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鳳翔 (空母)

鳳翔(ほうしょう/ホウシヤウ)は、日本海軍初の航空母艦。同型艦はない。艦名は鳳翔(初代)の襲用で、この名を持つ日本海軍の艦船としては2隻目にあたる。起工時から航空母艦として設計されたものとしては世界で最初に完成した艦である。1922年の竣工後、日本初の航空母艦として日本帝国海軍機動部隊の創設期を担ったが、第2次世界大戦時は既に旧式化しており、ミッドウェー海戦に参加した(戦闘には参加せず)後は練習空母として用いられた。終戦後は復員船として用いられ、1947年に解体された。鳳翔は、設計と開発段階から純粋空母としての運行を目的として建造された艦(正規空母)として世界で最初に完成し、第二次世界大戦に実戦投入された艦である。計画時は特務船(仮称船名第七号特務船)で、船名は「竜飛(龍飛)(たっぴ)」が予定されていたが、1919年(大正8年)10月に鳳翔と命名された。日本海軍は同盟国であるイギリスの空母運用に当初より多大な関心を寄せていたが、自国建造の試みには技術的困難を抱えていた。イギリスは1921年にウィリアム・フォーブス=センピルを長とする軍事技術団(センピル教育団)を日本に派遣し、日本空母建造の中核となる空母デッキの建造技術を指導した。同時に海軍は三菱を通じてイギリス空軍の退役将校フレデリック・ラトランドを航空機設計技師の名目で雇用し、空母着艦技術を日本側パイロットに伝授させた。このように鳳翔の竣工・運用までにはイギリス人の助力があった。建造当初は起倒式の3本煙突と、安定性強化のため当時の新技術であった須式船体動揺安定儀を採用した。全通形式の飛行甲板のために8cm高角砲2門は甲板内に引き込み式としたほか、アイランド構造の艦橋を持っており、右舷に艦橋と煙突を集中させたことから、新造時から近代空母の雛形としての形状を成していた。しかし元来の艦型が小型であり、また航空機の大型化に伴って飛行甲板幅に余裕が無く艦橋とクレーンが運用上の障害となったため、1924年(大正13年)、飛行甲板前部の水平化を行った際に甲板上の艦橋とクレーンを撤去し、新しい艦橋を前部格納庫の前端部両舷に設置した。そのほか船体各部の補強を行った。日本海軍は艦載機用カタパルトを開発できなかったため、鳳翔が太平洋戦争開戦後の最新機を運用することは不可能だった。これは航空技術が大きく進歩を遂げ、複葉布張りの軽量な航空機から全金属製単葉の大型で重量のある航空機へと進化を遂げていったためである。空母用カタパルトなしに重量のある航空機を運用するにはより大きな飛行甲板が必要だった。1926年(大正15年)5月6日から6月22日の間、横須賀海軍工廠第4船渠に入渠し、軽質油タンクを積み込んだ。しかしながら1936年に艦長を務めた草鹿龍之介によれば、当時の鳳翔は航空用ガソリンを石油缶に詰めて艦内に保管していたので煙草どころかライターの持ち込みも厳禁だったという。機関関係では1926年から1928年にかけて混焼缶を重油専焼缶に換装した。1936年には運用実績が不良だった起倒式の煙突を外舷から海面に向けて湾曲する固定式の煙突に換装した。煙突の換装により約60トンの重量を軽減できたと伝えられている。また近接火器のルイス 7.7mm単装機銃2丁から13.2mm連装機銃6基に更新された。1940年10月に復元性の維持の為に引き込み式の8cm高角砲を2門とも撤去し、代わりに九六式 25mm(60口径)連装機銃6基に更新され、舷側に張り出し(スポンソン)を片舷2か所ずつ計4か所に配置した。