仙台藩(せんだいはん)は、江戸時代に陸奥国の仙台城(現・宮城県仙台市)に藩庁を置いた、表高62万石の藩である。現在の岩手県南部から宮城県全域までと福島県新地町の約60万石を一円知行で治め、現在の茨城県および滋賀県に合計約2万石の飛び地があった。江戸時代を通じて外様大名の伊達氏本家が治めた藩であり、伊達藩(だてはん)と呼ばれることもある。外様大名の伊達政宗が樹立し、以降は明治の廃藩置県まで代々伊達家本家が統治した。伊達家本家は、大広間詰国持大名。代々、将軍家より松平姓を許され、歴代藩主のほぼ全員に陸奥守の官位が与えられ、世嗣の殿上元服・賜諱(偏諱の授与)があった。江戸上屋敷は汐留(のちに新橋停車場、現在は日本テレビタワーが建つ)、下屋敷は現在の東京都港区南麻布1丁目一帯(仙台坂付近)、品川区東大井4丁目 - 南品川5丁目(旧仙台坂付近)にあった。表高62万0056石5斗4升4合で、諸藩のうちで第3位、実高は支藩の一関藩を含め、18世紀初頭には100万石を超えた。地方知行によって多数の陪臣を抱え、直属家臣約7000人(江戸中期以降には約1万人)、陪臣をあわせて2万数千から3万の兵力(江戸中期以降は約3万5000人)を擁した。領内の産出米は大消費地・江戸の食料を支え、干しアワビやフカヒレは長崎俵物として外貨を稼いだ。豊臣秀吉の朝鮮出兵(慶長の役)の際、名護屋城には20万余の在陣軍が置かれた(朝鮮侵攻軍は14万1500人)。名護屋在陣軍の代表格である徳川家康と前田利家は、雑兵同士の「水汲み騒動」をきっかけに、両家を支持する諸大名と共に、徳川方、前田方に分かれて合戦寸前の状態となった。このとき伊達政宗は諸大名を代表し、家康、利家のそれぞれと直談判して、戦いを未然に防いだ。秀吉が死ぬと、家康は秀吉の遺言を無視し、伊達政宗と縁戚関係を結んだ。政宗は家康の政権奪取に協力し、利家ら五大老、および五奉行の中心人物石田三成らに対抗した。家康は利家の死後、前田家を継いだ前田利長に家康暗殺未遂事件の容疑をかけ、利長を屈服させた。家康・政宗を中心とする“反豊臣勢力”は、他の五大老、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家および三成らとの対立を深刻化させた。こうして、家康により豊臣政権は分裂させられ、関ヶ原の戦いへと繋がっていく。関ヶ原の戦いでは、政宗は混乱に乗じた勢力拡大、さらにあわよくば天下取りをも狙っていたと見られる。1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いに際し旧領復活を狙う政宗に対し、家康は戦いの直接原因となった上杉景勝の動きを封じ込めるという重要な役割を与えた。家康は政宗に、東軍勝利の暁には秀吉に没収された伊達郡、置賜郡などの旧領を回復し、所領を100万石にまで加増するという約束をした(いわゆる「百万石のお墨付き」)。しかし、合戦が長期化すると見た政宗は、家康をあてにせず自らの力で所領を切り取る戦略を取る。政宗は上杉領へ攻め込み、景勝から刈田郡を奪い取った。また、上杉勢に攻め込まれた最上義光へも援軍を送るが、合戦を傍観させる。さらに、政宗は同じ東軍の南部信直の南部領和賀郡で元領主の和賀忠親を支援し、和賀一揆を起こさせる。ところが、政宗の予想に反し、中央での合戦はたった1日で終結してしまった。結局、政宗が切り取ることができた所領はわずかで、一揆扇動も露見して失敗してしまう。戦後、家康は政宗の裏切り行為を不問に付す代わりに、政宗に約束した百万石のお墨付きを反故にした。露骨な野心を家康から警戒された政宗は、戦勝後に有力大名の中で最後まで帰国を許されず、江戸の天下普請に動員されるなど、2年間を領国外で過ごした。この間、1601年(慶長6年)、政宗は国分氏の居城であった千代城を修築(実質は新築)し、「仙台城」と改称し、居城を岩出山城から移した。