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天塩国

天塩国(てしおのくに、古い文書では「天鹽國」)は、大宝律令の国郡里制を踏襲し戊辰戦争(箱館戦争)終結直後に制定された日本の地方区分の国の一つである。五畿八道のうち北海道に含まれた。道北に位置し、現在の留萌振興局管内の全域と、上川総合振興局管内の塩狩峠以北(幌加内町は含まない)および宗谷総合振興局管内の豊富町と幌延町、さらに稚内市の最南端の一部にあたる。※ここには天塩国が制定されるまでの歴史も記述する。鎌倉時代ごろになると、仏教の布教のため僧もさかんに北海道に訪れたと言われている。特に北海道の日本海側は太平洋岸・道東と比較すると和人の進出が早く、布教のため樺太に渡った日持上人も日本海側を北上したと見られている。また、鎌倉時代以降、北海道の日本海側には唐子と呼ばれる蝦夷(えぞ)の一群がおり、これを蝦夷沙汰職・蝦夷管領(室町時代以降の役職名は蝦夷管領)が統括していた。江戸時代には、天塩国域でも松前藩によって開かれた場所と呼ばれる知行地で松前藩家臣と蝦夷との交易が行われた。場所に関する制度の詳細は商場(場所)知行制および場所請負制の項を参照のこと。天塩国域に開かれた場所と後に置かれた郡の対応は下記のとおり。江戸時代初期の寛文9年6月、日高国域を中心に起こった和人と蝦夷(アイヌ)の戦いシャクシャインの蜂起の際、天塩国域内でもマシケ周辺で和人が殺された。この時代の陸上交通は、文化5年(1808年)、留萌支配人山田屋文右衛門によって留萌からニセバルマ、エタイベツを経て石狩川流域のシラリカ(石狩国の樺戸郡と雨竜郡の境界の川)に出る約25里(98.2 km)の雨竜越が開削された。また、北に隣接する北見国宗谷郡方面へは沿岸部を陸路で通行でき、留萌場所などに馬を配置する際は北見国経由で送られていた。安政4年(1857年)(寛政8年(1796年)との資料もある)には浜益・増毛両場所請負人伊達林右衛門が自費を投じ、南の石狩国浜益郡から増毛に至る9里(35.3 km)余の増毛山道が開削されている。この他、増毛山道よりも海側に開削年不詳であるが石狩国浜益郡の千代志別と雄冬を結ぶ雄冬山道も存在した。雄冬山道は岩老まで海岸を進み、そこから山に入って増毛山道に合流する。また天塩国内の河川には藩政時代から廃使置県までの間6箇所の渡船場数があり渡し船なども運行されていた。海上交通は、北前船が留萌などに寄港していた。江戸時代後期には天塩国域は西蝦夷地に属した。文化4年南下政策を強力に進めるロシア帝国の脅威に備え、西蝦夷地は公議御料(幕府直轄領)とされ津軽藩が増毛勤番越冬陣屋を築き警固を行った。文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年(1855年)再び公議御料となり、マシケには秋田藩が元陣屋を構え、留萌郡以北は庄内藩が留萌・苫前・天塩に出張陣屋を築き、警固を行った。安政6年(1859年)の6藩分領以降、増毛郡(マシケ)は秋田藩領、留萌郡北は庄内藩領となっていた。寺院は、安政年間以降に秋田藩が藩士や住民の死者を弔うため増毛郡に普伝寺を建立している。神社は宝永年間に創建された増毛郡の厳島神社、天明6年創建の留萌神社と苫前神社、文化元年に創建された天塩郡の厳島神社、文政年間に創建された苫前郡の稲荷神社などがある。以下の六郡で構成された。明治5年(1872年)の調査では、人口1576人を数えた。

出典:wikipedia

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