九七式中戦車 チハ(きゅうななしきちゅうせんしゃ チハ)は、1930年代中後期に開発・採用された大日本帝国陸軍の中戦車。1938年(昭和13年)から1944年(昭和19年)にかけて総計2,123輌が生産され、九五式軽戦車 ハ号とともに第二次世界大戦における日本軍の主力戦車として使用された。1936年(昭和11年)、日本陸軍において歩兵の直接支援のための戦車として開発が開始された。新型中戦車の開発に当たっては速度性能、車体溶接の検討、避弾経始(原文表記では緩角傾始)を考慮した車体設計など防御性能の向上が求められたが、当時の道路状況、架橋資材その他の状況から車両重量増が最大のネックとなった。重量増を忍び性能の充実を求める声と、防御・速度性能を忍んでも重量の逓減を優先する意見の双方があり、双方のコンセプトに沿った車両を試作し比較試験することとなった。主砲についてはどちらも八九式中戦車の主砲と同等とされた。陸軍技術本部は、前者を甲案(後のチハ車。予定重量13.5トン)、後者を乙案(後のチニ車、予定重量10トン)として設計を開始した。甲案は砲塔に2人が配置され、八九式中戦車と同じく車載機関銃は2挺とされた。対して乙案は砲塔は1人用に小型化され後部機関銃は省略、車載機関銃は車体前面の1挺のみとされた。甲案(チハ車)の砲塔自体の容積は八九式中戦車とほぼ同等であり、戦闘室容積も同様であるが、砲塔中径(ターレットリング径)には余裕を持たせており、将来の主砲の大口径化による砲塔換装が考慮されていた。設計案の検討時点では、参謀本部側は甲案の12トン程度への軽量化を要求したものの、技術本部からの不可能との回答を得て、性能差を忍び乙案を大量配備する方針に転換した。性能差は配備数の増加で補えるという意図であるが、同時に甲案の開発継続も要望してもいる。これに対して陸軍戦車学校側は2人用砲塔の甲案が絶対的に優位としていた。装甲・速度性能に関しては乙案でも許容可能だが、戦闘力発揮のためには2人用砲塔が必須との主張であった。一方、新戦車の開発は急がれており、結果的に妥協点を見出せないまま双方を試作して検討する形になってしまう。この混乱が後の試製九八式中戦車チホの開発の一因とされる。1937年6月にチハ試作車2輌が三菱重工により完成した。チニ試作車は1輌が陸軍造兵廠大阪工廠により試作された。チハ試作車は予定重量13.5トンに収まったが戦車学校の追加修正を加えた結果、最終的に重量は15トンとなった。チニ試作車は予定重量以下の9.8トンに収まった。チニ車とチハ車の試験の結果はどちらもおおむね良好とされたが、最終的にはチハ車が制式採用され、チニ車は試作のみで中止されることになった。比較的高価、かつ大重量な本車がチニ車を抑えて採用されたのは支那事変により軍事予算全般に余裕ができたのも一因とされる。生産には三菱重工、相模陸軍造兵廠、日立製作所の他、日本製鋼所、日野重工、小倉陸軍造兵廠、南満陸軍造兵廠(奉天)などが関わっている。各国の陸軍が採用する戦車の多くがガソリンエンジンだった時代に、空冷ディーゼルエンジンを搭載していることが大きな特徴である。ディーゼルエンジンは燃料に揮発性の高いガソリンでなく軽油を使用するため、爆発的な火災発生の危険が少なく、また高いオクタン価のガソリンの入手に制限があるなど燃料事情が悪い当時としては、ガソリンを必要としないことは調達・補給の上で非常に有利であった。さらに空冷方式の採用については、想定戦場である満州において「水冷する方式は冷却水の補充や凍結による故障の心配があるので、空冷式を採用することができれば理想的である」と見做され、また、冷却よりもエンジン起動時の保温のほうがむしろ課題であったという経緯があった。しかし空冷ディーゼル方式でガソリンエンジンと同等の出力を得るには大型化せざるを得ず、車体全体に対する機関部の占有率がその分大きくなる欠点もあった。車体前方右寄りに砲塔が設置され、主砲として九七式五糎七戦車砲(口径57mm)を、機関銃は九七式車載重機関銃(口径7.7mm)を砲塔後部と車体前方に搭載した。本車の出現当時の外国製戦車(初期のIII号戦車やBT-5など)と比較して装甲厚や主砲口径などは同程度であるが、もともと対戦車戦闘能力を主眼にした設計ではなく、その想定した敵は37mm級の対戦車砲や歩兵砲、機関銃を装備した歩兵及び陣地であり、その後の重装甲・重武装化した新型戦車には対応することが難しかった。主砲である九七式五糎七戦車砲は、八九式中戦車の九〇式五糎七戦車砲の改良型で、同砲と弾薬筒は共通である。戦訓により不備とされた面の多くが改良されたが、榴弾威力及び装甲貫通力の面で威力向上は考慮されなかった。通常交戦距離で九四式三十七粍砲による九四式徹甲弾の射撃に耐えられることを基準とした装甲(最大25mm)は計画策定時は十分と看做されたものであったが、日中戦争(支那事変)における中国国民党軍が装備したPaK 35/36やソ連軍の19-K 45mm対戦車砲には貫通されている。