同時に城下町も建設し、政宗を初代藩主とする仙台藩(62万石)が成立した。1611年(慶長16年)に仙台を訪れたスペイン領メキシコの対日特派大使セバスティアン・ビスカイノは、仙台城から見降ろした仙台の城下町の様子を「江戸と同じくらいの大きさだが、建物はもっと立派」と報告している。この時期の仙台城下町人口は5万人と推定されている。政宗は仙台藩とスペインとの通商(太平洋貿易)を企図し、1613年(慶長18年)、仙台領内で西洋式帆船(黒船)、サン・ファン・バウティスタ号を建造した。当時、フェリペ3世を国王とするスペイン帝国は、世界最大の植民地帝国であった。政宗は家臣の支倉常長を外交使節に任命すると、支倉常長を中心とする一行180余人をノビスパニア(メキシコ)、イスパニア(スペイン)、およびローマへ派遣した(慶長遣欧使節)。当時は、西日本の藩を中心に東南アジア地域との貿易が盛んであったが、直接ヨーロッパと貿易をすることで大きな利潤を得ようとしたものである。政宗が使節を送った目的として、スペインとの軍事同盟、さらにはそれを利用しての倒幕があったとの説もある。慶長遣欧使節団の派遣は、対スペイン貿易を志向する徳川幕府の承認、すなわち“外交権”を得たものであった。なお、支倉常長らは、初めて太平洋・大西洋の横断に成功した日本人でもある。しかし翌年、幕府は禁教令を出し、キリシタン及び宣教師の弾圧を始める。この情報がヨーロッパにも伝わり、仙台藩によるスペインとの外交交渉は失敗に終わった。幕末には藩士の玉虫左太夫が日米修好通商条約の使節団に加わっている。政宗の跡を継いだ第2代藩主・忠宗は、内政を充実させると共に、正室に徳川秀忠の養女振姫(池田輝政の娘で家康の孫娘)を迎えるなど、将軍家との関係を深め、幕府へ従順な態度を示して警戒を解こうと努力した。しかし、振姫との間の世子光宗が夭折すると、櫛笥隆致の娘貝姫との間に生まれた綱宗が後継者になる。忠宗が没すると、伊達騒動と呼ばれるお家騒動が起きる。貝姫の姉・隆子が後西天皇の生母で、綱宗は天皇の従兄弟になり、幕府に警戒されたと言われ、綱宗は隠居させられ、幼君亀千代が立てられた。亀千代は成人し、第4代藩主綱村となったが、綱村は浪費によって多額の借金を生み出し、藩財政を致命的な状態に陥れたため、重臣らと対立して隠居に追い込まれた。第5代藩主・吉村は藩財政の再建に取り組み、買米制を利用して利益を上げる一方、幕府に対し仙台藩内の銅を利用することを条件に鋳銭を願い出て許可を得た。石巻に鋳銭場(現代の石巻駅前、地名に残る)を設置し、寛永通宝を鋳造した。この他に「仙台平」と呼ばれる絹織物の生産、鉱山開発、馬産の奨励を行った。これらの財政再建策の成功により、吉村は中興の祖と称えられる。しかし、第6代藩主・宗村の代に発生した宝暦の大飢饉により買米バブルが崩壊すると、再び藩財政は破綻する。第7代藩主・重村の失政に天明の大飢饉があいまって、借金は増大する一方であった。19世紀初頭の一時期、家老・中村景貞の施策により小康状態を得たが、その後は天保の大飢饉や海岸防備への対策費用捻出により、財政難は壊滅的状況へと逆戻りしていった。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟を結成し、盟主となった。仙台藩は当時、日本国内有数の兵力を有していたものの、ジャーディン・マセソン商会を介してイギリスから大量に最新型の銃器を購入していた薩長軍と比べると、兵士当たりの銃器の保有数や銃器自体の性能が圧倒的に不足していた。仙台藩は東北地方の列藩会議を主宰し、奥羽鎮撫総督府に対して会津藩の赦免を懇願した。しかし、それが奥羽鎮撫総督府下参謀・世良修蔵(長州藩)によって握りつぶされると、仙台藩士・姉歯武之進らが世良を殺害する。その後仙台藩は、奥羽鎮撫総督府軍を撃破して総督九条道隆や参謀醍醐忠敬らの身柄を確保して、仙台城下に移した。