グリエルモ・マルコーニ(Guglielmo Marconi、1874年4月25日 - 1937年7月20日)は、無線電信の開発で知られているイタリアのボローニャ生まれの発明家。1897年にを創立したが、後々BAEシステムズの一部となる。日露戦争では日本側がマルコーニ無線を、ロシア側がテレフンケン無線を使い、大きな宣伝効果をあげた。1909年には、無線通信の発展に貢献したとして、ブラウンとともにノーベル物理学賞を受賞した。1924年、侯爵に叙爵された。1929年、英国政府ならびにジョン・ペンダーと事業合併してケーブル・アンド・ワイヤレスを誕生させた(#輝かしい晩年)。マルコーニはイタリアのボローニャの地主の家に生まれた。母はアイルランド人で の創業者の曾孫である。母の実家から研究費の援助受けていた。幼い頃から電波に興味を持っていたマルコーニはボローニャでアウグスト・リーギに師事し、その後フィレンツェの Istituto Cavallero、さらにリヴォルノへと移っていった。学校にはほとんど通っていない。カトリック教会で洗礼を受けているが、同時に結婚に際して聖公会の信徒となり、カトリック教会からは抹消された。若いころからマルコーニは科学、特に電気に興味を持っていた。1888年、ハインリヒ・ヘルツが電磁波を発しかつ検出できることを示し、そこからこの時代の科学技術の発展が始まった。今では一般に「電波」と呼ぶが、当時は「ヘルツ波」や「エーテル波」という呼称が一般的だった。ヘルツが1894年に亡くなると、彼のそれまでの発見を再検討する書籍等が出版され、マルコーニの興味をかきたてた。ボローニャ大学の物理学者でマルコーニ家の隣人でもあったアウグスト・リーギはヘルツの成果に基づいた研究をしており、マルコーニは彼の下で学ぶことを許された。リーギは 誌を購読しており、1894年の同誌にオリバー・ロッジが無線電信の公開実験に使った装置の詳細が掲載された。マルコーニは自宅の屋根裏で装置を自前で作り、実験を開始した。彼の目標は電波を使った「無線電信」の実用的システムを完成させることだった。すなわち電線を使わずに電信のメッセージを遠隔地に伝送することを目標とした。これは何も目新しいアイデアではない。50年以上に渡って多くの人々が無線電信技術を実現しようと探究してきたが、商業的成功に至った者は1人もいなかった。マルコーニは無線電信システムの開発において新しい革新的原理を発見したわけではなく、個々の部品を改良してそれらを組み合わせてシステムを構築しただけである。マルコーニのシステムには次のような構成要素があった。同じような火花送信機とコヒーラ検波器の組み合わせは他の者も試していたが、数百メートル以上の距離で伝送できた者はいなかった。当初、マルコーニも限られた距離でしか信号を送れなかった。1895年夏、彼は実験の場を屋外に移した。送信機と受信機のアンテナを長くし、それらを垂直に配置して、一端を接地させると通信距離が大幅に延びた。間もなく彼は丘を越えての信号伝達に成功した。距離は約1.5kmになっていた。この時点でマルコーニはさらに資金をかけて研究を続ければさらに距離を延ばすことができ、商業的にも軍事的にも価値のあるものになると判断した。イタリアでは彼の成果に興味を持つ者は少なかった。そこで1896年、21歳のマルコーニは母親と共にロンドンに赴き、支援者を探した。マルコーニはイタリア語だけでなく英語も流暢に話した。郵政省の主任電気技師 がマルコーニに興味を持ち支援を約束した。マルコーニの当時所有していた装置はタフツ大学の が1882年に製作したものと酷似していた。Dolbear の装置は火花送信機と鉱石検波器を使ったものだった。BTグループ本社ビル () の外壁には、マルコーニが初めて無線通信の公開実験を行った場所を示す記念銘板がある。イギリス政府への一連のデモンストレーションに続いて、1897年3月、ソールズベリー平野で約6kmの距離でモールス符号を伝送する実験に成功した。1897年5月13日、マルコーニは世界初の海を越えての無線通信に成功した。南ウェールズのラバーノック岬からブリストル海峡に浮かぶフラットホルム島までの約6kmである。受信設備はすぐさま海峡の南岸に突き出た岬にあるブリーンダウン要塞 () に移設され、距離は16kmに伸びた。このような公開実験に感銘を受けた William Preece はロンドンで2度重要な講演を行い、マルコーニの業績を一般に知らせた。1896年12月11日に で行った "Telegraphy without Wires" と題した講演と、1897年6月4日に王立研究所で行った "Signaling through Space without Wires" と題した講演である。その後も公開実験を繰り返し、マルコーニは国際的に注目されるようになっていった。1897年7月、イタリアに帰国してラ・スペツィアでイタリア政府向けの公開実験を行った。1898年7月6日には、ロイズのために北アイルランドのバリーキャッスルとラスリン島の間で実験を行った。