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田丸美寿々

田丸 美寿々(たまる みすず、1952年7月1日 - )は、日本のニュースキャスター、テレビ・アナウンサーである。日本ニュース時事能力検定協会理事、早稲田大学大学院政治学研究科非常勤講師。身長163cm。フジテレビ勤務を経て、1983年(昭和58年)からはフリーランスとして活動している。広島県高田郡八千代町(現・安芸高田市)出身。埼玉県立川越女子高等学校を経て、東京外国語大学外国語学部英米語学科卒業。「女性報道キャスターの草分け」、またフジテレビアナウンサーを経てフリーランスに転身して成功、「女性フリーアナウンサーの草分け」でもあり、同時に、略奪結婚で話題となって「不倫女子アナの草分け」ともいわれる。また、頼近美津子らとともに、女性アナウンサーのタレント化といわれる「女子アナ」、「美人女子アナ」といわれる存在の先駆けでもあった。著書、翻訳多数。祖父は若い時、一旗上げようとアメリカ合衆国に渡り貿易商をしていた。父親はアメリカで生まれ、帰国後高校教師、母親も小学校教員であったが、美寿々が生後8ヶ月の時、父は職を辞し単身英語の勉強を目的にアメリカに留学。父親はサンノゼ州立大学卒業後、サンフランシスコで邦人向けの新聞記者職を得た。それに伴い美寿々は母親と共に渡米、5歳からの5年間をカリフォルニア州で過ごした。父親がアメリカ生まれの日系二世というのも頼近との共通点である。頼近とはライバル視された時期もあったが、大学の先輩後輩の間柄で頼近が田丸を慕っていた。小学校4年の時、父親が日本のNHK国際放送に就職したため帰国し、初めは東京都小金井市、中学校から埼玉県草加市、所沢市に居住した。これは昭和30年代後半のことであり、いわゆる帰国子女のはしりだったともいえる。アメリカでも日本語を勉強していたが、学校では広島弁を笑われて苛められ、高熱が続いて登校拒否にもなった。自分が少し解放されたのは大学に入ってからという。大学卒業後の就職先は三井物産に内定していたものの、好奇心から学内の掲示板を見て、親に内緒でフジテレビへも応募した。田丸は当時低迷期にあった同局の就職試験に合格、1975年(昭和50年)に報道局解説放送室付リポーターとして入職した。2000人の受験者で大卒の採用は3名だった。当時のフジテレビでは、正社員以外のアナウンサーをリポーター(記者)と呼んでいたが、田丸はこのリポーターとしての入職であった。同期入局には、後の同局アナウンス室長・堺正幸や、報道局解説委員の和田圭、フリーアナウンサーの酒井ゆきえらがいた。「重要なニュースは男が読まなければ信頼されない」と思われていた時代、女性アナウンサーの出番は、街の話題やお知らせなど、業界で言う「暇ネタ」とか「ヤワネタ」の担当、天気予報、番組司会者のアシスタントなどだった。当時は女性アナウンサーは勿論、女性記者、カメラマン、ディレクターなど、女性そのものの姿が報道の現場になかったという。当時はそれが普通で、田丸本人もアナウンサーを長くやるとは思わず、それを差別とも思わなかったと話している。入社時、「報道をやりたい」と当時の鹿内信隆会長に直訴すると半年間、お茶くみやコピーとりばかりの閑職に追いやられた。同期の酒井は、『ママとあそぼう!ピンポンパン』の担当となっていたが、田丸にようやく決まったのが『FNNニュース』の天気予報だった。入局2年目の1976年(昭和51年)にはロッキード事件が発生したが、田丸は天気予報中に自由民主党の内部抗争の話題を引き合いに出し、政府筋から猛抗議を受けることになった。その後、天気予報や『3時のあなた』のアシスタントを3年半務めた田丸は1978年(昭和53年)10月、『』へ先輩の逸見政孝と共にメインキャスターとして抜擢された。また逸見がとにかく現場に行って生の声を伝えようとしたので、田丸も時に強引な突撃取材を行う。当時はまだアナウンサーが取材することが珍しい時代だった。逸見は田丸を評して「この番組に強烈なイメージを持たせたのは田丸美寿々さんであり、報道番組における女性の位置を考える時、彼女の果たした役割というのははかりしれないものがある。当時、アナウンサー、レポーター採用試験の際に『田丸さんのようなキャスターになりたい』という女性志願者の声が、どんなに多かったか。彼女は、さまざまな意味で個性的な女性でした。今まで私が一緒に仕事をした女性の中では傑出しています。彼女は十年に一度、あるいは二十年に一度出るかどうかの逸材であろうと思います」と述べている。 1980年(昭和55年)4月にNHK初の早朝ニュースショー、『NHKニュースワイド』で、初代女性キャスターとして頼近美津子(森本毅郎とのコンビ(平日)、土曜日は山根基世と明石勇)が、同じ月から加賀美幸子が『7時のニュース』でメインキャスターとなる。