武藤 敬司(むとう けいじ、1962年12月23日 - )は、日本の男性プロレスラー。WRESTLE-1を運営するGENスポーツエンターテインメント代表取締役。山梨県富士吉田市出身。タレントとしての窓口もGENスポーツエンターテインメントがおこなっている。山梨県の観光大使も務めている。武藤塾の塾長。血液型はB型。娘はタレントの武藤愛莉1990年代から2000年代にかけてプロレス界を牽引した闘魂三銃士の1人で、『日本マット界の至宝』と言われる。プロレスに必要なパワー、スピード、テクニック、センスを極めて高い次元で併せ持った選手として活動を続け、その素質故に「天才」「GENIUS」「平成のミスタープロレス」「Legend」「天才を超えた魔術師」などの賞賛をほしいままにして来た。アメリカでの実績から現在活躍している外国人レスラーの中にもファンは多く、彼らからは敬意を込めて「マスター」などとも呼ばれている。このことから、近年は「プロレスリング・マスター」という愛称が定着しつつある。小学2年生のときに、ドラマ「柔道一直線」を見て柔道を習い始める。学年で一番背が高かったにもかかわらず、バク転やバク宙、鉄棒の大車輪を器用にこなす運動神経の持ち主であった。小学5年生のときには、柔道と並行して少年野球チームにも入り、エースで4番を任されている。中学に入ると一度は野球部に入部するも、その後すぐに柔道部に転部。3年で初段黒帯。山梨県立富士河口湖高等学校では、国体出場。高校卒業後は、東北柔道専門学校(現・学校法人東北柔専 仙台接骨医療専門学校)に進学。全日本ジュニア柔道体重別選手権大会95kg以下級3位。全日本強化指定選手にも選ばれる。学校では柔道整復師の免許も取得。1984年、新日本プロレスの選手が利用していた接骨院に勤務していた東北柔道専門学校の先輩から新日本プロレスを紹介され21歳で入門。後に闘魂三銃士となる蝶野正洋、橋本真也は同日入門であり、船木誠勝、野上彰も同期生。入門三日ほどであまりの練習の厳しさに当時コーチであった山本小鉄に辞めたいと言ったことがあるが、他の練習生であれば引き留めるはずもないところ小鉄は「あと1週間だけ辛抱してみろ、それでも嫌なら辞めても構わない」と励まし、武藤は自分への期待に自信をつけ、残る決意を固めた。共に練習していた蝶野は、「武藤が『あの逸材だから』相手がどう反応するか判っていて駆け引きをしていたようだ」と語っている。その厳しいトレーニングも、前田日明、藤原喜明、高田延彦らが第一次UWFへ移籍し、半年後には長州軍13人が全日本プロレスへ移籍してしまったため、怖い先輩がいなくなったことで随分楽になったという。同年10月4日にデビュー。相手は同じくデビュー戦の蝶野であった。柔道の猛者であったため入門当初からアントニオ猪木、坂口征二、藤原喜明らと互角にスパーリングをする実力と天性の運動神経とルックスから、早くから将来のエース候補と目され、ヤングライオン杯優勝を経ることなく、1985年11月に初の海外遠征(米フロリダ地区)に出発。ホワイト・ニンジャというリングネームで活動し、当初はベビーフェイスだったが、タッグマッチでパートナーのワフー・マクダニエルを裏切りヒールに転向した。NWAのフロリダ地区では、1986年5月21日にケンドール・ウインダムからフロリダ・ヘビー級王座を奪取、タイトル初戴冠を果たした。しかし、6月にビデオで反則していたことが判明し、王座を返還させられる。尚、フロリダ時代の彼女の名前がハッピネスちゃんでありレストラン等で名前を呼ばれると注目されたと自叙伝で告白している。その後はアラバマのコンチネンタル・チャンピオンシップ・レスリングで活動し、同年9月1日、NWA USジュニアヘビー級王座を獲得した。帰国後、「スペース・ローン・ウルフ」なるギミックで売り出される。当時はリング登場時のコスチュームに宇宙飛行士のヘルメット(そのスタイルの初期のみ着用、というより頭に被らずに手に携えてリングインするという感じであった)をかぶり、ブルゾンタイプのガウンに胸元に“610”(「ムトウ」の意)と書かれたものを着用していた。本人曰く、ヘルメットをかぶったのは猪木より「ヘルメットのスポンサーが付くかもしれないからかぶれ」と言われたとのことだがヘルメットのスポンサーは付かなかったという。