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アメリカ同時多発テロ事件

アメリカ同時多発テロ事件(アメリカどうじたはつテロじけん)は、2001年9月11日にアメリカ合衆国内で同時多発的に発生した、航空機等を用いた4つのテロ事件の総称である。航空機が使用された史上最大規模のテロ事件であり、全世界に衝撃を与えた。その後、アメリカ軍は報復としてアフガニスタン紛争、イラク戦争を行った。また、航空機のマンハッタン高層ビルへの大規模衝突事件としては、1945年のエンパイア・ステート・ビルディングへのB-25激突事故以来となった。日本では、この事件の略称として「同時多発テロ」、「9・11テロ|きゅういちいち」、「9・11事件|きゅういちいちじけん」などと呼ぶ。但し、2005年にロンドンでロンドン同時爆破事件が発生したので、2001年の事件を「アメリカ同時多発テロ事件」、「9・11テロ」と呼ぶことが増えた。広辞苑には、「九-一一事件(きゅういちいち-じけん)」と記載されている。アメリカ合衆国やイギリスなどの英語メディアでは、この事件を (9月11日攻撃)、、、 ()、などと呼ぶ。なお、このアメリカ同時多発テロ以後の時代を指す場合には、「post-2001」よりも「」の方が用いられている。2001年9月11日朝(現地時間)、マサチューセッツ州ボストン、バージニア州ダレス(ワシントンD.C.近郊)、ニュージャージー州ニューアークを発った4機の旅客機が、モハメド・アタを中心とするアラブ系のグループによってほぼ同時にハイジャックされた。彼らは操縦室に侵入し、パイロットを殺害した後、自ら操縦して、2機(アメリカン航空11便、ユナイテッド航空175便)をニューヨーク・マンハッタンへ、残り2機(アメリカン航空77便、ユナイテッド航空93便)をワシントンD.C.へ向かわせた。なお、乗っ取られた4機のうち2機がアメリカ合衆国のボーイング社製のボーイング767型機で、残りの2機がボーイング757型機である。この2種類の機体は、運行する航空会社のパイロットに互換性を持たせるために、コックピットの操縦システムは基本的に同じ物が使われており、いずれも2人のみで操縦できるため、意図してこれらの機体が運行されている便が選択されハイジャックされたと考えられている。また、実行犯のリーダー、モハメド・アタをはじめとする一部のハイジャック犯たちは、アメリカ合衆国国内にある民間の航空学校=ホフマン飛行機学校で小型機の自家用操縦免許(固定翼)を取得した後に、これらの機体の操縦方法を事前にフライトシミュレータで訓練していたことが明らかになっている。これら4機がいずれも北米大陸横断ルートという、アメリカ合衆国国内線の中では長距離飛行に入るルートを飛行する便であったのは、長距離便のために燃料積載量が多く、衝突後の延焼規模を多くすることを狙ったと推測する者もいる。なお、ハイジャックされて激突・墜落させられた旅客機の乗客・乗員は全員死亡している。ボストン(ローガン国際空港)発ロサンゼルス(ロサンゼルス国際空港)行きアメリカン航空11便(ボーイング767-200型機・機体記号N334AA)は、乗客81名・乗員11名を乗せて、午前7時54分に遅延出発した。午前8時14分頃にハイジャックされ、コックピットを乗っ取られた。午前8時23分に進路を急に南向きに変え、午前8時46分にニューヨーク世界貿易センターの超高層ビルであるツインタワー北棟(109階建)に突入し爆発炎上した。離着陸時の事故と違い、機体の残骸はほとんど原形を留めていなかった。11便衝突の瞬間をフランスのテレビ局から取材に来ていた兄弟のカメラマンが偶然撮影した。WTC至近にある消防隊に配属された新人消防士の成長を記録していた彼らの取材は、この瞬間から未曾有の事件に対峙する消防隊の活動を記録するドキュメンタリーとなり、日本やアメリカを含む世界各国で放送された。ボストン(ローガン国際空港)発ロサンゼルス(ロサンゼルス国際空港)行きユナイテッド航空175便(ボーイング767-200・機体記号N612UA)は、乗客56名・乗員9名を乗せて、午前8時14分に遅延出発した。管制部とアメリカン航空11便のハイジャックに関する交信を交わした後、午前8時43分頃までにハイジャックされ、コックピットを乗っ取られた。直後にアメリカン航空11便を追うようにニューヨークへ進路を変え、午前9時3分に世界貿易センタービルのツインタワー南棟(109階建)に突入し爆発炎上した。アメリカン航空11便と違い、強引な左旋回中に衝突したため、多くの階を巻き込み、衝突時に多くの死亡・負傷者を出した。その衝撃は大きな物で、先に衝突した北棟より早く南棟が崩壊している。11便の突入で既に多くの報道陣と見物人がビルの周りに集まっていた他、報道陣のヘリコプターも周辺を飛行しており、続く175便の突入では数多くの映像と写真が記録された。なお、105階にいたエーオン副社長のケヴィン・コスグローヴが、南棟が崩壊する最後の瞬間まで911番へ電話で状況を伝えており、轟音が上がり、「Oh, God! Oh-」という絶叫と共に会話が途切れるまでの生々しいやり取りが録音された。この録音はザカリアス・ムサウイの裁判において証拠として用いられた。ワシントンD.C.(ダレス国際空港)発、ロサンゼルス(ロサンゼルス国際空港)行きアメリカン航空77便(ボーイング757-200:機体記号N644AA)は、乗客58名・乗員6名を乗せて、午前8時20分に出発した。午前8時50分頃までにハイジャックされコックピットを乗っ取られた。直後に進路を北向きに変えた後、南へ転回、その後東へ進路を変えた。最初の進路離脱から3分間は管制塔と機長が交信していたが、その後通信不能となった。そして午前9時38分、バージニア州アーリントンにあるアメリカ国防総省本庁舎(ペンタゴン)に激突し、爆発炎上した。激突の瞬間の映像がペンタゴンの駐車場の監視カメラによって記録されており、また付近を通行中の多くのドライバーや歩行者によって降下し激突する瞬間が目撃された。映像によると機体は水平の状態で地面を滑走しながらペンタゴンに衝突していたが、高速で建築物に激突・炎上したため機体の残骸はほとんど原形を留めていなかった。ニューアーク(ニューアーク空港)発サンフランシスコ(サンフランシスコ国際空港)行きユナイテッド航空93便(ボーイング757-200、機体記号N591UA)は、午前8時42分、乗客37名(日本人1名を含む)(乗客37名中4人はテロリスト)・乗員7名を乗せて、滑走路の混雑で30分遅延で出発した。93便離陸の僅か数分後、アメリカン航空11便が世界貿易センター北棟に激突した。