1942年に対空火器の強化のため14cm単装砲4基を撤去し、25mm連装機銃2基を追加したため、更にスポンソン2か所を新設して計6箇所となった。竣工時の飛行機拘束装置は英国より導入した縦索式制動装置であった、これは約100mの長さの制動索を約15cm間隔に張り渡し、着艦する機体の前方車輪間と尾橇付近に設けた複数個の鉤との摩擦を利用して制動距離を短くする方式で、鳳翔では車輪が当ると倒れる展張装置を兼ねた高さ約45cmの駒立(ハードル)を9ヶ所設置し、更に制動距離を短くする方式を採用したが着艦事故は絶えなかった。この縦索式制動装置での着艦は「二点着陸」と言う前輪を先に接地させる陸上で用いる着陸方法であった。またこの他にも甲板上の島型艦橋やクレーン、飛行甲板前部の下り傾斜なども相まって鳳翔での発着艦は困難を極めたが上述の通りこれらはのちに改善される。その後昭和三年頃まで各種飛行機をもって発着艦試験を行い、萱場製作所が「萱場式制動装置」を考案、その後フランスからフュー式の横索式制動装置を輸入し加賀に設置した、鳳翔、赤城で実装された以後の空母は全て横索式制動装置となり。後更には呉海軍工廠製の呉式制動装置も出現した横索式採用後の着艦には「三点着陸」と言う方法を用いる事となる。これは制動索が前輪に当たることで展張装置から外れて甲板に地這いしてしまい、着艦フックが制動索に掛からず減速不良になってしまうのを防ぐための着陸方法で、着陸時に地上に駐機してあるのと同じ様な機体姿勢を取って3つの車輪を同時に接地させる。概ね水平飛行で接近し艦尾を超えてから失速寸前で3点姿勢を取り着艦させていた。これは艦尾の後ろには航行する船が起こす下降気流が発生する他、波による船体のピッチングが激しいと、着艦寸前にせり上がってきた甲板に機体が叩きつけられたり艦尾に激突する危険性がある事、そして失速に近いスピードでないと機首を起こそうと操縦桿を引いた際に機体が浮き上がってしまうからである。様々な母艦搭乗員が記述している「艦尾かわった、機首起こせ」の意味はこれである。「三点着陸」は海軍搭乗員が予科練等の錬成初期段階から厳しく叩き込まれる着陸法で、艦上機のみならず尾輪式であれば陸上専用の中型機でも行われていた着陸法である。1942年に空技廠が「三式一〇型着艦拘束装置」を開発。これは油圧を用いた制動装置で、1つの装置で4本の制動索を操っているだけでなく三式一〇型採用以前に多くの空母に用いられた呉式に比べ、高速・重量化が進んだ最新鋭艦上機を軽空母で運用するには欠かす事の出来ない制動力を強化した装置でもあり、制動索の復帰時間も6秒程度で行える物であった。日本の空母では9~13本の制動索を備えており通常使われる範囲の制動索の緊張力は艦首側に向かって強くなっていた、最後尾の制動索ではずるずると制動索を引きずり直ぐには止まらず、前部の制動索ではつんのめる様に急激に止まる程で、艦尾より3本目が一番宜しいとされ、艦上機操縦士にとっては着艦技術の腕の見せどころと言われていた。急速収容する場合には先に着艦した僚機に追突したり、稼働中のエレベーターに落ちない為に起倒式で荒い網状の滑走制止装置(バリケード)が設けられていた、初期は油圧で作動する物であったが後に空技廠で開発した三型に改修されている。これは制動は油圧だが起倒には圧縮空気を用いており、作動時間3秒程度と迅速な操作が可能であった。着艦指導灯と言う誘導用の灯火装置があり、複数の赤と緑の灯火で適正な侵入角度(約6度)を搭乗員に知らせる装置で、操縦士から見て艦尾側から手前の赤を高く、後の緑を低くと高さに差が付けられており、赤と緑が同じ高さに見えれば適正な侵入角度、緑が上なら高度が高く、下なら低いと搭乗員からは一目瞭然であり、他国のような着艦誘導員の技量に左右される事のない優れた物であった。