強制労働(きょうせいろうどう)とは、自分の意思によるものでなく、他の者に強要されることによってする労働。労働酷使のような意味で使われることが多い。しばしば奴隷的な拘束・待遇を伴う。日本、ソ連、中国については後述。国際労働機関は、強制労働を禁止するために、1930年に『強制労働に関する条約(第29号)』を採択した。日本は1932年に批准している。しかしこれは列強国の植民地支配下の強制労働を背景に制定されたため、1948年採択の世界人権宣言の基準にそぐわない強制労働を禁止することができなかった。そこで1957年にはこの条約を補完する『強制労働廃止条約(第105号)』が採択された。この条約の批准国は2013年7月現在、172カ国である。 日本国は2013年7月現在、この条約を批准していない。江戸時代には浮浪者や無宿者を集めた人足寄場(ただし、これは更生施設や職業訓練所としての側面もあったと言われている)、佐渡金山の水替人足や、蝦夷地の場所請負制などで強制労働が見られた。幕末の戊辰戦争から明治初期の動乱期にかけて政治犯として逮捕された者などは、北海道の集治監(現在の刑務所に相当)に送られ、炭坑労働や鉄道敷設の現場で強制労働させられた。集治鑑の死亡率があまりにも高く問題になったことから、明治中期には囚人の強制労働は中止され、民間の雇用による強制労働(タコ部屋労働)に変化した。第二次世界大戦時には国家総動員法により、日本国民、外地(占領地の人間も含む)からの動員者、捕虜によるタコ部屋労働が強化された。また、従軍慰安婦や朝鮮人・中国人労働者が強制連行され、労働に従事させられたと主張されることもあり、論争になっている(強制連行参照)。現在、日本では日本国憲法第18条に定められた「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。また、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」の趣旨を受けて、労働基準法(労基法)で暴行、脅迫、監禁その他精神または身体の自由を不当に拘束する手段によって、労働者の意思に反して労働を強制してはならないとし、肉体的な拘束のみならず脅迫や精神の自由を奪うことによって、本人の意思に反して労働させることを禁止している(労基法第5条、下記に記載)。労基法第5条違反の判例としては、広島地裁昭和26年5月1日及び名古屋地裁昭和25年9月13日などがあり、労働基準法第17条の前借金に絡む労働者の足留めや強制労働についてのものである。一方、強制労働の原因ともなる前借金や、労働することを条件とする前貸しの債権について、賃金との相殺を禁止した労働基準法第17条と関連した事件もある。従業員が早期に退職しようとした場合について、昨今では青木定雄と青木信明のエムケイタクシーにおける、タクシー運転手に必須の二種免許取得費用の返済や、費用が会社負担だった同社運転手のイギリス英会話留学(エムケイホームページ)の費用の返済、などに絡む強制労働問題などがある。エムケイがおこなっている、公共職業安定所への同社の求人票などとは極端に異なる労働条件での就労の、半ば強要か強制労働に当たるのではないかという問題がある。判例の傾向としては運転手の在社就労期間が極端に短期ではなく会社に収益をもたらしていた場合、当該費用についてはタクシー業務との関連性が認められている。今日他社タクシー会社では二種免許取得費用の会社全額負担が趨勢である。強制労働問題に関しては具体的状況が民事裁判での和解などで考慮されている。サービス残業も参照。このほかにも現在の日本では知的障害児施設で虐待等により強制労働を強いていたという事件(例「水戸事件」、滋賀の「サン・グループ事件」)がいくつか起こっている。脳性麻痺患者による障害者患者会、大阪青い芝の会は1972年に会報で「障害者は働くことはよい事なのだ、働けないことはいけないことなのだと教えられている」、「ことあるごとに『働くことはよいことなのだ。働く所がなければ授産所へ行っても働け』といわれ続ける」、「街を歩けば『どこの施設から逃げてきたのだ』と言葉をかけられる」などと障害者が直面している就労に関する実態を明かし、「この現実を私達は拒否します」と表明している。