『朝潮』が護衛する限り大丈夫だ。『野島』の乗組員は必ず生きて連れて帰る」と返した。一方、連合軍も日本軍がラエ地区の防禦を固めると考え、反跳爆撃(skip bombing)により輸送の阻止を試みた。これは低空で爆弾を投下して海面でジャンプさせ目標に命中させる方法で、水平爆撃に比べ命中率が高い。反面、低空飛行により対空砲火を受ける確率も高くなるが、増設機銃により敵艦の対空能力を弱めることで被害減少を図った。また対空装備の乏しい駆逐艦を日本軍が船団護衛に使用するという情報も連合軍は入手していたとされる。連合軍は2月29日に日本軍のラエ輸送に対する警報を発した。つづいて3月5日ごろに日本軍がラエに上陸すると判断し、アメリカ陸軍航空隊とオーストラリア空軍はポートモレスビーやブナに航空機を集結して3月1日には攻撃準備を完了した。日本軍の輸送船8隻(陸軍第十八軍司令官安達二十三陸軍中将を含む約6900名)と護衛の駆逐艦8隻(外南洋部隊増援部隊指揮官木村昌福第三水雷戦隊司令官)からなる輸送船団は、2月28日午後11時30分にラバウル(ニューブリテン島)を出航した。船団の速力は9ノット程度だった。出航後、各輸送船では食糧庫の中のものを全て厨房へ卸したため、乗船部隊には毎日のように御馳走が振る舞われたという。一方で発狂者が続出した。日本陸軍が防空を担当していた3月1日午後2時15分、連合軍のB-24爆撃機がビスマルク海で船団を発見、接触を続けた。ポートモレスビーにはB-17重爆撃機約55、B-24重爆60、B-25中爆約50、B-26中爆約40、A-20軽爆約30、戦闘機計330機が配備されており、ここから戦闘機154機、軽爆34機、中爆41機、重爆39機、計268機が出撃準備を整えた。3月1日の段階では、日本軍輸送船団の位置は攻撃圏外にあると判断された。索敵攻撃に出発したB-17重爆8機は、天候不良のため接敵できなかった。3月2日の日本軍輸送船団上空警戒は、11時45分までは海軍機、それ以降は陸軍機を予定していた。同日朝、日本軍船団はニューブリテン島西端グロスター岬北東海面を航行していた。午前8時以降、B-17爆撃機十数機と護衛戦闘機が襲来、B-17隊は船団を高度2000mで水平爆撃し、輸送船1隻(旭盛丸)が沈没(午前9時26分)。駆逐艦2隻(第9駆逐隊《朝雲》、第16駆逐隊《雪風》)が旭盛丸兵員1500名中918名(第51師団長中野英光陸軍中将含む)を救助。第9駆逐隊司令小西要人大佐(朝雲座乗)指揮下で船団から先行し、ラエへ向かった。B-17は1機が撃墜され、14機が損傷した。零戦の損害は1機だった。この事態を受けて、第八艦隊司令長官三川軍一中将は待機していた吹雪型3番艦「初雪」(第11駆逐隊)に出撃と救援を命じた。第八艦隊司令部では作戦実施前の憂慮が現実となったことで、悲観的な空気が広がった。午後にはB-17爆撃機8機による攻撃があり、運送艦1隻(野島)が損傷したが、戦闘航海に支障はなかった。連合国軍は、最初の出撃部隊8機が輸送船2隻撃沈、後続の20機が輸送船3隻炎上、夜中に1機が命中弾2発を報告している。駆逐艦2隻(雪風、朝雲)は日没後ラエに到着し、兵員を揚陸後、船団護衛に戻った。輸送船団は予定より2時間はやく進んでいたため、時間調整と偽装のため一旦針路を西方にとり、日没後にビディアス海峡(ロング島とウンボイ島の間)を通過する。だがオーストラリア軍のPBYカタリナ飛行艇は夜間も触接を続け、船団の行動を逐次報告していた。3月3日は快晴で、船団前方に雲がかかっていた。同日船団防空の取り決めは、日の出から午前11時半までは日本海軍の受け持ちだったため、零式艦上戦闘機15機前後が1時間交代で哨戒を行う予定だった。