赤字83線(あかじはちじゅうさんせん)とは、1968年(昭和43年)9月に国鉄諮問委員会が提出した意見書により、「使命を終えた」としてその廃止を促された日本国有鉄道(国鉄)のローカル線、もしくはその廃止の取組みをいう。この取組みは、戦時中の不要不急線の休止を別にすれば、積極的に国鉄ローカル線を廃止しようという初めての動きであり、国鉄末期の特定地方交通線転換の取組みの前史ともいえるものである。意見書により、「使命を終えた」とされたローカル線の選定基準は次のとおりである。などこの基準により、83線 (2,590.6km) が選定され、国鉄は、翌年から地元との廃止協議に入ったが、各地で反対運動が盛り上がって進捗は滞り、廃止協議すらままならない場所も多く、1972年(昭和47年)までにわずか11線 (116.0km) が廃止されたのにとどまった。この他に83線に含まれていなかった4線 (19.0km) も廃止されており、合わせて15線 (135.0km) が廃止されている。しかし、この間にも日本鉄道建設公団(鉄建公団)によるローカル線建設は続行され、廃止の一方で新たなローカル線が開業し、これら新線が新たな赤字を生み出すという矛盾が生じていた。赤字83線の取組み中に開業したローカル新線は、11線 (163.0km) で、結局差し引きほぼゼロという奇妙な状態であった。また、この問題は成田空港アクセスにも影を落としている。当初国鉄の東京 - 成田空港間の鉄道路線は在来線形式の高速線とする案であったが、「赤字83線を廃止しながら新規建設をするのはおかしい」との横やりが入ったため、整備新幹線計画に組み込むという便法を用いる羽目になった。その結果、建設反対運動により計画そのものが頓挫してしまう。1972年(昭和47年)7月、田中角栄が内閣総理大臣に就任すると、この赤字路線廃止の取組みは、あえなく打ち切られることになった。田中は自著『日本列島改造論』において、"「赤字の地方線撤去は、論外。私企業と同じ物差しで国鉄の赤字を論じて再建を語るべきではない。」"と主張している。果たして、田中は鉄建公団の生みの親ともいうべき人物である。これに対する反省が、後の特定地方交通線転換の強力な取組み、さらには小松島線・鍛冶屋線などで見られた硬直化した路線廃止へのこだわりにつながっていく。また、赤字83線に名を挙げられながら生き残ったローカル線の多くも特定地方交通線に名を連ね、その大半が消えていった。最終的な転換特定地方交通線の数は、奇しくも同数の83線であった。一方で、「赤字」に上げられながら新規に延伸し、現在もJR線として存続している路線も存在するが、それらの路線の大半が赤字83線の挫折以後も存廃を論議されたことのある状態である。以下本項では便宜上、意見書が提出された1968年(昭和43年)9月以降、1972年(昭和47年)7月7日の田中内閣発足までを取組み期間とする。路線名称は1968年当時のもの。赤字83線取組み終了後に開業した指定路線の延長区間については上記参照。(具体的には、白糠、阿仁合、古江、日ノ影、気仙沼、越美北、三江、宇和島、牟岐の各線)
出典:wikipedia
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