これと呼応して、会津藩が白河城を攻略した。仙台藩は安政2年(1855年)以降、蝦夷地において、白老から択捉までの東蝦夷地の警衛を任されており、安政6年(1859年)には白老、十勝、厚岸、国後、択捉を所領し、仙台藩の領地・警衛地は併せて北海道の全面積の約3分の1を占めた。北海道の残りは、庄内藩、会津藩、秋田藩、南部藩、津軽藩の東北五藩と松前藩によって警備された。仙台藩の主導で奥羽越列藩同盟が結成されると、北部政府(同盟政府)の支配域は東北地方・北海道・新潟県下越・中越に及んだ。白河城攻防戦では会津藩と共に同盟政府の主力となり、平潟戦線においても磐城平藩と共に主力を担ったが、上述のような兵器の性能差や、さらには薩長軍への内通者により各所で発生した戦線の混乱によって、これらの地域での決戦に相次いで敗れ退却する。会津藩が若松城に篭城する一方で、仙台藩は北上する薩長軍と相馬口駒ヶ嶺付近で戦ったが、中村藩の降伏により戦線を維持できなくなると、仙台藩も降伏した。敗戦後、明治政府より責任を問われ、仙台藩は表高62万石から実高28万石に減封される。この減封に際して仙台藩は、在郷家臣らに帰農を命じ、陪臣(主として万石級の領主の家来20,000人余)を解雇して士族籍を与えなかった。このため伊達邦直・邦成兄弟をはじめとする領主たちは、自らの家臣団の救済のため、私費を投じて北海道開拓のために移住を開始した。仙台藩直営の事業としては、分領として与えられた沙流郡を三好清篤・星恂太郎が開拓したものがある。また、城下町・仙台では、侍町だった東一番丁で没落士族たちが商売を始め、これが現在の中心商業地「一番町」へと繋がっていく。仙台藩の主要施設は新政府に接収された。仙台城二の丸に東北鎮台(後、仙台鎮台→陸軍第二師団)が置かれ、三の丸は錬兵場になった。伊達政宗が隠居した若林城(若林区の由来になった)に至っては、宮城集治監(現在の宮城刑務所)とされ、西南戦争の捕縛兵の収容施設とされた。1869年1月19日(明治元年12月7日)に陸奥国が5分割されたため、仙台藩陸奥国領は陸中国・陸前国・磐城国に渡ることになったが、戊辰戦争に敗れた仙台藩は同日62万石から28万石に減封され、陸前国よりさらに狭い現・宮城県中部を占めるのみとなった(箱館戦争終結前だが仙台藩蝦夷地領も失ったと見られる)。1871年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県により、仙台藩が廃止され、同じ領域に仙台県が置かれた。廃藩時の仙台藩の債務は、国内に110万8000円余り、国外に約11万8000円。政府は国内の債務の大部分と対外債務の一部を破棄し、一部をかつて仙台藩の蔵元を務めた豪商升屋に払わせることとし、残りを政府が公債として引き受けた。これによって、仙台藩は、仙台県・角田県・登米県・胆沢県に分かれた。最終的に、旧仙台藩の北部(現在の岩手県の北上市から南の地域、沿岸では気仙郡)は岩手県に組み込まれ、現在の新地町は福島県に編入され、その他のほとんどの部分が宮城県へとなっていく。同年6月10日(明治4年4月23日)に石巻県石巻に置かれた東山道鎮台本営が、同年10月4日(明治4年8月20日)に廃止され、代わりに東北鎮台本営が仙台に置かれることになった。同年12月12日(明治4年11月1日)、当時の仙台の中心部である国分町の元外人屋に東北鎮台の本営が仮設された。外様 大広間 国主(大身国持) 62万石→28万石仙台藩の主な産物は米である。江戸時代には、北上川流域の湿地帯の開拓などの新田開発により、18世紀以降は内高が約100万石に達する程、多くの米・農作物を収穫できるようになった。また、買米制と呼ばれる事実上の専売制度が導入されていた。その米を海路江戸に運んで大きな利益を得た。