戦後に各国が着艦指導灯を元にした物を開発し、現在も陸上用も含め様々なタイプが存在している。この他にも夜間着艦用の照明装置や鳳翔と龍驤だけに採用されたスペリー式スタビライザー(艦の動揺制動装置)等がある。三菱造船所(名古屋)に飛行機用のエンジンを制作する部門があり、そこに元イギリス海軍で航空母艦に乗り組んでいたが在籍していた。鳳翔への着艦試験を依頼したが「飛行機で航空母艦に着艦することは非常に難しい。殊に、日本の飛行機で、日本製の母艦に着艦するなど思いもよらぬ。」と断られたが強いて頼むと「では、報酬として一万円もらいたい。」と高額の報酬を要求されたがこれを承諾した。大正12年2月 三日間に渡り発着艦試験が行われた、国産の一〇式艦上戦闘機に搭乗したジョルダンは、暫く鳳翔の上空を旋回していたが、やがて艦尾の方から一直線に飛んできた、母艦の甲板に近づくや否や急にスピードを落としていとも鮮やかに甲板へ降りた。ジョルダンは降りると間もなくスーッと離艦しまた巧妙に着艦する、これを数回繰り返した後に悠々と機上から降りてきて、得意な顔で反り返りながら一同の前に現れた。大正12年3月 セルビン航空団のブラックレー少佐が水陸両用機のヴァイキングにて着艦を成功させた。ジョルダンの態度に業を煮やし、鳳翔の甲板と同じ幅員を白墨で印した地上で練習を繰り返していた吉良俊一大尉は、同日、一〇式艦上戦闘機に乗り鳳翔への着艦試験へと挑んだ。吉良大尉はこれまで特に着艦の訓練をした事は無くジョルダンの発着艦を見学しただけであった。鳳翔の周りを数度旋回した後に艦尾の方へ去っていき、その様子を見ていたジョルダンは「あの調子ではまだまだ」等とあたり構わず嘲るように言った。吉良大尉は着艦体勢に入り車輪が甲板に触れたと同時ぐらいに波のうねりの為に機体がバウンドし失敗、何度かこれを繰り返した後、首尾よく着艦したと見えた刹那にまたもうねりの為に機体が甲板を滑り舷側より海へ機体ごと落下したが吉良大尉は奇跡的に無傷であった。救命艇でそのまま上陸した吉良大尉は上官に再度の着艦試験を申し出て承諾を得る。飛行服を着替えると再度一〇式艦上戦闘機に乗り鳳翔の上空へ向かった。慎重な飛行をして何度も母艦の上を往復した後、今度は一度で見事に着艦を成功させた。これが日本の航空母艦に日本の飛行機を操縦した日本の操縦士が着艦した最初の瞬間である。吉良大尉は間もなく発艦し更に発着艦を数度繰り返した、この時ジョルダンは不機嫌な顔をして見ていたが、何時とはなく甲板から姿を消していたが、後に「日本人 恐るべし」と語った。尚、着艦に成功した日付については複数の記述があり、ジョルダンについては2月22日が多いが他に23日と26日の三日間着艦試験が行われていた記述や、3月初旬と記し着艦試験成功した正確な日付は記されていない文献もある。吉良大尉については3月16日が多いのだが3月5日の記述も見受けられる。また、本文では報奨を一万円と記したが十万円の記述も存在する。鳳翔は浅野造船所で1920年(大正9年)12月16日に起工、1921年(大正10年)11月13日に進水、横須賀海軍工廠で1922年(大正11年)12月27日に竣工した。1923年(大正12年)11月19日、加賀型戦艦加賀と天城型巡洋戦艦赤城の空母改装が正式に通達され、航空母艦として登録された。同日附で空母翔鶴(初代)の建造中止が決定し、翔鶴は艦艇類別等級表より削除された。1940年(昭和15年)11月15日、空母龍驤、鳳翔と駆逐艦羽風、秋風、太刀風という戦力で第一艦隊麾下に第三航空戦隊(司令官角田覚治少将)が編制された。