所々ラメの入った青いロングタイツに白いリングシューズで真っ直ぐのふさふさした頭髪は『ジャニーズ系レスラー』であると、プロレス雑誌に書かれた。ちなみにテーマ音楽は「ファイナル・カウントダウン」で、リングに入場する際はロープ間を跨ぐようなことはせず、鉄棒の前転をするような形でトップロープ上を宙返りしリングインする派手なパフォーマンスをしていた。ところが、当時新日本はUWFの抗争真っ最中であり、おおらかなアメリカンプロレスを身に付けた武藤はファンの支持を得られず失敗。とはいえ、早い時期から藤波辰巳とのシングルマッチを実現するなど特別な扱いを受けていた。またナウリーダーとニューリーダーとの世代闘争にも参加しており何故かナウリーダー側として5対5のイリミネーション・マッチ等に参戦していた。1988年1月から、二度目の海外遠征に出発。カルロス・コロンが主宰するプエルトリコのWWCではベビーフェイスのスーパー・ブラック・ニンジャとして活動し、1988年2月6日にインベーダー1号からTV王座を、同年5月14日にミゲル・ペレス・ジュニアからプエルトリコ・ヘビー級王座をそれぞれ奪取した。そんな中7月16日にブルーザー・ブロディ刺殺事件が起こり、WWCを離れフリッツ・フォン・エリックが主宰するダラスのWCCWに活動拠点を移す。そこでの活躍で、NWAのジム・クロケット・プロモーションズ(後のWCW)へスカウトされ、ギミック上はザ・グレート・カブキの息子という設定のグレート・ムタとして、ヒールのポジションで登場。当時のアメリカでの悪役人気は絶大で、スティングやリック・フレアーとの対決で活躍した。帰国後も、武藤は様々なコスチューム(後述)で「グレート・ムタ」を登場させた。1990年4月に凱旋帰国。同時に赤、オレンジ色のショートタイツにコスチュームを変え、やがて人気・実力ともに絶頂期を迎える(当時の実況担当の辻義就からは「セクシーターザン」「ときめきバージンレッドの熱い風」などと形容された)。1995年2月にスコット・ノートンに敗れてスランプ状態に陥ったものの、5月3日、福岡ドームで当時最多防衛記録を樹立していた橋本真也を破って第17代IWGPヘビー級王者となった。8月15日、同じく橋本真也を破り、IWGP王者としては初となるG1 CLIMAX優勝者となった。さらに、10月9日東京ドームでの「激突!!新日本プロレス対UWFインターナショナル全面戦争」のメインイベントでの高田延彦戦は、敢えてこの決戦用にドラゴンスクリューからの足4の字固めという古典的な技を復活させて勝利を収めた。これらの活躍が評価されて、同年のプロレス大賞MVP。なお、G1で優勝した際の副賞としてガウンを贈呈されたのをきっかけに、以後のビッグマッチにおいてガウンを着用するようになる(普段はTシャツ姿で入場)。1997年2月、蝶野正洋率いるnWo JAPANからTシャツを渡されたり、背中に「nWo」とスプレーで書かれたりという演出などにより勧誘を受ける。4月12日の東京ドーム大会でグレート・ムタとして蝶野に勝利するが、試合後二人は共鳴し、WCWでのアメリカ遠征で正式にムタとしてnWoに加入。6月に正規軍の武藤として、当時王者だった橋本に挑むが敗戦。試合後、nWoジャパンの控え室に戻ったことから、本格的に正規軍を離脱する。その後のシリーズからnWo JAPANのムタとしてG1にも参戦するなど活躍したが、膝の故障や度重なるタッグマッチでの亀裂、試合前のペイントする時間が多忙などが重なったことから、ムタをやり切ることに限界を感じて、9月23日にはムタから武藤に変身(試合中に退場して数分後にペイントを落として戻ってくる)し、武藤としてnWoに加入。赤から黒のショートタイツに変わり、その後イラストや英語の文字が記入された黒のロングタイツを着用し、髭を伸ばして、黒バットなどの凶器を使って、黒スプレーで小原道由の背中に「犬」と書いた上でリング外へ絞首刑にするなど(犬事件)ヒールに徹した。1998年7月、膝の手術から復帰した後、ムタとして渡米することになって髭を剃り、“ナチュラル・ボーン・マスター”(生まれながらの天才)と呼ばれるようになる。この直後、nWo JAPANの総帥であった蝶野正洋が負傷して長期離脱。