ゲオルク・ショルティ(Sir Georg Solti、 1912年10月21日 - 1997年9月5日)は、ハンガリー出身で、ドイツ、のちイギリスの国籍で活躍した指揮者、ピアニストである。ゲオルグ・ショルティとも書かれる。ユダヤ系。ハンガリー語の発音に基づく表記はショルティ・ジェルジュ( [ˈʃolti ˌɟørɟ])。ハンガリーのブダペスト生まれ。シュテルン家の次男として生まれ、生まれた時の姓名はシュテルン・ジェルジュ(Stern György [ˈʃtern ˌɟørɟ])。父親はシュテルン・モーリツ (Stern Móric [ˈʃtern ˌmoːriʦ])、母親はローゼンバウム・テレーズ (Rosenbaum Teréz [ˈroːzenbɒum ˌtɛrɛːz])。写真家のモホリ=ナジ・ラースローは再従兄弟にあたる。また作曲家のジョゼフ・コズマ(コズマ・ヨージェフ)も親戚である。父親はハンガリーで民族主義が高まるのを感じて、子供らの将来のためにユダヤ的なシュテルンという姓をハンガリー風のショルティに改姓した。シカゴ交響楽団と録音したバルトークの管弦楽のための協奏曲やマーラーの交響曲などに表れているように、とにかく楽器を良く鳴らし、オーケストラのダイナミックレンジと機動力を最大限に利用したような指揮は、ショルティの指揮スタイルのひとつである。リズムの正確さ、鋭敏さも大きな特徴である(モーツァルトのオペラにおいて顕著)。シカゴ交響楽団でショルティが作った響きは、ウィーン・フィルのしっとりした響きよりはややドライな弦楽器、躍動的かつ長い息で吹き切る木管・金管楽器による「明晰さとバランスを重視」(本人談)している。トップオーケストラほど(ヨーロッパで特に顕著に)、指揮者が指揮棒を振るのと実際の演奏の音の出る間に長いタイムラグが生ずると言われる。ショルティはこれを嫌い、なるべく指揮棒を振り下ろした瞬間に音を出すよう依頼した。そのため、伝統を重んじるウィーン・フィルとはしばしば衝突を起こしたという。日本においては、ショルティの得意としたオペラが欧米ほど盛んでないことや、多くの音楽評論家による否定的な批評のため、今一つ評価が高くない。ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスをはじめとするオペラの指揮者としても著名な一方、オーケストラとの演奏・録音活動も幅広いレパートリーをこなしている。ハイドン、ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナー、マーラーなどは賛否両論あるが、一定の評価を得ているといえる。それらの業績に加え、ワーグナー、モーツァルト、リヒャルト・シュトラウスの演奏を加えると、同世代のヘルベルト・フォン・カラヤンと比べても、ドイツ圏の音楽が遥かに高い比重を占めている。例えば、モーツァルトからシュトラウスに至るドイツオペラの録音を、ショルティほど体系的かつ大量に残した指揮者は珍しい。いわゆる「ドイツ物」の他には、ヴェルディの作品を得意とした。ビゼーの『カルメン』も十八番のひとつである(戦後のミュンヘンを熱狂させた)。ドビュッシーの音楽も好み、『牧神の午後への前奏曲』や『夜想曲 (ドビュッシー)』より「祭」などは演奏旅行でのプログラムやアンコールでよく取り上げていた(首席フルート奏者を務めたドナルド・ペックがその著書の中で「自分ほど『牧神』を演奏したオーケストラ奏者はいないと思う」と回想している)。ヨハン・シュトラウスはほとんど取り上げないが、爆演スペクタクルに適したスッペは2度も序曲集を録音しているあたりも彼らしい特徴である。楽譜に対しては作曲家の意図にこだわり、プラスアルファの解釈を強調しない指揮者であった。ベートーヴェンやブラームスの交響曲の演奏では、通常は省略されることの多い提示部の繰り返しをきちんと行ったり、バランス上問題があるとされることの多い箇所でも楽譜通りのオーケストレーションで演奏させることでも知られる。チャイコフスキーの交響曲第6番『悲愴』の第1楽章にはファゴットのパートをバス・クラリネットに吹かせることが慣習化している箇所があるが、少なくとも残された録音では、ショルティはここも楽譜通りファゴットに吹かせている。