タンチョウ(丹頂、"Grus japonensis")は、ツル目 ツル科 ツル属に分類されるツル。その美しさから、日本や中国では古来深く親しまれてきた鳥である。種小名"japonensis"は「日本産の」という意味であり、折鶴、千円札、昔話などで身近なことから、鶴(タンチョウ)は日本を象徴する鳥になっている。アイヌ語では「サロルンカムイ」と呼ばれ、これは「葦原の神」の意である。1964年に北海道の道鳥に指定されている。農作物を食害する害鳥とみなされることもある。日本(北海道東部)、ロシア南東部、中華人民共和国、大韓民国北部、朝鮮民主主義人民共和国種小名"japonensis"は「日本産の」の意。夏季に中華人民共和国北東部、アムール川やウスリー川中流域で繁殖し、冬季になると朝鮮半島、長江下流域ヘ南下し越冬する。日本では周年生息(留鳥)する。日本で最も有名な生息地は釧路湿原一帯であるが極稀に石狩平野の上空を飛来することがあり、鳴き声が聞かれる。2015年5月31日に札幌上空で飛来が確認された。全長125 - 152センチメートル。翼長64 - 67センチメートル。翼開長240センチメートル。体重6 - 12キログラム。全身の羽衣は白い。眼先から喉、頸部にかけての羽衣は黒い。頭頂には羽毛がなく、赤い皮膚が裸出する。タン(丹)は「赤い」の意で、頭頂に露出した皮膚に由来する。虹彩は黒や暗褐色。嘴は長く、色彩は黄色や黄褐色。後肢は黒い。次列風切や三列風切は黒い。気管は胸骨(竜骨突起)の間を曲がりくねる。湿原、湖沼、河川などに生息する。冬季には家族群もしくは家族群が合流した群れを形成する。日本の個体群と大陸産の個体群は鳴き交わしに差異がある。食性は雑食で、昆虫やその幼虫、エビ類・カニ類などの甲殻類、カタツムリ類・タニシ類などの貝類、ドジョウ類・コイ・ヤチウグイ・ヌマガレイなどの魚類、エゾアカガエルなどのカエル、アオジ・コヨシキリなどの鳥類の雛、ヤチネズミ類などの哺乳類、セリ・ハコベなどの葉、アシ・スゲ・フキなどの芽、スギナの茎、フトモモ・ミズナラなどの果実などを食べる。繁殖形態は卵生。繁殖期に1 - 7平方キロメートルの縄張りを形成する。湿原(北海道の個体群は塩性湿原で繁殖した例もあり)や浅瀬に草や木の枝などを積み上げた直径150センチメートル、高さ30センチメートルに達する皿状の巣を作り、日本では3-5月に1 - 2個の卵を産む。雌雄交代で抱卵し、抱卵期間は31 - 36日。雛は孵化してから約100日で飛翔できるようになる。日本では1924年に釧路湿原で再発見されるまでは絶滅したと考えられていた。北海道での1952-1953年における生息数は33羽。1962年における生息数は172羽、1988年における生息数は424羽、2000年における生息数は740羽。アムール川流域では野火による植生の変化や巣材の減少により、中華人民共和国では農地開発による繁殖地の破壊などにより生息数は減少している。北海道では地方自治体や自然保護団体による土地の買い上げ(ナショナルトラスト運動)や、冬季に穀物を給餌している。初期にもセリの移植・ドジョウの放流やソバの散布・1940年には餌を奪う他の鳥類の駆除などの保護対策が行われたが、冬季の食糧不足から生息数はほとんど上昇しなかった。1952年に大雪に伴い人里に近づいた個体に対し、阿寒村・鶴居村で餌付けに成功した。1960年代までは増加傾向にあったが、1960年代前半以降は主に電線との衝突による事故死(1964・1965・1972・1973年は生息数の約10%が事故死し、以降は年あたり約10羽が事故死)により生息数が減少した。原因は不明だが1970年代後半から再び生息数が増加した。生息数が増加する一方で、人間への依存度の高くなり、生息数増加に伴う繁殖地の不足、生息環境の悪化、過密化による感染症などのおそれ、農作物の食害、電柱による感電死、交通事故の増加などの問題も発生している。餌づけの餌目当てに集まるキタキツネ・エゾシカ・オジロワシ・オオワシなどと接する機会が増えるが、これらのうち捕食者に対しては餌付け場で捕食されることはないものの見慣れることで警戒心がなくなってしまうこと・シカに関しては湿原の奥地まで侵入し繁殖への影響が懸念されている。生息数が順調に増加していることを受け、2016年7月、給餌などの保護増殖事業を行っている環境省がこれらの事業を将来的に終了する方針を示している江戸時代には、江戸近郊の三河島村(現在の荒川区荒川近辺)にタンチョウの飛来地があり、手厚く保護されていた。