鹵獲砲を用いた射撃試験では、前者は車体側面下部(25mm厚)に対して命中角90度・射距離300m、後者は砲塔(25mm厚)に対して命中角80度・射距離1,500mの条件で貫徹し得ることが確認された。この結果は開発中だった一式中戦車以降の戦車に反映されたが、本車に関しては装甲の増厚、変更などの改善はほとんど行われず、現地部隊などで少数が改造されるに留まった(現存車両の項目を参照)。しかし、日中戦争における中国国民党軍やゲリラは対戦車砲や戦車、野砲や山砲など強力な対戦車兵器の保有数が部隊規模に比較して少なく、また戦意も高くなく、これらの敵に対して本車など日本軍の戦車・装甲車は有効な兵器であった。また、太平洋戦争緒戦の各南方作戦では、マレー作戦を筆頭に自動車化歩兵・砲兵・工兵・航空部隊との協同戦である電撃戦が行われ、連合国軍が強力な装甲戦闘車両を多く保有していなかったこともあり活躍している。但し、本車は歩兵直協が本来の目的であるため対戦車戦での不利は否めず、ビルマ攻略戦における局地戦で対峙したM3軽戦車との戦車戦では苦戦を強いられた。本車を含む戦車の対戦車能力不足については陸軍も認識しており、本車の次に計画されたチホ車からは口径を47mmに減じる代わりに初速を増大した試製四十七粍戦車砲(後の一式四十七粍戦車砲)を搭載していた。チホ車はまたもや二種類の試作車を比較検討するなど開発が遅延し開発が中止されたが、1940年9月、本車にチホ車の試作砲塔ごと試製四十七粍戦車砲を換装した車両が試験されている。その後改修砲塔の試作・試験が繰り返された結果、(俗称・通称「九七式中戦車改」「新砲塔チハ」)が開発された。この新砲塔チハは太平洋戦争開戦までに十分な数が揃わず戦力化できなかったが、M3軽戦車の出現に対応すべく1942年(昭和17年)4月、フィリピン攻略戦における追撃戦に実戦投入された。戦車第7連隊に編入された同車を装備する臨時中隊(松岡隊)が、同月7日に友軍爆撃機と共同の下、M3軽戦車3輌撃破の戦果を残している。以降、九七式五糎七戦車砲搭載型と並行する形で一式四十七粍戦車砲搭載型の量産が進められ、攻撃力ではM3軽戦車には優越するようになったものの、戦争中盤からアメリカ軍は75mm砲を装備したM4中戦車を投入したため、その後の対戦車戦では苦戦を強いられた。歩兵戦車としては、登場時は列強の戦車と比べても標準的な性能であったが、後継車両の開発が遅延を重ねたため、旧式化した後も本車を使い続けざるを得なくなり、また想定していなかった対戦車戦にも用いられたことで苦戦を強いられた戦車である。本車の場合のみならず、アメリカ・イギリスと比較して資源が不足し技術力に劣り、自動車産業の発展に出遅れていた当時の日本では、自動車生産力の弱点が後の兵器開発に深く影響を及ぼす事になった。「チハ」とは「3番目(イ、ロ、ハ)に開発された中戦車(チ)」である事を表すコードネーム(計画名称・秘匿名称)である。このカタカナ2文字の命名法は本車の開発時から適用されたものであり、八九式中戦車にもさかのぼって命名されている(甲型「チイ」、)。そのため「チハ車(ちはしゃ)」とも表記・呼称された。また、日本陸軍の軍隊符号で中戦車は「MTK」(軽戦車「LTK」、重戦車「STK」等)であるため、陸軍内部における文書等一次資料においては「97MTK」や「97式MTK」といった表記も使用されている。47mm砲搭載型の名称は定かではなく、主な呼称としては、終戦後の連合軍への兵器引渡し時に便宜上付けられたものである「新砲塔」・「新砲塔チハ」や、配備部隊で機甲兵によって呼称されていた「四十七粍(よんじゅうななみり)」といったものがある。軍内部の一次資料では「97MTK(47)」・「97MTK/47」などと表記される事もあった。対戦車戦闘力を上げるため、貫徹力が不十分だった九七式五糎七戦車砲を、貫徹力を重視した一式四十七粍戦車砲に換装した改良型。便宜上、本稿では47mm砲搭載型を「新砲塔チハ」と表記する。従来の日本軍戦車は、歩兵支援重視の考え方から榴弾威力が高くかつ軽量な短砲身の戦車砲を装備していた。戦車の目的は陣地突破、火点制圧、追撃といった歩兵支援であり、対戦車戦闘は歩兵連隊や独立速射砲大隊・中隊などに配備されている連隊砲・対戦車砲(速射砲)が行うものとされていたためである。しかし数次に亙る日ソ国境紛争(ノモンハン事件等)の際、長砲身45mm砲を装備したソ連軍戦車・装甲車との戦闘を経験し、戦車にあっても対戦車性能の向上が望まれた。ノモンハン事件では主力対戦車砲である九四式三十七粍砲が相応の戦果を挙げ、比較的装甲貫徹力が高い九四式三十七粍戦車砲を装備した九五式軽戦車も敵軽戦車・装甲車の撃破を記録した。この戦訓を生かして1939年(昭和14年)から新型戦車砲の開発が始まり、これを搭載できる新型砲塔の開発も始められた。戦車砲は1942年4月に一式四十七粍戦車砲として制式化された。なお、57mm長加農の採用も検討されていたが、一式機動四十七粍砲との弾薬筒共通の便宜のため断念している。九七式中戦車の車体には設計余裕があり、旧砲塔より大型化した新砲塔も無理なく採用できた。