萱場木工の『古伝密要』によると、大凶作でない限り仙台藩は毎年約25万~30万石の米・農産物(主に大豆)を輸出していたが、この内10万石は江戸以外の地へ輸出される「脱石」となり、また南部藩から輸入された「北米」5万石を加え、石巻より江戸へ毎年約20万~25万石の米・農産物が輸送された。この内、江戸での登米や役米を除く約半分の10万石が「仙台米」として江戸に流通したという。仙台米の江戸への輸出が始まったのは寛永9年(1632年)で、明和7年(1770年)に書かれた『煙霞綺談』は「今江戸三分一は奥州米なり」と記述している。一部の米は海産物とともに大坂にも運ばれ、仙台藩は大坂に蔵屋敷を設置していた。石巻はこれらの航路の拠点として大いに発展した。以下に一関藩を含めた仙台藩内高(1貫=10石で換算)の変遷をまとめる。表高は62万0056石5斗4升だが、新田開発により18世紀初頭には内高は100万石を超えた。以上は藩内の租税算出の基礎となる内高での数字であるが、寛政9年(1797年)に書かれた萱場木工の『古伝密要』によると、奥州領分内高99万9002石7斗6升に対して貢租率53%の52万9476石7斗6升2合8勺を税収とし、実際の米の収穫高は税収の3倍、雑穀の収穫高は税収とほぼ同じであるという過剰の仮定により、仙台藩奥州領分の米・雑穀の実高合計を税収の4倍(内高の2.12倍)の211万7906石1斗5升1合と見積もっている。また江戸時代末期の安井息軒の『読書余適』には「二百万石余」、同じく江戸時代末期の帆足万里の『東潜夫論』には「二百五十万石」との記述がある。このことから仙台藩の実高は200万~250万石に達したとする説が広く流布しているが、これらの数字は何れも推論に基づく誇張された数字であり、実態とかけ離れている。地租改正後の旧仙台藩領分の明治10年~明治12年三ヶ年平均農作物米換算石高は130万石(内、米91万石、大豆12万石(米価換算で12万石相当)、大麦22万石(米価換算で10万石相当)など)であり、、豊作時に米の収穫高だけで内高を上回ることがあったというのが実態である。寛永17年(1640年)の検地高7万4529貫338文(74万5293石3斗8升相当)に占める田畑の高と反別は以下の通りで、米の収穫高は総農産高の8割以上を占めていた。また雑穀としては大豆が重要な商品作物として広く栽培されたが、冷害に強いとされるヒエは商品価値が低く、余り栽培されなかった。また延宝4年(1676年)には蔵入地が31%を占めていたが、貞享年間(1684年頃)では以下のような知行構成となっており、蔵入地が若干減退している。田畑の反別は安永4年(1775年)には13万1031町7反3畝歩にまで増加し、御蔵入地の割合も、幕末の安政3年(1858年)には39%まで増加した。しかしながら依然として御蔵入地の割合は低く、これが凶作時などの緊縮財政時には大きな負担を仙台藩に与えた。例えば中津川武蔵の『御在方全体之犠等品々御奉行衆被御聞届取調十ヶ条申達候留』によると、文政6年(1823年)において御蔵入地からの年貢は、米7万1900石、大豆4300石、金4万2000両に過ぎなかった。このように米に頼りすぎた経済は藩に他の産品の開発の動機を失わせ、藩財政は米の出来・不出来及び米相場の状況によって翻弄され、不安定であった。特に買米制は凶作に弱く、凶作が起きれば藩は大借金を抱え、豊作でかつ米相場が高値推移の年には積年の借金が一気に返済できてしまうといった具合である。まさに「農業は博打である」という格言を地で行く藩経営であった。仙台藩が幕府に提出した報告書によれば、天明3年(1783年)、天明4年(1784年)にはそれぞれ56万5000石、53万2000石の損毛高を計上し、内高ベースでの米生産高は平年の半分であったという。また天保7年(1836年)には91万5784石の損毛高を計上し、米の生産高は10万石しかなかった。