タンチョウは毎年10月から3月にかけて見られたという。幕府は一帯を竹矢来で囲み、「鳥見名主」、給餌係、野犬を見張る「犬番」を置いた。給餌の際はささらを鳴らしてタンチョウを呼んだが、タンチョウが来ないときは荒川の向こうや西新井方面にまで探しに行ったという。タンチョウは午後6時頃から朝6時頃まではどこかへ飛び去るので、その間は矢来内に入ることを許された。近郷の根岸、金杉あたりではタンチョウを驚かさないように凧揚げも禁止されていたという。こうした“鶴御飼附場”では将軍が鷹狩によって鶴を捕らえる行事も行われた。これについては鶴御成を参照されたい。東アジアにおいては古くから、タンチョウはその清楚な体色と気品のある体つきにより特に神聖視され、瑞鳥とされ、ひいては縁起のよい意匠として、文学や美術のモチーフに多用されてきた。また、「皇太子の乗る車」を指して「鶴駕(かくが)」と呼ぶように、高貴の象徴ともされた。道教的世界観の中ではとくに仙人、仙道と結びつけられ、タンチョウ自体がたいへんな長寿であると考えられたほか、寿星老人が仙鶴に乗って飛来するとか、周の霊王の太子晋が仙人となって白鶴に乗って去ったといった説話が伝えられている。舞楽の曲に『崑崙八仙』(ころばせ)と呼ばれるものがあり、奈良国立博物館には同名の舞楽面が伝わっているが、この舞は崑崙山に住む八人の仙人“崑崙八仙”(こんろんはっせん)が鶴の姿になって舞い踊る様を表すという。なお、古来の日本で「花」といえば梅を指したのと同じように、伝統的には、中国や日本で単に「鶴」と言えばタンチョウを指しているのが通常である。また古くは鶴を指して「たづ」とも呼んだ。8世紀の皇族・長屋王の邸宅跡地からはタンチョウらしき鶴の描かれた土器が出土しており、これが現在知られている中で最古のタンチョウを描いた文物である。平安時代から室町時代にかけては鏡の装飾に鶴文(つるもん)が多く使われた。鶴ほど広範囲にさまざまな意匠に用いられているモチーフは他に例がなく、鎌倉時代の太刀や笈(おい)、紀貫之の用いた和歌料紙、厳島神社の蒔絵小唐櫃、日光東照宮陽明門の丸柱、仁阿弥の陶器、海の長者の大漁祝い着、沖縄の紅型染め、久留米の絵絣、修学院離宮の茶室に見られる羽子板形の七宝引手、光琳の群鶴文蒔絵硯箱、江戸の釜師・名越善正の鋳た鶴に亀甲菊文蓋の茶釜など、その実例を挙げるにおよんでは枚挙にいとまがないという。室町時代に入る前後から宋・元時代の中国から花鳥画の習俗が日本へ入ってくると、優美な姿のタンチョウは好んで描かれるモチーフのひとつとなり、伊藤若冲のような画風の異なるものも含め、多くの画家によって現在まで多数の作品が描かれている。通俗的には、「亀は万年の齢を経、鶴は千代をや重ぬらん」と能曲『鶴亀』や地唄にも謡われるように、鶴と亀はいずれも長寿のシンボルとされ、往々にしてセットで描かれてきたほか、また花鳥画以来の伝統として松竹梅などとあわせて描かれることも多い。花札の役札「松に鶴」などもこうした流れのものであるということができる。アイヌ民族の間にはタンチョウの舞をモチーフにした舞踊なども伝えられている。近年の文化上の事例としては、1964年(昭和39年)、北海道の道鳥に指定されているほか、1984年(昭和59年)に発行された千円紙幣は裏面にタンチョウの意匠を用いている。日本航空のシンボルマークはいわゆる「鶴丸」だが、これはタンチョウのイメージに乗せて用いられている。中国で最も初期の鶴を象った文物といえば春秋戦国時代の青銅器「」がよく知られているが、さらに古い殷商時代にも墳墓から鶴を象った彫刻が出土しているという。道教では、前述のとおり、タンチョウは仙人の象徴、不老長寿の象徴とされ珍重された。いっぽう俗信としては、タンチョウの頭頂部からは猛毒の物質が採れるとされ、「鶴頂紅」「丹毒」などと呼ばれることがあった。2007年に中華人民共和国国家林業局が、同国の国鳥にタンチョウの選定を提案し、国務院も受け入れたが、タンチョウの学名、英名ともに「日本の鶴」を意味することから、後に議論を呼ぶこととなった。中国では先述のとおり、古くからタンチョウが親しまれ愛されてきた経緯がある。選定の際にはインターネットでのアンケートを参考にしており、全510万票のうち65%を獲得するという圧倒的な得票率であったという。
出典:wikipedia
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