また1941年(昭和16年)春には九七式中戦車の砲塔を四一式山砲を元に開発された九九式七糎半戦車砲搭載の大型砲塔に換装した試製一式砲戦車(試製二式砲戦車とも呼称される)が試作され、同年より試験が行われていた。この試作車は後の二式砲戦車 ホイの前身となる。新砲塔チハで換装されたのは砲塔及び主砲だけであり、車体(装甲厚・機関出力等)はそのままであった(戦車第2師団に配備された一部の車両など、現地改造の追加装甲として要部を50mmに強化したものは存在した)。なお、前面装甲厚50mmの一式中戦車の砲塔に酷似した改造砲塔を九七式中戦車の車体に搭載した車両も、数は不明であるが製作された模様(現存車両の項目を参照)。新砲塔チハが開発されたきっかけは、1940年9月、試製四十七粍戦車砲を搭載したチホ車の砲塔を本車に搭載して射撃試験を行ったことに端を発する。その後チホ車開発は中止されたが試製四十七粍戦車砲を搭載した試作砲塔の開発および試験は本車の車台を用いて継続的に行われていたとされる。新砲塔チハの登場時期については、1941年7月に陸軍技術本部が調整した「試作兵器発注現況調書」によれば、試作兵器として、九七式中戦車の砲塔改修及び47mm砲を搭載する改修を行う記述がある。この改修車両の希望完成年月は1941年8月となっている。そして1941年8月29日の兵秘六一七通牒の改修指示に基づき、同年10月より既存の68輌に対して新砲塔チハへの改修が開始されている。1942年3月には十数輌の新砲塔チハが完成し、臨時中隊(松岡隊)が編成され、ただちにフィリピンに送られている。新砲塔チハの初陣は太平洋戦争緒戦の1942年4月7日、フィリピン攻略戦であった。友軍爆撃機と共同の下、M3軽戦車3両を撃破した。以降、新砲塔チハは旧砲塔車から改編ないし協同運用されることになり、概ね1943年(昭和18年)以降の日本陸軍の主力戦車となった。本車には主砲として九七式五糎七戦車砲が搭載された。この砲は八九式中戦車に搭載された九〇式五糎七戦車砲の改良型で、砲そのものの性能は同等であるが機能及び抗堪性を向上させている。尚、「発射装薬の改善と砲尾部の改修により初速が350m/sから420m/sとなった」という記述が散見されるが、仮制式制定段階での砲としての性能は九〇式五糎七戦車砲と同一である。発射速度は標準10発毎分であるが熟練した戦車兵は15発を発砲した。砲塔内は2名で、砲塔左側に砲手兼装填手が、砲塔右側に車長が位置した。本砲の砲本体重量は107kg、砲架は47kgである。九〇式榴弾の弾薬筒重量は2.91kg、九二式徹甲弾で3.13kg、1942年中頃以降に登場した新型の一式徹甲弾で3.25kgであった。また本砲用のタ弾(成形炸薬弾)として、戦争後半に生産された三式穿甲榴弾(弾頭重量1.8kg、装甲貫徹長55mm。)があった。砲架に付属されている肩付け用の器具で砲手に担がれる形で指向照準され、俯角・仰角操作、防盾旋回範囲での左右への指向は人力による。砲塔はハンドル操作のギアによって旋回する。この方式は日本では九〇式五糎七戦車砲から採用され、以後各種戦車砲に採用された。肩付け式の砲の長所は目標への追従性が高く、行進射(動きながらの射撃)が可能な点であった。日本陸軍の戦車兵(機甲兵)は低速の行進射、機動・停止・機動の合間に行う躍進射を徹底して訓練し、動目標に対しても非常に高い命中率を発揮した。熟練度の一例をあげるならば、八九式中戦車の搭載した九〇式五十七粍戦車砲の半数必中界は、距離500m、行進射、中程度の技量という条件下で、上下155cm、左右83cmであった。日本軍戦車隊が交戦距離と想定していたのは500m程度の近距離であるにせよ、スタビライザーと火器管制のない戦車で行進射を行い得たのは戦車兵の熟練度を示すものである。砲本体、弾薬などを一人で操作できうる程度の軽量の兵装にすることで、砲手が照準操作しつつ片手で砲弾を装填することが可能となり、砲手一人でも速射が可能な点も肩付け式の利点である。なお、M3軽戦車の戦車砲も肩付け式の砲であった。本砲の榴弾威力は、九〇式榴弾の場合で弾頭炸薬量250g、九二式徹甲弾でも弾頭炸薬量103gと多く、徹甲弾(名称は徹甲弾だが、実際は徹甲榴弾(AP-HE))であっても榴弾威力を重視した設計となっていた。これらは同時期採用された九一式手榴弾(炸薬量65g)の2倍弱 - 4倍強程度の炸薬量であった。装甲貫徹能力は九〇式五糎七戦車砲と同程度であり、射距離300mで26mm、500mで23mm、1000mで20mm程度である。対戦車戦闘は想定していない砲であり、あくまでも軟目標やトーチカ銃座破壊のための砲であった。1942年4月、ビルマのラングーンにて戦車第一連隊が鹵獲M3軽戦車に対する射撃試験を実施したところ、側面でさえ距離200mから100mでも貫通はできず、3輌から5輌が集中射撃を加えたところようやく装甲板が裂けた、という程度の威力しかもっていなかった。そのため戦車第一連隊ではM3軽戦車と交戦する際には榴弾による射撃に切り替えられた。