空襲時、警戒交代が重複したため、計41機の零式艦上戦闘機が警戒にあたっていたという。一方、ラエに先行していた駆逐艦2隻(朝雲、雪風)は船団は揚陸に成功。この2隻も船団本隊に戻ってきた。日本艦隊は、輸送船7隻が右3隻-左4隻の並行縦陣を形成し、その輸送船集団の左右を駆逐艦3隻が守るという陣形を形成していた。まず最右列に先頭より浦波→朝潮→朝雲の順番で駆逐艦3隻が配置され、中央右列に先頭から駆逐艦「白雪」(三水戦司令官旗艦)と輸送船3隻(帝洋丸、愛洋丸、神愛丸)、中央左列に駆逐艦「敷波」と輸送船4隻(大井川丸、太明丸、野島、建武丸)、最左列に時津風→荒潮→雪風の順番で駆逐艦が護衛していた。午前7時30分以降、ニューギニアのクレチン岬南東約14海里(約25km)、サラモアから東方約60海里(約110km)地点を航行する日本軍輸送船団に対し、P-38ライトニング双発戦闘機とカーチスP-40戦闘機に護衛された連合国軍機大部隊が突入する。連合国軍機の機数については資料によって差異があり、ここではおおまかな機数のみ記述する。まずブリストル・ボーフォート約10機が攻撃を試みたが零戦に阻止された。次いで連合軍の大編隊が襲来。ブリストル・ボーファイター13機が低空で進入し機銃掃射、B-17爆撃機13機が高高度から爆撃、これを連合国軍戦闘機約50が掩護する。零戦隊はB-17隊を最大の脅威とみて迎撃のため高度を上げ、低空への対処が出来なくなる。この時、零戦パイロットは撃墜したB-17爆撃機(瑞鳳零戦が体当たりしたとも)から脱出した生存者の7名に対して機銃掃射を行った。続いて、高度をあげたB-25爆撃機13機が中高度で水平爆撃、B-25爆撃機12機が低空で反跳爆撃をおこなった。その後もA-20攻撃機12機(戦史叢書では機数不詳)、B-25爆撃機6機がさらに反跳爆撃をおこなった。結局、被害の大部分は低空から侵入した爆撃機の反跳爆撃によるものだった。輸送船7隻と駆逐艦3隻(白雪、荒潮、時津風)が被弾。さらに舵故障に陥った「荒潮」は「野島」と衝突。「建武丸」(三光汽船:953総トン)、「愛洋丸」(東洋汽船:2,746総トン)および駆逐艦「白雪」(第三水雷戦隊旗艦)が沈没。木村司令官は機銃掃射により重傷を負い、「敷波」に移乗して旗艦を変更した。連合軍機はB-17重爆1機、P-38ライトニング3機を喪失した。連合軍機撤収後の8時30分以降、残存駆逐艦5隻(損傷軽微《浦波、敷波、朝潮》、損傷なし《朝雲、雪風》)は沈没艦の生存者救助活動を開始する。しかし10時35分頃に敵機再来襲(敵機24機発進、発信者不詳)との報が入り、木村司令官(敷波座乗)は「救助作業中止、全艦北方に避退せよ」との命令を下す。ところが第8駆逐隊司令駆逐艦朝潮(駆逐隊司令佐藤康夫大佐)は『我野島艦長トノ約束アリ 野島救援ノ後避退ス』と発信。駆逐艦4隻(敷波、浦波、朝雲、雪風)は北上して戦場を離脱、「朝潮」は単艦で「野島」の救援に向かった。「野島」に近づいたところ、近くに航行不能となった姉妹艦「荒潮」(第8駆逐隊)が漂流しており、「朝潮」は「荒潮」の陸軍兵士と負傷者を収容して避退に移った(荒潮は残留乗組員により北方への退避を続行)。直後にB-17爆撃機16機、A-20攻撃機12機、B-25爆撃機10機、ブリストル・ボーファイター5機、P-38戦闘機11機が船団を攻撃、「神愛丸」(岸本汽船:3,793総トン)、「太明丸」(日本郵船:2,883総トン)、「帝洋丸」(帝国船舶:6863総トン、元独船"Saarland")、「野島」が被弾沈没した。被弾し航行不能となっていた「大井川丸」(東洋海運:6,494総トン)はその夜、アメリカ軍魚雷艇の攻撃で沈没した。