乗客の機内電話からの通報によると、午前9時27分にハイジャックされ、コックピットを乗っ取られた。オハイオ州クリーブランド付近で進路を南に変え、さらに南東へ向かった。ワシントンD.C.へ向かうことを管制官に通告、標的はアメリカ合衆国議会議事堂かホワイトハウスであったと推測されている。午前9時57分、機内電話や携帯電話による外部との連絡で、ハイジャックの目的を自爆テロと認識した乗客が機の奪還に乗り出す。その僅か数分後、世界貿易センタービル南棟が完全崩壊した。午前 10時3分、ペンシルベニア州シャンクスヴィル(ワシントンD.C.北西240kmの場所)に、時速9,33lm(時速580km)の対気速度で墜落した。離着陸時の速度の倍以上の高速で地上に衝突したため、機体の残骸はほとんど原形を留めていなかった。なお、地震計のデータから墜落の時刻を午前10時6分と公式記録と異なる報告がなされたが、後にこの時刻を算出した地震学者本人により撤回されている。乗客たちがハイジャッカーたちに反撃した際に「(さあやろうぜ)」を合図にしたと言われている。この9・11事件以降のアフガニスタンへの「報復戦争」において、この「」は軍用機に描かれたり、空母乗組員が人文字を空中撮影する際に用いられたりするなど、しばらく「テロと戦うスローガン」とされた。しかし乗客はコックピット内に進入できず、テロリストの操縦により機体を墜落させたと結論づけている。なお、離陸からハイジャック、墜落までの乗員乗客の行動を基にした映画『ユナイテッド93』として2006年に公開された(この映画ではハイジャッカーたちに対して反撃した乗客たちがコックピットに進入した様子が描かれているが、公式の調査報告書では、実際にそこまで辿り着けていないと結論されている。一方で遺族向けに公開されたCVRの音声には墜落前にコックピットのドアの開く音が記録されていた)。世界貿易センタービル・ツインタワーの北棟は、8時46分にアメリカン航空11便の突入を受けて爆発炎上した。この時点では多くのメディアがテロ行為ではなく単なる航空機事故として報じた。ジョージ・W・ブッシュ大統領(当時)も「第一報を受けた時点では航空事故だと考えた」と発言した。1機目の激突は、数ヶ月前から地元消防署の日常を密着取材していたフランスのテレビ局から派遣されていたビデオジャーナリストのノーデ兄弟によって偶然撮影(ガス漏れの通報があり、出動していた消防隊に同行していた)され翌日に報道されている。続いて、9時3分に南棟がユナイテッド航空175便の突入を受け、爆発炎上した。2機目の激突は1機目の激突後に現場のテレビ中継を行っていた際に発生し、世界各国に1機目の衝突を臨時ニュースとして国際中継していた間に起こった事件であったため、前代未聞の衝撃的な映像を多くの人たちがリアルタイムで見る事になった(この時点で、事故ではなく故意に起こされた事件であることが認識された)。また、2機目の旅客機が激突する瞬間はプロやアマチュアを含む多くのカメラマンに撮影されている。ツインタワーは、建設当時の主力ジェット旅客機のボーイング707が突入しても崩壊しないよう設計されていたはずだった。だが、実際に高速で突入した同サイズのボーイング767によってビル上部は激しく損傷、漏れ出したジェット燃料は縦シャフトを通して下層階にまで達し、爆発的火災が発生した。火災の熱による鉄骨の破断でタワーは強度を失い、9時59分に南棟が突入を受けた上部から砕けるように崩壊した。北棟も10時28分に南棟と同様、砕けるように崩壊した。ツインタワーは、特に北棟で人的被害が大きく、死者は約1,700人(救護活動中の消防士を含む)であった。特に突撃を受けた92階以上に被害が多く、この階以上の在館者全員が死亡したと言われている。それは航空機に突入されたフロアの階段が大きく破壊され炎上し、避難経路が遮断されたためである。そのため直撃を受けたのが93階のごく一部~99階であったにもかかわらず、階段が破壊されたため、最初の直撃ではほとんど無傷だった92階と93階の人々までもが被害を受けてしまったといわれている。南棟も同様に激しく炎上したが、こちらは旅客機が外側に少し反れて激突し、反対側の階段が損壊や延焼を免れたため、突入フロア以上でも延焼の少なかった部分にいた十数名は無事避難することができた。また、突入前の未然避難者も含めると約7割の人が生還している。ただしこの時、炎上部より上にいた人の一部が、煙による苦痛や絶望感から飛び降りを行い、消防士や避難者の一部が落下してきた人の巻き添えになり命を落とした。また崩壊時の破片や煙により、ビル外でも数人が命を落としている。一方、タワー崩壊後も館内で奇跡的に生き残っていた人も数名おり、それらの人々は当日夕方に救助された。北棟および南棟の崩落による影響で、敷地内の他の4つのビルも崩落・炎上し、8時間後に敷地北隣の高層ビル・世界貿易センター7号棟もともに崩落。道路は完全に封鎖、世界貿易センターの地下をターミナルとしていた地下鉄やパストレインもトンネルの崩落で走行不能に陥った。これらのことからニューヨークでは合計で2749人が死亡するという大惨事になった。この事件以降、世界貿易センタービル跡地は「グラウンド・ゼロ」とも呼ばれている。アメリカ国防総省本庁舎(ペンタゴン)は9時38分にアメリカン航空77便(ボーイング757)の突入を受けた。大爆発が引き起こされてビルの一部は炎上し、10時10分に4階が崩壊、10時15分に1階までが全て崩壊した。77便の乗客・乗員全員が死亡し、189人の国防総省職員も死亡した。事故現場はボーイング757の機体の判別が困難なほど焼けたが(それ以前にボーイング757は高速でかつ水平に建物に衝突したために、ほぼ完全に原形をとどめぬほど破壊されていた)、ビルの倒壊は5層になっているビル全体の1番と2番で抑えられた。また、この部分は長官執務室の反対側であり、ビルの補強工事中で普段よりも職員が少ないことが被害を抑えた。この直前に起きた世界貿易センタービルへの他の飛行機の突入の影響で情報は錯綜し、最初の報道は単にペンタゴンが爆発炎上したというだけであったが、後に付近を通行中のドライバーや歩行者によってアメリカン航空機が北側から旋回して激突したとの目撃が証言され報じられた。さらに激突の瞬間の映像がペンタゴンの駐車場の監視カメラによって記録され、すぐにFBIによって回収、調査された。テロ当日は北アメリカ航空宇宙防衛司令部(ノーラッド)の年に一度行われる訓練の日であり、東海岸から離れた場所で万全の防空体制で訓練に当たっていたはずだった。しかし連邦航空保安局からアメリカン航空11便ハイジャック発生の第一報が入ったのは8時40分(それ以前に入っていたという説もある)ごろで、マサチューセッツ州のケープコッド南西部にあるオーティス空軍州兵基地からF-15戦闘機2機がスクランブル発進したのは8時52分だった。