武藤が軍団の舵を取り「I AM BOSS」と連呼するようになり、欠場明けの小島聡をnWo JAPANに勧誘、年末に行われたG1タッグも小島聡とのタッグで優勝し、そのインタビューでは、「これは俺が作り上げたnWoだ! 蝶野の名前は出さないでくれ!」と発言。1999年、第24代IWGPヘビー級王者となると、蝶野と武藤との関係はこじれた。蝶野は復帰後、nWo JAPANを脱退して独自のユニット「TEAM 2000」を結成した。以後、「nWoジャパン VS TEAM 2000」の抗争が勃発し、最終的に2000年、1月4日の東京ドームで武藤が蝶野に敗れてnWo JAPANは消滅する(しかし真相は本家nWoの権利を持つWCWとの契約が満了したためだといわれている)。なお、1999年は1年間王者に君臨した評価が認められ、プロレス大賞MVPに選ばれている。その後、武藤はWCWにグレート・ムタとして参戦。空港に着くなり、多数の報道関係者に取り囲まれ、アメリカ国内での人気はいまだに衰えをしらなかった。「あのプロレス史上最凶のヒールが帰ってきました」の賛辞で迎えられるが、バンピーロとのコンビでWCW世界タッグチーム王座は獲得し、スティングと抗争を行ったりしたものの、WWF(当時)より移ってきたビンス・ルッソーらにより、試合の機会を満足に得られないまま帰国。ちなみに武藤の帰国直後にWCWは消滅している。2000年12月31日の大阪ドームで開催されたINOKI BOM-BA-YE 2000で国内復帰(この間、武藤が猪木との対談DVDを出すなどしていたことから、蝶野が一時期、武藤までも猪木にとりこまれたか?と警戒感を示したこともあった)。高田延彦と一夜限りのタッグを組み、ドン・フライ、ケン・シャムロック組と対戦。この試合は高田のバックドロップでシャムロックより勝利。ちなみに武藤がスキンヘッドになったのはこの試合からである(後述)。2001年より新日本プロレスに復帰。1月28日、全日本プロレス・東京ドーム大会に参戦して太陽ケアに勝利。以後、定期的に全日本に参戦することになる。団体の垣根を超えた超党派ユニット「BATT(BAD ASS TRANSLATE TRADING)」を結成する。武藤は新必殺技シャイニング・ウィザードを引っ提げ、史上初の六冠王者(三冠ヘビー級王座、IWGPタッグ王座、世界タッグ王座(当時のプロレス誌のグラビアに、横たわった武藤の胴体や顔にまで6本のベルトが巻かれた写真があった)。ただし三冠ヘビー級王座と世界タッグ王座は事実上それぞれ一つのタイトルであるので実際は三冠王者)となった。さらに全日本プロレスの年末恒例の大場所である世界最強タッグ決定リーグ戦も制して、同年のプロレス大賞MVPに選ばれる。10月には全日本のリングで新日本プロレス所属同士で蝶野正洋と三冠戦が行われた。新日本プロレス、全日本プロレスの主力ベルトで、その時点で保持していないのは過去に自らも保持していたIWGPヘビー級王座のみとなり、武藤自身も次の標的は「猪木イズムの継承者」藤田和之と示唆していたものの、既に格闘技路線への疑問を公言していたこともあり、遂に実現しなかった。2002年1月、藤田和之を中心とした格闘技路線に重心を移した新日本プロレスでは自身のアメリカでの実績なども潰されることになると考え、弟分の小島聡、ケンドー・カシンおよび新日本プロレスのフロントスタッフの5名と共に新日本プロレスを突如退団。2月26日に全日本プロレスに入団する。この時武藤は「全日本プロレスに骨の髄までしゃぶっていただきたいと思います。」という名言を残した。なお、この時本当は「骨を埋める覚悟で……」と言うつもりであったが、あがっていたせいで「骨の髄までしゃぶっていただきたいと思います」と言ってしまったのだという。その他に馳浩からの勧誘もあったとされる。移籍直後のチャンピオン・カーニバルでは初出場にして優勝を果たした。G1クライマックスとチャンピオン・カーニバルの両方を制覇したレスラーは武藤が初めてである(2005年には佐々木健介、2010年には小島聡、2011年には永田裕志も達成)。7月20日の日本武道館大会では、黒師無双⇒武藤敬司⇒グレート・ムタと1日3変化で3試合をこなして、すべて勝利している。