M3軽戦車はリベットやボルト止め接合による装甲であったので榴弾射撃は効力があり後の交戦でM3軽戦車の擱座・撃破にも成功している。なお本車の九七式五糎七戦車砲、及び八九式中戦車の九〇式五糎七戦車砲の砲身を互換性のある長砲身37mm戦車砲(一式三十七粍戦車砲を基に開発)へと換装することが検討されており、1942年2月、この試製三十七粍戦車砲を本車に搭載して射撃試験が行われている。これは本車や八九式中戦車の旧式化した短砲身57mm戦車砲を、砲身のみ換装することにより一式三十七粍戦車砲と同等威力の戦車砲へと改修することを企図したものであった。この試製三十七粍戦車砲(初速約804m/s)は、一式三十七粍砲や一式三十七粍戦車砲と弾薬(弾薬筒)は共通であり互換性があった。新砲塔チハには一式四十七粍戦車砲が搭載された。防楯は上下左右に稼動し、高低射界(仰俯角)+20~-15度、方向射界(左右角)各10度である。この砲も方向射界の操作は人力による肩付け式(肩当照準)を踏襲している。高低射界の操作は螺旋機構(ウォームギヤ)によるハンドル式(転把照準)となっている。方向射界を10度より大きく取りたい場合は旋回ハンドル(旋回転把)で砲塔を旋回させた(後に一式中戦車に改良型として搭載された一式四十七粍戦車砲II型は、防楯が上下のみ稼動する構造となったため完全な転把照準方式となり、高低射界・方向射界はハンドル(転把)を用いて照準操作した。)砲塔内は2名で、砲塔左側に砲手が、砲塔右側に車長兼装填手が位置した。一式中戦車と同様に専属の装填手が搭乗していたとする説もあり、その場合の砲塔内は3名(乗員5名)となる。装甲貫徹能力の数値は射撃対象の装甲板や実施した年代など試験条件により異なるが、1942年5月の資料によれば、一式四十七粍戦車砲とほぼ同威力の一式機動四十七粍砲では、一式徹甲弾(徹甲榴弾(AP-HE)相当)を使用した場合は、弾着角90度で以下の装甲板を貫徹出来た。試製徹甲弾であるタングステン鋼蚤形弾(後に少数生産された「特甲」弾の基になったと思われる試製徹甲弾)を使用した場合、弾着角90度で以下の装甲板を貫徹出来た。別の1942年5月の資料によれば、試製四十七粍砲の鋼板貫通厚について以下のようになっている。試製徹甲弾であるタングステン鋼蚤形弾を使用した場合、以下の装甲板を貫通するとしている。試製徹甲弾である弾丸鋼第一種丙製蚤形徹甲弾(一式徹甲弾に相当)を使用した場合、以下の装甲板を貫通するとしている。弾丸鋼第一種丙製蚤形徹甲弾の不貫鋼板厚は以下のようになっている。したがってM4中戦車の車体側面・後面(装甲厚約38mm)やM3軽戦車の正面装甲に正撃に近い形で当たれば射距離1,000m以内ならば貫通出来た。1942年4月3日に行われた鹵獲したM3軽戦車に対する射撃試験では、射距離800mにおいて正面装甲を9発中6発貫通、同1000mにおいて6発中3発貫通している。1945年7月のアメリカ軍の情報報告書においては、一式四十七粍戦車砲によりM4A3の装甲を射距離500yd(約457.2m)以上から貫通することが可能(貫通可能な装甲箇所は記述されておらず不明)と記述され、実戦では一式四十七粍戦車砲による約30度の角度からの射撃(射距離150 - 200yd:約137.1 - 182.8m)によりM4中戦車の装甲は6発中5発が貫通(命中箇所不明)したとの報告の記述がある。また同報告書には、最近の戦闘報告から47mm砲弾の品質が以前より改善されたことを示している、との記述がある。1945年8月のアメリカ旧陸軍省の情報資料によれば鹵獲された一式四十七粍戦車砲の射撃試験において射距離500yd(約457.2m)において3.25in(約82mm)の垂直装甲を貫通した事例が記載されている。貫通威力が近似すると思われる(弾薬筒が共用であり初速の差が約20m/s程度)一式機動四十七粍砲の装甲貫通値については以下のように記載されている。また、1945年3月のアメリカ陸軍武器科の情報資料によれば一式四十七粍戦車砲は射距離500ヤード(約457.2m)において、垂直した圧延装甲2.7インチ(約69mm)貫通、垂直から30度傾斜した圧延装甲2.2インチ(約56mm)貫通と記載されており、(貫通威力が近似すると思われる)一式機動四十七粍砲は、射距離1050ヤード(約960.1m)において、垂直した圧延装甲2.5インチ(約63.5mm)を貫通すると記載されている。1945年12月のアメリカ陸軍第6軍の情報資料によれば、一式機動四十七粍砲は至近距離の射撃試験において、装甲に対して垂直に命中した場合、4.5インチ(約114.3mm)貫通した事例があったとしている(射撃対象の装甲板の種類や徹甲弾の弾種は記載されず不明)。陸上自衛隊幹部学校戦史教官室の所蔵資料である、近衛第3師団の調整資料「現有対戦車兵器資材効力概見表」によると四七TA(「TA」は47mm速射砲・対戦車砲の軍隊符号)の徹甲弾は、射距離500m/貫通鋼板厚75mmとなっており(射撃対象の防弾鋼板の種類や徹甲弾の弾種は記載されず不明)、M4中戦車の車体側面:射距離1500m、砲塔側面:射距離800m、車体前面:射距離400mで貫通、となっている。