スクランブル発進したF-15はアメリカン航空11便を追跡するよう命じられたが、発進した時11便はすでに突入した後だった。管制室は途中からユナイテッド航空175便を追跡させているという認識だったが、状況の把握が不十分で、パイロットも何を追跡しているか認識できていなかった。同機は一旦ロングアイランド湾で待機するよう命じられ、ニューヨーク上空への進入を命じられたのは175便が突入した後だった。しかしF-15には旅客機攻撃の権限が無く、突入を止めることは不可能だったとされる(進路妨害は可能だったという指摘もある)。ワシントンD.C.には、ノースカロライナ州上空で訓練していたF-16戦闘機3機が呼ばれたが、飛来したところで基地への着陸待機を命じられた。3機はアメリカン航空77便の追跡を命じられ再度離陸したが、もともと訓練中だったために燃料が不足し始め、うちの2機は訓練用の模擬弾しか装備していなかった。9時30分に別のF-16が3機発進し、ワシントン近くに飛来したが、これらには攻撃用のサイドワインダーが装備され、旅客機撃墜の権限が与えられていた。しかし、結局77便に合流することは無く、9時38分にペンタゴンへの攻撃の阻止には至らなかった。オハイオ州上空を飛行していたユナイテッド航空93便の付近で、積荷の搬送を行っていたC-130輸送機が、管制官から93便を捕捉するように命じられた。C-130は93便墜落の際、17マイル離れたところに位置していた。ノーラッドから10時6分にスクランブル発進命令があった2機のF-16が発進したのは10時16分だった。別の2機のF-16が93便を追跡していたという話もあるが、公式な発表にはない。さらに事故から約10分後に現場のはるか上空を戦闘機らしい航空機1機が通過するのを目撃された。ノーラッドは連邦航空局から93便墜落の報告を受けたのは10時15分で、10分近く93便の追跡を続けさせていた。連邦航空局がアメリカ合衆国中のすべての空港の閉鎖の措置を決定したのはツインタワーへの2度目の攻撃の直後からで、9時45分に全米の空港からの民間機の離陸が停止され、飛行中のすべての民間機は直ちに最寄の空港へ着陸するよう通告された。民間機の飛行禁止は3日間にわたり、常に5000機以上が飛んでいた航空機がアメリカ上空、そしてアメリカが管制を担当する空域から姿を消した。ジョージ・W・ブッシュ大統領はフロリダ州におり、同州サラソータにあるエマ・E・ブッカー小学校の授業を視察する予定だった。1機目のツインタワー攻撃の際には小学校へ向かう専用車の車中にいたが、このときは航空事故だと考えていたとされる。ただし、一時的にホワイトハウスとの間で電話会議が行われた。また補佐官ら周辺も同じように事故と考え、予定通り小学校へ入った。授業視察中に2機目のツインタワー攻撃があり、数分後、ブッシュ大統領がアンドリュー・カード首席補佐官から2機目の突入と「合衆国が攻撃されている可能性がある」との報告を受けたが、ブッシュ大統領は「無駄な動揺を与えないために」との理由ですぐに動かずに7分間、小学生の朗読を聞き続けていた(この映像は後に『華氏911』などで取り上げられた)。朗読が終わるとブッシュ大統領は小学生を褒め、ただちに隣室で補佐官と話し、電話でコンドリーザ・ライス国家安全保障担当補佐官(当時)と州知事に連絡した。その後、テレビカメラで国民へ呼びかけ、9時30分頃に小学校から出発し、3マイルのところにある空港へ向かった。大統領専用機が離陸したのは9時55分である。護衛の戦闘機はなかったが、このときアメリカ国内上空には、未だに連絡の取れない旅客機が11機あったが、管制の指示で地上に降ろし、国内空域は哨戒機と大統領専用機だけになった。管制は専用機に「行先を告げずに好きに飛んでいい」と指示したが、当時専用機からは生の声明発表ができなかったため、一度ルイジアナ州バークスデール空軍基地に立ち寄り、国民に向けた声明発表を行った。その後、ネブラスカ州オファット空軍基地で事態の沈静化を待ち、夕刻にメリーランド州アンドルーズ空軍基地経由でワシントンD.C.へ帰還した。専用機は通常、国内でのフライトでは戦闘機の護衛を受けないが、この日のオファット基地からアンドルーズ基地へのフライトでは、国内では初めてゼネラル・ダイナミクスF-16戦闘機の護衛を受けて飛行している。リチャード・チェイニー副大統領と数人の閣僚、ライス補佐官はホワイトハウスで執務を行っていた。彼らはツインタワーへの2度目の攻撃の直後、シークレットサービスにつれられて地下壕へ避難した。ドナルド・ラムズフェルド国防長官は上級軍人と朝食をとった後、ペンタゴンの執務室へ入って議員と懇談していた。ラムズフェルド国防長官にツインタワー「攻撃」の知らせが入ったのは、ペンタゴン攻撃のわずか2分前であり、アメリカン航空77便がペンタゴンに向かっていることは知らなかった。また、平時のペンタゴンにはホワイトハウスのような防空装備がない。攻撃の後、ラムズフェルド国防長官が建物の外へ出ると女性職員が血を流して倒れていたため、彼女を抱えて避難し、救急車が来るまで看病していた。現場から避難したのはその後で、数十分が経過していた。コリン・パウエル国務長官は、事件当時南アメリカのペルーを実務訪問中であったが、ツインタワーおよびペンタゴンへの攻撃の報告を聞いてすぐに政府専用機で帰国した。なおロシア連邦のウラジーミル・プーチン大統領は、この一報に対し「アメリカ合衆国軍が必要な動員をかけたとしても、直ちにロシア連邦軍に迎撃体制を取らせることはない」とホットラインでブッシュ大統領に告げた。ロシア連邦軍にはアメリカが大規模な動員をかけるとそれに反応するように指揮系統が準備されている。ニューヨークやワシントンには世界中の報道機関が本社・支社・事務局を置いているため、一連の事件は、テレビ、ラジオ、インターネットなどを通じて全世界にリアルタイムで伝えられた。連日、新聞や週刊誌なども最大級の扱いで事件を伝えた。当日およびその後のテレビ報道はインターネット・アーカイブで保存公開されている。テレビが朝のニュースショーなどを放送していたニューヨーク時間(アメリカ東部夏時間)8時46分、ハイジャックされたアメリカン航空11便が世界貿易センター北棟に突入・炎上した。CNNは8時49分から、ABC、CBSなど他のテレビ局も8時50分前後から特別報道番組を開始。世界貿易センターのそびえ立つロウアー・マンハッタン方面を向く情報カメラや、マンハッタン上空あるいは隣のニュージャージー州上空を飛ぶ報道ヘリコプターが建物の様子を伝え始めた。