8月30日の日本武道館大会では、自らプロデュース興行を行った。10月には馬場元子社長から全日本プロレスの株式を譲り受け、オーナー兼社長となった。同年中には、K-1の石井和義と組み、エンターテイメントの要素を強く取り入れたプロレス「ファンタジーファイトWRESTLE-1(-レッスル・ワン)」という興行も行っている。2003年には盟友、橋本真也率いるZERO-ONEに全日本プロレスの選手を率いて乱入。「全面戦争、やるのかやらないのかはっきりしろよ!」という言葉で宣戦布告する。この後、全日本プロレスとZERO-ONEは激しい抗争を繰り広げることになる。また、4月29日に行われた「BAPE STA!! PROWRESTLING ZEPP TOUR」のZEPP FUKUOKA大会では覆面レスラーTHE APEMAN PLATINUMに変身した。2004年から他団体のリングに積極的に進出するようになる。2年ぶりに新日本のリングに上がり、1月4日にはボブ・サップとタッグを組み、蝶野&天山広吉に勝利。その後、10月9日には、付き人を務めた西村修と組み、棚橋弘至&中邑真輔と対戦したが敗れている。ZERO-ONEのリングでは、2月29日に大森隆男と対戦して勝利。4月25日には、橋本とタッグを結成して勝利を収めたが、奇しくもこれが最後となった。武藤と並ぶ天才としてプロレスファンから対戦を熱望されていた三沢光晴との対戦アングルが開始された。(試合ではないがこれ以前に2001年にPlayStation 2用ソフト『オールスター・プロレスリング2』のCMとデモムービーの撮影で2人は共演している。また2人の対談は『リングの魂』(テレビ朝日)において実現している)。2004年7月10日に行われたNOAH東京ドーム大会で初対戦(三沢・小川良成組 vs 武藤・太陽ケア組)。この試合では敗れたが、「夢の続き、見ませんか?」と三沢にメッセージを送った。これがきっかけに加えて、小島の対戦直訴により、三沢は古巣である全日本プロレスへの参戦を果たした。10月31日、両国国技館での武藤敬司デビュー20周年記念興行において武藤は三沢とドリームタッグを結成。馳浩・佐々木健介組と対戦して勝利を収めた。2005年5月14日、新日本・東京ドーム大会でロン・ウォーターマンに勝利。3年ぶりに三冠戦に挑戦したものの、小島に敗北。その後、大相撲の横綱であった曙を呼び、プロレスラーとして育てた。その年の、最強タッグ準優勝に、プロレス大賞では最優秀タッグチーム賞にも輝いた。2006年、年末の最強タッグリーグ戦には、闘魂三銃士とプロレス四天王のタッグとして川田利明と組み話題性があったものの、小島&天山の「テンコジ」にリベンジされて敗退。優勝を明け渡したが、2007年1月4日の新日本・東京ドーム大会で8年ぶりに蝶野とタッグを組み、テンコジに勝利した。3月には3度目のチャンピオン・カーニバル優勝を果たし、7月の三冠戦(鈴木みのる)には敗れたが、年末の最強タッグリーグ戦では、ジョー・ドーリングと組んで、6年ぶりに優勝。2008年1月3日、タッグリーグ戦に優勝した勢いで世界タッグ王座を獲得した。4月27日、新日本・大阪大会で中邑を破り、1999年以来となるIWGPヘビー級王者になった。8月31日には、全日本のリングで初めてIWGPヘビー級選手権試合が行われて、G1 CLIMAX2008優勝者の後藤洋央紀を破って防衛に成功。その後、準優勝者の真壁刀義、リベンジに挑んだ中邑に勝利して、4度の防衛に成功。三冠王者になったムタの活躍も併せて評価されて、7年ぶりにプロレス大賞を受賞した。2009年1月4日、レッスルキングダムIIIで棚橋に敗れてIWGPヘビー級王座5度目の防衛に失敗。3月14日、ムタとして高山善廣に敗れて三冠王座も失った。その後、FIGHTING TV サムライの企画で蝶野と対談。お互いにデビュー25周年興行を行い協力することになり、8月30日にデビュー25周年興行を開催。24年ぶりに同期生の船木誠勝とタッグを結成して、蝶野&鈴木みのる組に勝利した。また、6月13日に三沢が急逝したため、ライセンス、コミッショナー問題を含めて、再びノアと交流。9月27日に5年ぶりにノアへ参戦。田上明と社長タッグを結成して、小橋建太と初対戦したが敗れた。