また凶作が起こると領内は大変な食料不足に見舞われ、農民だけではなく武士階級の者までが餓死したと伝えられているが、これは他の藩には全く見られない現象であった。実際天明元年(1781年)に50万2124人を数えた陸奥領内郡方人口は、天明の大飢饉後の寛政元年(1789年)には40万9632人にまで減少している。死因としては大凶作による餓死よりも、体力の衰えたところで流行した疫病(「傷寒」(腸チフスか)、「多羅病」など)の方がはるかに大きく、餓死20万人というのは大げさな伝聞とはいえるものの、藩全体の人口が10万人単位で減少したのは事実である。凶作の原因としてはやませによる冷害や天明3年(1783年)の浅間山の火山噴火のほか、新田開発の集中した北上川の洪水による度重なる水害が挙げられる。一方で飢饉の人為的要因としては買米・廻米制度が挙げられ、例えば天明の大飢饉では凶作の前年の天明2年(1782年)に投機的廻米のために食糧備蓄を取り崩したことも飢饉に拍車を掛けたと、五十嵐荘左衛門の『飢饉録』の中で糾弾されている。18世紀中頃から幕末までは、仙台藩の新田開発は滞り、ほぼ内高100万石のまま推移した。以下に一関藩を含めた仙台藩の構成別人口の変遷をまとめる。 表にまとめた人口の他、陸奥領・一関藩の郡方人口については他の年代のものも記録として残っているが、これらについては江戸時代の日本の人口統計参照。また表中、享保2年(1717年)の数値は地域別人口で、陸奥領と一関藩の郡方人口の項に示されている数字は武家等を含む。表に示すように、仙台藩総人口に占める武家の割合は22~25%と非常に高かった。しかしながら明治2年の時点で3万3128家17万2239人いた士分の内、陪臣2万3477家11万5771人のほぼ全てと、伊達家直属家臣団9651家5万6468人の内1993家9965人は帰農することとなり、士卒族の地位を得たのは士族2万9408人、卒族1万3091人のみである。稲作以外の産業としては、三陸沖に漁場を持ち、良港に恵まれたことなどから、三陸海岸で採れるアワビやサメを、干鮑やフカヒレに加工して「長崎俵物」として清に輸出していた。特に三陸産の干しアワビは仙台藩領の気仙郡吉浜村(現・岩手県大船渡市)から名前を取って「吉品鮑(カッパンパオ)」と呼ばれていた。さらに鉱山資源が日本国内としては豊富であり、鉄鋼業と、馬産を奨励して、成功したことや、三陸沖に漁場を持ち、良港に恵まれたことなどがあげられる。このため前述の米の他に塩、漆、鉄、水産物、煙草、紅花、海産物も藩の専売品であった。このような恵まれた環境ではあったが、御蔵入地からの年貢は約10万~20万石程度で変動した。江戸時代後期以降は先述の偏った藩財政に、天明の大飢饉、天保の大飢饉などの凶作や欧米列強に対する海岸防備による出費が藩財政を直撃した。天保10年には幕府に許可をもらって参勤交代を延期する状況であったが、幕末には芝多民部が藩札発行を行って経済混乱を起こし、但木成行は、表高62万石でありながら10万石分限での藩財政運営を宣言した。飛び地を除く陸奥国内21郡は、20の代官区に分けられ、これを奥・中奥・北方・南方の4人の郡奉行が統括した。関ヶ原の戦いの功績により、慶長5年(1600年)に刈田郡3万8000石の加増を受けるが、政宗は不服を訴え続け、慶長6年(1601年)には近江国蒲生郡内5000石、慶長11年(1606年)には常陸国信太郡、筑波郡、河内郡内1万石、寛永11年(1634年)には近江国蒲生郡内5000石の加増を勝ち取った。この結果、陸奥国内の一円知行地に60万石、陸奥国外の飛び地として近江国に1万石、常陸国に1万石で合計62万石となり、これが幕末までの仙台藩の基本的な石高となった。その後、常陸国内で伊達氏所領の替地が何度か行われ、正徳2年(1712年)に下総国豊田郡内が組み込まれたことにより、以降幕末まで本土における支藩を含む仙台藩の所領62万0056石5斗4升(=1億1185万1999リットル≒9.3~9.9万トン)が確定した。