1899年3月27日にはフランスのウィムルーとイングランドのサウスフォアランド灯台 () を結び、イギリス海峡を横断する実験を行った。1899年秋には、アメリカ合衆国で最初の公開実験を行い、ニューヨークで国際ヨットレースであるアメリカスカップのレポートを無線で伝えるというデモンストレーションを行った。アメリカ合衆国へはニューヨーク・ヘラルド紙に招待されて行き、アメリカスカップの模様を無線で伝えることを依頼された。送信機は "Ponce" という客船に設置された。アメリカからイングランドに戻るべく出発したのは1899年11月8日のことで、 の "St. Paul" という船に乗った。船上で助手と共に通信機を設置し、11月15日に船がイギリスの海岸から66海里まで近づいたとき、マルコーニが作っておいた無線局との間で無線電信のやりとりに成功した。"Proceedings of the " によれば、アメリカ海軍はマルコーニのシステムを1899年ごろに調査し、「コヒーラ検波器の原理は約20年前に発見されているが、全く新しいといえる電気機器はそれしかなかった」と結論している。世紀の変わり目ごろ、大西洋横断電信ケーブルに対抗すべく、マルコーニは大西洋を横断して無線で信号を伝える手段を研究し始めた。1901年、アイルランドのウェックスフォード州ロスレアに無線局を作り、コーンウォールのポルドゥーとアイルランドのゴールウェイ州クリフデンの無線局を中継する実験を開始した。1901年12月12日、凧で吊り上げた高さ152.4mのアンテナを受信用に使うことで、コーンウォールのポルドゥーから発信した信号をニューファンドランド島セントジョンズのシグナルヒルで受信することに成功したと発表。2地点の距離は約3500kmである。科学技術の重大な進歩として報道されたが、受信できた信号が途切れ途切れだったこともあり、本当に成功と言えるのか疑問視する声もあった(今もある)。第三者が確認したわけではなく、単に "S" を表すモールス符号を繰り返し送ったということで、雑音と区別しにくかったのではないかとも言われている。ポルドゥーの送信設備は2段構成になっており、25kWの出力だった。1段目は低電圧で駆動して2段目にエネルギーを供給し、2段目で高電圧の火花を発生させていた。大西洋横断無線通信で競っていたニコラ・テスラは、マルコーニが成功したことを聞いて「マルコーニは私の特許を17個使っている」と述べたという。懐疑主義者から疑問を呈されたと考えたマルコーニは、さらに体系的で文書も整えた実験を準備した。1902年2月、イギリスからアメリカに向かう "Philadelphia" という船に乗船したマルコーニは、ポルドゥーの無線局が発信する信号を毎日船上で受信して記録した。電信自動記録器では最大2496kmまで、信号を音として耳で聞く形では最大3378kmまで受信できた。受信は夜の方が容易だった。これは中波や長波が昼より夜の方が遠くまで届くことを初めて示した実験だった。日中は最大でも1125kmまでしか受信できず、ニューファンドランドで受信したと主張した距離の半分にも満たなかった。ニューファンドランドでの受信は日中も可能だったと主張していた。以上により、電波は見通せる範囲にしか届かないという一部の科学者の主張は否定されたものの、ニューファンドランドで本当に受信に成功したのかについては完全に確認されたわけではない。1902年12月17日、北米側からの初の大西洋横断無線通信に成功。発信地はカナダのノバスコシア州東端のグレスベイである。1903年1月18日、マサチューセッツ州サウス・ウェルフリート(ケープ・コッド)の無線局(1901年建設)にてセオドア・ルーズベルト大統領からイギリス国王エドワード7世へのメッセージを発信。これがアメリカ合衆国から発信した初の大西洋横断無線通信となった。しかし、安定した通信はまだ難しかった。なお、この無線局はタイタニック号の遭難信号をいち早く受信した無線局の1つでもある。マルコーニは高出力の無線局を大西洋の両岸に建設し始めた。海上を航行する船舶との通信を可能にするためである。当時、他の発明家も同様の事業を始めようとして競っていた。1904年、夜間に船舶に向けてニュースを送信し、船上で発行する新聞にその情報を取り入れるという有料サービスを開始した。大西洋を横断する無線電信サービスが確立されたのは1907年10月17日のことで、アイルランドのクリフデンとカナダのグレスベイを結んだ。しかし、通信品質は安定せず、その後もマルコーニ社は改良に苦闘した。1912年に発生したタイタニック号の遭難の際には、無線電信会社社員が同乗し救難信号を送信している。タイタニック号に乗船していた2人の無線技師は、ホワイト・スター・ラインに雇われていたわけではなく、マルコーニ無線電信会社 () の社員だった。タイタニック沈没後、生存者がキュナード・ラインのカルパチア号に救助された。生存者名簿を無線で最初に受信したのもマルコーニ社の社員だったデイヴィッド・サーノフである。