10月12日に、蝶野のデビュー25周年記念試合で新日本、全日本、ノアによる6人タッグマッチが実現。武藤、蝶野、小橋がトリオを結成して勝利。これで旧全日本の「プロレス四天王」とすべてタッグを結成。2010年3月9日、変形性膝関節症による右膝関節内遊離体除去の手術を行うことを発表し、4月5日に手術を行い成功。全日本に移籍してからは初めてとなる長期に渡り試合を欠場したが、9月10日、船木誠勝とのシングルマッチで復帰。試合は引き分けになるものの、欠場以前と変わらぬムーブを見せた。また、9月20日後楽園ホールではKAIとのシングルマッチに勝利。その日の世界ジュニアヘビー級王座戦の試合後にリングに上がり、最多の連続防衛を記録した王者のカズ・ハヤシに挑戦表明し物議を醸したが、翌日の会見で、「気分は(あしたのジョーの)力石。そこにカズ・ハヤシがいるから(挑戦する)」と、世界ジュニア王座への挑戦を正式に発表した。また、それに合わせて体重の減量も行われ、1か月で約10kgの減量に成功して挑んだが敗れた。2011年の新春シャイニングシリーズでは、船木誠勝の仲介もあり、敵対関係にあった鈴木みのるとタッグを結成、1月2日、3日と立て続けに鈴木に誤爆してしまうが、鈴木のほうから歩み寄りを見せ、3日の試合後に握手、タッグチームとしてタイトルも狙っていくことを発表した。また、全日本プロレス恒例のバトルロイヤルにも参加し、史上初の同年でのヘビー級、ジュニアヘビー級優勝を果たした。2011年6月7日、平井伸和が試合後に急性硬膜下血腫で倒れた事件の責任を取り、全日本プロレスの代表取締役社長を辞任した。選手としては引き続き所属する。同年8月27日、ALL TOGETHERに参加。小橋健太とタッグを組んで飯塚高史・矢野通組と対戦、小橋と共にムーンサルトプレスを披露した。その後、この試合は年間プロレス大賞年間最高試合(ベストバウト)賞に認定される。2012年3月20日両国大会、秋山準が保持する三冠ヘビー級王座に挑戦したがスターネスダストで敗れた。2013年5月31日、全日本プロレスの取締役会長を辞職、ならびに選手契約を解除。翌日に全日本は新たに役員体制を発表した。2013年7月10日、新団体WRESTLE-1の旗揚げを発表した。また、WRESTLE-1の運営会社であるGENスポーツエンターテインメントの代表取締役社長の就任を発表した。グレート・ムタ("Great Muta")は、マネージャー兼ブッカーのプレイボーイ・ゲーリー・ハートによってプロデュースされた、忍者をモチーフとしたペイントレスラーであり、武藤敬司の「化身」であるが、武藤本人が「代理人」としてコメントをすることもある。設定上は、同じくゲーリー・ハートがマネージャーとなったザ・グレート・カブキの息子。正式なプロフィールによると、1989年4月2日アメリカ合衆国ルイジアナ州ニューオーリンズ出身である。カブキとは1993年に「親子」対決を、1998年には「親子」タッグを結成したこともある。ちなみに「ムタ」の由来は、「グレート・ムトウ」と外国人が「ムトウ」とうまく発音できないために、武藤自身が呼びやすい名前にした(ただし、現地のWCWのテレビ放送において、「Great Mutou」とテロップを出すところを誤って「Great Muta」と表示されてしまったことから始まるという説もある)。そのため日本での意味は「グレート・ムトウ」ということになる。設定上、英語しか喋れないはずだが、武藤が設定を忘れて日本語を喋ってしまうことがあった。ムタの誕生は1987年、プエルトリコのWWCでの海外武者修行時代に遡る。修行先ではスーパー・ブラック・ニンジャのリングネームを名乗って活動していた。スーパー・ブラック・ニンジャは黒装束をまとった忍者ギミックのベビーフェイスであり、まだペイントも施していなかったが、これがNWAのプロモーターの目にとまり、ゲーリー・ハートのアドバイスにより、顔にペイントを施したザ・グレート・カブキの息子、ザ・グレート・ムタが誕生した。そして1989年にWCWに登場(初登場時は忍者キャラで、入場コスチュームには「伊賀流」の刺繍が入っていた)、ムーンサルトプレスを必殺技に、スティングやリック・フレアーとの抗争を経てヒールの人気レスラーとなった。