また、1944~1945年調製と思われる陸軍大学校研究部の資料によると、「1式47粍速射砲(原文そのまま)」は、1種:射距離300m/貫通威力84mm、1種:射距離400m/貫通威力81mm、1種:射距離500m/貫通威力78mm。2種:射距離300m/貫通威力57mm、2種:射距離400m/貫通威力54mm、2種:射距離500m/貫通威力51mm、となっている。一式機動四十七粍砲用のW-Cr鋼(タングステンクローム鋼)製の徹甲弾は「特甲」と呼称され、大戦後半に少数製造された。なお、ニッケルクローム鋼製の弾丸を「特乙」と呼んだが、こちらは実際に製造されたかどうか不明である。なお一式徹甲弾より新型である四式徹甲弾は、終戦時に完成品が約5,000発、半途品が約30,000発存在していた。本砲の射撃速度は毎分10発を射撃可能で、行進射の半数必中界は射程500mで上下92cm、左右75cmであった。本車は主要部に浸炭処理された表面硬化鋼(第二種防弾鋼板)を使用し、前面装甲の厚さは25mm、防盾50mmである。側面は25mmから20mm、後面20mm、上面10mm、底面8mm。25mmという厚みは、口径37mm程度の軽便な火砲の近距離からの射撃に耐えるものとするため、九四式三十七粍砲を使用した試験を経て決定されたものであり、この際には150mの距離からの射撃にも耐えて合格とされた。しかし本車の採用後、中国軍から鹵獲した九四式三十七粍砲よりも貫通威力の高い37mm対戦車砲を使用した射撃試験の際には、車体側面下部(25mm厚)に対して命中角90度・射距離300mの条件では貫通されている。本車の組み立ては、主に砲塔と車体がリベット留めとなっているが、砲塔上面・車体上面の一部や車体底板と側板の接合には溶接が用いられた。車体形状を構築するフレームにリベットで装甲を接合した車体は被弾時に鋲がちぎれて飛び、乗員を殺傷することが問題視されていた。そのため、九七式の後継である一式中戦車 チヘでは溶接構造に変更している。本車の燃料タンク(燃料槽)は機関室下部に配置された。被弾時の火災による損害を最小限にする設計上の配慮と考えられる。この設計は一式中戦車など後に開発された戦車にも受け継がれている。燃料タンクの搭載容積は246Lであった。1945年(昭和20年)7月に発行されたアメリカ軍の情報報告書には、鹵獲・調査された新砲塔チハに対する保有各種火器による射撃試験結果が掲載されている。それによると、37mm対戦車砲(M3 37mm砲と思われる)ではAP弾を使用した場合、射距離100yd(約91.4m)において通常角度(戦車正面の正対角度と思われる)から45度まで、いずれの角度から射撃した場合においても、あらゆる装甲箇所を貫通させる事が可能であるが、射距離350yd(約320m)では通常角度からの射撃の場合のみ貫通することが可能であるとしている。また口径12.7mmのM2 重機関銃では近距離である射距離100yd(約91.4m)において、あらゆる装甲箇所を貫通させる事は出来ず、射距離50yd(約45.7m)においては、一番装甲の薄い箇所である車体側面下部の懸架装置周辺、砲塔後部機関銃ボールマウント部分、及び車体後面下部で35%が貫通したとしている。また新砲塔チハ正面部分の装甲は、射距離35yd(約32m)からでは車体機関銃ボールマウント部分以外は貫通しなかったとしている。この報告書では結論として、新砲塔チハに対しては37mm対戦車砲では射距離350yd(約320m)以内、M2重機関銃では射距離50yd(約45.7m)以内での射撃が有効であるとしている。よって、九七式中戦車(57mm砲搭載型も新砲塔チハと砲塔以外の装甲厚は変わらない)に対しては、当時の日本軍の交戦国が使用していた軍用小銃弾の威力では、最も薄い装甲箇所であっても貫通する可能性は極めて低い。エンジンは社内記号「三菱SA一二二〇〇VD」(チハ機とも呼ばれる)が採用された。「S」は「ザウラー式」、「A」は「空冷 Air-Cooled」、「一二二〇〇」は「12気筒200馬力」、「V」は「V型」、「D」は「ディーゼル Diesel」を意味する。繋げると「三菱ザウラー式空冷12気筒200馬力V型ディーゼル」という意味になる。これは、九五式軽戦車に搭載された「三菱A六一二〇VDe」(空冷直列6気筒)をV型12気筒化し、三菱重工業が1937年(昭和12年)に提携したスイスのの技術を導入した物で、複渦流式DI(直接噴射式)、ボア X ストローク=120mm X 160mm、4ストローク、最大出力は170馬力/2,000回転(定格150馬力)、重量は1.2t、さらに変速機と操行装置の重量を加えると全部で2.5tにもなった。V型エンジンにしたことで高さは抑えられたが、大重量大容積の割に出力が低いエンジンであった。