日本では初の公立の絵画専門学校を母体に設立された。大学の略称は京芸。美術学部は、1880年(明治13年)に創設の京都府の画学校が起源。6月に太政大臣三条実美により「日本最初京都画学校」と命名され、7月に京都御苑内の旧准后里御殿仮校舎で開校式が行われた。背景には、事実上の東京遷都によるパトロンの喪失・文明開化による伝統文化の冷遇などから、円山派・四条派といった京都画壇の諸派が危機に陥ったことにある。美術を立て直すために市民の間から美術家養成機関としての近代的な「学校」を作ろうという声が高まり、その熱意の結果創立されたものである。これには同じく文明開化で低迷していた京都の主力産業である伝統工芸の近代化を支援するため、密接な関係にある美術界を盛んにする目的もあった。画学校では修業年限3年間のうちに文人画や大和絵、狩野派など日本の美術の諸派を学ばせた。また、殖産興業のために工芸品の意匠・デザインに関する教育をおこなうことも目的のひとつであり、その課程に西洋画を導入したことは当時としては画期的であった。西洋画は当初日本では、芸術文化の類というよりは建築などの図面を描く工業技術として、京都府画学校創立に先立つ1876年(明治9年)工部美術学校などで導入されていたからである。工部美術学校がアーネスト・フェノロサらによって西洋美術学習・研究の発展を妨害され、後発の東京美術学校もフェノロサや岡倉天心の意向によりながらく西洋画科が置かれなかったのとは対照的である。古くは京都画壇の中心地であったと言われ、また京都の陶磁器、漆工芸、染織などの地場産業に多くの人材を供給して活発化させた。明治以来多くの日本画家、洋画家、版画家、陶芸家、染織家、デザイナー、音楽家、現代美術作家を養成してきた。過去京都市の財政難で国立大学へと移管する話もあったが、京都市民の熱望の賜物である学校の窮状を救おうと、古くからの町衆や旧家などから存続のための多数の寄付を受け、音楽短大と統合した今も市立大学であり続けている。1980年に、東山区今熊野の美術学部と左京区聖護院の音楽学部が、洛西ニュータウン付近の西京区大枝沓掛町に統合移転した。しかし郊外で交通アクセスが悪く他大学や学外との交流に支障をきたしているほか、建物の老朽化、傾斜地にあるためバリアフリー化が進まないことなどから都心への移転を模索する動きがある。2013年3月には大学が市に対して、JR京都駅のすぐ東側の崇仁小学校跡地(約1ヘクタール)を中心とした地域への移転と、合計4ヘクタールの用地確保を求める要望書を提出しており、これを受けて2014年1月に京都市は、大学の下京区崇仁地区への移転整備と、大学転出後の洛西地区の活性化への取り組みを明らかにした。 - 4月、芸術資源研究センター開設(以下は研究領域)(以下は研究領域)
出典:wikipedia
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