日本初登場は1990年9月7日、大阪府立体育会館でのサムライ・シロー戦である。これ以後、年に何度か登場し、対戦相手を流血と毒霧地獄に追い込む凄惨な試合を展開している。1990年代から2000年初頭にかけては、顔に毒々しくペイントをしていた(色は試合ごとに変えていた)。1992年に長州力からIWGPヘビー級&グレーテスト18クラブ王座を獲得した試合では、赤い顔のペイントに、初めて目の周りを黒く隈取をして登場し「悪の化身」ぶりがより強調されるようになった。ムタのファイトスタイルは、対戦相手を流血に追い込むほどのラフ攻撃や凶器攻撃、毒霧攻撃などが主体だが、初期の頃は素顔の武藤敬司が使用する技は極力使用せず、試合運びの面においても武藤のものと差別化を図っていた(後述のように例外もある)。しかし、素顔の武藤のファイトスタイルや身体のコンディションの変遷とともに、武藤とムタのファイトスタイルに差異はなくなってきている。2000年代に入り、武藤がスキンヘッドになるとムタを一時封印して、後述の黒使(師)無双が武藤の化身として登場していたが、2002年に毒蜘蛛をモチーフとするSFX用ラバーマスクとペイントを組み合わせた新しいスタイルで復活させた(マスク制作は特殊メイクアーティスト、JIROによる)。その後、ジェイソン、デビル、ダース・ベイダー、海外遠征によるメキシコでの世界遺産、イギリスでの騎士、プエルトリコでのパイレーツ、中国をイメージしたコスチュームで登場するなど、毎試合入場時に工夫をこらしている。WWEに出場したことはないものの、WCWでの活躍から未だもってアメリカでのネームバリューは高く、人気・知名度ともに日本人レスラーの中ではトップクラスである。WCWでは1989年から1990年にかけてテリー・ファンクとのJ・テックス(J-Tex)で活躍し、1989年10月28日のPPV " ではブルーノ・サンマルチノを特別レフェリーに迎え、フレアー&スティングの頂上コンビとサンダードーム・ケージ・マッチで対戦している。2000年の参戦時にはバンピーロやインセイン・クラウン・ポッシーが結成していたダーク・カーニバル(Dark Carnival)なる怪奇派ユニットに加わり、バンピーロとのコンビでクロニック(ブライアン・アダムス&ブライアン・クラーク)からWCW世界タッグ王座を奪取した。2008年、全日本所属だった雷陣明がトライアウトを経て、KIYOSHIのリングネームでTNA所属となった際に、KIYOSHIのプロモ映像で武藤とスティングが出演し、スティングはかつて武藤と戦ったことに触れながらKIYOSHIに期待するコメントを送り、ナレーターもムタの弟子であることを強調するなど、現在でも影響力の大きいことが窺える(そのKIYOSHIもムタを彷彿とさせる黒いフェイスペイントで活躍している)。グレート・ムタには偽者が登場している。2002年10月に新日本プロレスに初登場し、2004年11月には全日本プロレスに登場した「GREAT MUTA」である。どちらもムタと違い全身コスチューム系覆面レスラー(一応ペイントもしている)で、どちらも同じコスチュームだが中身は別人である。武藤敬司自身は偽者に嫌悪感を抱いており、全日本プロレス版が2004年に登場した時はグレート・ムタ対GREAT MUTAの直接対決を行ってこれを打ち破っている。その後、この偽MUTAはマスクを脱いで素顔のジョニー・ザ・ブル・スタンボリーとして参戦、VOODOO-MURDERSを結成している。なお、2002年に新日本に登場したMUTAは、正体を明かしておらず不明である。別レスラーのオマージュとして宮本和志のグレート・カズシ、大仁田厚のグレート・ニタ、小島聡の愚零斗孤士(グレート・コジ)、TARUのグレート・ルタ、曙のグレート・ボノ、吉江豊の具冷斗油太(グレート・ユタ)、竹村豪氏のグレート・タケ、雷陣明のKIYOSHIなどがある。女子としては工藤めぐみが同系統のキャラクターに扮したことがあったが、予告無しであったためリングネームはそのまま。後付けで「女愚魅」と呼ばれることはある。カブキ直系(本人が連れてきた等)のギミックはムタとユタ、タケとカブキシートのみである。2011年10月23日の「2011 プロレスLOVE in 両国 vol.13」では、「ももいろクローバーZ」ならぬ「グレートクローバーZ」が参戦し、リング上で毒霧を吐いたり場外乱闘を演じた。