公爵(こうしゃく、、)は、爵位(五爵)の第1位である。侯爵の上位に相当する。ヨーロッパの貴族の称号の訳語、古代中国の諸侯の称号、また明治以降から戦前まで使われた日本の華族の称号として用いられる。日本ではこの「公」によって(英語の場合であれば)princeとdukeの両方の称号を表そうとしたため混乱を生じることとなった。princeは基本的には小国の君主や諸侯、王族の称号であり、dukeは諸侯の称号である。日本語では、例えばモナコやリヒテンシュタインの君主、マルタ騎士団長などのprinceを「公」ではなく「大公」と訳すことで「公爵」(duke)との区別をつけようとする場合がある。ただし、こうして便宜的に使用された場合の「大公」は、ルクセンブルクの君主がもつ称号grand dukeやロシア等のgrand prince、オーストリアのarchdukeと区別される必要が改めて生じてくる。フランス語でも公爵はprinceである。逆に、日本の華族制度における「公爵」の公式英訳にはdukeではなくprinceが当てられたが、たとえば伊藤博文や近衛文麿の爵位が英米ではprinceと訳されることとなり、皇族と誤解されるような場合があった。日本では、明治維新後の1884年(明治17年)に華族令(明治17年宮内省達)が制定され、華族制度が定められた。同令第2条において、華族を世襲制の公侯伯子男の五等爵とし、公爵はその第1位とした。1889年(明治22年)に、貴族院令(明治22年勅令第11号)が制定されると、公爵は同令第1条2号により、公爵たる者は貴族院議員となる資格を与えられることが規定された(華族議員)。1907年(明治40年)には、華族令(明治40年皇室令第2号)が制定され、襲爵、華族の品位その他の手続きが細かく規定された。公爵は以下の基準(「叙爵内規」)によって授けられた。※ 特記のない限り、1884年(明治17年)7月7日に受爵。イングランドに確固たる貴族制度を最初に築いた王は征服王ウィリアム1世()である。彼はもともとフランスのノルマンディー公であったが、エドワード懺悔王()の崩御後、イングランド王位継承権を主張して1066年にイングランドを征服し、イングランド王位に就いた(ノルマン・コンクエスト)。重用した臣下もフランスから連れて来たノルマン人だったため、大陸にあった貴族の爵位制度がイングランドにも持ち込まれることになった。イングランドの公爵(Duke)は、伯爵(Earl)と男爵(Baron)に続いて創設された爵位だった。1337年にエドワード3世()が皇太子エドワード黒太子にコーンウォール公爵(Duke of Cornwall)位を与えたのが公爵の最初である。続いて1351年に同じくエドワード3世がヘンリー3世()の曾孫であるヘンリーにランカスター公爵(Duke of Lancaster)位を与えたことで公爵位が貴族の最上位で王位に次ぐ称号であることが明確化した。臣民に公爵位が与えられた最初の事例は、1483年にリチャード3世()よりノーフォーク公爵(Duke of Norfolk)を与えられたジョン・ハワードである(もっとも彼も先祖を遡れば王族にたどり着く)。その後、臣民の公爵位はステュアート朝期(特に王政復古後の最初の国王チャールズ2世時代)に急増した。ハノーファー朝期にも公爵位の授与が行われ、最も多い時期には40家の公爵家が存在した。しかし家系の断絶でその数は減少していった。2014年現在臣民の公爵家は24家にまで減っている。公爵内の序列はまず王族公爵が別格で先頭である。その下におかれる臣民公爵たちはイングランド貴族公爵、スコットランド貴族公爵、グレートブリテン貴族公爵、アイルランド貴族公爵、連合王国貴族公爵の順番で序列付けられる。宮中席次における臣民公爵の序列は、国王(女王)、王妃(王配)、皇太子、王子、カンタベリー大主教、大法官、ヨーク大主教、首相、枢密院議長、庶民院議長、国璽尚書、英連邦高等弁務官及び外国大使に次ぐ13番目である。侯爵から男爵までの貴族が「卿(Lord)」と尊称されるのに対し、公爵のみは「閣下(Your Grace)」と尊称される。また公爵・侯爵・伯爵は従属爵位を持っているのが一般的であり、嫡男は父の持つ爵位のうち二番目の爵位を儀礼称号として称する。
出典:wikipedia
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