また、ウィーン・フィル及びプラシド・ドミンゴらと録音したリヒャルト・シュトラウスの『影のない女』は、サヴァリッシュ&バイエルン放送交響楽団盤(EMI)に次ぐノーカット・完全全曲版である。ショルティは、1938年3月11日、ブダペスト歌劇場の「フィガロの結婚」で指揮者としてのデビューを飾ったが、ユダヤ系だったこともあって、再び指揮台に立つ機会はなかった。歌劇場の後援会長からルツェルン音楽祭に参加しているトスカニーニを頼ってニューヨークへ渡ることを勧められ、ルツェルンでトスカニーニに約束まではもらえたが、戦争が始まってしまったことと、トスカニーニ夫人から貰った所持金が底をついてしまったことなどから実際にはかなえられず、そのままスイスで生活を送ることとなる。以後、戦争が終わるまでは家族(父親は1943年に病死している)と再会していない。青年期が第二次世界大戦の真っ只中と重なり、またユダヤ系であることから、ショルティの生涯は戦争に翻弄され続けた。この経験から、政治家もまた、音楽家と同様に思想の違いを超えて平和を実現することが必ずできるはずだという信念を抱き、1992年にバッキンガム宮殿にてチャールズ王太子とダイアナ妃の主催で開かれたショルティ80歳記念演奏会の場で、「音楽が持つ、平和の使節としての特別な力」を体現化する「ワールド・オーケストラ・フォア・ピース」の構想を発表した。戦後は自身の名前(Georg)をドイツ風で通し、1972年までドイツ国籍を持っていたショルティは、イギリスに帰化したのちも「ドイツ語が、思い通りのことを一番うまく言える言語」「マジャール語は忘れてしまった」として、ヘルマン・ヘッセやトーマス・マンを原書で愛読する生活を送っている(ただし、大陸ヨーロッパの人名も英語読みすることが多い英米人は、綴りが違うにもかかわらず、例えば"BBC Pronouncing Dictionary of British Names" では「ジョージ・ショルティ」という発音を行っている)。なお、夫人は英国人である。初来日は1963年、ロンドン交響楽団との演奏旅行であった。ただし、当時最晩年だったピエール・モントゥーが同行していたため、その影に隠れてさほど脚光を浴びることはなかった。その後は1994年のウィーン・フィルとの最後の来日まで、たびたび日本を訪れた。演奏会・録音ともに、ウィーン・フィルとは頻繁に共演している。デッカはショルティのダイナミックな指揮に魅了され、『指環』の全曲録音を依頼した。ショルティによって、シカゴ交響楽団は今日の世界的評価を獲得した。ショルティ赴任以前は、フリッツ・ライナーによる第1期黄金時代があったものの、ライナー辞任後は楽団の内紛で低迷しており、アメリカの一地方オーケストラに過ぎなかった。初のヨーロッパ公演を成功させたショルティとオーケストラは、シカゴ市民に熱狂的に迎えられ、「シカゴはギャングの街からオーケストラの街になった」との評もあった。シカゴの野球解説者は、正確であることを「ショルティのよう」と喩えた。シカゴの電話帳の表紙を飾ったこともあり、市民から愛された指揮者であった。ヨーロッパ大陸への客演はドイツの放送管弦楽団が多く、晩年までミュンヘン・シュトゥットガルト・ケルンには特に頻繁に客演していた。また1990年代には、ヘルベルト・フォン・カラヤンの生前にはあまり縁のなかったベルリン・フィルやザルツブルク音楽祭にも登場するようになる。録音は膨大であり、その大半が専属契約を結んでいたデッカ(Decca)レーベルの録音である。ワーグナーの『さまよえるオランダ人』以降の10大オペラを全てスタジオ録音した数少ない指揮者の一人でもある。最大の偉業は、率いるデッカチームとの「指環」全曲録音であろう。ステレオ録音で長大な楽劇を遺した功績は、グラモフォン誌において20世紀最大の録音事業と賞賛された。往年の名歌手の歌唱、ウィーン・フィルの響きを伝える記録としても貴重である。グラミー賞受賞は史上最多の40回を誇り、女性最多受賞のアレサ・フランクリン(ソウル・パフォーマー、16回受賞)をも大きく引き離している。グラミー賞は英語圏の業績に偏りがちという意見もあるが、活動期間がほぼ重なるレナード・バーンスタインをしのぐ最多の受賞である。KBEなど。
出典:wikipedia
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