報道番組が始まって間もなく、フロリダ州サラソータの小学校を訪問していたブッシュ大統領も側近から事件を知らされた。1機目の突入直後は情報が錯綜し、小型機がビルに誤って衝突した事故と報じるものが多かったが、各テレビ局のカメラが推移を見守っていた矢先の9時3分、1機目突入から18分後、南棟にユナイテッド航空175便が突入した。建物から巨大な炎が上がり、目に見える限りの状況を伝えていたアナウンサーはこの瞬間、一様に悲鳴や叫び声を上げた。また2機目の突入以降、各テレビ局はテロの可能性が高いと論調を変えることになった。数分後、ブッシュ大統領がカード首席書記官に2機目の突入を耳打ちされた。この時の映像はすぐには放送されなかったものの、のちに映画「華氏911」などで広く使われることとなる。首都と連絡を取り合った大統領は9時30分に演説を開始。テレビ各局も大統領の第一声を放送した。その後、サラソータを飛び立つエアフォース・ワンの映像も伝えられたが、目的地は不明確なままであった。政府首脳陣の緊張が高まる中、9時37分、アメリカン航空77便がペンタゴンに墜落した。ほぼ同時刻、ハイジャックされたユナイテッド航空93便の乗客・客室乗務員は地上にいる家族などに機内電話をかけ始めていた。すでに全米のテレビは事件報道一色となっており、その映像を見た何人かが電話を通じ、93便上にいる乗客などにニューヨーク・ワシントンで起きている事件の模様を伝えた。乗客たちはこうした情報を入手したことでハイジャックが自爆攻撃の一環であると悟り、93便の奪還を図ったものと考えられている。アメリカ合衆国のテレビはその後、世界貿易センタービルが次々に崩落する瞬間を中継し(南棟9時59分、北棟10時28分)、さらに93便がペンシルベニア州に墜落したと伝えた(10時3分墜落。報道は30分以上後)。一連の事件は衛星を通じて世界中のテレビに同時中継された。テロ報道は日曜深夜まで休むことなく、CMもなしで放送し続けた。特にネットワーク3局の夕方ニュースのアンカーは最長で1日17時間にわたって伝え続けた。この週は新番組が始まる時期だったので、軒並み放送が順延され、内容変更を強いられた番組もあった。ヨーロッパ諸国でも同様の特別報道がなされた。また、アメリカ国内に本部を置くCNBC(ヨーロッパ/アジア向け)やCNNインターナショナルにて、本来あまり放送されないアメリカ国内向けの放送を全編放送し続けた。ネブラスカの空軍基地などを経てホワイトハウスに無事帰還したブッシュ大統領は20時30分、全米に向けた演説を行い、国民にアメリカ国家が未だ健在であることを示した。この演説も全世界に伝えられた(日本では12日9時30分)。イギリスは昼過ぎであった。BBCにおいてはテレビ国際放送・BBCワールド(現・BBCワールドニュース)内で速報として13時前に炎上する世界貿易センターを映し出したのが第一報であった。午後1時からのニュース番組を始めた直後、2機目の突入の瞬間を生中継した。ブレア首相は14時30分ごろ、出席していたブライトンでの労働組合会議の場で「深い哀悼」の意を伝えた。(以下、日本における報道については日本時間を使用する。なお、日本時間は現地の時間(アメリカ東部夏時間)より13時間進んでいる。当時の状況の主軸である世界貿易センタービルへの航空機衝突と崩壊の時刻を太字で示す。)2001年9月11日は台風15号と台風16号が前日から関東地方と沖縄を襲って多くの被害をもたらしたほか、9月1日に発生した歌舞伎町ビル火災の原因究明、9月10日に国内で初めて狂牛病疑いのある牛が千葉県で発見されるなど、この日のニュース番組は多くの話題で占められていた。22時前後、「ニューヨークの世界貿易センタービルに航空機が激突(1機目のアメリカン航空11便)」という情報が、各局のニュース番組またはニュース速報で伝えられ始めた。22時開始の「NHKニュース10」(NHK総合テレビ)も、冒頭のヘッドラインは台風の話題だった。しかし、カメラの前に登場したキャスターが発した最初のニュースは台風ではなく、このテロの第一報であり、間もなくABCニュースの中継映像で炎上する世界貿易センタービルの姿が映し出された。この時点ではまだ「事故」か「事件」かは明言されていなかった。また、報道機関は1機目衝突の瞬間を捉えておらず、消防士の取材をしていたフランス人カメラマンが撮影した1機目の映像も翌日まで放送されていなかった。ただ「NHKニュース10」に出演していたコメンテーターは、晴天時での不可思議な衝突という状況を理由として、2機目衝突前からテロの可能性を指摘していた。CNNでも同じような理由からテロの可能性が指摘されていたが、同時に、1945年7月28日にエンパイア・ステート・ビルディングにアメリカ陸軍のB-25爆撃機が衝突した事故を例に挙げ、操縦ミスによる突発的な事故である可能性も指摘していた(なおこの事故当時は深い霧が出ていた)。また、この時点で「激突した航空機は小型の双発機」であるとの情報が報道されていたが、「小型」の根拠や「双発機」という語の解説がなされないなど、情報が錯綜していた。22時20分頃、NHKは「旅客機がビルに激突したとみられる」と伝えた。22時30分、フロリダ州の小学校を訪れていたブッシュ大統領が演説で「明らかなテロ」と発言した。22時45分頃、「ペンタゴン(国防総省)が炎上」というニュースが各局で伝えられ、一連の事件が「同時多発テロ」であるとの見方が固まった。間もなく炎上するペンタゴンの映像が映し出され、爆発・火災の原因が3機目の旅客機の可能性があると伝えられた。旅客機がハイジャックされていたという内容の現地メディアの報道も日本国内に伝えられ始めた。ABCニュースの中継映像をそのまま放送していた「NHKニュース10」では、この瞬間が生中継された。映像では画面右側から飛行機が現れ、炎上する北棟(第1ビル)の真後ろに隠れるように見えた。そこには南棟(第2ビル)があり、数秒の後、南棟を襲った巨大な爆発によって炎と黒煙が上がる様子が映し出された。画面を通して見れば、1機目の激突で炎上する北棟が2度目の大爆発を起こしたように見え、NHKニューヨーク支局の記者は単に「今、また爆発がありました」と伝えた。これに対してキャスターの堀尾正明が「今、2機目の飛行機が突入したように見えましたが」と聞き返した。テレビ朝日(ANN)では、定時の21時54分より「ニュースステーション」の放送を開始した。冒頭からCNNの映像をそのまま放送しており、1機目激突後の時点ではまだ事故と考えられていたため、1機目の激突により炎上する北棟の映像をしばらく流した後、台風関連のニュースを伝えていた。この間に2機目の突入が起こったため、突入の瞬間は生放映されなかったものの、すぐに再びテロ関連のニュースに切り替えられた。