江戸時代後期になると、蝦夷地にも領地や警衛地が存在した。幕府は北方からのロシアの脅威の備えるため、寛政11年(1799年)に東蝦夷地を、文化4年(1807年)には西蝦夷地を天領とし、奥羽四藩(津軽・盛岡・久保田・荘内)に警備を命じた。文化5年(1808年)には幕府は仙台藩に対しても箱館・国後・択捉への出兵を命じ、仙台藩は約2,000名の兵を派遣している。派兵は文政4年(1821年)まで続いたのち、これらの地域は一旦松前藩領に復した。また幕末期の安政2年(1855年)、再び幕府は松前藩領を除く蝦夷地を天領とし、奥羽6藩(盛岡・仙台・会津・久保田・荘内・津軽)に警備を命じ、仙台藩は東蝦夷地の白老から択捉までの警備を担当することとなった。その際、仙台藩は現在の北海道白老町に陣屋を置き、また、根室・厚岸・択捉・国後にそれぞれ出張陣屋を構えた。安政6年(1859年)11月には白老、十勝、厚岸、国後、択捉を仙台藩の所領とすることが認められ、仙台藩預りの天領の警備衛地(日高、釧路、歯舞、色丹)を含む仙台藩の領地・警備地は、北海道の全面積のほぼ三分の一を占めることとなった。現在の岩手県南部(仙台藩陸奥国領の面積の約1/3)、宮城県全域(同2/3)、福島県浜通り北部におよび、表高は60万石(=1億0823万4000リットル≒9.0~9.6万トン)。なお、現在の当地での水稲生産量は、江戸時代の表高の5倍以上、実高の3倍以上にあたる50万トン以上(300万石以上)となっている。現在の茨城県南部と滋賀県中央部に飛地が分散して存在しており、それらの合計の石高は約2万石に及んだ。以下に2012年(平成24年)12月1日時点での住所を付記する。内分支藩としては、陸奥国内に岩沼藩・一関藩・中津山藩があり、仙台藩知行域内に浮かぶ島のような形で存在した。これらの藩は仙台藩からも一門の家格を与えられて仙台城下に屋敷を持っていた。また、仙台藩の分家として伊予国に政宗の長男・秀宗を藩祖とする宇和島藩とその支藩・吉田藩があるが、宇和島藩領は秀宗の大坂の陣における軍功に対しての新恩給与であり、仙台藩からの分知による支藩ではない。明治元年(1868年)、明治政府より戊辰戦争の責任を問われて減封された仙台藩は、以下の変遷をたどった。仙台藩から没収された白石城に盛岡藩が転封したことで白石藩が発足したが、わずか半年で盛岡に復帰したため、同地には白石県(のち角田県に改称)が設置された。仙台藩として存続した地域は廃藩置県で仙台県となった。仙台県は角田県および登米県の一部を編入ののち宮城県に改称し、現在に至る(磐城国の地域は平県に、玉造郡と登米県の残部は一関県に編入された時期もある。宇多郡のみ現在は福島県)。また、旧盛岡藩領と統合された胆沢県と江刺県は、一関県への編入を経て、現在は岩手県となっている(気仙郡は宮城県に編入された時期もある)。蝦夷地の領地については、いったん全域が開拓使直轄領とされた後、改めて日高国沙流郡の一部を領有し、さらに開拓から撤退した熊本藩から根室国標津郡・目梨郡、佐賀藩から千島国振別郡、高知藩から紗那郡・蘂取郡の移管を受けた。また、仙台藩士の伊達邦成が胆振国有珠郡(後に虻田郡、室蘭郡も領有)、石川邦光が胆振国室蘭郡、片倉邦憲が胆振国幌別郡、伊達邦直・伊達宗広・亘理胤元が石狩国空知郡をそれぞれ領有した。仙台藩では藩士の禄として、一般の藩では禄米が与えられるのとは違い、知行地を与える制度を取っていた。但し、全ての家臣が知行地を持っていたわけでは無かった(詳細は下記参照)。これは藩主が動員できる兵数より、家臣が動員できる兵数の総数のほうが遙かに大きいという軍制を自然と作りだし、どちらかというと中世に近い支配体系である。知行地内では一定の裁判権も認められていた。仙台藩は大藩であるので、その家臣にも3万石・2万石といった大名級の知行地を持つ者もいた。