健在だった駆逐艦「朝潮」(第8駆逐隊司令駆逐艦)は、付近を行動していた日本軍艦船の中で唯一行動可能だったため集中攻撃を受けて航行不能となり、総員退去に追い込まれた。朝潮乗艦者のうち一部(野島特務艦長松本亀太郎大佐を含む)は大発動艇やカッターボートに乗り、3日間の漂流の後に日本軍に救助されたが、朝潮艦長吉井五郎中佐のほか、荒潮艦長久保木英雄中佐、第8駆逐隊司令佐藤康夫大佐以下299名は戦死した。北方に退避した駆逐艦4隻(敷波、浦波、朝雲、雪風)は救援のため到着した駆逐艦「初雪」と合同、カビエン(敷波、朝雲、雪風)やラバウル(浦波、初雪)へ向かった。入れ違いで第2駆逐隊司令橘正雄大佐指揮下の駆逐艦2隻(第2駆逐隊《村雨》、第9駆逐隊《峯雲》)がラバウルからコロンバンガラ島へ出撃して行った(2隻は3月5日のビラ・スタンモーア夜戦で沈没)。日没後、敷波・朝雲・雪風は遭難現場へ戻り生存者を捜索した。駆逐艦「荒潮」は、「雪風」が乗員を救助し船体は放棄。翌日(4日)、B-17の爆撃によって500ポンド爆弾が第一煙突に命中、沈没した。乗員を「雪風」に移乗させたのち放棄されて漂流する「時津風」は、3月4日になり日本軍航空隊により爆撃されるも失敗、日本側は処分のため潜水艦を派遣する事態になる。だが、同艦は同日午後、アメリカ軍機の攻撃で沈没した。空母瑞鳳から派遣されていた戦闘機隊は18機(文献によっては15機)が戦闘に参加し(当初15機、増援3機)、2名が戦死した。日本側全体では戦闘機5機が自爆乃至未帰還となっている。この時、連合軍は航空機や魚雷艇により、漂流する日本軍将兵を虐殺したとされる。3月4日時点で、時津風漂流地点周辺には人員約1000名、短艇20から30隻が漂流していた。日本軍航空隊は生存者に対し、救命具やゴム浮舟を投下。しかし日本軍潜水艦(伊17)を追い払ったアメリカ軍魚雷艇複数隻が、救助作業中の日本軍小型艇を撃沈したのち、機銃掃射を加えたのである。連合軍側は後に、日本軍兵士は救助されると速やかに現場へ復帰する、捕虜となったとみせかけて米兵に襲いかかる、先のB-17爆撃機の生存者への機銃掃射に対する報復等の理由をあげ、この行為を正当化した。3月4日にも、米陸軍航空隊や豪空軍の航空機が漂流する日本軍将兵を機銃掃射したとの記録もある。なお、米軍は沈没した「帝洋丸」の救命ボートより日本陸軍将校実役定年名簿(昭和17年10月15日調制)を押収、その名簿には東条英機陸軍大将から中隊長級に至る日本陸軍将校約4万人の氏名と配備部隊と職種が書かれていたという。一方、日本陸軍は大発動艇部隊を派遣したか、3月3日の救助は米軍機の妨害で失敗、3月4日以降は救助を実施した。日本海軍は、漂流する「時津風」雷撃処分(前述)および生存者救助のため潜水艦を派遣。伊号第十七潜水艦は3月4日深夜現場着。派遣された呂101と呂103のうち、呂101は野島艦長以下44名を収容したものの、呂103は座礁事故を起こして引き返した。3月6日、負傷した木村昌福少将は第三水雷戦隊司令官を解任され、後任司令官には江戸兵太郎少将が任命された。伊十七号潜水艦や伊号第二十六潜水艦は同日も救助活動を実施した。伊二十六は3月8日にグッドイナフ島西方の小島で54名、3月9日に40名を収容、またそれ以降も沈没船乗組員や陸軍兵少数が陸岸に漂着している。しかし、陸上に漂着した者の大部分は、現地住民に殺害されたという。雪風航海士(当時)の証言では、ラバウルに帰還した駆逐艦4隻(敷波、浦波、雪風、朝雲)の内、朝雲艦長岩橋透中佐は第八艦隊司令部に乗り込んで「こんな無謀な作戦をたてるということは、ひいては日本民族を滅亡させるようなものだ。よく考えてからやっていただきたい」と怒鳴ったという。