ロシア帝国時代から囚人の強制労働が行われてきたが、ソビエト連邦では1920年後半頃から政治犯などの囚人の労働力が注目され強制労働がより行われるようになった。当時のソ連では重労働を伴う分野での労働力不足が深刻であり、労働力確保を目的として囚人を確保する側面もあった。スターリン体制下の1930年代以降は強制収容所である「ラーゲリ」の数が爆発的に増加した。白海・バルト海運河建設などに動員された白海・バルト海矯正労働収容所では1932年から1941年にかけての10年間で3万人近い死亡者を出した。スターリンはポツダム会談でチャーチルが炭鉱労働者不足を嘆いた際に「ドイツの捕虜を使えばいい。わが国ではそうしている」と答え、4万人のドイツ人捕虜を本国に移送することをすすめるなど、捕虜を労働力としてしか見ていなかった。ソ連は1929年のジュネーヴ条約に加わっていなかった。ヤルタ会談では賠償は役務や現物による支払いで行われる役務賠償が合意された。この役務賠償の考え方は、捕虜の強制労働を正当化する理由ともなった。ポーランド侵攻以降獲得した各国人捕虜は389万9397人におよび、1949年1月1日の段階で56万9115人が死亡し、54万2576人が未帰還のまま抑留された。特にドイツ人の死亡率は高く、スターリングラード攻防戦での捕虜6万人のうち、帰還できたのはわずか5千人であった。ソ連によるシベリア抑留では、終戦後、約107万人の日本人が強制労働に従事させられ、約34万人が過酷な環境で死亡した中華人民共和国では現在も、政府や企業において強制労働させている実態が伝えられており、問題が指摘されている。中国では不穏分子とみなされた人々を裁判もせずに強制収容して労働教養制度にて強制労働をさせていることが伝えられている。この強制労働キャンプは「労働改造所(労改:ラオガイ)」とも言われ、時事英語としても通る名前となり、2005年には米議会で「中国の強制労働」と題する公聴会まで開かれ、約1千箇所の監獄があり、無償で働かされ、その生産物は日本や米国に輸出し、中国は利益を上げていると発表された。この問題に取り組む人権活動家によれば、300万人以上が強制収容されているとし、その状況を訴えるために2008年、ワシントンD.C.に中国の強制労働問題をテーマにした「労働改造博物館」をオープンさせている。2012年10月、アメリカのオレゴン州に住む女性が中国製品を買ったところ、その製品の梱包の中から中国当局による強制労働の実態を告発する手紙が見つかるという事件があった。この手紙は英語と中国語で書かれており、それによると遼寧省の労働教養院の強制労働従事者は「1日15時間労働で、休みもない。従わなければたたかれるなどの虐待を受ける。給与はないに等しい」という実態を告発し、手紙を偶然に見つけた人に対し、手紙を人権団体に届けてくれと訴えている。現在、アメリカ当局が手紙の内容を精査している。2007年には中国山西省臨汾市のレンガ工場一帯で5万3000人以上の不法入国移民を使用し、誘拐した子供1000人以上を強制労働させていることが判明した。子供らを1日14時間労働させ、食事も十分に与えず、暴力も加えていた。中には8歳の幼い子供もおり、最長で7年間強制労働させられていた者もいた。中国の自治体関係者や警官も荷担していた事実が発覚している。2008年には中国黒竜江省ハルビン市の建設現場で知的障害者34人を強制労働させていた事実が発覚。約30平米の部屋に閉じ込められ、1日2回の食事でレンガや砂利の運搬をさせられ、逃亡しようとした者には暴力で服従させていた。韓国では、知的障害者を人身売買し、離島の塩田で、一切給与を支払わず、監禁して強制労働させていた事件が、2014年に発覚した。外国人労働者への虐待が蔓延しており、「(韓国)当局は、搾取と強制労働のための人身売買をまん延させる恥ずべき制度を作り上げている」とアムネスティ・インターナショナルが報告した。"※シベリア抑留についてはシベリア抑留#シベリア抑留に関連する作品を参照。" "24688
出典:wikipedia
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