このあと龍驤は第四航空戦隊へ編入され、三航戦には瑞鳳型航空母艦瑞鳳が編入された。1941年(昭和16年)8月11日時の編制は、空母瑞鳳、鳳翔、駆逐艦三日月、夕風だった。この頃、呉軍港では大和型戦艦大和の艤装工事が進んでおり、鳳翔は大和の傍に停泊して諜報活動から同艦を守った。同年9月12日に軍令部が内示した『昭和17年度海軍戦時編制』によれば、秋月型駆逐艦3隻(秋月、照月、初月)で第25駆逐隊を編制し、第25駆逐隊は空母鳳翔および特設航空母艦2隻と『第七航空戦隊』を編制予定であった。だがこの編制を実現する前に太平洋戦争が勃発したため、鳳翔が秋月、照月、初月と実戦に参加する事はなかった。太平洋戦争開戦時、すでに鳳翔は旧式化していたが、複葉で発着艦の容易な九六式艦上攻撃機を搭載し主力戦艦部隊の対潜哨戒任務を与えられていた。乗組員の練度も抜群だったという。1941年(昭和16年)12月8日、南雲機動部隊の主力空母6隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴)は真珠湾攻撃を敢行、山本五十六連合艦隊司令長官は第一艦隊の戦艦長門、陸奥、伊勢、日向、扶桑、山城及び第三航空戦隊(空母《瑞鳳、鳳翔》、三日月、夕風)と護衛駆逐艦(若葉、子日、初春、初霜、有明、夕暮、白露、時雨)等を率いて瀬戸内海を出撃した。機動部隊収容のためという名目だったが、特に何もせず、対潜哨戒を実施しつつ小笠原諸島附近で反転した。12月10日、鳳翔は哨戒機収容のため戦艦部隊から分離して風上へ向かい、駆逐艦3隻と共にそのまま行方不明となった。翌日になっても鳳翔との連絡はつかず、長門乗艦の宇垣纏連合艦隊参謀長は『そんな馬鹿げた事があるものか』と呆れている。この時の鳳翔は小笠原諸島東(戦艦部隊から500浬)の地点まで離れており、鳳翔舷側の起倒式アンテナは波浪でもぎとられていた。12月13日、豊後水道を通過。ところが鳳翔入泊を護衛していた駆逐艦早苗が米潜水艦(実際には存在せず)を発見して爆雷攻撃を開始する。呉では鳳翔沈没の噂が流れており、鳳翔艦長は山本五十六連合艦隊司令長官から「水戦司令官となった気分だどうだった」と笑顔で迎えられたという。1942年(昭和17年)6月上旬、ミッドウェー海戦に参加。鳳翔は九六式艦上攻撃機6機を搭載し、戦艦を基幹とするミッドウェー島攻略部隊主力に編入され、山本連合艦隊長官が座乗する戦艦大和および長門、陸奥等を護衛した。大和は本作戦が初の実戦参加であった。長期の航海に備え、主計科は一ヶ月分以上の食材(米麦、生野菜、冷凍魚類、果物等)を用意。当時の鳳翔士官室烹炊室には和食・洋食とも上手な連合艦隊随一の腕前を持つコックがおり、食事に関しては心配がなかったという。戦闘そのものは、日本海軍の大敗で終わる。6月6日、駆逐艦巻雲による雷撃処分が実施されたのちも漂流していた空母飛龍の写真は、鳳翔搭載機が撮影したものである。このあと飛龍を確実に処分するため駆逐艦「谷風」が派遣された。また航海中に軽巡洋艦川内が二度行方不明となり、鳳翔艦載機に誘導されて連れ戻された。この他にも赤城、加賀生存者を収容した長門、陸奥等に対し、医療品をドラム缶に詰め込み、それを複葉低速の九六艦攻(鳳翔機)が投下して届けるという一幕があった。6月14日、主力艦隊は内地に帰投する。大和乗艦の宇垣参謀長は本作戦における鳳翔の行動について、『鳳翔は少数飛行機を以て悪天候と闘ひ克く其任務を達成せり共に賞賛すべきなり』と述べている。この後、鳳翔は母艦搭乗員の着艦訓練および、潜水艦の標的空母として運用され、瀬戸内海から出ることもなくなった。梅田艦長(当時)は「幼稚園の保母さんの役目」と回想している。