連合軍(マッカーサー司令部)の戦果記録は、日本軍輸送船および駆逐艦22隻撃沈、人員1万5000人、航空機150機撃墜というものだったが、これは当時の連合軍自身も過剰計算だと認めている。実際の被害は以下のとおり。この他に搭載武器、弾薬、車両を失い、海軍も乗員、防空隊の多くを失った。約2,500トンの物資を失った。第51師団長以下875名がラエに上陸。第18軍以下約2700名がラバウルに帰投。この輸送作戦失敗はダンピールの悲劇と呼ばれ、ニューギニア方面作戦に多大な支障をもたらした。輸送船団の全滅は昭和天皇に上奏され、天皇は「失敗ノ原因ヲヨク研究シテ禍ヲ転ジテ福トスル様ニト」と伝えたという。本作戦を指揮した南東方面艦隊(第十一航空艦隊司令長官草鹿任一中将兼務)は、作戦失敗について「ポートモレスビー方面の連合軍基地に対する航空撃滅戦不徹底」を挙げている。高松宮宣仁親王(軍令部大佐、昭和天皇弟宮)は以下のように敗戦を分析している。第十八軍司令官安達二十三中将の所感は以下の通り。南東方面艦隊参謀長中原義正少将も、事前航空撃滅戦の不徹底、到着時刻の検討不足による航路設定の不備、対空戦闘能力の不足等を敗戦の教訓としている。もともとこの輸送作戦は航空の劣勢から無理があり、成功可能性よりも必要性を優先させたものであった(前述のように、軍令部は最初から輸送船団の被害を予測している)。また経験したことのない連合軍による多数機での銃撃、低空爆撃、中高度爆撃があり、南東方面艦隊参謀兼第十一航空艦隊参謀の三和義勇大佐(海軍兵学校48期)は、3月4日の日誌に「余は敵のこの種の攻撃を予想せざりき、余の失敗なり、予想したりとせば、八十一号作戦は成り立たず」と残している。奥宮正武(当時海軍少佐、第二航空戦隊参謀)は作戦失敗の主因を『日本軍航空兵力の不足(一、日本陸軍の航空機が洋上作戦に不向きで、作戦可能機が著しく少なかった。二、海軍航空部隊がソロモン群島方面作戦とニューギニア方面作戦に従事して充分な数を集められなかった)』と指摘している。また作戦失敗の直接原因として直掩の戦闘機隊が中高度に配置されていたため、低空から進入する連合軍機に対処できなかったことも指摘される。船団の直掩の戦闘機隊が時間帯によって陸軍と海軍が交互に交代する措置について陸軍参謀本部作戦課長の真田穣一郎大佐は「陸海軍航空の担任が、午前と午後というような部署では、1+1の戦力発揮はできない。統一使用に関しさらに努力せねばならぬ」と述べた。軍令部は輸送船団による輸送を諦め、とりあえず大発動艇の輸送に頼ること、速力20ノット程度の高速輸送艇(第一号型輸送艦)を急速開発する事などを検討した。本作戦を指揮した草鹿任一海軍中将(南東方面艦隊司令長官、第十一航空艦隊司令長官兼務)は、敗北の責任を問われなかった。またビスマルク海海戦とビラ・スタンモーア夜戦の結果を受けて東部ニューギニア方面における連合国軍の陸海軍航空部隊および艦船部隊に打撃を加えるべく、い号作戦が実施されることになった。軍令部作戦課長山本親雄によれば「い号作戦について軍令部から指示した記憶はない。八十一号作戦ラエ輸送の全滅は「い」号作戦決行の一つの動機になったと思う」という。一方日本陸軍は1月の時点でラエまでの海路での輸送に限界を感じており、フォン半島の反対側のマダンからフィニステル山脈を内陸部へ迂回してジャングルを突っ切ってラエに至る全長300キロの自動車道路の建設を計画、2月から4月にかけて建設を開始したが作業は主につるはしともっこによる人力作業であり、9月になっても完成しなかった。

出典:wikipedia

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