この時、コメンテーターの萩谷順は、「先週末から米国の情報機関により『中東のテログループが米国の利益を代表する建物ないし組織に対してテロを行おうとしている』との警告が流されていた」と述べている。なお、この時メインキャスターの久米宏は夏季休養中であり、進行は渡辺真理が務めた。これらの各ニュース番組では放送予定だった他のニュースより優先して、ニューヨーク・ワシントンとの中継映像が放送され続けた。時間(事件の拡大)とともに民放各社も次々に通常番組を打ち切り、臨時ニュースの放送を開始した。TBS系列では22時37分、放送中の毎日放送制作「ジャングルTV 〜タモリの法則〜」を途中で打ち切り、「筑紫哲也 NEWS23」を前倒しで開始。フジテレビ系列では、関西テレビ制作のテレビドラマ「ウソコイ」最終回を放送していたが、番組の途中でニュースを何度か流した後、ドラマ終了直前から報道特番を開始した。通常時はでテレビ東京のニュースをネット受けしないとされる三重テレビは、この日は「ワールドビジネスサテライト」を臨時ネットした。火曜サスペンス劇場を放送中の日本テレビは、CMと本編の間にNNNきょうの出来事キャスターの井田由美アナウンサーによる短いニュースを挟んだが、番組自体は休止しなかった。(同局は次番組のきょうの出来事以降、本格的な特番体制に入る。)NHKではワシントン支局と中継を結んでいる間にそれが起こり、途中で手嶋龍一支局長の発言を遮るようにニューヨークに画面が切り替えられた。片方のビルが姿を消し、大量の煙に覆われたニューヨークと、路上から撮影した南棟崩壊時の映像が映し出された。これらの映像は二棟が重なるアングルであったため崩壊の程度が分かりにくく、当初は「ビルの一部が崩壊した」とも伝えられていた。また、ワシントンの各所で爆発が相次いだという誤報が流れ、画面に「アメリカで同時テロ」の字幕が映し出された。この時もNHKはスタジオを映していて2つのビルの崩壊の瞬間はいずれも中継されなかった。しかし間もなく、巨大な超高層ビルが上部から完全に崩壊し、膨大な瓦礫と化してマンハッタン南部が煙で覆いつくされる衝撃的な映像が放送された。さらに23時40分頃には、4機目(ユナイテッド航空93便)がペンシルベニア州西部に墜落したというニュースが伝えられた。NHKの堀尾正明アナウンサー(当時)は次々と起こる惨劇を報道する中で「信じられないような映像をご覧いたただいていますけれど、これは現実の映像です」と発言した。日本のほぼ全てのメディアは翌日の明け方までテロに関する情報を伝え続けた。日本の放送メディアにおける海外の非常事態の終夜放送は、1991年1月17日に勃発した湾岸戦争(多国籍軍による空爆開始)以来であった。また駐日アメリカ軍向けのラジオ放送を行うAFNも通常放送を中断してニュースを伝え続けると同時に、アメリカ軍の警戒態勢や行動上の注意を喚起する内容の放送を、ニュースの合間に繰り返し行っていた。翌9月12日の午前6時25分、世界貿易センターの第7ビルが崩壊した。8時30分ごろ、日本人大学生1人がユナイテッド航空93便に搭乗していたと報道された。9時30分からブッシュ大統領がホワイトハウスで行った演説が中継され、10時20分から小泉首相、福田官房長官が首相官邸で記者会見を開始した。午後1時50分ごろ、1機目激突の瞬間を撮影したフランス人カメラマンの映像が放送された。こうしてこの日もほとんどテロ事件関連ニュース一色となった。夜のゴールデンタイム枠ではお笑い・バラエティ番組が休止され、特別番組が放送(TBSではナイター中継を通常時間より1時間短縮し、特別番組を放送)された。テレビでは、事件から1週間程度の期間は通常番組を休止あるいは放送延期等を行い特別報道番組を放送する局もあった。また、ビルが破壊される描写や航空機が撃墜される描写のある映像の放映自粛を行うなど放送内容に影響が出た。新聞各紙も一面に大見出しで事件を伝えたほか、号外も発行された。事件が朝刊各版の締め切り間際に立て続けに起こったため、各新聞は配達先によって記事内容が一部異なっている。多くの週刊誌も特集を組むなどして、大きく事件を伝えた。当時CNNインターナショナルを日本国内の衛星放送・ケーブルテレビ局向けに配信していたJCTVではこの事件を受け、急遽通常は行っていない深夜帯の同時通訳を行った。後に当時の同時通訳陣の心境をまとめた短い記事を、同社CNN紹介ウェブサイト内に期間限定で掲載している。「同時多発テロ」と呼ばれるように複数のテロが短時間に連続して発生した。当時の社会において、従来型の「テロ」や「犯罪」の概念を超越した規模だったため、時事刻々と変化する状況に対して報道機関の対応が追いつかず、情報が錯綜した状況が続いた。事件当日から事件翌日の日本の各新聞・テレビ報道において確認された誤報の一部として、下表のようなものがあげられる。新聞における誤報については訂正が締切時間に間に合わず、結果的に翌12日の朝刊のいくつかの掲載が誤報になった例も含まれている。これらの状況はアメリカ合衆国においても同様で、事件発生当初は激突した航空機も大型ジェット旅客機ではなく小型民間機(単発もしくは双発小型プロペラ機など)と報道されていた。テレビでは事件発生直後から、さまざまな場所・方向から記録された映像が放送された。特に旅客機が建物に突入する様子や、建物が崩れ落ちる衝撃的瞬間をとらえた映像は1週間近くにわたり何十回、何百回となく繰り返された。しかしこれは数千人が殺害された瞬間にほかならず、遺族や関係者、さらには子供にショックやトラウマを与える可能性が懸念され、次第に自粛を要請する声が上がった。やがてニュースでこの事件の映像が放送されるときも、こうした「衝撃映像」は少なくなった。事件後の新聞各紙や週刊誌などには、ビルが炎上・崩壊する写真のみならず、血まみれでうずくまる市民やビルの上層階から飛び降りる人の写真などが大きく掲載された。アメリカ合衆国では後者の写真をめぐって論争が起こった。アメリカ最大の宗派であるキリスト教は自殺を禁じているからである。2006年にイギリスで製作されたドキュメンタリー「」は、この論争を取り扱ったものである。一連の事件を記録した写真や映像は、各マスコミのみならずマグナム・フォトのようなプロフォトグラファー、あるいは事件を目撃し撮影した市民によって大量に残された。マグナムは「NEW YORK SEPTEMBER 11」と題して写真集を発売した(日本版あり)。ニューヨークでは事件後に写真展覧会が行われ、それらの写真はインターネットで公開されたほか、「HERE IS NEW YORK」と題した写真集として発売されている(日本語版なし)。