当時の直接噴射式は圧力が高く、それに起因したトラブルが燃料噴射装置(燃料噴射ポンプ)などに多発しやすく、また騒音や排煙もひどかった(排煙に関してはエンジンの「油上がり(オイル上がり)」が原因とされ、原乙未生などにより整備方法の改善等の対策が行われている)。潤滑方式はドライサンプで、車体中央部にオイルクーラーが設けられた。エンジンの左右シリンダー列の外側に各2個ずつ取り付けられたファンによって機関室上面の吸気窓から吸入された冷却用空気は、前期型車体では車体後部左右側面の遮風板付き排気窓から車外に排出される構造になっていたが、後期型車体では車体後部左右側面の排気窓は廃され、車体後部左右袖部裏側に移設された排気窓から排出される構造に改められ、防御力と冷却効率の向上が図られた。消音器(マフラー)は機関室の両側面後方のフェンダー上に1つずつの計2つ配置されていた。量産体制も整っていたとはいえず、三菱の他に日立製作所など複数メーカーに製造が分担された結果、制作されたエンジンは細部の仕様・部品が異なるという事態が生じた。また異なる燃料噴射装置(三菱製エンジンは三菱製かボッシュ製、日立製エンジンは日立製の燃料噴射装置を使用)が取り付けられていると互換性は無く、損傷戦車の使えるパーツをつなぎ合わせての再生が望めない。これらは補給、補充が不足がちな日本軍にとって大きな問題になった。また戦況により十分な試験研究がなされないまま制式化され、信頼性を十分に持たせることができなかった。これらの問題は、日本が戦車のディーゼルエンジン化を推進し始めてわずか数年程度と間もない頃であり、1937年時点では開発経験が少なかったことにも起因する。上記の問題に加えてザウラー式の直接噴射式ディーゼルエンジンは高価であった。また直接噴射式には(予燃焼室式と比べて)燃料の汎用性に関する問題もあった。そのため本車以降に開発された戦車の搭載機関は、直接噴射式でなく問題点を改善した予燃焼室式の統制型ディーゼルエンジンなどが採用されている。1941年7月に陸軍技術本部が調整した「試作兵器発注現況調書」によれば、試作兵器として九七式中戦車に統制エンジン(統制型一〇〇式発動機)を搭載する改修を行う記述がある。この改修車両の希望完成年月は1941年8月となっている。なお統制エンジンは九七式中戦車を流用した装甲工作車 セリに既に搭載されていた。本車は、極寒地域における行動も考慮されていた。1938年(昭和13年)12月~翌年1月にかけて北満州における冬季試験(北満試験)が行われた際には、最低気温マイナス32~42度という気候状況下、さらに覆帯に防滑具(鋲)を装着した状態であったが、平坦路上においてエンジン回転数2,000rpm、時速40キロを容易に発揮できたと記録されている。1942年5月6日、戦車第7連隊に編入された新砲塔チハがフィリピン攻略戦に従軍、海岸から上陸を試みたが、海岸前面は45度以上の傾斜で容易に登坂ができなかった。砲爆撃の崩れを利用したものの前進は難航、工兵隊が障害物を爆破したが失敗した。鹵獲したM3軽戦車で登坂を試みたところ成功したため、M3の牽引によって新砲塔チハを引き上げるという事態になった。戦車第1連隊、戦車第6連隊は緒戦のマレー作戦において長駆進撃を行い、1,100kmを58日で移動。また、1944年(昭和19年)後半に行われた大陸打通作戦では、戦車第3師団が1,400kmを30日で移動している。これは255輌が参加、うち行動不能車両は約30%に達した。第1装軌車修理隊はこれらの戦車の回収と修理に活躍した。行動不能に陥った理由は、それ以前の作戦で酷使された車両を作戦に投入していること、部品の融通がきかないことなどがあげられる。しかし、機械的信頼性に関しては優れない点もあったものの、作戦を達成した事実は乗員、整備員の連携や技量の高さを示している。戦車の組織運用に重要な装備として無線(無線電話)がある。当時の戦車では指揮官車しか装備していないことも多かったが、九七式中戦車は当初から無線装置を標準装備とした。57mm砲搭載型では砲塔の上面についている環状のものがアンテナであり(通称「鉢巻アンテナ」)、新砲塔チハでは位置が変更され車体から伸びる直立式アンテナとなった。日本陸軍の車載無線機は大きく分けると九四式、九六式、三式無線機などがあるが、1930年代中頃に採用された九四式無線機以降の無線機の音声通話に関しては、基本的に無線手は首に咽喉送話器(咽頭マイク)をベルトで巻きつけるか、送話器(マイク)を口に当てて送話を行ない、耳にあてた受話器(ヘッドセット)で受話を行なった。かねてより航空機や陸上車両などにおいてエンジンなどの電装系から発生する雑音電波が搭載無線機の送受信を阻害することが問題となっていた。そのため陸軍技術本部は1930年代末より雑音電波防止(電磁遮断・電磁シールド)対策の研究を行い、各電装品に対して防止器の取り付けなど防止方法を開発、全軍用車両に雑音電波防止装置を装着している。太平洋戦争緒戦のマレー作戦においては、上陸した第5師団の先頭を進軍する捜索第5連隊(連隊長佐伯静雄陸軍中佐、九七式軽装甲車 テケ8輌を主力装備とする機械化部隊。