一方、日本海軍はミッドウェー海戦における主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)喪失をうけて、7月14日附で翔鶴型航空母艦を基幹とした第三艦隊(機動部隊)を編制した。航空母艦搭載機搭乗員を育成するため、鹿屋海軍航空隊(艦爆、艦攻)と築城海軍航空隊(艦戦)が第三艦隊附属となって補充員の錬成にあたるが、第三艦隊の空母(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳、隼鷹、飛鷹)はガダルカナル島の戦いに投入されて内地に戻れず、鹿屋・築城航空隊とも効果的な教育訓練が出来なかった。そこで1943年(昭和18年)1月15日附で鹿屋・築城航空隊および空母鳳翔と龍鳳により第五十航空戦隊(司令官酒巻宗孝少将)が編制されて第三艦隊に編入され、空母艦載機搭乗員の育成にあたることになった。この時点で龍鳳は横須賀で入渠しており(12月12日米潜水艦雷撃で大破)、修理を終えて3月20日に翔鶴、浜風、漣、響、波風と共に内海西部へ到着、以後は鳳翔と共に訓練に従事した。5月10日附で第五十航空戦隊司令官は城島高次少将にかわる。6月10日、空母飛鷹が被雷して修理にまわされ、12日附で龍鳳は第二航空戦隊に編入、同戦隊旗艦として南方へ進出していった。第五十航空戦隊の空母は鳳翔1隻となった。その後、同年末のろ号作戦(ブーゲンビル島沖航空戦)で第三艦隊の艦載機は完全に消耗し、空母部隊も内地へ帰投する。第五十航空戦隊は1944年(昭和19年)1月1日附で解隊され、鳳翔、夕風と築城航空隊は基地航空隊の訓練錬成を主目的とする第五十一航空戦隊(1943年7月1日新設)へ編入された。だが2月15日附で鳳翔、夕風は第五十一航空戦隊から連合艦隊附属になり、実戦部隊に編入された。同年春には新型機に対応するために飛行甲板の延長とエレベーターの拡大が行われ、飛行甲板は前後に延長され180.8mとなった。これにより艦橋の前方視界と復元性が著しく悪化して外洋航海に支障が生じ、訓練用空母として内海で運用されることになった。その後は瀬戸内海において専ら離着艦訓練に従事したが、飛行甲板を延長しても尚新型機の運用には難があり、主に停泊しての初等過程訓練に用いられた。1944年(昭和19年)9月頃、東宝が制作した映画「雷撃隊出動」に空母瑞鶴と共に『出演』している。鳳翔は映画終盤において、アメリカ軍側の空母として映し出された。1945年(昭和20年)に入ると燃料の不足から呉周辺で偽装した上で停泊留置されることが多くなり、3月を始め数度の呉軍港空襲においても損傷を受けることはなかった。7月30日、呉鎮守府長官は鳳翔と龍鳳の2空母の周辺に25mm機銃を配備して対空陣地を築くよう命じる。さらに空襲で大破着底した重巡洋艦利根、軽巡洋艦大淀からも、両艦が装備していた25mm単装機銃及び乗組員を鳳翔、龍鳳に派遣することになった。鳳翔、龍鳳は防空砲台となって8月15日の終戦の日を迎えた。問題なく航行可能な空母は鳳翔、龍鳳、葛城の3隻だった。戦後の鳳翔は飛行甲板前部を撤去した上で復員輸送艦として使われ、1946年(昭和21年)8月まで内地と南方間を9往復して、およそ4万人の将兵と民間人を輸送した。その後は1946年8月31日から1947年(昭和22年)5月1日にかけて、日立造船築港工場で解体された。2014年に発行されたガンビアの「航空母艦シリーズ」35ダラシ切手に、竣工時の鳳翔の写真が使われている。

出典:wikipedia

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