カルパチア号とサーノフは72時間に渡って通信したとされているが、近年の歴史家にはサーノフの関与を疑問視する向きもある。カルパチア号がニューヨークに入港すると、タイタニック号に乗船していて救助された無線技師と話をするため、マルコーニはニューヨーク・タイムズの記者に同行して乗船した。1912年6月18日、タイタニック沈没の件を調査する法廷で、マルコーニは船舶電信の機能と緊急時の規定についての証拠を提出した。イギリスの郵政公社総裁は「救助された人々はマルコーニ氏と氏の素晴らしい発明に救われた」と述べている。マルコーニの業績は他の様々な科学者や発明家の成果の上に成り立っている。彼の火花送信機とコヒーラ検波器も先人が設計したものと似ており、特にオリバー・ロッジが行った一連の公開実験(1894年)の装置によく似ている。マルコーニはこの組み合わせで最も遠距離まで信号を届かせることができると主張していたが、ニコラ・テスラなどはその点についても異論を述べている。1900年、アレクサンドル・ポポフはロシアの電気技術者会議で「マルコーニの行っている電気振動による信号の送受信は、まるで新規性がない。アメリカでは、1893年に有名な技術者ニコラ・テスラが同じ実験を実施している」と述べている。イタリアのファシスト党は無線通信技術の創始者をマルコーニだとした。彼の貢献が特許に値するかどうかについては異論もあり、ヘルツ、ブランリー、テスラ、ロッジといった先人の発明に似すぎているという指摘もある。マルコーニの装置は基本的に同調回路がなく、混信を防ぐため、ひとつの地域で運用可能な火花送信機の数が限定されることになった。マルコーニはこの欠点への対策としてより洗練された "four-circuit" 設計の特許を取得している。これは、送信側と受信側のアンテナに同調回路を装備したものである。この特許は1900年4月26日にイギリスで出願された(英国特許番号7777)。しかし、そのずっと以前にニコラ・テスラとオリバー・ロッジが電気同調回路を考案している。1911年、マルコーニ社は防衛手段としてオリバー・ロッジの1897年の同調回路の特許を買い取っている。そのため、7777特許とそれに対応する各国で出願された特許は、国によって特許として認められた場合もあれば、全く無効とされた場合もある。1943年、マルコーニの無線に関する複数の特許についてのアメリカでの訴訟が結審した。判決は、ニコラ・テスラ、オリバー・ロッジ、ジョン・ストーン・ストーンらの先例やマルコーニ自身の別の先例(例えば )に基づいて下された。アメリカ最高裁判所は次のように決定した。1897年9月2日出願、1900年3月20日発効のテスラの特許第645,576号は、送信機と受信機がそれぞれ2つの回路を持つ4回路システムに関するもので、4回路全てを同じ周波数に同調させることを推奨している。その装置は電力伝送に関するものだが、(彼は)変更なしでそれを無線通信に使えることを認識していた。この判決に際して法廷は次のように注記している。最初に無線通信に成功した人物として、マルコーニの評価は最初の特許(11,913号、この法廷で問題としている部分とは無関係)にかかっている。どんなに評価の高い人物であっても、その後の無線関係の特許が全て無条件で認められるわけではない。特許訴訟は、当事者の名声ではなく、それぞれの主張と証拠の綿密な調査によって決定されなければならない。また、次のようにも述べている。2人の発明者の発明の優先順位の決定は、先に発明したことを立証することによってなされる。この裁判では、マルコーニのイギリスでの特許や無線通信の発明者としての名声を議論しなかった。この件では、マルコーニの特許のほとんどが(アメリカでは)無効とされた。当時、アメリカ陸軍がマルコーニ社から特許侵害で損害賠償を請求されていたため、特許を無効とすることで侵害もなかったとするという意図があったと言われている。もともと、テスラの特許が既に成立していたにも関わらず、マルコーニの特許が成立した背景にも、テスラがアメリカ政府を特許侵害で訴えていたからだとする説もある。それとは対照的にイギリスではマルコーニの特許7777号の有効性が法廷で認められた。一連の特許紛争は大企業間の覇権争いの一部に過ぎない。1895年、コルカタではジャガディッシュ・チャンドラ・ボースがマルコーニのソールズベリー平野での実験(1897年5月)より前に無線通信の公開実験を行っている。1896年にはイギリスの新聞がボースの実験について「この発明者(ボース)は約1マイルの距離で無線を使って信号を送ることに世界で初めて成功した。これには様々な重要な応用が可能である」と記していた。マルコーニは明らかにこのことを知っていたが、独占的な特許権を主張した。マルコーニ社は火花送信機を使い続けたため、技術的には保守的といわれるようになっていった。火花送信機は無線電信にしか使えず、その後主流となった無線電話やラジオには連続波の発信を必要とした。