仙台藩では上級家臣を一門、一家、一族、準一家、着座、太刀上、大番と7つの家格に分類した。また、藩士は藩内に散らばる城・要害・館・所・在所に居住し、仙台に屋敷を持っていた。このような支配体制を打破するための改革を目指したことが伊達騒動がおきた原因の一つだと主張する者もいる。仙台藩内の城・要害の大まかな配置仙台藩の南側は、城下町・仙台に到る3つルート(海側から、陸前浜街道・阿武隈川沿い・奥州街道)の縦深防御が中心で、それらのルートの結節点にも重要な城・要害が置かれた。以下に、江戸時代後期まで存続した城・要害等を示す。仙台城自体は、北から東側にかけて広瀬川に囲まれ、その内側には北に二の丸空堀、東に二の丸土塁、三の丸水濠などが築かれた。本丸の東側は広瀬川沿いの崖、南側は竜の口渓谷、西側は青葉山丘陵と自然障壁に囲まれ、難攻不落の要塞となっている。また、青葉山丘陵の存在により完全に敵に囲まれることがなく、兵糧攻めに対する兵站路が確保されている。1610年頃に仙台を訪ねたビスカイノは、仙台城のことを当時の日本で最も強固で最良のものの一つであると本国に報告している。 仙台城下町は当然防御戦を前提に都市計画されている。南側は広瀬川によって守られ、奥州街道沿いに長町方面から進んだ場合、河原町で渡河することになるが、すぐ西に若林城が配置され、河原町から北側には足軽屋敷が集中している。奥州街道は仙台城下の中心で仙台城大手門に連なる芭蕉の辻までの間、何度か折れ曲がる地点があり、直進できないようになっている。東側は若林城から原町方面まで天神宮・薬師堂等寺社地が連なり、北側は北山丘陵に沿って輪王寺等の寺社地が配置された。西側からの交通は山岳険しく困難である。仙台の北側には東西に連なる「松島丘陵」があり、仙台平野を南北に分断している。松島丘陵の北側は、広大な仙北平野となっているため、防衛には仙台藩南側のようなルート沿いの「縦深防御」ではなく、「防衛ライン」を横方向(東西)に引くことになる。仙北平野の防衛ラインは「江合川」である。仙北平野の防衛には、奥州街道沿いの防衛と、北上川沿いの防衛も組み合わせて、縦深防御も実現している。仙台藩内には、長期籠城戦を見据えた大規模な城および港湾が合計4ヶ所あった。一族以上の家柄を歴々と言い、衣服の制限緩和、乗物による登城可といったような特権が与えられた。また、宿老が奉行職に就いている時も歴々と同様の特権が発生した。太刀上以上の家柄を門閥と言った。組士以上の家柄が士分にあたり、それより下の家柄は士分以外として扱われた。それぞれの家格の家が更に家臣団(陪臣)を形成している。大進・歴々の家になると陪々臣までおり、平士クラスよりも禄高の多い陪臣も存在する。禄の支給形態としては、地方支給・蔵米支給・切米支給・扶持方支給などがあった。また、一家の黒川氏より準一家の天童氏の方が石高が多いというように「家格=石高が多い」とは必ずしも言えない場合も存在する。また、仙台藩では太刀上以上の家格による地方知行の対象地を給人前(きゅうにんまえ)とも称し、百姓の土地を支配して租税を納めさせる「百姓前地」と給人名請地(家臣自身の私有地が近世以後も安堵されて給地に編入されたもの)に由来して自らの家臣・奉公人に耕作させたり、小作地として経営する「奉公人前地」に細分化されていた。仙台藩の役職を参照。江戸藩邸は文政年間には芝口三町目海手に上屋敷、芝愛宕下に中屋敷、麻布や深川、猿町、品川、木挽町の5箇所に下屋敷があった。また京都藩邸は長者町と小川東へ入る町の2箇所にあった。また、江戸で藩主一族や家臣が死去した場合に使う菩提寺は芝の臨済宗妙心寺派寺院である仏日山東禅寺で、一門の宇和島藩、伊予吉田藩、一ノ関藩も江戸での菩提寺としていた。
出典:wikipedia
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