2006年に公開されたユナイテッド航空93便を描いた映画「ユナイテッド93」や、「ワールド・トレード・センター (映画)」でも、事件を伝える当時のテレビ局の映像が使われている。なお「ユナイテッド93」では当時の様子を極力再現するため、情報伝達の混乱や誤りなどがそのまま伝えられている。この無差別テロ事件の犠牲者は、すべての死者を合計すると3,025人とされている。判明している内訳はハイジャックされた4機の旅客機の乗員・乗客が246人、アメリカ国防省で125人。世界貿易センタービルで2,602人とされている(あくまで「確認された人数」ということであり、実際には多少の誤差があると言われている)。このうち世界貿易センタービルでの死者数には、ニューヨーク市消防局の消防士343人、ニューヨーク市警察本部の警察官23人、ニューヨーク港湾管理委員会の職員37人が含まれている。世界貿易センタービルではこの事件の被害者と思われる24人の行方不明者がいる。なお、ビルの残骸に含まれていたと考えられる約1,100人の遺体は最後まで発見できなかった。遺体はもちろんあらゆるものが、粉々に破壊されて散乱した。近隣のビルの屋上で発見された遺体の破片もある。現場はビルの鉄骨に吹き付けられていた石綿(アスベスト)やコンピュータや蛍光灯からの水銀、ベンゼンをはじめとする火災により発生した多環芳香族炭化水素化合物等の危険な粉塵も含まれており、救難活動を行った犬が次々に死に、肺に障害を訴える人が次々に出ていた。しかし、アメリカ政府はそれを否定し、十分なデータの裏付けもないのにEPAも「空気は安全」と報知したことから、安全よりもニューヨークの復旧作業といち早くウォールストリートを開けるのを優先したのではないかという疑惑も挙がっている。これに対して、EPA監査局はホワイトハウスの環境諮問委員会からの圧力で安全宣言の発表に至ったという報告書を2008年8月に発表している。これによると、EPAの安全宣言はアスベストの含有量の数値など実際のサンプルがあったにも関わらず、曖昧な表現に書き換えられた形跡もあるという。現場で救助作業などにあたった人では、安全宣言により防塵マスクを付けなかったため、健康被害が拡大された可能性も指摘されている。このような作業員や消防士、住人を含めテロ発生時またはその直後に現場近辺にいた人では、肺疾患や白血病、癌などの発生が報告されており、医療機関などにより粉塵被害との因果関係が追跡調査されている。特に消防士では、精巣癌や非ホジキンリンパ腫、前立腺癌、多発性骨髄腫になるリスクが有意に高いとする論文も発表されている。約3000人の作業員に対する追跡調査では、28%の人で肺機能に何らかの異常が認められている。ニューヨーク市警察(NYPD)など法執行機関においても、多数の警察官がテロ事件に関連した疾病(9/11 related illness)で死亡している。2016年8月までの警察官及び法執行官の死者数は110名。内訳以下の通り。2011年1月、健康被害を受けた消防士や警察官らに医療費補償など約42億ドルを支給する法案が成立したブッシュ大統領は速やかに非常事態を宣言した。冷戦時代につくられた政府存続計画が初めて実行された。世界貿易センタービルやペンタゴンへの攻撃がなされた後しばらくの間は、さらなるテロに備えて、州兵、予備役が動員された。空港などには厳戒態勢が敷かれ、全ての国境が封鎖された。また、連邦航空局の命令によりアメリカ国内の民間航空路の封鎖、アメリカ領空内への民間機の入域・通過が禁止され、領空内を飛行中の民間機は全て最寄の空港に強制的に着陸させられた。これらの措置は数日間続いた上、この措置が行われた地域はアメリカ本土のみならず、アメリカが航空管制を担当しているサイパンやパラオなどの太平洋諸国の一部地域や、北大西洋の一部地域など広範囲に及んだ。これにより多くの外国人がアメリカ国内に足止めされた上に、多くの航空機が地上待機させられた世界各国の航空会社の運行が大混乱に陥った。この事件においては、ハイジャック犯の機器操作ミス(犯人側は乗客に向けて、機内放送をするつもりだったと見られるが、機内放送用のスイッチではなく、管制塔とのやり取り用の無線スイッチを押していた)によってコックピット内の会話が管制室に入るようになり、アラビア語を話していることから、おそらくはアラブ人が犯人であることが早期に推測できた。また、客室乗務員は機内電話を使用して会社へハイジャックを報告し、犯人の特徴、人数と座席番号を伝えた。このため、航空会社は犯人の氏名、住所、電話番号からクレジットカードの使用履歴までを把握することが可能となった。また、数名の乗客も手持ちの携帯電話や機内電話で家族や友人にハイジャックの事実を伝えた。これらの電話の会話は殆どが機体の破壊の時まで続いた。この内いくつかの会話は録音されており、事件捜査に使用された。アメリカ合衆国政府はこれらの捜査の結果から、このテロ攻撃がサウジアラビア人のオサマ・ビンラディンをリーダーとするテロ組織「アルカーイダ」によって計画・実行されたと断定し(アルカーイダはこれを否定しなかったが、肯定もしていない)、彼らが潜伏するアフガニスタンのターリバーン政権に引き渡しを要求した。しかし、ターリバーン側は、「証拠があれば引き渡す。しかし、今の段階ではアルカーイダのやったこととは断定できない。」と主張し、引き渡しを拒否。これに対してアメリカ合衆国軍はアフガニスタンのターリバーン政権に対して攻撃を開始した。なお、湾岸協力会議を構成するアラブ諸国もテロ攻撃を批判し、アフガニスタン攻撃を支持する声明を出した。喪失感が充溢する中でアメリカ合衆国国民は、求心力を愛国的な意識を共有することに求め、速やかな報復を肯定する世論が形成されていった。具体的な物的証拠が挙げられないうちから、CNNなどのアメリカ合衆国の大手マスコミなどにおいても、イスラム原理主義を信奉するアラブ系人種によるテロ説が唱えられ(同じような事は、オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件の際にも発生した)、流言に乗った市民によるアラブ系住民の暴行事件が多発、アラブ系男性が射殺される惨事にまで発展した。また、ヨルダン系アメリカ人アメリカ兵がテロ後に受けた差別がきっかけにより、8年後の2009年11月5日に陸軍少佐がフォートフッド陸軍基地で銃乱射事件を起こしている。これに対し、アラブ系アメリカ人には「Arabic Americans support U.S.(アラブ系アメリカ人は合衆国を支持する)」などと書いたと横断幕を自家用車に掲げ、アメリカ合衆国の味方であることをアピールした者もいた。