本作戦ではさらに砲兵・工兵隊が付随し「佐伯挺進隊」を構成)および、同連隊長の指揮下に入った戦車第1連隊第3中隊(九七式中戦車10輌、九五式軽戦車2輌装備)からなる「特別挺進隊」(兵力600人程)が、英印軍2個旅団(兵力約6,400人・火砲60門・装甲車90両等)が守備し鉄条網や地雷が張り巡らされ、「小マジノ線」とも謳われたイギリス軍・イギリス・インド軍の強力な国境陣地であるジットラ・ラインを1日で突破・制圧(マレー作戦#ジットラ・ライン突破)した。また、約1ヶ月後の1942年(昭和17年)1月6日のにおいて、戦車第6連隊第4中隊(中隊長島田豊作陸軍大尉、九七式中戦車12輌装備)と随伴歩兵・工兵100人余りがトロラク、スリム・リバー、スリムの各陣地を夜襲し、これら全縦深を1日で突破。さらに戦車の機動力を生かした電撃戦を行い先述の各市街を占領するとともに、イギリス軍司令部を攻撃・スリム市街に進出した事で後方の英印軍1個師団の退路を絶つ事に成功。またスリムでは鉄橋を無傷で確保し、島田戦車隊の後を追って進出してきた第5師団と同地にて合流した。これによって、イギリス軍による要衝クアラルンプール(スリム南方に位置)の防衛計画は崩壊、1月11日には同地に日本軍が突入し翌12日に占領。これによってマレー半島のほぼ全土を日本軍が制圧し、イギリス軍はシンガポールに撤退した(シンガポールの戦い)。太平洋戦争の開戦初期において、フィリピンやビルマ方面には米英軍のM3軽戦車が合計250両以上(米陸軍第192戦車大隊54両、第194戦車大隊53両、英陸軍第7機甲旅団約150両など)が配備されていた。M3軽戦車はカタログ上の総合性能では本車(旧砲塔型)を含む日本軍戦車を優越するものであったが、日本軍の攻勢によりこれらのM3軽戦車の大半を失うことになった。損失理由は、その大半が日本軍戦車との交戦以外の要因(日本軍側の火砲や歩兵の肉薄攻撃、故障や撤退などによる連合軍側の処分処置または放棄、降伏による鹵獲)によるものであった。フィリピンの米陸軍第192戦車大隊と第194戦車大隊は降伏により全車損失。ビルマの英陸軍第7機甲旅団は約40~50両を戦闘または事故や機械的問題により損失、また約70両を鹵獲を避けるため自軍によって処分。インド方面に撤退した時点の残存数は数十両のみであった。フィリピン攻略戦において本車(新砲塔)は航空機との共同によりM3軽戦車を3両撃破した。フィリピン攻略戦において本車は松岡隊を除いて戦闘に参加しなかったこともありM3軽戦車との交戦による本車の損失は無かった。ビルマ攻略戦において本車(57mm砲搭載型)を装備する戦車第1連隊では、鹵獲したM3軽戦車の研究を事前に行い、本車(57mm砲搭載型)の主砲(九七式五糎七戦車砲)の貫通能力が不足している問題を把握し、交戦前に対策を練っている。1942年4月27~28日の戦闘では、近距離での待ち伏せや600~1000mの距離を保ちつつ小隊~中隊規模の戦車部隊で集中射撃を行う戦術を行い、苦戦しつつもM3軽戦車5両を撃破炎上・擱座させる戦果をあげた。ビルマ攻略戦においてM3軽戦車との交戦による本車の損失は1両(車体下部の貫通弾が操向装置に命中するも自走可能、乗員死傷者なし。)であった。日本軍第15軍の「主要兵器毀損亡失一覧表」によれば、ビルマ攻略戦の作戦期間中における日本側の戦車及び装甲車の損失数は、九七式中戦車1両、九五式軽戦車8両、九四式軽装甲車1両となっている。開戦初期の攻略戦において、M3軽戦車との交戦による本車の損失は少なかった。本車が最も多くの損害を出したのはM3軽戦車との交戦によるものではなく、連合軍の戦車が配備されていなかったマレー攻略戦であった。マレー攻略戦に投入された本車83両(文献により88両)のうち、英軍の火砲(主に2ポンド対戦車砲)による待ち伏せ攻撃などによって廃車13両(うち炎上によるもの6両)、破壊11両(修理可能)の損害を受けている。1943年末以降、オーストラリア陸軍はニューギニア本島やボルネオ島などにマチルダII歩兵戦車のCS型を投入している。ニューブリテン島のラバウルには本車を装備する戦車第8連隊が配備されていた。しかし本車の配備されている地域に投入されることはなかったため、交戦した事例は確認されていない。大戦後半の防御主体の作戦においても、後継車両の不足と貴重な機甲戦力のため終戦に至るまで各戦線に投入された。硫黄島の戦いでは同島に九七式中戦車(新砲塔チハ)11輌と九五式軽戦車12輌を装備する戦車第26連隊(連隊長男爵西竹一陸軍中佐)が配備されていたが、西中佐は当初、機動兵力として戦車を運用することを計画したものの、熟慮の結果、移動ないし固定トーチカとして待伏攻撃に使われることになった。移動トーチカとしては事前に構築した複数の戦車壕に車体をダグインさせ運用し、固定トーチカとしては車体を地面に埋没させるか砲塔のみに分解し、ともに上空や地上からわからないよう巧みに隠蔽・擬装されていたとされているものの、実際には至近距離での戦車戦を行っていたという目撃証言が残されており、真相は不明である。