2014年にはTNAで真田聖也がパートナーの本家グレート・ムタを背後からイスで襲撃しグレート・サナダに転身した。武藤敬司第3の化身。2001年8月19日に宮城ニューワールド屋外駐車場特設リングで行われた、みちのくプロレスの「LOVE みちのく」仙台大会に白使と組んで初登場し、ヒロ斎藤、後藤達俊のタッグにムーンサルトプレスで勝利した。全日本プロレスには2002年5月1日に初見参。白使と組み、愚零斗孤士、ジョージ・ハインズ組に閃光魔術で勝利する。武藤自身が使う技に加え、毒霧や白使が使用する念仏パワーボム、拝み渡りといった技も使用する。膝が悪いにもかかわらず拝み渡りを成功させる点に関しては流石としか言いようがない。なお、新日本プロレス時代は黒「使」無双のリングネームだったが、全日本プロレスに移籍してからは黒「師」無双と名前を変えている。ギミックのモチーフは上記の白使と武藤の好きな麻雀の役名「国士無双」から。白使と違って体にはお経ではなく「Pro-wres Love」など英語の文章が書かれている。技に対するこだわりが強く、一つ一つの技を極めて大切にする選手であり、他のレスラーが使う技でも必ず独自の改良を加え、自分なりの「美学」を形成している。そのため技術を感じられない技や観客を無視した技への嫌悪感は強く、越中詩郎のダイビング・フットスタンプを「あんな技うちの息子だってできる」と言い放ったこともある。また武藤の技全体に見られる特徴として、緩急の差の大きさがあげられる。また、ラリアットに対し「あんなの、ただ腕を横に出すだけ」とも評したこともある。他の闘魂三銃士やプロレス四天王が入場テーマ曲をほぼ固定化しているのに対し、武藤は頻繁に入場テーマ曲を変更している。武藤は1990年代末以降、自らプロレスへの深い愛の存在を各所で表明している。武藤のプロレスへの愛は彼自身が考案した「プロレスLOVE」というキャッチフレーズで知られている。両手で手話の「狐」のような形を作って投げキッスのように腕を展開する「プロレスLOVEポーズ」も有名である(その際「イャーーッ」の声もかかる)。このプロレスLOVEポーズの元ネタはウルフパックポーズである。「プロレスLOVE」を武藤が考案するきっかけとなったのは、2001年1月28日の全日本プロレス東京ドーム大会「王道新世紀2001 〜ジャイアント馬場三回忌追悼興行〜」における太陽ケアとの対戦である。武藤はこの時、初めて全日本プロレスで試合をしたが、それまで全く知らなかった対戦相手のケアに惚れこみ、当時、総合格闘技路線に走っていた新日本プロレスに疑問を投げかける意味で「プロレスLOVEなやつら集まれ!」という思いが内面から湧いてきたと述懐している社長としての武藤もプロレス本来の魅力を大切にしたマッチメイクを心がけており、ヒール軍団を軸に据えた抗争、渕正信や荒谷望誉、NOSAWA論外らによるコミカルな試合、多彩なマイク・パフォーマンス、バックステージでのドラマ展開、TAKAみちのくを中心にしたルチャリブレ、そしてトップレスラー同士の激しいぶつかりあいを堪能出来るプロレス団体を作り上げた。性格的には、非常に正義感が強く、橋本などが行っていた後輩へのいじめにも否定的であり、また、先輩に対しても、酔うと誰も止められなくなる前田日明に正面から制止するなど筋道を通す性格である。初めて渡米した頃の日本プロレス界の体質を封建的と述べており、アメリカ滞在時はとても居心地が良かったと語っている。練習や肉体管理など調整に関しては合理主義の立場を取っており「実際、根性論には限界があるよな。1週間根性論やったところで、根性をもう少し落として1年やってる奴には絶対勝てない。さらに、もっと落として10年やってる奴には勝てない。」と持論を語ったことがある。クレアチンが日本で認可を受けると早々と使用を開始する、近年スレンダーなレスラーが流行っていることを受けて「キレイサプリ」を使用することで4ヶ月の間に10kgの減量を敢行するなどサプリメント使用にも適応している一面がある。現役選手としてのみならずプロレス団体経営者としての立場から「今の時代、理不尽なんていらないよ。」と発言する部分もある。