事件発生直後のテレビ報道の中で、中東系の人々が勝ち誇ったように興奮する映像が流されるなど(本テロ攻撃との関係は全く不明)、いわゆる国家的陰謀論に結びつくような偏った報道が事件直後から行われていたとする説もある。(大統領時代にはビンラディンを脅威と考えていた)前大統領であるビル・クリントンは、「同時多発テロ事件を見て、それが直ちにビンラディンによるものだろうと考えた」と後に述べており、方法はともかくとしても、アメリカ合衆国に対するイスラム原理主義勢力によるテロ攻撃の可能性は以前から意識されていたものである。炎上する世界貿易センターに取り残された人々を救出すべく命がけでビルに突入し、ビルの崩壊で殉職した消防隊員や警察官に対してその勇気と献身的態度を賞賛する声がアメリカ合衆国のみならず世界中から寄せられ、その遺族に対する募金や手紙も世界各国から寄せられた。同じような賞賛は有毒物質が散乱する事件現場で遺体や遺留品の捜索を行った作業員たちにも同様に寄せられた。テロ直後、ニューヨークの消防隊員から日本の公安職員で構成するNGO日本警察消防スポーツ連盟宛てにSOSが発信され、同連盟から消防救助隊員11名を現地入りさせて救助活動を実施した。世界中から多数の救助隊がテロ現場に向かいアメリカ入りしたが、アメリカ国籍以外の外国人で実際に救助活動したのは、唯一日本の救助隊のみである。テロ以降、ニューヨークでは数々のアトラクションが、市民感情およびセキュリティ上から興行中止となった。また週末に予定されていたNFLのレギュラーシーズンも中止が決定された。しかし、ブロードウェイのミュージカルやメジャーリーグをはじめとする多くのプロスポーツは、再度のテロを警戒する警察官の警護の元に程なくして再開し、「テロにひるまず通常の生活を続ける」という意思表示を行うとともに、打ちひしがれたアメリカ合衆国国民の心を慰めた。また、全米1200もの系列局を傘下にもつラジオ放送大手のクリアチャンネル()は、事件直後に放送自粛曲リストを作成した。リストには以下のような著名なアーティストの楽曲が多数含まれ物議を醸した。映画関連ではアメリカ合衆国国内や同盟国では、ニューヨークを舞台にしたりテロをモチーフにした映画は「被害者に不謹慎」として公開を延長、または自粛する作品が相次いだ。日本でも2001年9月14日の「金曜ロードショー」(日本テレビ)で、ニューヨークにおける爆破シーンがある『ダイ・ハード3』が放送予定だったが自粛され、その他の映画も自粛された。9月23日の「日曜洋画劇場」(テレビ朝日)にて「Xファイル ザ・ムービー」を放送する際には、ビル爆破シーンを全てカットしている。2002年2月に「日曜洋画劇場」(テレビ朝日)でテレビ放送されたホーム・アローン2ではニューヨーク市内観光を楽しむシーンが全てカットされた(詳細はホーム・アローン2にて)。同時多発テロの後、アメリカではイスラム教への敵意が広まり、ムスリム(男性なら頭にターバンを巻き髭を生やした人、女性ならばヒジャブを被り顔だけ出している人)に対するヘイトクライムの数が急増した。イスラム寺院やイスラム教の学校、中東系のコミュニティセンターには電話や手紙による脅迫が相次ぎ、落書き、石や火炎瓶の投擲、銃撃、豚の血を入れた箱をモスクの入り口に置いておくという悪質な嫌がらせである。道を歩いていても罵声を浴びたり、アラブ系経営者の店舗、特にガソリンスタンドは危険なため、閉鎖せざるをえない状況になった。ムスリムは1日5回の祈りをするが、そのお祈りの中心寺院であるモスクも暴動を恐れて閉鎖された。大学キャンパスでは中東系の学生が卵を投げつけられたり、職場では突然解雇されたり、数々の嫌がらせがアメリカ国内で広がった。アラブ系には全員身分証明書携帯を義務づける案に対して賛成者が49%、アラブ系の強制送還を求めようという案には58%ものアメリカ人が賛成する結果が出た。アメリカ人が持つイスラム教への敵意は長らく続いた。8年前の1993年にアメリカ・イスラム評議会が行なった世論調査によるとアメリカ国内で最も嫌われている宗教はイスラム教徒というデータが出ており、2010年9月11日には、牧師テリー・ジョーンズの主催により、「国際コーラン焼却日」と称するコーランを燃やすイベントが開かれようとした。しかし、世界中のイスラム教徒から抗議が殺到して中止に追い込まれた。テロ攻撃の後、アメリカ人の多くがテロを警戒して民間航空機による移動を避けて自家用車による移動を選択したために、同年の10月から12月までのアメリカ合衆国における自動車事故による死者の数は前年比で約1,000人増加した。また、アムトラックやグレイハウンドなどの民間航空機以外の公共中長距離交通機関や、レンタカーの利用者も急増した。これによりグレイハウンドなどは臨時増便を行などして収益が改善したものの、空席が増えた航空会社の収益は悪化する結果となった。事件直前、ジョージ・W・ブッシュ大統領の支持率は、50%を切っていた。そもそも、前年の大統領選挙は僅差での勝利であるために、また大統領選における大規模な混乱は選挙の正当性への議論を招いたことから、選挙直後から政権支持率は高くなかった。大統領就任後の初めての大きな事件としてその指導力が国民の注目を浴びることとなり、それがテロとの戦争として位置づけられたことから、事件直後には国民の支持率は史上最高の9割に到達、いみじくも政権最初の年から国民の支持を得た形となった。このテロに対する国際的な反発は大きかった。国際連合は安全保障理事会で9月12日にテロの脅威に対して「あらゆる手段を用いて闘う」とした国際連合安全保障理事会決議1368、この日に行われた第56回国連総会でもアメリカ政府と市民に哀悼と連帯を表してワシントン及びペンシルベニア、国連の開催都市たるニューヨークへのテロ攻撃を非難する決議A/RES/56/1を当時の全加盟国189カ国が満場一致で採択し、9月28日には史上初の国際立法とされる国際連合安全保障理事会決議1373で「全ての国」にテロ対策とその報告を義務付けた。11月10日にはルドルフ・ジュリアーニがニューヨーク市長としては初の国連演説を行ってテロとの戦いを呼びかけ、ブッシュ大統領も国連総会での初めての演説でこれらの世界の支持に感謝してテロとの戦いを宣言、11月12日には国際連合安全保障理事会決議1377ではテロは「全国家と全人類への挑戦」とされ、世界各国でテロ対策が進んだ。11日にブッシュ大統領は、イギリスのブレア首相、フランスのシラク大統領、ロシアのプーチン大統領、中華人民共和国の江沢民国家主席ら4人の常任理事国首脳と電話会談し、テロ対策で共闘を合意した。北大西洋条約機構、欧州連合、東南アジア諸国連合、アフリカ統一機構、アラブ連盟、イスラム諸国会議機構などのような機関もブッシュ大統領の呼びかけに応じた。