田丸はフジテレビ女性キャスター第1号であり、業界全体でも女性キャスターの草分けである。この番組では、キャスターが現場に出向いてリポートする新しい手法がとられ、田丸も中川一郎や笹川良一、武見太郎ら、大物とされる人物に直撃インタビューを行った。こうした相手に田丸は、言葉じりをひとつひとつ捉えて揶揄する形で、さらに言葉を引き出そうという手法を取ったため、相手が激昂し「やり過ぎ」「最も聞きたい筈の本質についてアプローチ出来ていない」などの批判を受けた。1981年(昭和56年)4月、頼近がフジテレビに引き抜かれて鳴り物入りで移籍してきたが、この移籍を手引きしたのは、同郷で大学の先輩・後輩の関係でもある田丸であった。元々、アナウンサー志望だった頼近は、大学時代から先輩の田丸に就職先など相談していた間柄であった。頼近がフジテレビ史上初の女性正社員となったため、機構改革が行われ、ようやく田丸らもアナウンサー(正社員)という身分になった。1981年7月、頼近と共にフジテレビ代表としてダイアナ妃結婚の衛星中継をロンドンからレポート。1982年(昭和57年)2月に発生した日航機事故の取材の際、機長に事故発生当時の心境を聞こうと、警察が張っていた立入禁止のロープを越えて病院から出てきた機長に突撃取材を敢行したが、警察はこの予想外の取材姿勢に対し、フジテレビに警視庁記者クラブへの出入りを5日間禁止する処分を下した。『FNNニュースレポート6:30』を3年半務めた後の1982年4月、17年間続いた『小川宏ショー』の後番組『おはよう!ナイスデイ』のメインキャスターに抜擢される。1982年、田丸が妻子あるジャーナリスト・美里泰伸と不倫関係にあることが報じられた。田丸と美里は翌年2月に結婚した。当時美里の妻が妊娠中であったことが報道された。田丸は、「(美里泰伸を前妻から)奪ったのではなく、譲ってもらった」と述べている。1983年(昭和58年)2月2日に田丸の退任記者会見が行われ、同年3月末をもってフジテレビを退職することを発表した。担当していた『おはよう!ナイスデイ』は1983年に入って視聴率が上がり同局編成局長・日枝久も「結婚は個人の問題。番組は4月以降も続けてもらう」と話していて、田丸の契約は3月で切れるもののフジテレビは4月以降も起用の方針であった。田丸は急転直下の電撃退職だった。退社会見には日枝も同席し、田丸は『おはよう!ナイスデイ』宇留田俊夫プロデューサーと私の間の個人的な不信感」と会見で公表した。田丸は退社前月の2月7日をもって担当番組の全てから降板し、約40日間の長期有給休暇に入った。最後は10日間でフジテレビの各部署に挨拶回りを済ませると、予定通りに同年3月一杯で同局を退社した。和田アキ子は1983年の著書『和田アキ子だ 文句あっか!』で、女性アナウンサーの美人化、タレント化について、田丸をその嚆矢として言及していた。1983年(昭和58年)3月にフジテレビを退社して独立すると、退社翌日にゲスト出演した『モーニングジャンボ奥さま8時半です』(TBS)から田丸は結婚後の本名である「美里美寿々(みさと みすず)」の名前で、フリーランスのアナウンサーとしての活動を開始した。1985年(昭和60年)からは、客員研究員(国際関係論)として、アメリカ合衆国・ニュージャージー州のプリンストン大学に約1年間留学したが、これには夫・美里も付き添って同地に滞在した。翌年帰国した田丸は初め、テレビ朝日と専属契約を締結、同局の番組、『モーニングショー』、『ザ・スクープ』、『ナイトライン』、『朝まで生テレビ!』、『ザ・ニュースキャスター』などに出演した。これらの活動を通して、田丸は女性フリーキャスターの草分けともなった。1986年、フィリピンの2月革命直後のマニラに乗り込み、就任直後のアキノ大統領にインタビューを敢行、日本大使館の強いバックアップもあって世界のメディアに先駆けこれを成功させた。『ザ・スクープ』でコンビを組んだ鳥越俊太郎は、「当時はしょっちゅう喧嘩して、田丸に殺意を覚えたが、今は感謝している」と述べている。1991年(平成3年)美里泰伸と離婚した際にもマスコミの関心が集まった。美里は手記を発表したが、田丸は沈黙を通した。テレビ朝日との専属契約を1994年(平成6年)に解消した田丸は、新たにTBSとの間に専属契約を締結、同局の報道番組 『報道特集』の総合司会を2010年(平成22年)3月まで務めた。また、選挙報道特別番組にも司会として度々出演、1998年の自由民主党総裁選挙で勝利した小渕恵三が「日本国万歳、自民党万歳」と定型文例の口上を述べ万歳した際には、「どうして自分の言葉で素直に表現できないのでしょうか」と評して話題になった。

出典:wikipedia

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