武藤は、アメリカでの活動経験から、プロレスはスポーツと格闘技と舞台芸術が融合された「エンターテインメント」であるという価値観を強く持っている。それ故、総合格闘技を「競技」と言い切っている。武藤によれば、柔道の強化選手として、格闘技の頂点、自らの格闘者としての限界を垣間見たため、格闘技の追求には何ら幻想を抱いていないとのことである。またUWFスタイルに対しても「柔道と同じ」と表現する等、いわゆる格闘技路線には価値を見いだしていない。格闘技路線で売り出していた小川直也とグレート・ムタとして対戦した際は、背負い投げで投げたり腕をとってのドラゴンスクリューの様な技など正統な技に加え、小川の帯を抜き取って首を絞めたり、三角絞めで組まれた際に顔面への毒霧噴射などの反則も交えて終始圧倒、最後は指2本をとっての腕ひしぎ逆十字でTKO勝ちを納めた。(ちなみに、この試合のレフェリーは猪木が務め、彼に毒霧を吐き、ビンタを受けて試合は始まった)。しかし、新日本プロレス所属時代の1996年9月23日、北尾光司を始めとする日本人を次々と撃破していたバーリトゥードの猛者ペドロ・オタービオと異種格闘技戦(プロレス)を行って、マウントパンチでギブアップ勝ちしたこともある。また2000年WCWから帰国後自分の道が見えずにいた武藤は何故か小川とのバーリトゥードでの一騎討ちを望んだが、小川が乗る気じゃなかったため実現しなかった。膝に負担のかかる技を使い続けたため、両膝の軟骨の減少・摩滅等、膝に持病を抱えており、直立したつもりでも膝が「く」の字に曲がっている。後遺症は重く、カニ歩きでないと階段を昇り降り出来ない、プライベートでは300m以上は断続的でなければ歩けないなど酷い状態である。2015年3月20日放送の『アナザースカイ』(日本テレビ系)では普段の生活での膝の負担を軽減する為、車いすを使用することがあるとナレーションされた(番組ではアメリカTNA遠征の際、中之上靖文が押す車いすで移動する光景があった)。手術後のリハビリを充分に行う事無く、プエルトリコへの海外遠征を行ったことが致命的となったことを自伝で告白している(この時の遠征はブルーザー・ブロディ刺殺事件の起こった大会である。)。2010年現在で、すでに右膝を4度、左膝を1度手術をしているが、現代の医学では完全回復は不可能だと医師から告げられている。適切な治療を行うことで、普通に日常生活を送れる程度まで回復はできるが、その手術をすると「もうプロレスが出来なくなる」為にそのままにしている。かつて身体障害者手帳を交付してもらうために診断を受けたところ「肢体不自由(下肢)7級」と診断された。ただし障害のある箇所が膝以外に認められなかったため、実際に手帳の交付はされなかった。なお、武藤がショートタイツからロングタイツへと変えたのは、膝に何重にも巻かれた痛々しいテーピングを隠すためである。武藤はプロレスをやる傍ら、俳優やタレント業の仕事も多くこなしているレスラーとしても知られており、プロレスラーの中でもかなりの人気・知名度を得ている。映画初主演した「光る女」は、プロレスラーとしては実に力道山以来の主演映画となった。しかし、俳優の仕事は自分を売るためだけにやっており、決まったことをやる俳優よりも、リング場で自分の思うままに演じられるプロレスラーの方がおもしろいと語っている。また、前もって渡された台本を全く覚えてこないため、撮影現場ではNGを連発することでも知られている。2008年11月19日、東京都港区麻布十番に「麻布武藤」をオープンし、武藤の故郷である山梨の野菜やうどん、鶏を扱った。本人が店に出ることもあり、店の前には本人の手形が飾られていたが、2010年10月31日に閉店した。また、2008年12月10日に、兵庫県朝来市和田山町に武藤本人プロデュースによる「焼肉 武藤道場」を開店。店内に設置された37型テレビで試合を収録したDVDなどを放送や試合衣装の展示、オリジナルグッズも販売している。但馬地域に数店舗展開。<主な出演作品>他多数武藤敬司のクマをモチーフにしたキャラクター。play set productsがデザイン。
出典:wikipedia
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