米州機構は米州相互援助条約に基づいてテロは米州全体への攻撃とし、NATOとオーストラリアはテロは北大西洋条約第5条と太平洋安全保障条約第4条に当たるとして自衛権を発動した。また、欧米諸国だけではなく、日本や韓国,サウジアラビア、インドなどのアジア諸国もアメリカ合衆国を支持し、さらに1980年代にパンアメリカン航空機に対するテロを支援した過去のあるリビアや、タリバーンの公然たる後援者であったパキスタン、イランアメリカ大使館人質事件以来アメリカとは犬猿の仲であるイラン、北朝鮮のような反米とされる国でさえ犯人グループを非難し、アメリカ合衆国に対する支援に同意した(但し、アメリカ合衆国はこの後、後述するようにアフガニスタン、イラクに侵攻するが、これが中東の反米感情を刺激したことを原因として2007年にはイランがイラク国内の過激派に武器を供与している疑いがあると報道された)。2006年11月14日に、反米的なウゴ・チャベス大統領率いるベネズエラの国会は、アメリカ合衆国大統領に呼びかける決議案を満場一致で採択した。メキシコ国境における壁の建設を激しく攻撃し、第4章で、「イスラム・テロとの戦争」の根拠となった2001年9月11日の事件について『ブッシュ政権が、ワールド・トレード・センターとその犠牲者に対する自爆テロに関し、またペンタゴンに激突したとされる航空機についての明確な釈明、およびビンラディンとブッシュ家との関係を提示するよう強く』要求している。ブッシュ政権は、このテロ事件を契機にアフガニスタン侵攻を行い、さらに2002年に国際テロ組織とならず者国家と断じた悪の枢軸(イラク、イラン、北朝鮮)との戦いを国家戦略とし、「アメリカの防衛のためには、予防的な措置と時には先制攻撃が必要」として推進する方針を決めた。これをもとに、アメリカ合衆国はイラクに対して大量破壊兵器を隠し持っているという疑惑を理由に、イラク戦争に踏み切った。この行動に対しては、アフガニスタン(当時はターリバーン政権)攻撃と異なり、国際的な態度は分かれ、イギリスや日本、フィリピンやスペイン、イタリアなどのアメリカ合衆国同調国と、フランスやドイツ、ロシア、中華人民共和国などのアメリカ非同調の立場に分かれた。その後の2004年10月、アメリカ合衆国政府調査団は「開戦時にはイラク国内に大量破壊兵器は存在せず、具体的開発計画もなかった」と結論づけた最終報告書を米議会に提出。2006年9月には、アメリカ上院情報特別委員会が「旧フセイン政権とアルカイダの関係を裏付ける証拠はない」との報告書を公表しており、開戦の正当性が根底から揺らぐ結果となっている。なお、テロ直後のアメリカ連邦議会で、対テロ戦争への反対を表明した者は、民主党議員のバーバラ・リー僅か1人だけであった。またブッシュ大統領は、イラク戦争後の2004年に中東首脳を招いて会談を開き、サウジアラビアやシリアの様に王制や独裁が色濃い中東各国がテロの温床になっているとして、これらの国々を民主化すると宣言し、中東各国は“それぞれの国情を無視しアメリカ式を押し付けるもの”と強く反発した。アメリカ合衆国は中東民主化を今後の外交の方針に掲げるとしているが、この様な強権的なやり方には中東諸国のみならず、多くの国から批判が集中している。さらに、「アメリカ合衆国がアメリカ合衆国であり続ける為に必要」として、「愛国者法(反テロ法)」を制定、2005年7月には暫定法であった同法を恒久化。市民のプライバシーを大幅に制限、公安活動の用に供するとして、また12月には、国家安全保障局の行なう不法な盗聴を大統領権限で事実上黙認していた事、2006年5月には、“テロリスト関係者、またはそれらと少しでも接触のあった外国人”をアメリカ合衆国入国の際に令状抜きで不法に連行・収監(=拉致)、自白を取る為の拷問がCIAとFBIによって行なわれていた事が明らかになるなど、警察国家・管理社会化傾向が国内のリベラリスト・市民団体から批判されている。世界貿易センターの跡地については、遺族から慰霊の場としてほしいという意見もあった。しかし多くのオフィススペースを失ったためにニューヨークから企業が流出することを恐れた市当局や、跡地を所有してきたニューヨーク・ニュージャージー港湾局らは、金融街に近くビジネス街の一等地であるこの場所に新たなオフィスビル・商業施設と交通ターミナルの再建を希望した。当初の再建案はあまりにも経済復興の色が強く遺族の反対で撤回され、改めて世界の建築家を集めて行われた建築設計競技の結果、アメリカ人建築家ダニエル・リベスキンドの案が採用された。2004年7月、世界貿易センタービル跡地に再びビルを建設するための起工式が行われた。敷地内には旧南棟・北棟跡の祈念スペースを囲むように数本の超高層ビルが建ち、最も高いビルは「フリーダム・タワー(自由の塔)」(2009年に1 ワールドトレードセンターに名称変更)と名づけられ、アメリカの独立した1776年にちなんで、1776フィート(約541メートル)の高さとなる。2014年11月3日開業。周囲にはタワー4、タワー7が建設済み、タワー2、タワー3、タワー5が建つ予定。一方、世界貿易センタービルの残骸には、発見されない相当数の遺体が含まれると思われた。遺体はDNAすら判別できないほどに傷んでいると思われるが、遺族は取り扱いに非常に神経を尖らせていたため、残骸は廃棄することができず、ごみ処分場に大量に放置されている状態であった。しかし、2005年3月初め、当局はおよそ1100人分の身元が判明できないまま確認作業を中止すると発表した。鉄骨類は屑鉄として再利用のためインドへと輸出された。2001年のアメリカ同時多発テロ後から現在(2015年)に至るまでの間、アメリカ国内ではアルカイダなどの国際的テロ組織によるテロは一度も起きていない。この間にテロ計画やテロ警報は何度もあったが、そのほとんどをFBIがテロの実行前に犯人を逮捕しているか、計画だけで実際には実行されずに終わったテロがほとんどである。しかしFBIが察知できずに実行されたテロが3件だけ起きている。それは2009年12月25日のノースウェスト機テロ、2010年5月1日のタイムズスクエアテロ、2010年10月29日のアメリカ行き航空便テロの3件がある。しかしこれら3件とも爆弾が爆発せずに未遂に終っている。したがって、アメリカ国内においてアルカイダなどの国際的なテロ組織によるテロはこの事件以降一度も成功していない。アメリカ同時多発テロは、アメリカ合衆国の政治、そして冷戦終結後の国際社会の大きな転換点となった。アメリカ同時多発テロ事件が勃発

出典:wikipedia

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