同社が連続波の発信に切り替えたのは真空管が使えるようになった1915年以降のことである。1920年、マルコーニ社は真空管送信機を使ってイギリス初の娯楽ラジオ放送を行った。1922年からは定期ラジオ放送を開始している。これが英国放送協会(BBC)の発祥である。1914年、マルコーニは元老院議員となり、イギリスではロイヤル・ヴィクトリア勲章(最高の Knight Grand Cross)を授与された。第一次世界大戦ではイタリアは連合国側となり、マルコーニはイタリア軍の無線通信部門の責任者となった。最終的にイタリア陸軍では中尉、海軍では司令官となった。1924年、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世により侯爵に叙爵された。1919年、電力を食う長波無線に専ら価値を認める英米両政府が、一般の無線家に波長200メートル以下での実験を認めた。一方、アメリカン・マルコーニ社がゼネラル・エレクトリック、AT&T、ウェスティングハウスに買収されてRCA となった。1923年、ファシスト党に参加。すでに短波が反射鏡によるビーム化に適することをつきとめており、に送信局をつくり反射鏡を装備させていたが、いよいよこの年に自前の船で西アフリカに航行、送信機から日中には2300km、夜間には4000km 離れた船上で傍受に成功し、ここにスキップ現象を発見した。1924年2月、短波実験の成功を宣言。4-5月、オーストラリアにメッセージ送信。マルコーニの信号は南北アメリカ、南アフリカ、インドにおいてさえ受信できた。そして超長距離無線では長波より短波の方が鮮明に受信できることが証明された。マルコーニの反射鏡を利用したビームシステムは、この場合に経費が長波の5%で済んだ。距離あたりの速度においては海底ケーブルさえも超えた。短波を眉唾に見ていたイギリス海軍は、5月6日に自治領でなら経費節減策として採用の可能性ありと述べている。結局、イギリス政府は長波と併用することに決めた。1926年10月までにカナダへの回線を開通。これは郵政省の管理下におかれた。やがて自治領の送受信を傘下企業に任された。1927年、英国放送協会が正式に短波放送サービスを決定した。1928年3月16日、ジョン・ペンダーと政府受注を争った末に、帝国代表者会議の立会いで、ペンダー側イースタン電信会社とマルコーニ無線電信会社間で保有比率56.25対43.75とする持ち株会社をつくることで合意した。代表者会議による審議は続き、7月6日に勧告として報告書が出された。内容は、ペンダーとマルコーニの各事業だけでなく、郵政省の短波システムに太平洋/大西洋ケーブルを一挙に合併させる構想であった。8月に議会で承認されてから、構想は自治領で次々と追認された。1929年4月8日、合併会社はケーブル・アンド・ワイヤレス、通信会社は"Imperial and International Communications" という名前で発足した。これらはグローバル通信網としてP&O や帝国航空会社などに利用された。1930年、ベニート・ムッソリーニの命でイタリア王立アカデミー会長およびファシズム大評議会の一員となった。1937年、ローマで心筋梗塞により死去。イタリアで国葬が執り行われた。弔意を示すため、世界中の無線局が2分間沈黙した。遺体はエミリア=ロマーニャ州のサッソ・マルコーニに埋葬された。なお、このコムーネの名は1938年、マルコーニにちなんで改称されたものである。マルコーニには兄弟が2人いた。1905年3月16日、アイルランドの第14代インチカン男爵エドワード・オブライエン()の娘ベアトリス (1882–1976) と結婚。娘を3人と息子を1人もうけたが、三女は生後数週間で亡くなった。1924年に離婚、1927年に結婚が取り消された。1927年6月15日、マルコーニは Maria Cristina Bezzi-Scali と再婚。結婚式にはベニート・ムッソリーニも列席した。娘を1人もうけた。晩年のマルコーニはファシズムの熱心な信奉者となり、第二次エチオピア戦争の正当化に一役買った。1915年、イギリスの豪華客船ルシタニアがアイルランド沖で撃沈され、マルコーニの友人が亡くなった。マルコーニは2日後のニューヨーク・タイムズにその事実を書いている。全米放送事業者協会は を毎年優れたラジオ番組に授与している。イタリアではユーロ導入まで流通していた旧2000リレ紙幣の肖像に採用されていた。2001年、イギリスではマルコーニの世界初の無線通信から100周年を記念して2ポンド記念硬貨を発行した。また、マルコーニのノーベル物理学賞受賞100周年を記念して、2009年にイタリアが5ユーロ記念硬貨を発行した。フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂にはマルコーニの葬儀を記念した像がある。
出典:wikipedia
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