フィリピン戦末期の1945年4月12日、戦車第10連隊第5中隊に属するチハ車(57mm砲搭載型)1輌が、同中隊の九五式軽戦車1輌と共に、爆薬を装着したブームを取り付けてM4中戦車に体当たりする特攻を敢行した(戦車特攻)。同連隊主力は激しい戦闘の末既に壊滅しており、対戦車能力を持つ戦車は皆無であったことから、窮余の策として行われた攻撃である。当該地区の地形に依拠したこの攻撃は成功を収め、山下兵団司令部の撤退を成功させた。最末期の占守島の戦いでは、同島に展開した九七式中戦車(新砲塔チハ20輌、57mm砲搭載型19輌)39輌、九五式軽戦車25輌を装備する精鋭部隊たる戦車第11連隊(連隊長池田末男陸軍大佐)が、上陸したソ連軍と交戦。連隊長車を先頭に突撃を行い四嶺山の敵部隊を撃退し、同山北斜面の敵部隊も後退させている。ソ連軍は対戦車砲4門・対戦車銃約100挺を結集し反撃を行い、連隊長車以下27輌を撃破ないし擱座させたが、四嶺山南東の日本軍高射砲の平射を受け、また日本側援軍の独立歩兵第283大隊が参戦したため、上陸地点である竹田浜方面に撤退している。終戦時の時点で九七式中戦車は、日本本土の各部隊に57mm砲搭載型が74輌前後、47mm砲搭載型が418輌前後、南方軍には31輌前後(搭載砲不明)が残存していたと思われる。本土の47mm砲搭載型が418輌前後という数字は一式中戦車の生産数を170輌とした場合であり、両車合計では588輌前後が残存していたと推定される。また砲戦車の生産遅延対策として57mm砲搭載型が配備されていた事例も多く、57mm砲搭載型に関しては74輌よりも残存数は多いとされるが、57mm砲搭載型の車体を自走砲や砲戦車に転用された事例も多いと思われる。その他、関東軍・支那派遣軍における残存数は不明である。終戦後には中国大陸において、日本軍の装備の多くが国民革命軍(国民党軍)と紅軍(共産党軍、1948年以降は人民解放軍)に接収され、九七式中戦車も両軍で使用された。これらはのちの国共内戦でも使用され、特に人民解放軍のものは国民革命軍相手に大きな戦果を挙げている(「功臣号」)。日本国内では、砲塔や武装を撤去し障害物撤去用のドーザーを取り付けたブルドーザー(「更正戦車」)が相当数作られ全国で使用された。中でもその改造装甲車両が治安維持を名目に警察に配備され、東宝争議などに出動、東京都では1949年(昭和24年)の大雪の時にも出動している他、北海道では長く使用されていた。その他、本車車体を利用して作られたクレーン車が1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)頃まで横浜港で使用されていた。日本国内に現存する九七式中戦車の実車は、戦後サイパン島から還送された戦車第9連隊所属の57mm砲搭載型が靖国神社の遊就館および、静岡県富士宮市の若獅子神社(陸軍少年戦車兵学校跡地)に展示されている。また、2005年に神奈川県三浦市の雨崎海岸の土中より車台部分の残骸が発見された。新砲塔チハの実車は、比較的多くの車両が以下の博物館等でそれぞれ保存・展示されている。また、アメリカのRopkey Armor Museumには、一式中戦車の砲塔に酷似した増加装甲付きの改造砲塔(言われているような一式中戦車の砲塔その物ではない)の新砲塔チハが展示されているこの改造砲塔車は、以前はワシントン海軍工廠に展示されていた車両である。砲塔外観は一式中戦車チヘ砲塔に酷似しているものの、チヘ砲塔とは細部が異なり、砲基部の周辺形状や防盾が左右に可動することなどから搭載戦車砲は新砲塔チハの物と同一である。また戦後にアメリカ軍が撮影した写真には、集積された戦車の中に、チヘ砲塔に酷似した増加装甲を施した新砲塔チハ(車体はチハ前期型)が、斜め後方からの撮影のため不鮮明ながらも確認できる。これらの車両については、日米の新資料が出てこない限り正体を断定することは出来ないものの、戦争末期に相模陸軍造兵廠などにおいて、既存の新砲塔チハ砲塔に増加装甲を施し、一式中戦車チヘ砲塔の外観を模した砲塔改修を行った車両である可能性がある。陸軍省 「昭和20年度 軍需品整備状況調査表」によれば、昭和20年4月~6月の間に相模陸軍造兵廠において32輌のチハ車に対して砲塔改修が行われている(ただし砲塔改修の内容については詳細は記述されておらず、増加装甲を施す改修であったのかは不明である。)。他、占守島などいくつかの旧戦場において擱座・廃棄された状態の車両が存在し、サイパン島には修復されていない数輌が展示されている。本車は一貫して第二次世界大戦時の日本陸軍の主力戦車であり、多数の後継型・派生型が存在する。なお、大戦後半に多種の自走砲が出現したことには、本車の車台が野戦砲を搭載するのに適当であったことのほかに、57mm砲塔を搭載していた車両の再戦力化という意義もあった。
出典:wikipedia
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